ベストセラー「本能寺の変 四二七年目の真実」で大胆な説を打ち出した歴史研究者・明智憲三郎氏が話題です。
今回は明智憲三郎氏の本能寺の変の新説、胡散臭いとの批判など評判、明智光秀の子孫説が嘘と言われる理由も紹介します。
この記事の目次
明智憲三郎とは 【明智光秀の子孫?】
明智憲三郎氏は、織田信長の重臣・明智光秀の末裔を自称する歴史研究家で作家です。
明智憲三郎氏は、「本能寺の変」のこれまでの定説である、明智光秀が恨みや野望によって信長を殺害したとする説を根本から全て覆す、「本能寺の変 四二七年目の真実」を2009年に発表。
自身の徹底的な調査(明智憲三郎氏は歴史捜査と呼んでいる)によって炙り出された、本能寺の変の全く新しい「真実」を提唱し話題を集めました。
明智憲三郎氏は、自身を明智光秀の子供・於隺丸(おづるまる)の子孫であると主張しています。
明智憲三郎氏の明智家は、主殺しをした明智光秀の子孫だと明かす事は危険だったため、ずっと明智光秀の子孫である事を隠して「明田姓」を名乗っていたそうです。
しかし、明治時代になっていた曽祖父の代に、先祖伝来の資料(明智の末裔である証拠品)と共に当時の内務省に復姓願を提出し、明智姓に戻ったそうです。
先祖・明智光秀について研究した理由とは
出典:https://www.tama-tsukuri.info
明智光秀と言えば、現在では2020年の大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公に選ばれるなど、文武両道の優秀な戦国武将として人気を急上昇させています。
しかしながら、かなり近年まで明智光秀は、主君である織田信長を裏切り殺害した愚かな武将というイメージが強く持たれていました。
そのため、明智憲三郎氏も20代の頃までは、自身が明智光秀の子孫である事にあまり良いイメージを持っていなかったのだそうです。
しかしある日、これまで定説とされてきた本能寺の変にまつわる、明智光秀のネガティブなエピソードのほとんどが全てが信ぴょう性の低いエピソードばかりである事を知ったのだそうです。
ほとんどが明智光秀を討ってその後天下を獲った豊臣秀吉によって捏造されたもので、それを元にして書かれた江戸時代の軍記物などによって流布された話が多いのだとか。
明智憲三郎氏は、それなら何故明智光秀は本能寺の変を起こしたのか?と疑問を抱き、以降これまでに書かれた本能寺の変に関する研究本や史料を徹底的に研究し、真実を追及しました。
そして、その中で明智憲三郎氏は、これまでの定説とは全く異なる本能寺の変の「真実」に辿り着いたのだそうです。
その真実を少しでも多くの人に知ってもらいたいと熱望した明智憲三郎氏は、これまでの研究成果をまとめ、2009年に「本能寺の変 四二七年目の真実」として発表したという事でした。
明智憲三郎著「本能寺の変 四二七年目の真実」の内容とは?
まずは、そんな明智憲三郎氏が発表した「本能寺の変 四二七年目の真実」の内容について、簡単に紹介していきます。
前述の通り、明智光秀が主君の織田信長に反逆し殺害に及んだ「本能寺の変」のこれまでの定説に真っ向から覆す、全く新しい「真実」を提唱した歴史捜査ドキュメントとも言える作品です。
これまでの定説では、明智光秀が織田信長に強い恨みを抱き、本能寺に宿泊する織田信長の隙を見て突発的に殺害した説や、明智光秀が天下取りを狙って織田信長を殺害した説が主流でした。
しかし本著では、武家の棟梁(リーダー)として一族郎党(家族や親戚、昔からの家来)に責任があった明智光秀が、単純な恨みや欲望のみでリスキーな行動を起こすはずないとしています。
そして、もっと辻褄の合う本当の理由があったのではないか?という仮説からスタートしています。
明智憲三郎氏はこの仮説に基づき、本能寺の変に関連する膨大な史料を洗い直して、新たな説を提唱しました。
当時、織田信長は天下統一の最終段階として、明智光秀と親密な関係(信長とよりも古くからの関係だったとされる)にあった四国の大名・長宗我部氏への攻撃準備を進めていました。
そこでまず明智憲三郎氏は、明智光秀はこの盟友である長宗我部氏を守るために、信長の四国侵攻を阻止しようと本能寺の変を起こしたと仮説を立てます。
そして、光秀の反乱への動機をさらに強めたのは、織田信長が天下統一を果たした暁には、その後に「唐入り(中国大陸侵攻)」を計画していたからだと論じています。
明智光秀は本能寺の変の直前まで、織田信長の腹心として重用されていました。
しかし当時、織田信長は組織の大胆な改革を断行しており、外様の有力武将達を地方へと移封(領地換え)し、近畿地方や織田家の本領の尾張や美濃を織田一族で固めようとしていました。
光秀は近江(滋賀県)の坂本や丹波(京都・兵庫)に所領を与えられていましたが、信長が唐入りを成功させれば、新参の外様武将である自分は中国大陸へと移封されると考えたと推測。
そして、そうなる前に織田信長の天下統一を阻止すべく、謀反(反乱)を計画したのではないか?という仮説を明智憲三郎氏は提唱したのです。
さらに、明智光秀は当時すでに高齢で、嫡男の明智光慶は10代前半の若輩でした。
光秀は自分の死後に明智家が遠い中国大陸に移封されれば、若輩の嫡男では明智家を守る事は難しいと考え、リスクを冒してでも本能寺の変に踏み切ったのでは?という仮説も示しています。
また、明智憲三郎氏は、明智光秀はこの時、本能寺に呼び寄せた徳川家康を殺害する事を織田信長に命じられていたとも推測しています。
明智光秀はこの状況を利用して、徳川家康に反乱の共謀を持ちかけ、謀反を成功させようとしたという大胆な仮説も展開しています。
明智健三郎著「本能寺の変 四二七年目の真実」の評判は?
友人から借りた明智光秀の子孫・明智憲三郎氏が書いた「本能寺の変 四二七年目の真実(プレジデント社)」まだ読んでいる途中ですが、幕末と並んで戦国時代ものが好きな僕にとってはかなり面白いです。歴史好きの方にはお薦めです! pic.twitter.com/1R4wjg9x
— 杉本篤彦 (@sugimoto_a) June 4, 2012
上で書いた内容は、この「本能寺の変 四二七年目の真実」で論じられた本能寺の変に対する説明のほんの一部にすぎません。
この書籍では明智憲三郎氏によって洗い直された、膨大な資料に基づく証拠が次々と示され、その仮説に説得力を与えています。
それはこれまでの本能寺の変に関する定説を大きく覆す内容であり、多くの戦国時代ファンに驚きを与えました。
結果、「本能寺の変 四二七年目の真実」は40万部を突破する大ヒット作となり、多くの歴史ファンの間で高い評判を獲得した事を示しています。
しかし、この明智憲三郎氏の説は多くの歴史学者からはあまり評価されておらず、多数の批判が噴出しています。
明智憲三郎著「本能寺の変 四二七年目の真実」は胡散臭いとの批判も
明智憲三郎氏は「本能寺の変 四二七年目の真実」をはじめ、「光秀からの遺言」「本能寺の変は変だ!」などの明智光秀に関する定説を真っ向から覆す書籍を次々と発表しています。
ですが、こうした書籍で発表された内容「明智憲三郎説」は従来の多くの歴史学者から「胡散臭い」といった批判を集めてしまっているようです。
歴史学者・小和田哲男氏
戦国史研究の第1人者とも言われる歴史学者・小和田哲男氏は、自著の中で明智憲三郎説に対して否定的な見解を示しています。
明智憲三郎氏が唱える「一族の滅亡を阻止するため」と「織田信長は本能寺に徳川家康を呼び寄せて暗殺する計画を立てていた」という仮説を、「それはあり得ない」と完全否定しています。
歴史学者・呉座勇一氏
「応仁の乱」で47万部の大ベストセラーを放った歴史学者の呉座勇一氏は、2018年3月の新作「陰謀の日本中世史」で、明智憲三郎説全体を「到底従えない」と完全に否定しています。
また、呉座勇一氏は「陰謀の日本中世史」に関するインタビューの中で、以下のように発言しています。
ところが明智氏は「光秀がこれを知ってしまった、としたらどうでしょうか」と仮定してしまう。しかも、この想像をあたかも事実であるかのように前提として、推測を重ねていきます。このように明智説は、史料を並べてもっともらしく語っていますが、肝心なところはファクトではなく、憶測に依拠しているのです。
明智憲三郎氏は肝心な点は憶測で書いている、として呉座勇一氏は明智憲三郎説を「本能寺の変に関して蔓延する陰謀論の1つ」で「トンデモ論」だと切り捨てています。
また、呉座勇一氏は、その他にも明智憲三郎氏の説で、以下の点で疑問を投げかけています。
まず、明智憲三郎氏の「織田信長が同盟相手の徳川家康を暗殺しようとした」との説に関して、まだ多くの敵対勢力が残っている段階で盟友の家康を殺害するデメリットが大きすぎると指摘。
また、明智憲三郎氏がその根拠として挙げた「明智軍の兵士が『京都に向かうのは徳川家康を殺害するため』だと噂していたという記録が残っている」に対しても、反論しています。
その時京都に滞在している有力武将が家康だけだったのだから、兵士達がそれを疑ったのは必然だと指摘し、よってこの説は「何ら史料的な根拠のない空論」だと断じています。
「本能寺の変は、明智光秀と徳川家康が共謀したものである」という説に関しては、明智光秀と徳川家康が信長の監視下にある場所で2人だけで会う事自体がリスキーで不可能に近いと指摘。
仮に明智光秀が家康に謀反計画を持ちかけたとしても、家康がそれを信じるとは到底思えず、家康に謀反を伝えた時点で計画が漏洩する危険が非常に高まるなどの矛盾点を指摘しています。
さらに、「明智光秀が謀反を成功に導くために、徳川家康を味方に組み入れた」とする説に対しても反論。
そもそも東の地には上杉氏や北条氏など有力大名が未だ健在で、そんな事せずとも織田軍主力が明智軍に対応する余力はなく、明智光秀が家康を味方にするメリットがないと指摘しています。
明智憲三郎の「明智光秀の子孫説」がそもそも嘘?
出典:https://www.nikkansports.com
明智憲三郎氏は、明智光秀の子供・於隺丸(おづるまる)の子孫であると自称しています。
しかし、前述の歴史学者・小和田哲男氏は「於隺丸という子ども自体、よくわからない」と、そもそも明智憲三郎氏が本当に明智光秀の子孫なのかも疑わしいとの見解を示しました。
こうした指摘もあり、明智憲三郎氏が明智光秀の子孫という話自体が嘘なのではないか?という声も挙がっているようです。
明治時代、明智憲三郎氏の曽祖父にあたる人物が、明田姓を名乗っていたのを、当時の内務省に復姓願を提出して明智姓に明田姓から明智姓に戻った事は既に紹介しました。
これは、当時の郵便報知新聞新聞が報じているため、この復姓自体は紛れのない真実でしょう。
とは言え、この復姓の事実が明田姓を名乗ってきた明智憲三郎氏の一族が、本当に明智光秀の子孫であるという事を証明する事にはなりません。
明智憲三郎氏の曽祖父が復姓願と共に内務省に提出したという先祖伝来の資料が、証拠になるのかどうかについても、肝心のその資料自体が公開されていないため判断する事が出来ません。
したがって、明智憲三郎氏が主張する、明智光秀の子孫であるという説を頭から信用する事も難しいというのが実情だと言えます。
まとめ
「本能寺の変 四二七年目の真実」で、戦国最大のミステリー「本能寺の変」に関する大胆な新説を打ち立てた歴史研究者で作家の明智憲三郎氏についてまとめてみました。
明智憲三郎氏は「本能寺の変」のこれまでの定説、明智光秀が織田信長に恨みを抱いて反逆したという「怨恨説」や、明智光秀が天下簒奪の野望を抱いたとする「野望説」を否定しました。
そして、膨大な資料の洗い出し(歴史捜査)によってたどり着いた、全く新しい「本能寺の変の真実」を提唱しました。
その説は、明智光秀が明智一族の滅亡を回避するために、織田信長の天下統一を阻止する必要があったとの大胆な仮説で、その根拠となる数々の証拠を挙げていくという方法で示されました。
この大胆な「明智憲三郎説」は多くの歴史ファンを驚かせ、「本能寺の変 四二七年目の真実」は40万部を超える大ヒットを記録します。
しかし、従来の歴史学者達の多くはこの「明智憲三郎説」に、多くの疑問点や矛盾点があると指摘しており、多数の批判的意見が出ています。
確かに、明智憲三郎氏の説には怪しい点も見受けられるように感じます。
とは言え、こうしたロマン溢れる新説が、多くの戦国史ファンを大いに楽しませている事は事実です。
今後も、明智憲三郎氏には大胆な新説を打ち立てて定説に挑み続けて欲しいと思います。