与謝野晶子は「みだれ髪」で知られている女流歌人ですが、最近ではなぜか力道山との関係が話題です。
今回は与謝野晶子の親や兄弟など実家の家族、結婚した旦那や子供・孫・子孫、晩年や死因、力道山との関係など現在もまとめました。
この記事の目次
- 与謝野晶子は情熱的な作品を残した歌人
- 与謝野晶子の実家の家族① 父親の鳳宗七は駿河屋の経営者
- 与謝野晶子の実家の家族② 兄・鳳秀太郎は電気工学博士
- 与謝野晶子の実家の家族③ 弟の鳳籌三郎は『君死にたまうふことなかれ』で有名に
- 与謝野晶子の生い立ち
- 与謝野晶子が結婚した旦那は歌人・与謝野鉄幹
- 与謝野晶子の旦那・与謝野鉄幹は女子生徒と2回結婚していた
- 与謝野晶子は与謝野鉄幹をめぐって山川登美子と和歌でバトル
- 与謝野晶子は22歳で与謝野鉄幹と結婚
- 与謝野晶子と旦那・与謝野鉄幹との関係① 不倫される立場に
- 与謝野晶子と旦那・与謝野鉄幹との関係② 師弟関係も崩壊
- 与謝野晶子は海外旅行に4ヶ月出かけている
- 与謝野晶子の子供は12人
- 与謝野晶子の孫も有名人
- 与謝野晶子の子孫
- 与謝野晶子の晩年① 源氏物語の現代語訳に没頭
- 与謝野晶子の死因は狭心症と尿毒症
- 与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか?が話題に
- まとめ
与謝野晶子は情熱的な作品を残した歌人
与謝野晶子のプロフィール
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与謝野 晶子(よさの あきこ)
本名: 与謝野 志やう(よさの しょう)
生年月日: 1878年12月7日
没年月日: 1942年5月29日
出身地: 大阪府堺市堺区
与謝野晶子は、教科書にも掲載されている近代日本を代表する女流歌人です。
本名は「与謝野志やう(読み方はしょう)」といい、与謝野姓は結婚した旦那である与謝野鉄幹の苗字で、旧姓は「鳳(ほう)」でした。
歌人だった与謝野鉄幹にその才能を見出され、文芸誌『明星』に短歌を投稿すると文芸界のスターに。以降は、明治から昭和にかけて活躍しました。
プライベートでは、師匠と仰ぐ与謝野鉄幹と情熱的な恋愛を経て結婚。文芸界だけではなく、読者からも注目されました。
結婚後は多くの子供を育てながら、渡仏したり、女性の教育権利を訴えたりするなど、当時の女性では考えられない先進的な考え方を持っていたことも評価されています。
晩年は、『源氏物語』の現代語訳に力を注ぎ、第二次世界大戦の最中だった1942年、63歳で死去しました。
与謝野晶子の実家の家族① 父親の鳳宗七は駿河屋の経営者
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与謝野晶子の父親の鳳宗七は、老舗の和菓子屋である「堺・駿河屋」の2代目でした。
「堺・駿河屋」はもともとは与謝野晶子の祖父・鳳惣助が始めた店で、のれん分けする形で父親が心斎橋で開業しました。
駿河屋は脈々と子孫にバトンが渡り続け、経営が続いていましたが、2014年に民事再生法適用を申請。全店舗を閉鎖して従業員は解雇というピンチに立たされてしまいます。
しかし、三和インセクティサイドの田中会長が出資し、新会社「株式会社総本家駿河屋」を設立したことで、再スタートを切りました。
与謝野晶子の実家の家族② 兄・鳳秀太郎は電気工学博士
鳳秀太郎のプロフィール
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鳳 秀太郎(ほう ひでたろう)
生年月日: 1872年2月9日
没年月日: 1931年9月16日
出身地: 大阪府堺市堺区
与謝野晶子の兄・鳳秀太郎は、東京帝国大学(現在の東京大学)を卒業後、電気回路に関する定理である「鳳-テブナンの定理」を発見した日本の工学者、電気工学博士です。
また、東京帝国大学の工学部教授として研究・教鞭を振るいました。
息子の鳳誠三郎(与謝野晶子から見ると甥)も、東京大学で専任講師として電気工学の道に進んでいます。
与謝野晶子の実家の家族③ 弟の鳳籌三郎は『君死にたまうふことなかれ』で有名に
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与謝野晶子が全国的に有名になったのは、日露戦争に兵士として招集された弟・鳳籌三郎を想い、『明星』に『君死にたまふことなかれ』を発表したことがきっかけです。
当時の日本では、「国のために命を落とすことが名誉である」という考え方が一般的でした。そのため、表立って「家族に戦死して欲しくない」と口にできませんでした。
しかし、与謝野晶子は批判を恐れず、家族の無事を願う正直な心情を誌面に発表したのです。
では、与謝野晶子が堂々と徴兵を嘆いた弟の鳳籌三郎ですが、出征後どうなったのかが気になりますよね。
Yahoo!知恵袋にも「弟は戦死してしまったんですか」との質問も寄せられています。
調査したところ、鳳籌三郎は日露戦争後に無事生還しており、その後は父親から駿河屋を継いで、1944年まで生存していたようです。
また、与謝野晶子が死去するまで交流を持っていたようで、仲の良い兄弟だったことがわかっています。
なぜ生き残れたのか?
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1904年に勃発した日露戦争は、終戦までに日本軍・ロシア軍それぞれが8万人を超える戦死者を出すなど、とてつもない被害が出た戦争でした。
このため、戦場に送られたら最後、生きて帰れる可能性が低かったと言えます。
しかし、与謝野晶子の弟は戦地から生還しています。ではなぜ、鳳籌三郎が生き残れたのでしょうか。
1つ目の理由として、鳳籌三郎が所属していた「歩兵第8連隊」は、多くの死者を出した「旅順攻囲戦」に参戦していなかった可能性が高いと言われています。
もう1つの理由として、鳳籌三郎が姉譲りの文才を持っていたことから、書記に任命されて軍内で重宝されていたため、前線に立つ機会がほとんどなく、生き残れたとの見解もあります。
もしそうであれば、才能が鳳籌三郎の命を救ったと言えるでしょう。
与謝野晶子の生い立ち
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与謝野晶子は、両親が切り盛りする大阪府堺市堺区の駿河屋に生まれ、9歳で漢学塾に入ったり、琴や三味線といった習い事をしたりしていました。
また、11歳になると堺市立堺女学校に入学し、その後は高校も卒業しています。
今でこそ女性が学校に通ったり習い事をすることはいたって普通のことですが、当時の日本では学校に通えるのは一部の裕福な家庭の子女に限られていました。
そのため、与謝野晶子の実家は一般家庭よりもずっとお金持ちだったことがうかがえます。
そんな与謝野晶子には、子供の頃は店の手伝いをしながら、文芸に興味があった父親が収集した『源氏物語』などの古典文学を読むことが楽しみだったというエピソードが残されています。
また、12歳頃からは森鴎外、幸田露伴、樋口一葉などの近代文学作品にも親しむなど、文学少女だったようです。
こういった文学的な趣味を持っていたことも、実家が裕福だった証拠だと言われています。
そして当時の女性では考えられないくらい、与謝野晶子が先進的な考え方を持ち、のちの思想を形成するに至ったのは、父親が集めていた文芸に幼い頃から触れていたことが大きいようです。
与謝野晶子が結婚した旦那は歌人・与謝野鉄幹
与謝野鉄幹のプロフィール
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与謝野 鉄幹(よさの てっかん)
生年月日: 1873年2月26日
没年月日: 1935年3月26日
出身地: 京都府
職業: 歌人
与謝野晶子が結婚した相手は、歌人で、師匠でもある与謝野鉄幹です。
なお、「与謝野鉄幹」とは歌人として活動するためのペンネームで、本名は「与謝野寛」といいます。
与謝野鉄幹の父親、与謝野礼厳は西本願寺支院、願成寺の僧侶で、与謝野鉄幹は10歳の時に安養寺の安藤秀乗の養子となりました。
将来は寺を継ぐことを期待されていたようですが、西本願寺で得度の式をあげた後、西本願寺が経営していた徳山女学校の教員として赴任。
1892年に徳山女学校を辞職すると、出版社「明治書院」の編集長に就任していますが、跡見女学校で教師の仕事も兼任していたようです。
その後『明星』を創刊すると、石川啄木、北原白秋、高村光太郎など、次々に新世代を担う歌人を見出していきます。今でいうプロデューサーのような仕事をしていたと思われます。
与謝野晶子を一流の歌人に育てたのも、与謝野鉄幹でした。しかし、与謝野晶子が脚光を浴びてもてはやされた一方で、嫁の栄光の影で苦悩していたようです。
1935年に気管支カタルを患い、享年62歳で死去しています。
与謝野晶子の旦那・与謝野鉄幹は女子生徒と2回結婚していた
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旦那の与謝野鉄幹
与謝野鉄幹は歌人としてだけでなく、女癖の悪さや浮気癖エピソードでも知られています。
かつて徳山女学校を退職した理由は、当時の生徒だった浅田信子さんとの間で問題を起こしたことが原因でした。
浅田信子さんはのちに女児を出産していますが、子供は夭折。その後、浅田信子さんとは破局したものの、すぐに別の生徒である林滝野さんと恋仲になり、同棲を開始しています。
林滝野さんの父親は、与謝野鉄幹が林家へ婿入りするという条件付きで結婚を許可するつもりでしたが、「田舎住まいなどまっぴらごめんだ」と、与謝野鉄幹は婿入りを拒否して駆け落ち。
そして2人で東京都新宿区に新居を構え、滝野さんは長男の萃(あつむ)さんを出産。『明星』を創刊した頃のことです。
子供が誕生し、与謝野鉄幹の浮気癖も収まるだろうと思いきや、与謝野晶子と出会ったことにより、不倫関係になっています。
与謝野晶子は与謝野鉄幹をめぐって山川登美子と和歌でバトル
与謝野晶子は文学作品や文芸雑誌に触れて育ち、20歳頃から、店番をしながら和歌を書きため、文学雑誌に投稿するようになりました。
そして21歳の夏頃、文学仲間の集まりや歌会に参加していくうちに、新進歌人として注目を集める山川登美子、後に旦那となる与謝野鉄幹と出会います。
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女流歌人の山川登美子
出会った当初、山川登美子は1歳年上の与謝野晶子のことを「お姉さま」と呼んで慕っていましたが、与謝野鉄幹を交えた3人で京都旅行に出かけたことで、関係は一気に変化しました。
山川登美子と与謝野晶子は、与謝野鉄幹を巡る恋のライバルとなったのです。
2人が恋敵になった証拠に、山川登美子は『明星』に「あたらしくひらきましたる歌の道に君が名よびて死なんとぞ思ふ」と熱い気持ちを隠すことなく、和歌を詠んでいます。
これに対して、与謝野鉄幹も妻がいながら、思わせぶりな返歌をしています。
与謝野鉄幹はビジネス恋愛だった?
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山川登美子が詠んだ恋の和歌に負けじと、与謝野晶子も「かならずぞ別れの今の口つけの紅のかをりをいつまでも君」と詠みました。
これに対して、与謝野鉄幹は「京都の口紅など君にはふさわしくない。私が噛んだ小指の血で唇を染めなさい」という内容の歌を返しています。
妻帯者の男性の返歌としては、かなり際どいものですよね。
そして与謝野鉄幹は、新進気鋭の2人の女流歌人とのやり取りを隠すことなく『明星』に投稿。
嫁・滝野さんと2人で立ち上げた雑誌に、自分を巡る恋の和歌を掲載するとなると、当然のことながら滝野さんも和歌を目にすることになり、夫の状況を知っていたと思われます。
もちろん読者も、与謝野晶子と山川登美子、与謝野鉄幹と滝野さん4人の関係と展開に大いに注目し、『明星』の売り上げもどんどん上がっていったことでしょう。
そう考えると、与謝野鉄幹は雑誌の購買意欲アップを狙っていたと思われ、与謝野晶子と山川登美子の恋心を冷静にビジネスとして利用していたと考えられます。
一方、山川登美子も与謝野晶子もまだ20代前半という恋愛に純粋で純朴な年頃だったため、与謝野鉄幹への熱い想いを和歌にぶつけることに集中していたようです。
嫁の滝野さんはどのような気持ちで、この関係を見守っていたのでしょうか。
山川登美子は政略結婚で離脱
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世間が注目した恋の行方でしたが、ライバル関係は長くは続きませんでした。山川登美子は親が決めた相手である山川駐七郎と結婚することになったのです。
身を引くことになった山川登美子は、自身の指を針で突いて、「もう会えなくなっても、2人と共に歌の世界に生きる」と決意を血書に綴りました。
なお、山川登美子の旦那は結婚後わずか1年で結核を発症。しばらく伊豆で療養していたのですが、看病の甲斐なく死去しています。
山川登美子は、旦那に先立たれた悲しみを『明星』に投稿し、再び歌人として活動するようになります。
与謝野晶子は22歳で与謝野鉄幹と結婚
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結婚後の与謝野晶子と与謝野鉄幹
与謝野晶子と与謝野鉄幹は1900年頃、不倫関係になったと言われています。
この四角関係や不倫の動向は、『明星』の読者には大いに受けて注目されましたが、やはり不倫は良くないとして問題視されたようです。
また、1901年には与謝野鉄幹を徹底的に非難する本が発行される「文壇照魔鏡事件」なども起きています。
しかし、まだ無名だった与謝野晶子の才能を見抜いていた与謝野鉄幹は、『乱れ髪』をプロデュース。
「みだれ髪を京の島田にかへし朝ふしてゐませの君ゆりおこす」という有名なこの和歌は、身支度を済ませた女性が、まだ眠っている男性を起こすという状況を詠んだものでした。
つまり、与謝野鉄幹と男女の関係になったことを明らかにした和歌で、女性が性をおおっぴらに歌ったセンセーショナルな内容として、伝統を重んじる歌壇からは批判を浴びます。
しかし一方で、熱狂的な支持者を得た与謝野晶子は、浪漫派の歌人としての地位を確立しました。
その後、与謝野鉄幹は滝野さんと離婚。与謝野晶子は実家と家族を捨てる形で与謝野鉄幹と結婚し、1901年10月に2人で挙式をしています。与謝野晶子が22歳の時のことでした。
与謝野晶子と旦那・与謝野鉄幹との関係① 不倫される立場に
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ライバルや世間の逆風をものともせず、嫁の立場を手に入れ、子供も授かった与謝野晶子でしたが、必ずしも順風満帆な結婚生活とは言えませんでした。
それは、2人の立場や夫婦関係が少しずつ変化していったことが原因のようです。
かつて恋敵だった山川登美子は、旦那の死後上京し、教師として働きながら再び歌人として『明星』に与謝野鉄幹への気持ちを和歌にして投稿し続け、文壇の世界から再び注目を集めます。
与謝野鉄幹の女癖は相変わらずだったようで、『明星』で活躍する女流歌人との交流を続けていたと言われています。
かつて自身がそうであったように、旦那を誘惑する女性が山ほどいて、旦那も悪びれもせずに女性たちと交流しているという、与謝野晶子はかつての滝野さんの立場になっていったのです。
与謝野晶子と旦那・与謝野鉄幹との関係② 師弟関係も崩壊
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多くの著名な歌人を誕生させてきた『明星』でしたが、人気は永遠に続きませんでした。
時の流れと共に少しずつ発行部数が減り続け、1908年の100号で廃刊になっています。
ただし、『明星』がなくなっても与謝野晶子は文壇のスターとして人気で、次々に仕事のオファーが舞い込みました。
一方、『明星』が廃刊になってからというもの、与謝野鉄幹は失意の日々だったようで、家に篭ってぼんやりしていたと言われています。
そのため、2人の夫婦仲は次第にギクシャクするようになっていき、かつての師弟関係は崩れてしまったようです。
与謝野晶子は海外旅行に4ヶ月出かけている
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『明星』の廃刊と共に、生きがいを失って抜け殻になった旦那を救ったのは、与謝野晶子でした。
心機一転、与謝野鉄幹をフランス留学に送り出すという賭けに出たのです。
留学費用は現在の2700万円
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毎日何もせずに鬱々と日々を過ごす与謝野鉄幹でしたが、唯一やる気を見せたのがフランスへの留学でした。
フランスに渡るためには、今のように飛行機に1本乗れば良いというものではありません。
新橋から敦賀に鉄道で移動し、そこから船でロシアへ。シベリア鉄道に乗ってパリへ渡るという長旅でした。
そのため、留学費用は2700円用意しなければならなかったといいます。当時の1円は今の価値で1万円なので、2700万円必要だったということですね。
さすがに義援金を募っても簡単には集まらず、与謝野晶子は自作の短歌100首を書き散らした屏風の制作でなんとかお金を作り、与謝野鉄幹をフランスへ送り出しました。
旦那を追いかけて渡仏
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その後、旦那に会いたくなったのか、与謝野晶子も渡仏を決意します。
新聞社、出版社、呉服屋などスポンサーに義援金を呼び掛けて、自身の旅費も捻出。子供達は与謝野鉄幹の妹が面倒を見ることになりました。
フランスに到着すると、シャンゼリゼ通りのような都会から、ロワール地方、そしてイギリスやドイツ、オランダもめぐったようです。
新しい文化に触れてすっかりに元気になった旦那の顔を見て安心したのか、与謝野晶子は4ヶ月に渡るヨーロッパ滞在を経て帰国しています。
与謝野晶子の子供は12人
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与謝野晶子は与謝野鉄幹の間に、長男の光を筆頭に、6男6女という12人の子供に恵まれました。
22歳で結婚して40歳になるまでほぼ毎年出産していたので、子育ての期間は30年にも渡ったことになります。
次男の与謝野秀は、東京帝国大学を卒業し外務省に入省。1964年に開催された東京オリンピックでは事務長を務めました。
4男を出産したのは渡仏した翌年のこと。現地で出会ったロダンにあやかって「アウギュスト」という名付けられますが、のちに「昱(いく)」と改名しています。
今でもキラキラネームを付けられて苦しんでいる子供は大勢いますが、当時はまだ海外文化も馴染みがない中ですから、やはり日本人らしからぬ突飛な名前では生きにくかったのでしょう。
与謝野晶子の孫も有名人
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与謝野晶子は12人の子供を出産し、孫もたくさん誕生していますが、孫の中には政治家や評論家など著名人が多くいます。
与謝野馨は元財務相
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与謝野 馨(よさの かおる)
生年月日: 1938年8月22日
出身地: 東京都千代田区
最終学歴:東京大学法学部
与謝野馨さんは、与謝野晶子の次男である与謝野秀の長男で、衆議院議員を10期務めた政治家です。
文部大臣や内閣官房副長官、通商産業大臣、内閣特命大臣などを歴任しています。
2012年に咽頭がんを公表。声を失ったことをきっかけに政界を引退しました。
その後の2017年5月24日、78歳で死去したことが発表されたことを受け、日本政府は正三位に叙することが決定されました。
建築家や評論家や金融など多彩な職業
その他の著名な孫には、建築家の與謝野久(よさのひさし)さん、評論家の与謝野文子(よさのふみこ)さんらがいます。
そして、金融界で注目を集めるのが与謝野馨さんの甥にあたる与謝野達(よさのとおる)さんです。
東京大学を卒業後、国際協力銀行に入行し、その後は欧州復興開発銀行や野村證券を経て、デクシア銀行でスペシャリストアドヴァイザーに就任しています。
与謝野晶子の子孫
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大阪府堺市に設置された与謝野晶子の銅像
与謝野晶子の子供と孫以降の子孫にも目を向けてみましょう。
孫の子供は曾孫ということになり、曾孫世代は現在40代くらいだと思われますので、結婚して子供がいれば玄孫まで存在しているはずです。
曾孫世代でお名前が分かっているのは、政治家・与謝野馨さんには優さん、稔さんという息子が2人います。
長男の優さんは三菱商事に勤務している商社マンのようです。次男に関しては残念ながら経歴や職業の情報が見つかりませんでした。
そして、与謝野達さんの息子である与謝野信(まこと)さんは、2017年2月に行われた東京都千代田区の区長選挙に出馬したのですが、残念ながら落選。
2021年10月に自身のブログを更新し、今後は政治活動は行わないことを発表しています。なお、落選後はドイツ証券に勤務しているようです。
与謝野信さんはもともと外資系の金融機関で活躍していたので、就職先は引く手あまただったのではないでしょうか。
どちらにせよ、与謝野晶子の曾孫にあたる人物も、国際的に活躍しているということになりそうですね。
与謝野晶子の晩年① 源氏物語の現代語訳に没頭
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歌人や作家として精力的に活動していた与謝野晶子。ここからは、晩年のエピソードを紹介します。
12歳の時、父親が収集していた源氏物語を読んで感銘を受けた与謝野晶子は、その後も個人的に紫式部や源氏物語を研究してきました。
そして34歳の頃に、源氏物語の現代語訳版に取り組みます。
しかし当時は、旦那のフランス留学のための資金調達を目的とした執筆だったこともあり、与謝野晶子自身が到底納得のいく出来ではなかったそうです。
その後、再び取り組み始め、大半を作り上げていた1923年、関東大震災に見舞われます。大規模な火災が発生し、命に別状はなかったものの、原稿は灰になってしまいました。
そして54歳の時に、今度こそ源氏物語の現代語訳を完成させると決意をしています。
脳溢血に見舞われた
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年齢を重ねると、人間誰しも様々な病気と直面する可能性が高くなります。
50代半ばになっていた与謝野晶子も、源氏物語の現代語訳執筆中に心臓を悪くして静養を余儀なくされるなど、体調は万全ではありませんでした。
さらに1935年には、最愛の旦那である与謝野鉄幹が死去。精神的なショックから、与謝野晶子は一時原稿を書くことができないほど落ち込んだようです。
夫の死からどうにか立ち直り、源氏物語と向き合う日々を再開した与謝野晶子でしたが、1937年3月に脳溢血で倒れています。
幸い症状は軽く、自身を奮い立たせて、とうとう1939年に全ての執筆を終えました。
与謝野晶子の死因は狭心症と尿毒症
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源氏物語の現代語訳を終えたことでホッとしたのでしょうか、与謝野晶子はそれ以降、急速に体力が衰えていき、1940年に2度目の脳溢血の発作で倒れています。
これにより右半身不随になり、1942年1月に意識不明の状態に陥りました。
さらに同年5月には、狭心症と尿毒症を併発するなど、次々に病魔に襲われていたようです。
そして第二次世界大戦で日本の敗戦が色濃くなっていた1942年12月7日、自宅である東京都杉並区荻窪の自宅で死去。享年63歳でした。
直接の死因は、狭心症発症による尿毒症でした。
与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか?が話題に
与謝野晶子が死去したのが1942年ですので、2022年現在、80年以上の年月が経過しています。
しかしなぜか近年、プロレスラーの力道山と与謝野晶子の関係が話題なんです。
力道山との噂の内容や、囁かれるきっかけについても紹介します。
大手掲示板のコラ画像だった
出典:http://doujinsokuhou45.com/
プロレスラーの力道山と与謝野晶子の年齢差は46歳です。お互いに生きた時代が異なりますし、もちろん親族でもありません。
力道山と与謝野晶子の噂を調査したところ、大手掲示板でなぜか与謝野晶子のコラ画像が沢山作られていて、力道山の体と与謝野晶子の顔を繋げたコラ画像もあることがわかりました。
コラ画像のテキストには「与謝野晶子はなぜ力道山を殺さなかったのか」とあり、これが噂の出所のようです。
なお、このコラ画像の元ネタは、『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』という小説家・増田俊也さんの著書です。
YouTubeでは、コラ画像を紹介する動画まで作られていますので、興味のある方はネットで探してみてくださいね。
まとめ
与謝野晶子は、明治から昭和を駆け抜けた女流歌人です。
大阪府堺市で生まれ育ち、子供の頃から父親が収集した古典文学を読んで育ちました。
20歳頃から、和歌を雑誌に投稿するようになり、『明星』の創刊者だった与謝野鉄幹に見出されて、一躍スター歌人となったのです。
そして当時既婚者だった与謝野鉄幹と不倫愛の末、1901年に結婚。12人の子供に恵まれました。
晩年は源氏物語の現代語訳に力を注ぎ、2度の脳出血を経て1942年に5月29日に死去。発表されている直接の死因は、狭心症による尿毒症とのことです。
与謝野晶子が亡くなって80年以上経った現在も、子供から孫、孫から曾孫と子孫はつながっており、政治家や評論家など様々な場所で活躍しています。
近年は大手掲示板で与謝野晶子のコラ画像が多数アップされ、なぜか力道山との関係が取り沙汰されるなど、まったく別方面でも注目を集めています。
与謝野晶子に興味が湧いた方は、ぜひ与謝野晶子が遺した作品を手に取ってみてはいかがでしょうか。