ミミ荻原さんはキュートなルックスとスレンダーボディで人気を誇った元女子プロレスラーで、絞首刑技が炸裂したダンプ松本さんとの試合も話題です。
今回はミミ荻原さんの若い頃の経歴、結婚した旦那や子供、離婚理由、現在を紹介します。
この記事の目次
- ミミ萩原は元祖ヴィジュアル系プロレスラー
- ミミ萩原の若い頃の経歴① スイスからの帰国子女
- ミミ萩原の若い頃の経歴② モデルからアイドル歌手へ転身
- ミミ萩原の若い頃の経歴③ プロレスラーに転身した理由
- ミミ萩原の若い頃の経歴④ 驚異の連敗と通訳業務
- ミミ萩原の若い頃の経歴⑤ 厳しい練習を経て実力派レスラーに
- ミミ萩原の若い頃の経歴⑥ 歌手活動やヌード写真集出版など大忙しに
- ミミ萩原の名試合はダンプ松本との一戦:絞首刑技が炸裂
- ミミ萩原の引退理由
- ミミ萩原は引退後に教祖になっていた?
- ミミ萩原が結婚した元旦那はどんな人?離婚の理由も調査
- ミミ萩原の子供は息子が2人
- ミミ萩原の現在① 広島でダンススクールを開校
- ミミ萩原の現在② レストランを経営
- まとめ
ミミ萩原は元祖ヴィジュアル系プロレスラー
ミミ萩原のプロフィール
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本名: 萩原 妙美(はぎわら たえみ)
生年月日: 1956年2月6日
出身地: 東京都
身長: 165cm
体重: 48kg
ミミ荻原さんは、1970年代後半から1980年代前半にかけて活躍した元女子プロレス選手で、キュートなルックスで絶大な人気を誇りました。
実は、ミミ荻原さんは売れっ子アイドルからプロレスラーに転向という当時は珍しい経歴の持ち主でもあります。
ミミ萩原の若い頃の経歴① スイスからの帰国子女
現役時代だけでなく、引退後も何かとお騒がせだったミミ萩原さんの若い頃の経歴について紹介していきます。
スイス人のクォーターで帰国子女
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ミミ荻原さんは彫が深く、目鼻立ちがはっきりした顔立ちが特徴ですが、祖父がフランス系のスイス人で、クォーターです。
身長165cmと、日本人成人女性の平均身長である157cm~158cmより高いのも、クォーターだからかもしれませんね。
15歳までスイスで暮らし、帰国後はアメリカンスクールに通っていたので、英語とフランス語が堪能です。
ちなみに、「ミミ荻原」というプロレスラー時代のリングネームは、幼少期の愛称「ミミー」から付けたのだといいます。
ミミ萩原の若い頃の経歴② モデルからアイドル歌手へ転身
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アイドル時代のミミ萩原
ミミ萩原さんは母子家庭で育ち、アメリカンスクールの学費をミミ荻原さん自身がモデルをして稼いでいました。
なんでもアメリカンスクールの費用は、バス代込みで月に15万円かかっていたそうです。
モデルを開始して1年が経過する頃、ミミ萩原さんに芸能プロダクションからスカウトがありました。
この話はミミ萩原さん本人よりも母親の方が乗気で、知らないうちに母親が契約してしまい、突然「明日から歌のプロダクションよ」と母親から言われて衝撃を受けたそうです。
モデルの仕事に未練があったものの、1972年に「仮面ライダー」のライダーガールの1人であるチョコ役で女優デビューしました。
1973年には、日本コロムビアから「おしゃれな土曜日」でアイドル歌手デビュー。1974年に「恋人たちの森」、「恋愛志願」、「水色の予感」をたて続けにリリースします。
また、バラエティ番組「前武のヤングアップ」のレギュラー出演や「8時だヨ!全員集合」にゲスト出演するなど、幅広く活動していました。
ミミ萩原の若い頃の経歴③ プロレスラーに転身した理由
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アイドルとしてそれなりにの成功をしていたミミ萩原さんでしたが、1978年に女子プロレスラーに転向。
なぜ、アイドルからプロレスという全く違うジャンルに挑戦したのでしょうか?
アイドルを辞めた理由やその後の経緯について紹介します。
きっかけはジャッキー佐藤
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ミミ萩原の先輩レスラー・ジャッキー佐藤
ミミ萩原さんはアイドル時代にプロレスに興味があったわけではありませんでしたが、女子プロレスラー・ジャッキー佐藤さんとのバラエティ番組での共演が転向のきっかけです。
ジャッキー佐藤さんは当時、マキ上田さんと共に「ビューティ・ペア」というタッグを組み、歌手としても絶大な人気を誇っており、テレビにもたびたび出演していました。
スタジオで話していると、ジャッキー佐藤さんから「私たちの試合を見に来てください」と誘われ、ミミ萩原さんは応援するために後楽園ホールに赴きます。
いざ、試合が始まってみると、想像していたよりもエキサイティングで、ミミ萩原さんは「私もやりたい!これは運命だ」とプロレスラーになる決意を固めたそうです。
こうしてミミ荻原さんはアイドルからプロレスラーへと転向しますが、アイドル出身レスラーは当時はかなり珍しく、大きな注目を集めました。
酷いいじめに遭っていた
念願の女子プロレスデビューを果たしたミミ荻原さんでしたが、同僚から酷いいじめに遭っていたそうで、いじめの原因は自身にもあったとミミ荻原さんは振り返っています。
普通、下積み時代のレスラーは選手同士で共同生活を送るのが基本のようですが、ミミ萩原さんは1人で4LDKの家に住んでいたそう。
アイドル時代に稼いでいて経済力があったからできた生活ですが、他の選手にとっては慣例を無視して悠々自適に暮らすミミ萩原さんを苦々しく思っていた可能性が高いでしょう。
また当初、プロレスラーに必要な筋力や体力がなく、腕立て伏せが1回もできなかったことから、「アイドルあがりにプロレスは無理」と陰口を叩かれていたといいます。
しかし、幸い練習が大好きだったというミミ萩原さんは、コツコツと人一倍トレーニングを重ね、少しずつできるようになっていきました。
そして、自身が辛い思いをしたので後輩には決して同じことをするまいと決めていたミミ萩原さん。
実際に、「ミミさんはいじめもなくて、すごい良い先輩でした」という後輩の証言もあります。
このいじめについては、ブル中野さんの公式YouTubeチャンネルにゲスト出演した際、ミミ荻原さんが詳細を語っていますので、興味のある方は視聴してみてくださいね。
ジャガー横田が救いだった
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ミミ萩原の同期だったジャガー横田
周囲から酷いいじめに遭っていたミミ荻原さんですが、同期のジャガー横田さんがいてくれたからこそ耐えることができたそうです。
いじめられている場面に遭遇すれば、いつもジャガー横田さんが庇ってくれて、信頼してくれたといいます。
さらに、毎日ノルマの腕立て伏せを2人で競争して、ミミ荻原さんが1回でも多く腕立て伏せをするものなら、ジャガー横田さんは2回多くするなど、切磋琢磨する良いライバル関係でした。
後年、2人は「全日本女子プロレス界のツートップ」と呼ばれるまでになっています。
既にジャガー横田さんも引退して、ママタレントとして活動していますが、現在も2人は親友とのことです。
ミミ萩原の若い頃の経歴④ 驚異の連敗と通訳業務
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1978年2月6日、大阪府立体育館で開催された試合でミミ荻原さんはプロデビューしました。
周囲からは「アイドル上がりはダメ」と陰口を叩かれていたのですが、残念ながらその予想が当たり、ミミ荻原さんは初戦から連敗続き。
その後も試合をしても全く勝てず、初めて勝利するまでに87連敗という衝撃の記録を打ち立てました。ミミ荻原さんは1981年頃まで、全く芽が出なかったんです。
そんな状態もあって、ミミ荻原さんは本来の業務の他に英語が堪能という特技を生かして、外国人レスラーが来日した際には通訳や接待役をしていました。
接待役はトラブル対応も行うそうで、想像以上に大変だったといいます。
例えば、「ディスコに行きたい」と言う外国人レスラーたちを連れて行ったところ、酔っぱらって大暴れすることもしばしばありました。
自分よりも体格の良い外国人プロレスラーを制止するのは、かなり苦労したそうです。
ミミ萩原の若い頃の経歴⑤ 厳しい練習を経て実力派レスラーに
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デビュー戦から87連敗を記録してしまったミミ萩原さんでしたが、1981年頃から徐々に安定した試合を見せるようになり、新世代のトップに君臨しました。
鳴かず飛ばずの状態だったミミ萩原さんに何が起こったのでしょうか。
厳しいトレーニングを乗り越えた
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連敗続きながらも、ひたむきに筋トレに取り組み続けていたミミ萩原さん。
全日本女子プロレス側も元ボクサーのコーチをつけるなどバックアップ体制がとられ、本格的なトレーニングが開始されることになります。
また、トレーニングのプログラムでは、体重を増やすという目的もありました。
ミミ萩原さんは元々華奢な体型で、周囲のプロレスラーとの体格差が大きく、連敗の原因となっていたのです。
リングデビューしたばかりの頃は、社長から「吐いてもいいから体重を増やせ」と冗談めかして言われていたこともあったんだとか。
後年、ミミ萩原さんは「この当時プロテインもなかったから大変だった」と当時を振り返っています。
その結果、萩原さんの体重は48kgから60kgに増加し、体力も筋力もついて、試合も安定するようになりました。
しかし、ヘルニアが悪化したり、試合中のアクシデントで尾てい骨が欠けたりするなど、体に負担がかかっていたのも事実です。
世代交代が起きた
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体型や病気のハンデを乗り越えて、1981年2月のオールパシフィック王座に挑戦したミミ荻原さんは、チャンピオンの池下ユミさんを破って王座を奪取することに成功しました。
なお、同じ頃、ジャガー横田さんはジャッキー佐藤さんを破り、WWWAシングルチャンピオンに輝いています。
それまでベテランレスラーとして活躍していたジャッキー佐藤さんや池下ユミさんが引退したことで、ミミ萩原さんとジャガー横田さんの同期コンビが新たなスターとなったのです。
そして、悪役の新スターとして台頭したのがデビル山下さん。
ミミ萩原さんとジャガー横田さん、デビル山下さんの3人は「全日本女子プロレスのトロイカ体制」と呼ばれました。
ミミ萩原の若い頃の経歴⑥ 歌手活動やヌード写真集出版など大忙しに
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プロレスラー時代に出版した写真集「燃える青春」
女子プロレスラーのトップに君臨したミミ萩原さんは、1981年9月にシングル「スタンド・アップ」をリリース。
試合前に歌を披露するというスタイルは、先輩レスラーのマッハ文朱さんやビューティ・ペアが人気を博すきっかけとなりました。
そのため、全日本女子プロレスは、ミミ萩原さんにもこの路線を踏襲させています。
ちなみに、ビューティ・ペアは女子中学生や女子高生から熱烈な支持を受けていた一方、ミミ荻原さんは男性ファンが多かったようです。
1982年には、女子プロレスラー選手としては初のヌード写真集「燃える青春」を出版し話題に。
ミミ荻原さんによると、芸能人路線は本意ではなかったそうですが、宣伝活動の一環としてデパートなどでリサイタルを行ったり、レコード屋に挨拶回りをしたりと大忙しになります。
宣伝活動は試合ギリギリまで設定されていて、試合会場に到着すると急いで化粧してドレスに着替え、歌が終わったら試合、その後サインに応じるという分刻みのスケジュールだったそう。
結果的に、練習の時間はどんどん削減されていき、せっかく苦労してつけた筋肉が落ちていくというジレンマを抱えていたといいます。
ミミ萩原の名試合はダンプ松本との一戦:絞首刑技が炸裂
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ミミ萩原さんのプロレスラーとしての活動期間はわずか6年でしたが、その中でも人気の一戦を紹介します。
新人時代は中途半端ヒールだった
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女子プロレスには、ヒール(悪役)と、ベビーフェイス(アイドル的ポジション)の2つの立ち位置があります。
会社は当初、ダンプ松本さんをベビーフェイスに育てたいと思っていましたが、ベビーフェイスで成功できるのは一握りしかいないことを知っていたダンプ松本さんは、自らヒールを志願。
ダンプ松本さんは、少しでも早くプロレスラーとして成功して女手一つで育ててくれた母親を経済的に楽にしてあげたいと考えていたんです。
しかし、新人時代のダンプ松本さんは「自他共に認める落ちこぼれだった」といいます。
ダンプ松本さんと言えば今では「伝説のヒール」として有名ですが、新人時代は悪に徹することができず、中途半端なヒール役だったそうです。
また、当時のダンプ松本さんでは無名過ぎて、試合がテレビ放送される機会がほとんどなく、世間の知名度も底辺でした。
そんな中、トップスターであるミミ荻原さんとの試合が回ってきたことは大きなチャンスになります。
どうしたら注目を集められるか、ヒールのエースだった池下ユミさんにアドバイスをもらうなど、万全の準備をして臨みました。
放送席での絞首刑が大きな話題に
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試合開始のゴングが鳴り、ロープ際でボディアタックを仕掛けたのはダンプ松本さんでした。
場外に持ち込むと、ここぞとばかりに放送席に乱入したダンプ松本さんは「私を見ろ!」と言わんばかりに、ミミ萩原さんの首に腕を回し、人間絞首刑を炸裂させました。
観客席もお茶の間も一気に盛り上がり、レフリーにリングに戻るようにストップをかけられた後も、ミミ萩原さんの腹部に反則攻撃を積極的に仕掛けていきます。
しかしその後、ダンプ松本さんがコーナーで放ったヒップドロップをミミ荻原さんが上手に避け、反撃のバックドロップでダンプ松本さんはリングに沈められてしまいました。
恵まれた体格のダンプ松本さんの方が有利と見られていましたが、結局は技が光ったミミ荻原さんが勝利を収めています。
しかし、ダンプ松本さんもニューカマーのヒールとして注目を集め、転機となる一戦となりました。
ミミ萩原の引退理由
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ミミ萩原さんがプロレスラーを引退したのは、1984年4月です。
膝を始めとした体の故障が重なり、これ以上続けるのが危険と会社が判断しました。
当時のトレーニングに関する知識は間違ったものが多く、うさぎ跳びを毎日やれと強要された結果、膝に血が溜まって脱臼してしまったといいます。
さらに練習中、リングサイドにマットも敷かずに「コーナーポストから飛べ!」と指示されて、ミミ萩原さんが実行してみると骨折。「お前の骨が丈夫じゃないからだ」と怒られたそう。
体型のハンデがある上に人一倍練習を重ねてきたことで、ダメージも倍背負うことが多く、これ以上は難しいと考えた会社から引退を勧告されて、ミミ萩原さんも同意しました。
ミミ萩原は引退後に教祖になっていた?
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プロレス界を退いたミミ荻原さんは、しばらくはタレントとして芸能活動をしていましたが、いつしか芸能界からもひっそりと引退。1991年に広島県に引っ越しました。
そしてこの頃、「ミミ萩原が教祖になっていた」という報道が流れたんです。
その後、長い年月が経過した2015年に日刊ゲンダイの取材を受けたミミ萩原さんは、当時の教祖騒ぎについて語っています。
実はミミ荻原さんは、幼い頃から霊感が強く他人に見えないものが見えていて、女子プロレス選手時代には練習中や試合で3回臨死体験を経験しているそうです。
そのため、レスラーを引退後は、以前から興味のあったスピリチュアルの道に進むことに。
ミミ荻原さんによると「92年にマリア様の幻視を見た際、広島に行くようにとの指示を受け、広島に引っ越しました」と、広島に引っ越した理由も明らかにしました。
そして、2014年に自身の著書『闘う預言者ミミ萩原 天からの警告』を出版。
この本では、正式には教祖ではなく、天からの声を伝える予言者として活動をすることになった経緯が綴られています。
ミミ萩原が結婚した元旦那はどんな人?離婚の理由も調査
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ミミ萩原さんには2回の離婚歴があります。
2人の元旦那は一体どんな人物なのでしょうか。また、離婚の原因についても調査しました。
1人目の旦那は松永吉孝
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最初に結婚したのは1988年、旦那は全日本女子プロレスを経営する松永一族に連なる松永吉孝さんでした。
当時、全日本女子プロレスの会長を務めた松永高司さんの兄にあたる人物ですが、具体的なプロフィールや顔写真も公表されておらず、どのような人物なのかは現在も分かっていません。
長男であれば、稼業に何らかの形で関わっていそうですが、実際には一切経営にタッチしていなかったようです。
そんな2人は結婚から2年半後の1991年に離婚しています。
離婚会見を開いたミミ萩原さんは、破局の理由について問われると「夫は長男で後継ぎが必要でした。私はプロレスで内臓を痛めてしまい、出産が難しかった」と、涙ながらに答えています。
2人目の旦那は13歳年下の一般人
ミミ萩原さんが再婚したのは1995年で、旦那は一般の会社員でした。年齢は13歳下だったことが明かされていますが、名前や顔写真などは公表されていません。
そして2012年、再び離婚していたことを『女性自身』が報じました。
記事によると、ミミ萩原さんはすでに3年前に離婚していたことを認めたとのことです。
離婚の理由については「尽くすタイプなので家事を完璧にやりたいんです。でも、そんな生活に疲れちゃったんですね」と結婚生活に疲れて離婚に至ったことを語りました。
ミミ萩原の子供は息子が2人
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ミミ萩原さんの子供について調査したところ、2人目の旦那との間に2人の子供がいることが判明しています。
第1子となる長男の隼十さんは1996年に誕生。次男は源東さんという名前であることが分かっていますが、生年月日は明かされていません。
離婚後の親権については明確ではありませんが、2人ともミミ萩原さんの活動を手伝っていることから、ミミ萩原さんが親権を持っているのかもしれません。
2011年には、知人の息子だった男の子を養子として引き取っています。生家で酷い虐待を受けていたそうで、見るに見かねて自分で育てることを決意したそうです。
養子になった子供は長男と同い年とのことなので、2022年時点で25歳~26歳だと思われます。
ミミ萩原の現在① 広島でダンススクールを開校
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広島県に移住したミミ荻原さんは、人口約2万人の北広島町でダンススクールを開校し、自ら講師を務め、ディナーショーも開催しています。
教室の生徒は小学生から社会人まで、常時20人程いるそう。
ダンススクールのプログラムは、リフティングなどのアクロバティックなパフォーマンスを織り交ぜたメリハリのあるもののようです。
ダンスのパートナーは長男の隼十さん。次男の源東さんはドラムや和太鼓を使って、楽曲を盛り上げるとのこと。
親子で助け合ってスクールを運営しており、今後はもっとエリアを広げていきたいと考えているそうです。
また、ボランティア活動の一環として、以前から福祉施設の慰問活動をしていて、慰問回数を増やす計画なんだとか。
ミミ萩原の現在② レストランを経営
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ミミ荻原さんは、広島県広島市の一角にあるイタリアンレストラン「Kala Kala」を経営しています。
食べログを見ると、ランチの平均予算が2000円~2999円にされており、少し贅沢をしたい時に利用する客が多いようです。
レビューのコメントには「ランチコース3500円とは思えないボリューム。とても美味しかったです」と星5が付けられています。
公式サイトを見ると、2022年5月24日に店名が「Kala Kala」から「響き」に変更されていますが、住所や電話番号、店のコンセプトは変わっていないようです。
まとめ
ミミ萩原さんについて、若い頃のアイドル時代やプロレスラー活動、ダンプ松本さんとの試合で炸裂した絞首刑技、結婚した旦那との離婚の理由、子供と過ごす現在の様子をまとめました。
アイドルから、突然プロレスラーへと転向したミミ萩原さん。華奢な体型だったことから苦労も多かったようです。
現在は広島県に在住し、息子さんたちとダンススクールを盛り立てています。その他に、イタリアンレストランも経営するなど幅広い活動をしています。
今は一般人として生活していらっしゃるようですが、ミミ萩原さんの今後の活動にも注目ですね。