天才と呼ばれた伝説のジョッキーである福永洋一さんは落馬事故に遭い、後遺症で騎手を引退しています。
今回は福永洋一さんのプロフィールや経歴、天才の理由や成績、結婚した嫁や子供の情報、落馬事故と後遺症、現在をまとめました。
この記事の目次
福永洋一は伝説の天才騎手
福永洋一
生年月日:1948年12月18日
出身:高知県高知市
活動:元騎手
福永洋一さんは伝説の天才騎手です。
天才の名を欲しいままにして活躍していましたが、1979年3月4日の毎日杯で落馬事故に遭い、後遺症が残ったために、騎手を引退しています。
福永洋一の生い立ち
福永洋一は1948年に高知県で生まれます。父親は放蕩癖があり、母親は福永洋一が5歳のころに蒸発してしまいます。その後は姉に育てられました。
一時期は父親と暮らしましたが、福永洋一が9歳のころに脳溢血で死亡したため、姉の嫁ぎ先に身を寄せています。
姉の嫁ぎ先は高知競馬の騎手・松岡利男で、松岡家を頼るようになります。
兄3人は全員騎手に
福永洋一には姉以外に3人の兄がいました。この3人の兄は全員騎手になっています。
・次兄:二三雄は大井競馬の騎手
・三男:尚武は船橋競馬の騎手
兄3人がそれぞれ騎手になったので、洋一も騎手を志すようになります。
姉の嫁ぎ先が高知競馬の騎手、さらに3人の兄も全員騎手。福永洋一が騎手になるのは、当然の成り行きであり、運命だったのかもしれません。
1968年にデビュー
中学2年の時から福永洋一は、長兄の師匠である武平三の元で暮らすようになり、中学3年の秋に馬事公苑騎手養成長期課程を受験して合格します。
そして1年の浪人を経て、1966年に騎手免許試験に合格し、1968年3月に初騎乗を迎えて、騎手デビューを果たしています。
福永洋一が天才と呼ばれる理由
出典:umanity.jp
福永洋一さんが「天才騎手」と呼ばれるゆえんを見ていきましょう。
いろいろな人が天才と認める
福永洋一さんのことを多くの人が天才と認めています。
元騎手・元調教師の伊藤雄二氏は「日本競馬界最高の騎手は福永洋一」と断言しています。また、元騎手の的場均は「洋一以外の日本人騎手に天才は見当たらない」と述べています。
そのほか、いろいろな人が福永さんを天才だと評しているんです。
その騎乗ぶりの素晴らしさは、言葉や理屈で説明できるようなものではなかった
<田原成貴>
洋一さんは、どうしてあんなに勝つのか理屈で説明できない唯一の騎手だった
<武豊>
今ビデオで見てもすごいと思う
能力がない馬も走らせる
福永洋一さんは「能力がない馬」、つまりあまり速くない馬でも勝たせることができる騎手でした。
それまでは、入賞すらままならない成績の馬でも福永洋一さんが騎乗すると、走るし、勝利することが多かったんです。
しかも、馬はそれまでの走り方・レース展開とは全く違う走り方をするというのです。
福永洋一さんは天才であり、馬の能力を最大限に引き出すことができるジョッキーだったんですね。
歩く競馬四季報
福永洋一さんは「天才」のほかに「歩く競馬四季報」という異名も持っていました。
福永さんは「栗東所属馬の全脚質を頭に叩き込む」と言って、競馬四季報や競馬新聞などに細かく目を通して、馬の性質などを頭に入れていたんです。
そのため、初めて騎乗する馬でも、その馬の特徴を瞬時に理解し、その特徴を最大限に生かしたレースをすることができました。
だから、急な騎乗依頼・初騎乗依頼でも、福永洋一さんは敬遠することなく、見事なレース展開をしていたんです。
福永洋一さんはジョッキーとして天才であり、さらに努力の天才でもあった言えるでしょう。天才が努力するのですから、ある意味「無敵」ですよね。
福永洋一の成績まとめ
天才騎手と呼ばれた福永洋一さんの成績を見ていきましょう。
通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 騎乗回数 | 勝率 | 連帯率 |
平地 | 982 | 766 | 635 | 2679 | 5062 | .194 | .345 |
障害 | 1 | 4 | 6 | 13 | 24 | .041 | .208 |
合計 | 983 | 770 | 641 | 2692 | 5086 | .193 | .345 |
福永洋一さんは騎手デビューしてから12年間しかジョッキーとして馬に乗っていないので、長年活躍しているほかの騎手と比べると、勝利数ではそこまで目立つような成績ではありません。
でも、次の記録(成績)を見ると、天才と言われる理由が分かると思います。
福永洋一が結婚した嫁は北村祐美子さん
福永洋一さんは1976年、北村祐美子さんと結婚しています。
北村祐美子さんは1955年生まれで、福永洋一さんの6歳年下です。北海道出身の女性であり、調教師の日迫良一さんの姪っ子です。
短大在学中に日迫良一さんを通じて福永洋一さんと知り合い、21歳の時に結婚しました。写真を見ると、とてもキレイで穏やかな印象の女性ですよね。
福永洋一さんが落馬事故に遭った後は、献身的に洋一さんの介護をしてきました。
福永洋一に子供は2人~息子は騎手の福永祐一
福永洋一さんには2人の子供がいます。福永洋一さんのお子さんの情報を見ていきましょう。
息子は騎手の福永祐一
出典:keibalab.jp
福永祐一
生年月日:1976年12月9日
出身:滋賀県栗東市
身長:160cm
体重:50kg
血液型:B型
活動:騎手
福永洋一さんの息子は、騎手の福永祐一さんです。息子の名前は福永洋一さんと嫁の祐美子さんから一字ずつ取って名付けたんですね。
福永祐一さんが2歳の時に、父親の洋一さんは落馬事故に遭っています。
中学2年生の時に、自分も父親と同じジョッキーになることを決め、母親の祐美子さんに猛反対されますが、競馬学校に入学して、1996年にジョッキーとしてデビューしています。
「天才」と呼ばれた父親の福永洋一さんと比較されることも多いですが、次のような記録を持つ偉大なジョッキーです。
・2018年:日本ダービー制覇
・史上11人目の5大クラシック制覇
息子の嫁は松尾翠
福永洋一さんの息子である福永祐一さんは、元フジテレビアナウンサーの松尾翠さんと結婚しています。
2011年の共通の知人の結婚式で初めて会い、その後も仕事の競馬関係のロケなどでも顔を合わせるようになり、交際に発展。2013年3月に婚約を発表し、8月に婚姻届を提出しています。
松尾さんは9月でフジテレビを退社して拠点を京都に移し、福永祐一さんのサポートに回っています。
現在、福永祐一さんと松尾翠さんの間には3人のお子さん(女の子2人、男の子1人)がいますので、福永洋一さんには孫も3人いるということですね。
娘は理学療法士に
出典:youtube.com
福永洋一さんには娘もいます。福永さんが事故に遭った時には、娘さんはまだ生後5ヶ月でした。
福永洋一さんと嫁の祐美子さんと一緒に七五三のお祝いをした映像が残っています。
娘さんは福永洋一さんの事故の影響もあったためか、リハビリの専門家である理学療法士として活躍しているそうです。
父親が懸命にリハビリをする姿に触発されたのかもしれませんね。
福永洋一は落馬事故で重傷を負っている
天才騎手の福永洋一さんは、1979年3月4日に落馬事故に遭いました。
前年までに9年連続リーディングジョッキーを記録し、1979年もリーディング独走状態だった福永洋一さんに何があったのでしょうか?
落馬事故の詳細
出典:twitter.com
1979年3月4日、阪神競馬での毎日杯でのこと。福永洋一さんは、マリージョーイという馬に騎乗していました。
最後の直線に入った時、斎藤博美騎手が騎乗していたハクヨーカツヒデが、前を走っていた樋口騎手が騎乗しているインタームサシの前の馬に乗りかかる形になり、斉藤騎手が落馬します。
そこに福永洋一さんが騎乗しているマリージョーイが走ってきて、落馬した斉藤騎手がマリージョーイの足に接触、マリージョーイは前のめりになり、福永さんは頭から落馬しています。
レース映像。 pic.twitter.com/wCSxFjPJKC
— ビッグワン (@umauma1987) March 17, 2019
この映像を見る限り、福永洋一騎手は斉藤騎手の落馬に瞬時に反応しています。
そして、進路の外側によけようと馬を進めました。これは、斉藤騎手が内埒沿いに落馬したためです。斉藤騎手が落馬した方向とは、逆の方向に避けようとしたんです。
しかし斉藤騎手は落馬した後に、外側に転がってきてしまい、福永騎手が騎乗するマリージョーイの脚にぶつかってしまいました。
誰が悪いわけでもありません。でも、もし斉藤騎手が内側に転がっていたら、もしくは福永洋一騎手の反応が遅かったら、福永洋一騎手の落馬事故は起こらなかったと言われています。
福永洋一騎手の反応が良かったがために、不運が重なって起こってしまった事故なのです。
救命処置が行われる
福永洋一さんは頭から落馬して、頭を強く打ち、その時に舌を思いきり噛んでしまいました。そして、舌の4分の3程度噛み切ってしまい、出血多量になっています。
さらに出血が気管に流れ込んでしまい、気道確保ができない状態にまでになってしまいました。
しかし不幸中の幸いで、その日に初めて阪神競馬に気管チューブが納入されていたため、当直医が気管チューブを使って気道確保ができ、窒息の危機は免れました。
それでも、福永騎手の状況はかなり厳しいものでした。
・瞳孔散大
・血圧低下
・自発呼吸薄弱
この状態で関西労災病院に搬送されました。病院で検査した結果、脳に広範囲に挫創があり、頭蓋骨骨折などが判明しています。
瞳孔散大・自発呼吸が弱い・血圧低下・脳に挫創があったというのは、本当に瀕死の重傷を負っていたと言えるでしょう。
ただ、気管チューブで気道を確保できたこと、搬送が早く、適切な処置が行われたことで、福永洋一さんはなんとか一命を取り留めることができたのです。
福永洋一は落馬事故の後遺症で騎手を引退…
リハビリするも後遺症が残る
福永洋一さんは一命を取り留めましたが、脳に大きな挫創があり、低酸素状態にもなっていたため、大きな後遺症が残ることになりました。
奥さんの祐美子さんは、福永騎手の落馬の一報を聞いた時は、最初は普通の落馬であり、大事故ではないと思っていました。
関西労災病院に駆け付け、医師から危篤であることを伝えられ、初めて命に係わる落馬事故だと知ったとのことです。
当時、嫁の祐美子さんは24歳。結婚して3年目のことでした。長男の祐一さんは2歳、長女はまだ生後5ヶ月です。
祐美子さんは実の母親に手伝ってもらいながら、毎日滋賀の自宅から神戸の病院まで通い、必死に看病し続けた結果、福永洋一さんの容態は安定してきました。
・1980年9月:自力で数歩歩くことができる
・1980年11月ごろ:事故から1年8か月ぶりに退院
・1980年12月:「おはよう」の問いかけに「おはよう」と返答できるようになる
1981年に騎手を引退
出典:youtube.com
リハビリを進めても後遺症は残ってしまったため、天才騎手の福永洋一は1981年に騎手を引退しました。
同年、「ドーマン法」という機能回復訓練を開発したドーマン博士の診察を受けるために、アメリカに行きます。そして、少しずつリハビリを重ねました。
自宅は福永さんがリハビリできるように改造し、さらに東京に住んでいた祐美子さんのご両親が滋賀で同居して一緒にリハビリを手伝うようになりました。
さらに、リハビリのためのパートの人も雇い、家族総出で福永さんのリハビリを進めたんです。
1984年には、介助は必要ではあるものの、サラブレッドに再び乗ることができるまでに回復しました。
介護が必要な状態に
それでも、福永洋一さんは完全回復には程遠い状態でした。立つことはできるものの、基本的には車椅子で移動しなければいけません。
また、問いかけに答えるわけではなく、問いかけと同じ言葉を返すだけで、何を聞かれているのか理解しているかどうかは不明という状態です。
つまり、常に介護は必要な状況ということですね。
1979年に事故に遭ってから、奥さんの祐美子さんはずっと介護を続けてきました。結婚して3年後に事故に遭い、それから40年以上も介護ばかりの生活。
福永洋一さんはもちろん、奥さんの祐美子さんも大変な毎日だったと思います。ただ、祐美子さんは介護生活を振り返って、次のように話していました。
「私にとっては、介護というよりこれが日常であり、人生。振り返ってみれば楽しかったですよ」
福永洋一の現在
福永洋一さんは現在も自宅で介護生活を送っています。
ただ、以前は奥さんの祐美子さんと祐美子さんのお父さんが主に介護を担当していましたが、お父さんが亡くなったため、最近はデイサービスなどを使っているとのこと。
逆に言えば、それまではデイサービスなどの介護サービスは使っていなかったということですよね。家族の献身的な介護には頭が下がります。
奥さんの祐美子さんは、福永洋一さんが「痛い」などを訴えることができないので、しっかりと表情を観察して対応しているとのことです。
福永洋一記念が創設
そして、2010年に福永洋一記念が創設されました。福永洋一記念とは、高知競馬場での地方競馬の重賞レースです。
2009年、息子の福永祐一さんが「高知競馬場で、福永洋一記念を創設できれば」とコメントしたことをきっかけに、高知出身の福永洋一さんの功績を称える福永洋一記念が創設されました。
2010年の第1回福永洋一記念では、レース後の表彰式に福永洋一さん本人がプレゼンターとして車椅子で登場。
福永洋一さんが公の場に姿を現したのは、落馬事故以来31年ぶりのことでした。
今後も福永洋一記念は続いていくと思われます。
福永洋一のまとめ
福永洋一のプロフィールや経歴、天才と呼ばれた理由、成績、結婚した嫁や子供の情報、落馬事故の詳細や後遺症、現在の様子をまとめました。
福永洋一さんと家族を見ていると、家族の絆を深く考えさせられますね。