日本を代表するポップス歌手の尾崎紀世彦さんの若い頃や晩年が話題です。
この記事では尾崎紀世彦さんがハーフかや身長、性格、若い頃の画像や経歴、父親など家族、2度の結婚の嫁と3人の子供、バイク事故、晩年の闘病生活や死因などについてまとめました。
この記事の目次
- 尾崎紀世彦のプロフィール
- 尾崎紀世彦はハーフではなくイギリスとのクォーター
- 尾崎紀世彦の実際の身長
- 尾崎紀世彦の性格
- 尾崎紀世彦の若い頃の画像や経歴① 中学時代にハワイアンバンドを結成
- 尾崎紀世彦の若い頃の画像や経歴② セミプロデビューを果たしいくつかのバンドで活躍
- 尾崎紀世彦の若い頃の画像や経歴③ ソロデビューし「また逢う日まで」などヒット曲を連発
- 尾崎紀世彦の家族① 父親はバレエダンサーの藤田繁
- 尾崎紀世彦の家族② 母親はショーダンサーの礼子
- 尾崎紀世彦の家族③ 兄はバレエダンサーの藤田彰彦
- 尾崎紀世彦の家族④ 弟はステーキハウスを経営していた征彦さん
- 尾崎紀世彦の家族⑤ 父親方の祖父はイギリス人で英国総領事館関係者
- 尾崎紀世彦の結婚① 最初の嫁はハワイ出身の日米ハーフで1991年に離婚
- 尾崎紀世彦の結婚② 2人目の嫁は日本人で2006年に離婚
- 尾崎紀世彦の子供① 1人目の嫁との間に長男と長女
- 尾崎紀世彦の子供② 2人目の嫁との間に次女
- 尾崎紀世彦はバイク事故で右足を複雑骨折も脅威の回復力で3ヶ月で完治
- 尾崎紀世彦の晩年は失踪を噂されたが実際は入院し闘病していた
- 尾崎紀世彦の死因は肝臓がん
- まとめ
尾崎紀世彦のプロフィール
尾崎紀世彦のプロフィール
生年月日:1943年1月1日
没年月日:2012年5月30日(没年69歳)
出生地 :東京都渋谷区
出身地 :神奈川県茅ヶ崎市
身長 :173cm(公称値)
血液型 :O型
尾崎紀世彦(おざき・きよひこ)さんは、1960年代から死去する2012年まで活動したポップス歌手で「また逢う日まで」などの大ヒットで知られています。
「キヨ」、「キーヨ」などの愛称で親しまれ、トレードマークの印象的なもみあげにヒゲを生やしたダンディな風貌と、ダイナミックかつ圧倒的な歌唱力で多くの人々を魅了しました。
生涯を通じて音楽に打ち込み、数々の名盤を残して国内の音楽界に大きな功績を残されましたが、2012年に69歳で亡くなられています。
尾崎紀世彦はハーフではなくイギリスとのクォーター
尾崎紀世彦さんはその彫りの深い顔立ちからハーフと言われていますが、性格には父親が日本人の母親とイギリス人の父親の間に生まれたハーフで、尾崎紀世彦さん本人はイギリスの血が入ったクォーターです。
尾崎紀世彦さんのハーフの父親やイギリス人の祖父など家族については後述します。
尾崎紀世彦の実際の身長
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尾崎紀世彦さんの身長については諸説ありますが、「週刊セブンティーン」(1972年3月14日号)に掲載されたプロフィールデータでは「173cm」とされておりこちらが公称値のようです。
実際の身長は168cm〜170cmほどではないかと言われています。上は尾崎紀世彦さんと俳優で歌手の尾藤イサオさんが並んで立っている画像ですが、尾藤イサオさんは公称身長168cmで、2人はほぼ同じ身長のように見えます。やはり尾崎紀世彦さんの身長の実数値も168cm前後の可能性が高そうです。
尾崎紀世彦の性格
ダンディなルックスと力強い歌声から、男らしい性格の印象がある尾崎紀世彦さんですが、実際の性格はとても優しく繊細な方だったようです。
ある音楽関係者は尾崎紀世彦さんの性格について「人間的にはいい奴だが音楽に関しては完璧主義で精神的に脆い面もあった」と話されています。
尾崎紀世彦さんはその繊細な性格ゆえに晩年はアルコール依存症となって生活が乱れて体の調子を崩す事にもつながったようです。
尾崎紀世彦の若い頃の画像や経歴① 中学時代にハワイアンバンドを結成
尾崎紀世彦さんはダンサーの両親の元に生まれ、幼い頃から米軍向けのラジオを聞いてアメリカのジャズやカントリーミュージックに親しんで成長しました。
13歳の時に父親にウクレレをプレゼントされたのをきっかけに、中学生の同級生6人でハワイアンバンドを結成。教則本を見て演奏の練習をされていたそうです。
尾崎紀世彦の若い頃の画像や経歴② セミプロデビューを果たしいくつかのバンドで活躍
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尾崎紀世彦さんは17歳の時に箱根ホテル小涌園のバンド募集オーディションに合格し「ヒロ・ハワイアンズ」としてセミプロデビューを果たしました。
1964年には日劇への出演も果たしますが、メンバー達が学業や家業で忙しくなりヒロ・ハワイアンズは解散する事になりました。
解散後も音楽を続けた尾崎清彦さんは、1965年から歌手のジミー時田さんのバンド「ジミー時田とマウンテンプレイボーイズ」にセカンドボーカルとギターとして参加。
1967年からは、コーラス・グループ「ザ・ワンダース」を結成してグループ・サウンズでも活躍しました。
「ザ・ワンダース」はかなり売れ、テレビ出演の他、洋楽カバー曲やテレビの主題歌も多数リリースし、「ジ・エコーズ」の名義で特撮ドラマ「ウルトラセブン」の主題歌と挿入歌も担当しています。
尾崎紀世彦の若い頃の画像や経歴③ ソロデビューし「また逢う日まで」などヒット曲を連発
1970年8月、尾崎紀世彦さんはソロ歌手としてデビューしました。
デビュー曲の「別れの夜明け」は、リリース前に尾崎紀世彦さんが交通事故に巻き込まれてプロモーションを行えないなどの不運もあって売れなかったものの、1971年3月にリリースされた2枚目のシングル「また逢う日まで」が売り上げ100万枚を超えオリコンチャート1位を記録する大ヒットとなります。
その後も「さよならをもう一度」、「雪が降る」、「愛する人はひとり」などヒット曲を連発し、尾崎紀世彦さんは一躍大人気歌手となりました。
尾崎紀世彦さんはこの「また逢う日まで」で、その年の日本レコード大賞と日本歌謡大賞でいずれも最高の大賞に輝いています。
尾崎紀世彦の家族① 父親はバレエダンサーの藤田繁
尾崎紀世彦さんの父親は尾崎繁さんという方で、イギリス人の父親と日本人の母親を持つハーフとして1903年3月4日に誕生しています。
尾崎紀世彦さんの父親の繁さんは「藤田繁」の芸名で日本人初のバレエダンサーとして活躍された方で、舞踏集団「日劇ダンシングチーム」の指導者も務められました。
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尾崎紀世彦さんの父親の藤田繁さんは、ロシア出身で日本に帰化したバレエダンサーで、日本のバレエの母とも称されるエリアナ・パヴロワに19歳だった1922年から師事し、20代の若い頃からエリアナ・パヴロワのパートナーも務め日本国内の劇場で活躍されています。
尾崎紀世彦の家族② 母親はショーダンサーの礼子
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尾崎紀世彦さんの母親は若い頃はショーダンサーとして活躍した礼子さんという方です。
尾崎紀世彦さんの母親の礼子さんは、尾崎紀世彦さんの父親の藤田繁さんが指導者を務めた日劇ダンシングチームの1期生でした。
尾崎紀世彦の家族③ 兄はバレエダンサーの藤田彰彦
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尾崎紀世彦さんは3人兄弟の次男です。
兄は彰彦さんという方で「藤田彰彦」の名前でバレエダンサー・演出家として長年活躍されています。若い頃は「貝谷八百子バレエ団」に所属しその中心として活躍されました。
1958年には、妻のバレエダンサー・松本道子さんと名古屋市に「松本道子バレエ団」を設立しました。
現在は、バレエコンクール「ザ・バレコン」の実行委員長を務めるなど、国内のクラシックバレエの振興に大きく貢献されています。
尾崎紀世彦の家族④ 弟はステーキハウスを経営していた征彦さん
尾崎紀世彦さんの弟は、尾崎征彦さんという方で、神奈川県内でステーキハウス「繁や」など飲食店を多数経営されていました。
尾崎紀世彦さんが2012年に亡くなられた後に、実弟として週刊誌の取材に答えられていた事もありました。
「一周忌を終えて、ようやく一段落ってとこかな……」と語るのは、尾崎紀世彦さん(享年69)の実弟・征彦さん。昨年5月31日に肝臓がんのため亡くなってから1年、尾崎さんの遺骨がある神奈川県内の墓前には多くのファンが訪れていた。
尾崎紀世彦さんの弟の尾崎征彦さんは2021年8月28日に76歳で亡くなられています。
尾崎紀世彦の家族⑤ 父親方の祖父はイギリス人で英国総領事館関係者
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尾崎紀世彦さんの父親方の祖父はイギリス人男性のヘンリー・バッキンガム・ルーカス(Henry Buckingham Lucas)さんという方です。
ルーカスさんは1838年の生まれで日英同盟下に来日し、在神戸英国総領事館に在籍して日本の灯台建設に関わりました。
尾崎紀世彦さんの父親の藤田繁さんは1903年3月4日に生まれですが、その翌年の1904年1月4日にルーカスさんは66歳で死去されています。藤田繁さんが父親と過ごしたのは10ヶ月ほどでした。
上の画像左端が尾崎紀世彦さんの祖父のルーカスさん、膝に乗せているのが父親の藤田繁さんの幼い頃です。
尾崎紀世彦の結婚① 最初の嫁はハワイ出身の日米ハーフで1991年に離婚
尾崎紀世彦さんは生涯で2度結婚をして2度とも離婚されています。
尾崎紀世彦さんの1度目の結婚は1973年で、嫁はハワイ出身の日本とアメリカのハーフの米国籍の女性でした。
結婚したのは尾崎紀世彦さんが29歳の時で、元嫁のベティさんは19歳でちょうど10歳年下でした。結婚2ヶ月後にオーストリアに新婚旅行に行った事が当時の週刊誌で紹介されていました。
尾崎紀世彦さんと元嫁のベティーさんの間には2人の子供が生まれましたが1991年に離婚されています。
元嫁のベティーさんはその後、2006年からザ・リーディングホテルズ・オブ・ザ・ワールドの日本支社長を務められていました。
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「女性セブン」(2012年6月21日号)によると、晩年に病気に倒れた尾崎紀世彦さんを献身的に看病されたのはこの元嫁のベティーさんだったそうです。
尾崎さんを献身的に看病し続けたのが、21年前に別れた前々妻と長男だった。尾崎さんの兄・彰彦さんがいう。「昨年の春に、紀世彦のマネジャーから末期ということを知らされ、前々妻に伝えました。そしたら、“私は別れた人間ですが、子供の父親であるので、どうか会わせてください”とお願いされたんです」それから前々妻は病院に通い始め、容体が悪くなったという今春以降は、昼間の仕事を終えると、毎日顔を出した。
尾崎紀世彦さんも元嫁のベティーさんにとても感謝されていたそうで、亡くなる数日前に「お前がいてくれて、本当によかった。ありがとう…」とベティーさんに気持ちを伝えていたそうです。
尾崎紀世彦の結婚② 2人目の嫁は日本人で2006年に離婚
尾崎紀世彦さんは1度目の結婚相手のベティーさんと離婚が成立した後、1991年に日本人女性と2度目の結婚をしています。
この2度目の結婚の嫁については詳しい情報は明かされていませんが、結婚2年目に尾崎紀世彦さんにとって3人目の子供となる次女(嫁にとっては長女)が誕生しています。
しかし、この子供が生まれてから尾崎紀世彦さんと嫁は子育てを巡って対立するようになり、口も聞かなくなって必要な事はお互いに紙に書いて伝えるという家庭内別居状態になって結婚生活破綻。
3年にわたる裁判の末に2006年に離婚が成立しています。尾崎紀世彦さんと2度目の結婚の元嫁の離婚条件は、尾崎紀世彦さんが元嫁に対して7000万円の慰謝料を支払う事と子供が成人するまで毎月10万円の養育費を支払う事だったそうです。
尾崎紀世彦さんの死後、この2度目の結婚の元嫁が子供への遺産相続を求めて遺族との間に遺産トラブルが起きている事が報じられています。
当時、尾崎紀世彦さんの弟の尾崎征彦さん(2021年に死去)が、この元嫁が4年分の養育費が未払いなので500万円を支払って欲しいと言ってきている事や、それ以外の遺産もきっちり3等分して子供に支払って欲しい、隠し遺産があるはずなどと要求している事などを明かされていました。
そして遺産相続についても、口を出し始めたと征彦さんはいう。
「Bさんは、Aさんを通じて、“4年分の養育費が支払われていないから、その分の約500万円を遺産から支払ってほしい。そして、その養育費分を差し引いた遺産を3等分して娘に支払ってほしい”と要求してきたんです」
尾崎紀世彦の子供① 1人目の嫁との間に長男と長女
尾崎紀世彦さんの子供は1度目の結婚の元嫁のベティーさんのとの間に長男と長女、2度目の結婚の元嫁との間に次女が1人の合計3人です。
尾崎紀世彦さんと元嫁のベティーさんの子供は、長女が良奈さん、長男が紀世彦Jr.さん(欧米文化で父親と子供で同じ名前)だと明かされています。
2012年当時、長女の良奈さんが38歳と報じられているので1974年頃の生まれ、長男の紀世彦Jr.さんが同じく36歳と報じられているので1976年頃の生まれだと推測できます。
このベティーさんとの子供2人のうち長男の紀世彦Jr.さんは、尾崎紀世彦さんが闘病中と聞いてハワイから仕事を辞めてまで駆けつけ、2011年6月から一緒に暮らしながらずっと看病をされていたそうです。
2011年6月から尾崎さんと一緒に暮らし、看病をしていたという紀世彦二世(36)は「きょうのを見て、いなくなったと思えないくらい、いたような雰囲気があった」と声をつまらせ、長女・良奈さん(38)も「絶対に会場にいたと思います」と大粒の涙を流した。
また、尾崎紀世彦さんは2012年2月、良奈さんの生んだ双子の孫に会いたいと、体をおしてハワイを訪れていたそうです。
今年2月には病魔に侵される体をおして、良奈さんが生んだ双子の子供に会うためハワイを訪れていたという。良奈さんは「『どうしても会いたい』とハワイに来ました。2人をいっぺんに抱っこして、すごく喜んでたんです。孫たちを見守ってください」と涙ながらに話した。
尾崎紀世彦の子供② 2人目の嫁との間に次女
尾崎紀世彦さんの3人目の子供は、2回目の結婚の元嫁との間に1993年に生まれた次女です。
尾崎紀世彦さんはまだこの子供が幼い頃に元嫁とは別居状態になり2006年に離婚しています。その後、尾崎紀世彦さんはこの子供とは会っておらず、亡くなる直前の2012年5月にようやく元嫁が見舞いに訪れた事で離婚後最初で最後の再会をされたそうです。
「キヨの病気が発覚したとき、Bさんにも連絡したんですが、お見舞いに来ることもなければ、電話の一本もありませんでした。5月にはいって“いよいよ危ない”と連絡すると、ようやく娘を連れてやってきました。離婚後、キヨがふたりと再会するのは、これが最初で最後となりました…」
この尾崎紀世彦さんの3人目の子供は2012年の時点で19歳と報じられています。
尾崎紀世彦はバイク事故で右足を複雑骨折も脅威の回復力で3ヶ月で完治
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尾崎紀世彦さんは1995年にバイク事故を起こし、右足を複雑骨折しています。
医師からは、この年齢(当時52歳)では治るまでに1年はかかると告げらたそうなのですが、驚異的な回復力を発揮してわずか3ヶ月で完治しています。
尾崎紀世彦さんはこのバイク事故の他にも、デビューしたばかりの若い頃にタクシーに乗車中に6台が絡む多重衝突事故に巻き込まれ4ヶ月間入院する大怪我を負っており、デビュー曲の宣伝が全くできずに売れなかったというエピソードもよく知られています。
尾崎紀世彦の晩年は失踪を噂されたが実際は入院し闘病していた
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尾崎紀世彦さんは晩年まで精力的に音楽活動を展開されていました。
亡くなる2年前の2010年には、「尾崎紀世彦プレミアムコンサート」としてソロツアーも行っています。
2011年5月にもコンサートが予定されていましたが、その1ヶ月前の2011年4月に「病気療養のため中止する」との発表が出され、同年5月には所属事務所の契約解除も発表されました。
そして、2012年4月にはスポーツ紙や週刊誌が「尾崎紀世彦失踪」のニュースを一斉に報じました。
歌手尾崎紀世彦(69)の“失踪”を、24日発売の「週刊女性」(主婦と生活社)が報じている。記事では、前所属事務所との契約は昨年5月に終了したが、その後、約束していた電話も尾崎からかかってくることはなく、行きつけの飲食店にも2カ月前から姿を見せなくなったなどとしている。
しかし、これは誤情報で、尾崎紀世彦さんは病気療養のため、歌手活動を停止してテレビにも出演しなくなったために一部の関係者が失踪状態と発言した事が大事になってしまっただけでした。
失踪が誤情報と判明した後は、尾崎紀世彦さんはいずれまた歌手活動を再開するだろうとの報道が増えましたが、実際には尾崎紀世彦さんの病状は悪化しており、胃がんが肺や肝臓に転移し、闘病の晩年を送られていました。
関係者によれば、尾崎紀世彦さんは最後まで復帰を諦めておらず、新アルバムの準備も進められていたそうです。
今年4月に“失踪騒動”と報じられたが、実際は一昨年に胃がんの手術を受け、その後、肺と肝臓に転移。長期入院で闘病を続けていた。
関係者によると、尾崎さんは闘病中も再起を目指し、この春には最新アルバムの準備を進めていたという。候補曲のひとつには、ミュージシャンの為末照正(ためすえ・てるまさ)さんが書き下ろした『羅針盤』という曲があった。
この失踪報道からわずか1ヶ月後、尾崎紀世彦さんの死去が報じられました。
尾崎紀世彦の死因は肝臓がん
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晩年は闘病生活を続けていた尾崎紀世彦さんでしたが、2012年5月30日に69歳で亡くなりました。
死因は「肝臓がん」と発表されています。
大ヒット曲「また逢う日まで」などで知られる歌手尾崎紀世彦(おざき・きよひこ)さんが5月31日午前0時5分、肝臓がんのため東京都港区の病院で亡くなった。69歳だった。
まとめ
今回は、1960年代から2012年にかけて日本を代表するポップス歌手として活躍した尾崎紀世彦さんについてまとめてみました。
尾崎紀世彦さんはその彫りの深い顔立ちからハーフだと言われますが、正確には父親がイギリスとのハーフのクォーターです。
尾崎紀世彦さんの実際の身長は168cm〜170cmと見られています。
尾崎紀世彦さんの性格については、優しく繊細で、音楽に関しては完璧主義だったと言われています。
尾崎紀世彦さんは若い頃から洋楽に親しみ、ハワイアンバンドやグループサウンズを経て1970年にソロデビューし、1971年に「また逢う日まで」を大ヒットさせて大人気歌手となりました。
尾崎紀世彦さんの家族については、父親は日本初のバレエダンサーである藤田繁さん、兄はバレエダンサーの藤田彰彦さんです。
尾崎紀世彦さんは生涯で2度結婚し2度離婚されていて、1度目の結婚の嫁はアメリカと日本のハーフのベティーさん、2度目の結婚の嫁は日本人女性でした。
尾崎紀世彦さんの子供は1度目の結婚の嫁のベティーさんとの間に長男と長女の2人、2度目の結婚の嫁との間に次女が1人の合計3人です。
尾崎紀世彦さんは1995年にバイク事故を起こして足を複雑骨折するも、脅威の回復力で短期間で復活した事でも話題になりました。
晩年、尾崎紀世彦さんは失踪の噂も出ましたが、実際はがんに冒されて闘病生活を送られていました。そして、2012年5月30日に69歳で亡くなっています。死因は「肝臓がん」と発表されています。