始皇帝(嬴政)の死因&家系図や歴史!嫁と子供や子孫・父と母や兄弟・墓もまとめ

漫画「キングダム」のヒットで秦の始皇帝・嬴政が注目されています。

 

この記事では始皇帝・嬴政の中華統一までの歴史や家系図と家族、母親と兄弟、結婚や嫁、子供や子孫、水銀が原因という説もある死因は、1万近い兵馬俑が出土している広大な陵墓の発掘などについてまとめました。

始皇帝(嬴政)は中国史上初の天下統一により皇帝を名乗った歴史上の人物

 

始皇帝・嬴政

 

生年月日:紀元前259年2月18日

没年月日:紀元前210年9月10日(49歳没)

出生地 :趙国・邯鄲(現在の中国河北省邯鄲県)

 

始皇帝・嬴政(しこうてい・えいせい)とは、中国の歴史上初めて天下を統一し、春秋・戦国時代を終わらせた古代中国の歴史上の人物です。

 

始皇帝・嬴政は13歳で秦(しん)の王に即位し、勢力を拡大して次々と諸国(韓・趙・燕・魏・楚・斉)を攻め滅ぼして紀元前221年に中国史上初の天下統一を果たし、王の称号を人類史上初めて「皇帝」(古代中国の神話伝説時代の8人の帝王、三皇五帝が由来とされる)に改め、その最初の1人として「始皇帝」を名乗りました。

 

統一後はブレーンであった宰相の李斯らを重用して画期的な改革を次々と打ち出し、これが後の中国の各王朝に継承されて皇帝政治の基礎となり、この中国の皇帝政治は、始皇帝・嬴政の時代から1911年の辛亥革命により清が滅びるまでの実に2000年以上も続きました。

 

 

始皇帝(嬴政)の歴史① 嬴政が即位するまでの秦

 

出典:https://lh3.googleusercontent.com/

 

始皇帝嬴政が生まれた紀元前259年の中国は、後に「春秋・戦国時代」と呼ばれる戦乱の時代が数百年続いており、中国各地に諸侯が乱立して争い次第に7つの大国へと収斂された時代でした。

 

この7つの大国(秦・楚・斉・燕・趙・魏・韓)を「戦国七雄」と呼び互いに覇を競っていました。

 

このうち始皇帝・嬴政が王位を継承することになる秦は、周代(秦の前の中国の王朝)の紀元前906年に当時の周王・孝王により秦の地に領地を与えられたのが始まりとされ、中国西部の遊牧民族西戎を降した後、周辺の小国を併呑して中国西方に勢力を伸ばしました。

 

紀元前324年、秦の第26代君主の恵文王が初めて王を名乗り、その勢力拡張恐れた韓・趙・魏・燕・楚の五か国連合軍の侵攻を受けるも函谷関の戦いでこれを破りました。

 

2代・武王は23歳で子がいないまま死んだため燕にいた異母弟の公子稷が即位し3代・昭襄王(しょうじょうおう)を名乗りました。この昭襄王が始皇帝・嬴政の曾祖父にあたります。

 

昭襄王の代には、秦は宰相の魏冄と白起将軍の活躍により勝利を重ねて勢力を拡大し、紀元前260年の長平の戦いで趙を破り、40万〜45万もの捕虜を騙し討ちにして生き埋めにして殺したと伝わっています。

 

この頃、趙に人質として送られていた昭襄王の太子の安国君の子供・異人(20人以上の子供のうちの1人で妾の子でもあり軽く扱われていた)を、豪商であった呂不韋が見出して投資(自らの力で秦王につける事で巨大な利益を得られると考えた)し、工作によって安国君(嬴政の祖父)の継室・華陽夫人の養子として安国君にも異人を後継ぎとさせる事を承認させ、これに伴い異人は子楚と改名。

 

異人改め子楚は呂不韋の功績に感謝し、自らが王位についた際の厚遇を約束し、また、呂不韋の妾であった趙姫を譲り受けて結婚するなど関係を深めました。この異人と趙姫の間に生まれたのが後に始皇帝となる嬴政でした。

 

そして、紀元前251年、昭襄王が死亡すると安国君が4代目として即位して孝文王となるも、正式に即位してからわずか3日後の紀元前250年10月に53歳で死亡したため、子楚は5代目秦王として即位し荘襄王(そうじょうおう)を名乗りました。

 

荘襄王は紀元前249年に、名目上の中国の天子(天の意を受けて統治を司る王)であった東周を滅ぼしましたが、紀元前247年に35歳で死亡しました。(死因は不明)在位はわずか3年でした。

 

 

始皇帝(嬴政)の歴史② 始皇帝・嬴政の出生と幼少期

 

始皇帝・嬴政は、父親の異人(後に子楚、荘襄王)が、秦と争っていた趙に一時的な休戦の人質として送られていた紀元前259年2月18日に趙の都である邯鄲(かんたん)で生まれました。

 

嬴政の曽祖父である昭襄王は自らの孫の異人に全く配慮せずに趙を攻める事を繰り返し、紀元前258年と259年に邯鄲を包囲しています。そのため人質の異人は趙に処刑されかけましたが、呂不韋の手引きによって秦への脱出に成功します。しかし、嫁の趙姫(嬴政の母親)と生まれたばかりの嬴政を連れ出す余裕はなく、敵地の真っ只中に置き去りにされました。

 

ただ、これも呂不韋の手引きにより趙の豪族を買収して保護させた事により、嬴政と母親の趙姫は危機を脱しています。

 

紀元前251年に昭襄王が死亡し、紀元前250年10月に孝文王として即位すると、嬴政の父・異人(当時は子楚と改名)は太子となり、趙は、10歳になった嬴政を母親の趙姫と共に秦へと送り返しました。孝文王は在位3日で死去し子楚は荘襄王として即位し、功績のあった呂不韋は相邦(王に次ぐ政治を司る地位、相国、丞相とも)に任命され、洛陽に10万戸の領地を与えられました。

 

死と隣り合わせの中で生き延びた嬴政はその後、父親の荘襄王の死によって13歳で秦王の座に即位する事になります。

 

 

始皇帝(嬴政)の歴史③ 呂不韋の後見により13歳で秦王に即位

 

13歳で即位した嬴政を後見した呂不韋

 

嬴政が秦に戻されてから4年後の紀元前247年5月、父親の荘襄王が秦王即位からわずか3年、35歳にして死亡します。これにより、世子である嬴政が弱冠13歳にして第6代秦王として即位する事になりました。

 

嬴政はこの当時まだ若年であったため、政治は呂不韋やその他の家臣らが補佐する事になりました。特に、王に次ぐ最高権力者であった呂不韋は仲父(ちゅうほ、父に次ぐ尊称あるいは「おじ」という意味)の称号を授けられて嬴政を後見する地位につき権勢を極めました。

 

嬴政の即位から6年目の紀元前241年、楚・趙・魏・韓・燕の5国の連合軍が秦に攻め入りましたが、秦は要衝である函谷関でこの大軍を迎え撃って退けています。(函谷関の戦い)

 

この時期、魏の公子の信陵君や、斉の威王の孫の孟嘗君が多くの食客(才能のある人間を客人として養う)を集め名声を得ていた事に対抗し、呂不韋は3000もの食客を集めました。この食客の1人が後に嬴政の丞相となりブレーンとして革新的な政策を司った李斯がおり、呂不韋の推挙により嬴政の側近として仕えるようになりました。

 

 

始皇帝(嬴政)の歴史④ 母親の趙姫の愛人で偽宦官・嫪毐の反乱を鎮圧

 

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相国として権力の絶頂を迎えていた呂不韋でしたが、その裏で嬴政の母親であり、嬴政の即位により太后となっていた趙姫と密通していたとされています。

 

元々、趙姫は呂不韋の妾だったのを、嬴政の父親である荘襄王(当時は異人を名乗っていた)が気に入って貰い受けて結婚したという経緯がありました。呂不韋はこの時には納得して趙姫を異人へ譲り、関係を強化する事に利用しましたが、荘襄王(異人)の死後に関係を復活させていました。

 

しかし、嬴政が成長するにつれて呂不韋はこのまま太后と不義密通を続けて発覚するれば身の破滅であると危惧するようになりました。しかし、趙姫は度を超えて淫乱な女性であったとされ、その性欲は年齢を重ねるほどに増し呂不韋を離そうとしませんでした。

 

そこで、呂不韋は一計を案じ、嫪毐(ろうあい)という自分の一物で馬車の車輪を回せるほどの巨根を持つ男を太后に近づけ、顎ひげと眉を抜かせて宦官(去勢された役人)に変装させて後宮へと送りました。(当時、後宮へ入れる男性は王以外では去勢をした宦官のみだった)

 

嫪毐の巨根に夢中になった嬴政の母親で太后である趙姫は、嫪毐との子供を2人出産し、その後ろ盾により権力を得た嫪毐は山陽、河西および太原に領土を与えられて多くの食客を養い、列侯の爵位まで与えられて長信侯と称され一時は呂不韋に次ぐ権勢を誇るまでになったとされます。

 

紀元前238年、密告によって嬴政にこれが知られる事となり、内偵によって太后との密通も露見。窮極まった嫪毐は玉璽や太后の印璽を盗み出し、それによって兵を集めて反乱を企てました。

 

 

嫪毐の車裂きでの処刑の図

 

しかし、嬴政は嫪毐の反乱を予期しており、咸陽で返り討ちにしてこれを瞬く間に鎮圧。嫪毐は逃亡するも捕えられて車裂きの刑で処刑され、太后との間に生まれた2人の子供は袋に入れられて殴る蹴るを繰り返されるという残忍な方法で処刑され、太后は幽閉されました。

 

 

始皇帝(嬴政)の歴史⑤ 呂不韋が粛清され嬴政の専制へ

 

嫪毐の反乱では、その背景が調査され、その原因を作ったのが呂不韋である事が露見。

 

連座制に則れば、呂不韋の処刑は免れませんでしたが、嬴政はこれまでの呂不韋の功績を考慮して相国の職の罷免(解任)と、蟄居(謹慎)に刑を減じています。

 

しかし、失脚した後も呂不韋の名声と人望は衰える事はなく、蟄居先に多くの客人が訪れて呂不韋も積極的な交流を続けました。

 

嬴政はこの動きに、呂不韋が他国と通じて反乱を起こすのではないかと危惧を抱き、紀元前235年に下の内容の詰問状を送りつけています。

 

君何功於秦。秦封君河南,食十萬戸。君何親於秦。號稱仲父。其與家屬徙處蜀

 

(秦に対し一体何の功績を以って河南に十万戸の領地を与えられたのか。秦王家と一体何のつながりがあって仲父を称するのか。一族諸共蜀に行け。)

 

引用:史記「呂不韋列伝」14より

 

これを受けた呂不韋は、蜀に流刑になったとしてもやがては死を賜るであろうと悟り、毒を酒に入れてあおり自ら命を絶っています。

 

嬴政は、呂不韋の葬儀の場で声をあげて泣いた者も反乱の芽になりうるとして全員処分したとされています。

 

こうして、一時は王をしのぎかねないほどの権勢を誇った呂不韋は粛清され、相国であった呂不韋が廃された事で秦は嬴政が専制的に直接政治を行う新政が敷かれる事になりました。

 

嬴政による親政が始まった紀元前238年頃、灌漑工事の技術者として韓から招聘されていた水利技術者の鄭国により始まっていた灌漑水路「鄭国渠(ていこくきょ)」の建設事業が10年にわたって進められていましたが、これは秦の東方への進出を恐れた韓が、秦に大規模土木工事を起こさせて国力を損耗させようとする「疲秦の計」であった事が発覚します。

 

これに危機感を抱いた大臣達は、他国の人間を政府中枢から追放する「逐客令」を提案しました。これに反対したのが自身も他国(楚)の出身である李斯でこの他国人追放令の撤回を求める「諫逐客書」を嬴政に提出。これが理路整然とした名文であったため嬴政は感じ入り逐客令の廃案を決めました。この一件により、嬴政は李斯を深く信頼し重用するようになりました。

 

この後の秦の画期的な政策の多くはこの李斯によって発案されたものでした。

 

 

始皇帝(嬴政)の歴史⑥ 韓・趙を相次いで滅ぼす

 

秦軍を何度も撃退した趙の名将・李牧

 

長信侯・嫪毐の反乱を鎮圧し、丞相・呂不韋を粛清して自らの政敵となりかねない勢力を排除して親政を敷いた嬴政は、「諸侯を滅ぼして、帝となり、天下を統一する」という戦略方針を示しました。

 

嬴政は当初の施策として、遠方の燕や斉を籠絡(丸め込んでうまく操る事)し、魏と楚に対しては穏住し(耐え忍ぶ事)て、近隣の韓と趙を攻めるという「遠交近攻策」を打ち立てました。

 

紀元前236年、趙の将軍の龐煖が燕に侵攻して手薄になっている隙を狙い、秦は王翦を総大将、桓齮を副将、末将(この場合は3番目の将軍という意味)を楊端和として趙に大軍を送り込み、鄴(ぎょう、現在の河北省邯鄲市臨漳県と河南省安陽市安陽県にまたがる地域)周辺の9城を次々と落とし、さらに閼与と轑陽を陥落させて、それから18日後に王翦が軍の2割ほどの精鋭部隊を率いて鄴や安陽を制圧しました。

 

開戦から2年後の紀元前234年、桓齮将軍は8万の軍を率いて平陽へと侵攻。趙は扈輒将軍に10万以上の大軍を与えて救援に向かわせ両軍が激突し、趙軍は扈輒を打ち取って趙兵10万を平陽の城外で斬首しています。翌紀元前233年、桓齮は再び軍を率い、宜安、平陽、武城の3城を奪うと、またも趙軍を散々に破り、この一連の戦いで趙は10万以上の兵を失いました。

 

桓齮はさらに東の上党へ兵を進め、太行山を越えて趙領の奥深くまで侵入して趙軍を撃破し、赤麗と宜安(現在の河北省石家荘市藁城区西南)を占領。

 

しかしここで李牧将軍率いる趙軍が反転攻勢を仕掛け、宜安付近での激戦の末に秦軍は大敗し、桓齮将軍はここで討死したとも言われています。(戦国策など)

 

この戦いにより趙は秦に占領された領土の奪還に成功し、この戦功により李牧将軍は武安君に封じられました。(恩賞として武安の地を与えられたという事)

 

大敗の翌年の紀元前232年、嬴政は再び大軍を起こして趙へと侵攻させ鄴城から太原へと進出し、次いで狼孟と番吾を占領しましたが再び李牧将軍率いる趙軍に秦軍は大敗し、趙は反撃して秦に奪われていた領土を韓と魏の国境まで奪還に成功しました。

 

秦は趙との戦いに大敗して大損害を出したため、戦略目標を韓へと変え、紀元前231年9月に内史騰将軍率いる10万の軍が南陽の地を奪い、紀元前230年に秦軍はさらに南下して都の新鄭を急襲。君主の韓王安は捕虜となり、韓は滅亡しました。

 

韓を併合した事により、韓の高度な兵器生産力を得た秦はさらに軍事力を強め、また、地政学的にも要衝を得た事により、秦はここを足がかりに他国への侵攻を行えるようになりました。

 

紀元前229年、嬴政は2度も趙軍を撃退した李牧将軍を排除するため、謀略をめぐらして趙王の幽繆王の側近を唆し「李牧と司馬尚(趙の将軍)が謀反を企てている」という讒言をさせました。

 

幽繆王は趙の軍を掌握し名声も高かった李牧を恐れていたため、この讒言を信じて李牧を更迭しようとしましたが、李牧がこれを拒否したために捕えられて殺害されます。また、李牧と秦軍にあたっていた司馬尚も解任、更迭されます。

 

それからわずか3ヶ月後、趙軍は秦軍に大敗し紀元前228年に幽繆王は捕虜となり趙は滅亡しました。

 

 

始皇帝(嬴政)の歴史⑦ 暗殺を企てた燕を滅亡させる

 

紀元前228年に趙を滅ぼした秦は、その先にあった燕と国境を接する事になりましたが、燕は秦と比較して弱小国であったので武力では太刀打ちできませんでした。

 

 

嬴政と縁の太子丹は趙の人質時代に仲良くした旧知の関係

 

一方、燕の太子(王の子供)であった丹は、少年時代に趙に人質に送られており、同時期に人質に送られていた嬴政とは趙の都邯鄲で一緒に過ごした時期があり親しくしていました。そのため、嬴政が秦王に即位した後、燕は丹を人質に送って秦との融和を計り、丹は12年間にわたって咸陽に住んだものの、彼に対する嬴政の対応は非常に冷たく、帰国を希望した丹に対しても嬴政は「烏の頭が白くなり、馬に角が生えたら返そう」と無理難題で返したとされます。

 

丹はどうにか脱出して燕への帰国を果たすと、こうした経験から秦と融和を図る事は困難とし、また、実際に幾度となく秦が燕へ侵攻してきたため、丹は嬴政と秦に抗うしかないと判断します。

 

 

燕太子丹が嬴政の暗殺計画を企てる

 

弱小である燕は、まともにぶつかっても秦には太刀打ちできないため、丹は嬴政の暗殺を企てる事とし、若い頃から諸国を放浪して剣術と読書に親しみ、燕を訪れて有力者の食客となっていた荊軻(けいか)という男を刺客として送り込む事とします。

 

一方で、秦の将軍だった樊於期が、秦軍の少数精鋭化の政策に反対して嬴政に疎まれて燕へ亡命してきました。丹はこれを哀れに思って匿う事ととしますが、重臣の鞠武は樊於期を匿うのは秦に燕への侵攻の口実を与える事になると忠言し、樊於期を匈奴(北方の遊牧民族)へと追放した上で、匈奴と手を結び秦に対抗するべきと提案するも、心優しい性格であったのか丹はこの案を退けています。

 

しかし、嬴政暗殺を依頼された荊軻は、亡命してきた樊於期の首を差し出し、また燕の領土の一部を割譲するという証拠の地図を差し出せば、嬴政は喜んで自分と面会するであろうから、自分が近づく事でき嬴政を暗殺する事ができるでしょうと丹に献策します。

 

丹はなおも、領土の割譲はともかくとして、燕を頼って逃げてきた樊於期を殺す事はできないとしてこの策を退けました。

 

そこで、荊軻は樊於期に直接会い、「懸賞金のかけられたあなたの首を手土産に私が秦王に近づき暗殺する事ができれば、あなたの無念も恥も雪ぐ事ができる」と説いたところ樊於期は復讐のためにこれを承諾して、自害をしてその首を荊軻に差し出しました。

 

そして紀元前227年、荊軻は秦舞陽という男を供につけて樊於期の首を持ち嬴政の暗殺へと赴きます。この秦舞陽ですが13歳で人を殺した壮士として有名な男でしたが、荊軻はこの男が頼りにならないと見抜き、遠くに住む旧友を仲間に加えようとして彼の到着を待っていました。しかし、丹がいつまでも出発しない荊軻を急かすようになり「怖気付いたのではないか」と疑うようになったので、仕方なく秦舞陽のみを供に連れて嬴政の元へと出発しました。

 

 

荊軻の嬴政暗殺計画の失敗

 

荊軻の嬴政暗殺のシーンとされるレリーフ(武氏祠石室より出土)

 

かくして、使者として咸陽に着いた荊軻と秦舞陽は、嬴政に樊於期の首と領土割譲の証拠の地図を献上する事を伝えました。嬴政はこれを喜び、礼服に着替え九賓の礼を設けて荊軻達と接見しました。ところが、嬴政の前へ出ると怖気付いた秦舞陽が全身を震わせ始め、周囲の群臣達が不審に思い何事かと問たただし始めました。

 

荊軻は「北方の田舎者ゆえ、天子の前で恐れ慄いているのです」とどうにか誤魔化しました。

 

そして、荊軻は領地割譲の地図を持って嬴政の元へと歩み寄りました。嬴政はこの地図を開き始めますが、地図の巻が終わる頃に匕首(短刀や懐刀)が仕込んであり、荊軻はこの匕首をつかむや嬴政の袖を掴んで刺し殺そうとしました。

 

しかし、間一髪のところで嬴政の服の袖がちぎれ、嬴政はそれをかわしました。嬴政は慌てて剣を抜こうとしましたが剣が長すぎて鞘に引っかかって抜けず、逃げ惑う事になります。

 

周囲の群臣や衛兵らは慌てましたが、嬴政のいる殿上に臣下が武器を持って上がる事は法律で固く禁じられており、それを破れば死刑であっためどうする事もできませんでした。

 

荊軻は匕首を持って嬴政を追い回し、嬴政は逃げ回りながら剣を抜こうとするも焦れば焦るほど剣は抜けなくなりました。群臣らは素手で荊軻を取り押さえようとし、侍医の夏無且(かむしょ)は、携えていた薬箱を荊軻に投げつけました。これに荊軻が怯んだのを見て、群臣らは「剣を背負われよ」と声をかけたため、嬴政は剣を背中に回してようやく剣を抜く事ができました。

 

剣が抜けさえすれば、長剣と匕首では勝負にならず、荊軻は脚を斬りつけられて動けなくなり、最後に匕首を嬴政に投げつけたものの外れて壁に刺さりました。嬴政は激怒して荊軻を全身がズタズタになるまで斬りつけて惨殺し、息絶えた後も何度も繰り返し斬りつけ続けたと言われています。供の秦舞陽は最初から最後まで震えているだけでした。

 

 

激怒した嬴政が燕を攻めさせ滅亡させる

 

暗殺計画に激怒した嬴政は直ちに軍に燕を攻撃させました。

 

燕側は趙の残党による代との連合軍でこれを迎え撃ちます。しかし太刀打ちできずに秦軍は翌紀元前226年には燕の首都である薊を陥落させました。この時、嬴政は荊軻の血縁を皆殺しにするも怒りはおさまらず、ついには町の住民全員を虐殺したと伝えられています。

 

燕の王喜(丹の父)は丹の首を差し出して興和を求めましたが嬴政はこれに応じず、秦軍は攻撃を続け紀元前222年には燕を完全に滅亡させました。

 

 

始皇帝(嬴政)の歴史⑧ 魏・楚・斉を相次いで滅ぼし天下を統一

 

嬴政は攻撃の矛先を南へも向け、紀元前225年に王賁将軍に60万もの大軍を率いさせて攻め入らせました。

 

 

魏を水攻めによって滅亡させる

 

王賁将軍はまず、魏の南にある楚北部の十数もの城を落とすと軍を北上させて魏へ攻め入り、都の大梁を包囲しました。南に隣接する楚は防衛に専念しており、東の斉も傍観していたため魏は孤立無援の状態でした。

 

しかし、大梁は睢水、潁水、鴻溝の3つの河川が交差する要衝にあり、城塞都市は巨大な堀によって守られており、秦の大軍はこれを攻めあぐねて膠着状態となりました。

 

そこで、王賁将軍は大規模な土木工事を行なって大梁に黄河の水を引き入れてて水没させる「水攻め」の策を実行。これにより大梁の城壁は洪水によって破壊され、数十万人の住民が溺れ死んだと言われています。3ヶ月後に魏の王・假は降伏し魏は滅亡しました。魏王假は降伏後に処刑された伝わっています。

 

楚を滅亡させる

 

魏を滅ぼした紀元前225年、嬴政は続けて強国である楚への侵攻を計画。老将の王翦は楚攻略には60万の兵力が必要だと説いたのに対し、若い将軍・李信は20万で充分であると進言。

 

嬴政は若い李信の案を採用し20万の兵を与えて楚への侵攻を命じました。王翦はこれを不満に思い、病気を理由に将軍を辞め故郷へと引きこもってしまいました。

 

李信はまず、20万を二つの軍に分け半数を自ら率い、もう1軍を副将の蒙恬に与えて2方向から侵攻し、李信は平輿(現在の河南省駐馬店市平輿県)で、蒙恬は寝丘(現在の安徽省阜陽市臨泉県)で楚の軍を破り、さらに楚の都・郢(現在の安徽省淮南市寿県)周辺を攻めて、一帯を攻略します。

 

しかし、李信と蒙恬の軍が寝丘の北の城父で合流したところを、楚の大将軍・項燕が率いる軍が奇襲し、2つの城壁が破られ7人の都尉(軍事指揮官)が戦死する大敗北を喫しました。

 

嬴政はこれを受けて、王翦に謝罪して再び将軍として軍を率いてくれるよう懇願し、改めて紀元前224年に王翦と副将の蒙武が率いる60万の大軍が楚に侵攻して楚王負芻は捕虜とします。

 

楚はなおも公子昌平君を楚王に擁立して抵抗を続けましたが、紀元前223年に昌平君も打ち取られ楚は滅亡しました。

 

斉を滅亡させて中華を統一

 

紀元前221年、嬴政は最後に残る斉の攻略を魏を攻略した王賁将軍に命じ、蒙恬と李信もこれに加わりました。

 

秦軍は支配下においた燕の南部から南下して斉へと侵攻し、守りのうすかった北部からの侵攻に斉軍は瞬く間に瓦解。斉の王・田建は降伏し、斉は滅亡しました。

 

これによって秦は中華を統一し、中国史上初の統一王朝を成立させました。

 

 

始皇帝(嬴政)の歴史⑨ 統一王朝により以後の中国の皇帝政治の礎を築く

 

中華を統一した嬴政は新たに「皇帝」の称号を名乗りました。これは人類史上で初めて「皇帝」という称号が用いられた事例でした。

 

初めて広大な中国の国土を統一した秦王朝の成立はこれまでとは全く違う革新的な政策を打ち出しました。

 

秦王朝はわずか15年で崩壊する事になりますが、この時に秦王朝が打ち立てた統治制度は、後の中国の核王朝に継承され皇帝政治の礎となりました。これは1911年の辛亥革命により清王朝が滅ぼされるまでなんと2000年以上にわたって維持されました。

 

秦王朝が打ち立てた政治制度は周王朝以来の封建制を廃止しての「郡県制の採用」があり、全国を36の郡に分けてその中にさらに県を置いてそこに中央から役人を派遣して統治する事による中央集権化の確立を目指しました。

 

また、様々な統一事業を実施し全土を統一的に支配するために「貨幣・度量衡・文字の統一」の政策を実行し、各国で流通するものが違っていた貨幣を半両銭という通貨で統一しました。

 

度量衡ではまず長さの単位(度)の一歩を6尺と定め、量をはかる「ます」(量)と重さをはかる「はかり」(衡)の標準器を製造し全国に分配して計量単位の統一化を進めました。

 

文字においては、秦で使われていた大篆を元に簡略体を作って、それを小篆とし全国共通の統一字体として制定しました。

 

他にも秦統一王朝は、首都咸陽に全国の富豪12万戸を移住させて集め、咸陽を中心に全国に通じる道路を整備し、さらに全ての「車軌」を統一して馬車が同じ轍で走れるようにするなどの画期的な方針を打ち出し、全国の情報網や経済活動を活発化させて王朝の発展を図りました。

 

また、中華の外部に対する政策も打ち出し、北方の匈奴の南下に備えて4000kmにも及ぶ万里の長城を整備させ、オルドス地方を南北に縦断する直道を整備させました。

 

南の南越に対してもも兵を送って南海郡(現在の広東)、桂林郡(広西地方)と象郡(ベトナム北部)を設置して領土を拡張し、南越出兵のための運河の整備も行いました。

 

 

始皇帝(嬴政)の歴史⑩ 嬴政の死後に反乱が起こり秦王朝は15年で崩壊へ

 

圧倒的な速さで中華を統一した秦でしたが、紀元前210年の嬴政の死後に各地で農民と豪族の反乱が起こり、嬴政の死去からわずか3年、統一王朝の成立からわずか15年の紀元前207年に崩壊しています。

 

始皇帝・嬴政は巡幸中に急死しましたが、これを丞相李斯と宦官の趙高が隠蔽し、長男の扶蘇をはじめ始皇帝の公子12人公女10人、臣下、血縁者数万人を処刑して、暗愚な末子の胡亥を二世皇帝として傀儡化し権力を欲しいままにしました。

 

始皇帝の死から1年後の紀元前209年、史上初の農民反乱とされる「陳勝・呉広の乱」が起こり、これが中華全土に飛び火して騒乱を引き起こしました。

 

二世皇帝と趙高は章邯将軍に討伐軍を指揮させ、反乱軍を指揮する陳勝軍、項梁軍も撃破しましたが、項梁の甥である項羽軍との決戦に敗れ、20万もの秦兵が生き埋めにされて処刑されました。

 

この間、宦官の趙高は冤罪により李斯を殺害し権力を独占するも、討伐軍が壊滅し反乱軍を率いた劉邦が咸陽に進軍していると聞いて激しく狼狽し、二世皇帝に暴政の汚名を着せて暗殺し、始皇帝の弟とも胡亥の兄ともその子供とも言われる子嬰を三世皇帝として擁立するも、企てが発覚して子嬰らに誅殺されました。

 

紀元前206年、劉邦の反乱軍が都・咸陽へ入城し、三世皇帝・子嬰が降伏したことで秦は瞬く間に滅亡しました。

 

 

始皇帝(嬴政)の家系図と家族① 定説では父親は荘襄王だが呂不韋説も

 

出典:https://somanystars.net/

 

始皇帝・嬴政の家系図ですが、現在から見て数千年前の古代の人物であり、残された資料がそこまで多いわけでもなく絶対に正しいという家系図が描けるわけではありません。

 

ただ、父親が第30代秦王である荘襄王(異人)、祖父が第29代秦王である孝文王(安国君)、曽祖父が第28代秦王の昭襄王である事がほぼ定説とされています。

 

一方、異説として始皇帝・嬴政の本当の父親は、荘襄王擁立に尽力した呂不韋であるという説があります。

 

この説では、呂不韋が妾の趙姫(始皇帝の母親)を異人に与えた時、趙姫は呂不韋の子供を妊娠しており、これが始皇帝・嬴政であるとされています。

 

後漢時代(始皇帝の時代から数百年後)の歴史書「漢書」にも「始皇帝は呂不韋の子供」との記述があります。

 

ただ、この説は現在では医学の観点から臨月の期間と嬴政の生誕日との間に矛盾があるとして否定する見方が強くなっています。

 

 

始皇帝(嬴政)の家系図と家族② 母親の趙姫は史記では淫乱とされた

 

始皇帝・嬴政の母親は、元々は呂不韋の妾であったのを、嬴政の父親である異人に譲られたという趙姫(ちょうき)という女性です。

 

史書によれば、嬴政の母親の趙姫は趙の豪族の娘で、呂不韋の妾となった後、秦の公子だった異人に請われて譲られて結婚し紀元前259年に嬴政を出産しています。

 

異人の父親である孝文王が即位した紀元前250年に、趙(嬴政は父親の異人が人質として趙に預けられていた時の子供)から秦へと入国。その翌年に孝文王が急死したため、夫の異人(この頃は子楚に改名)が荘襄王として即位した事で王后となり、さらにそれから3年後に荘襄王も亡くなるとその子供である嬴政が王として即位。これにより、母親の趙姫は王太后となって権勢を得ました。

 

「史記」などによれば嬴政の母親・趙姫は淫乱だったとされ、すでに触れているようにかつての愛人であった呂不韋にあてがわれた偽宦官の嫪毐と密通して2人の子供を産んだとされています。ただ、これについては後年の創作であり事実ではないという見方もあります。

 

嫪毐の反乱とその鎮圧の後、嬴政の母親・趙姫は当時の秦の国都であった雍城に幽閉されましたが、その後嬴政に許されて王城へと戻っています。

 

嬴政の母親・趙姫は紀元前228年に53歳で亡くなり、帝太后を追号されました。

 

 

始皇帝(嬴政)の家系図と家族③ 兄弟のうち異母弟の成蟜は謀反

 

始皇帝・嬴政の兄弟については詳しい事はわかっていませんが多くの異母兄弟がいたと言われています。

 

また、嬴政の兄弟のうち弟の成蟜(せいきょう)は、父親の荘襄王こと子楚が人質先だった趙の邯鄲を脱出した際に、嫁の寵姫と生まれたばかりの嬴政を置き去りにした後、母親の夏姫(嬴政の祖母)を安心させるために結婚した韓出身の嫁との間に生まれた異母兄弟だとされています。

 

成蟜は嬴政が王に即位して5年後の紀元前242年に韓へと赴いて桓恵王から韓の地百里を接収に成功してその功績により長安君に封じられた(長安の地を恩賞として与えられたという事)とされています。

 

「史記」によれば、その後の紀元前239年に兄である嬴政に背き、それを鎮圧されて死亡したとされています。なお、始皇帝・嬴政の時代をテーマにした漫画「キングダム」では、この異母兄弟の成蟜が序盤の敵役として登場しているため同漫画のファンにもよく知られているようです。

 

 

始皇帝(嬴政)の家系図と家族④ 結婚と嫁(妻)については謎が多い

 

始皇帝・嬴政の結婚と嫁(妻)に関する史料はほとんど見つかっていません。

 

そのため、始皇帝・嬴政の結婚と嫁に関する事はほとんど何もわかっていません。

 

「史記」では、「始皇帝が死亡した後、後宮にいる后妃のうち子供のいない者は全て殉死(始皇帝の後を追い自殺をする事)を強要され多くが亡くなった」との記述があります。この事からこ始皇帝・嬴政には多くの嫁がいたと考えられていますが正確なところはわかっていません。

 

始皇帝の死後に秦は反乱によって滅亡しているため、意図的に始皇帝の結婚や嫁、子供や子孫に関する記録は抹消された可能性も考えられます。

 

 

始皇帝(嬴政)の家系図と家族⑤ 子供と子孫

 

始皇帝・嬴政の子供や子孫に関してははっきりした事はわかっていませんが、「史記」で、始皇帝の公子は20人以上おり、二世皇帝が即位する際に公子12人と公主(公女の事)10人が殺害されたとの記述があります。

 

始皇帝・嬴政の子供、子孫で名前がはっきりしているのは、長子である扶蘇と、二世皇帝となる末子の胡亥のみです。

 

秦が劉邦の反乱によって滅亡させられた時、始皇帝・嬴政の子供・子孫は根絶やしにされた可能性が高く、歴史上からは姿を消しています。

 

なお、「日本書紀」に書かれている、西暦283年に百済から渡ってきた弓月君の一族が始祖とされる日本の古代からの有力氏族である秦氏ですが、これが秦の始皇帝の子孫であるという都市伝説的な説も存在しています。

 

 

始皇帝(嬴政)の死因

 

始皇帝は紀元前210年9月10日に49歳で死亡しました。

 

死因についてははっきりしておらず、巡遊中ににわかに体調を崩して中国東北部の沙丘の地で死去したという事しか伝わっていません。

 

伝説として、始皇帝が不老不死の薬として猛毒である水銀入りの薬を服用していたというものがあり、これが死因と関係しているという説も存在します。

 

 

始皇帝(嬴政)の墓

 

出典:https://www.cnta-osaka.jp/

 

始皇帝・嬴政の墓については、嬴政が秦王に即位してすぐに巨大な陵墓を築かせており、現在の中国陝西省西安に位置する驪山の北側に遺構が残されています。

 

この陵墓はあまりにも巨大なもので、秦の都・咸陽を模した構造を持ち、総面積は約56.25㎢にも及びます。

 

秦の滅亡後、陵墓は項羽の軍隊に荒らされており、現在は広大な墳丘が残されているだけです。しかし、1974年に陵墓から東へ1.5km離れた地点から大量の兵馬俑が出土。これは始皇帝の死後もその墓を守るために作られた兵士や軍馬、役人などを模した大量の人形であり、現在までに約8000体が出土しています。

 

始皇帝を埋葬したとされる陵墓の発掘はほとんど進められておらず、その全体像は未だ謎に包まれています。

 

 

まとめ

 

今回は、中国史上初めて中華を統一した秦の始皇帝・嬴政についてまとめてみました。

 

始皇帝・嬴政の歴史は秦の統一王朝が成立し滅びるまでの歴史そのもので、13歳で秦の王に即位した嬴政は26年後39歳の時に中華統一を成し遂げました。

 

始皇帝の正確な家系図を描く事は難しいですが、家族として、秦王であった父親や祖父、曽祖父、母親の趙姫や異母兄弟である成蟜の存在が明らかになっています。子供については長子の扶蘇と二世皇帝となる末子の胡亥のみ名前がはっきりしています。その他の子供や子孫については何もわかっていません。

 

始皇帝の死因もよくわかっておらず、巡行中に倒れ亡くなった事のみがわかっています。始皇帝・嬴政の墓として巨大な陵墓が見つかっていますが、発掘はあまり進んでおらずその全容は未だ謎に包まれています。

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