一万円札の肖像画や慶應義塾大学の創設などで知られる福沢諭吉ですが、現在の日本との韓国の関係を予言したと話題です。
今回は福沢諭吉の出身地や経歴、大学創立など功績の数々、死因や名言、子孫などをまとめてみました。
この記事の目次
福沢諭吉のプロフィール~出身地や生い立ちなど経歴を紹介
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誕生から少年時代
福沢諭吉は、1835年1月10日(旧暦の天保5年12月12日)に大阪堂島の豊前中津藩蔵屋敷・藩士長屋にて誕生しました。
父は、豊前中津藩の下級藩士・福澤百助で当時42歳、母はお順(於順)といい当時30歳でした。
兄に長男の三之助、姉が上から礼、婉(えん)、鐘の3姉妹で、福沢諭吉を入れて2男3女の兄妹の中に育ちました。
福沢諭吉が生まれて2年後、父の百助が脳溢血で急逝します。
残された母子は豊前(大分県)中津の屋敷へと戻り、程なくして母の実家の橋本家で暮らす事になり、それから19歳までをここで過ごしています。
意外なのですが、福沢諭吉が学問を始めたのは、14歳から15歳の頃と言われています。
福沢諭吉は幼少期に父を亡くし貧しかったために、塾に通う余裕がなかったためとも、幼少期の福沢諭吉は勉学が嫌いだったためとも言われています。
しかし、いざ勉学を始めてみると福沢諭吉は学問の才能を示し、次々と漢書を読み漁ったそうです。
18歳になると、儒学者の白井照山の塾・晩香堂へ通うようになり、「論語」や「孟子」などの数々の漢籍を修め、すぐに頭角を現して先輩を凌ぐようになりました。
本人の自伝によれば、この頃には「漢学者の前座くらい」の実力を身につけていたそうです。
また、勉学のかたわら5歳から学んでいた剣術や武術の修行にも熱心に取り組み、同時期に立身新流の居合術を習得したといいます。
長崎遊学で蘭学を学ぶ
1854年(安政元年)19歳になった福沢諭吉は、兄の勧めもあって、長崎へと遊学します。
長崎では最初、中津藩家老の息子・奥平壱岐の元に住み、それから長崎の地役人で砲術家でもあった、山本物次郎という人物の家に居候しながら蘭学(西洋学問)を学びました。
この山本物次郎という人物は目を患っていたそうで、福沢諭吉は成り代わって、山本家の家事労働をこなし、砲術書などの書物を代読し、借用や来客の対応までもこなしました。
のちに山本家から養子に請われるほど、気に入られたそうです。
そうした多忙な暮らしの中で、福沢諭吉は暇を惜しんで蘭学を学び、1年後にはオランダ語の原書を読みこなし、鉄砲の設計図を書けるほどにまでなったと言います。
長崎を飛び出し大阪へ「緒方洪庵塾」で学ぶ
1855年(安政2年)、福沢諭吉は、家老の息子・奥平壱岐との関係が悪化したため、長崎を飛び出し、兄が奉公する大阪を目指します。
中津藩から脱藩する覚悟で兄の元に着いた福沢諭吉でしたが、流石に脱藩は兄に止められ、兄の紹介という形で、高名な蘭学者・緒方洪庵の塾に通う事になります。
福沢諭吉はこの時の師・緒方洪庵を自伝の中で「実父同様の緒方先生」と書くなど、非常に慕っていたようです。
1856年(安政3年)兄が亡くなり、福沢諭吉は福沢家の家督を継ぐ事になります。
ですが、家督を継ぐという事は中津藩士として藩の仕事を勤めなければならない事を意味し、これまでのように勉学に励む事は難しくなってしまいます。
そこで、福沢諭吉は蘭学の道を諦めきれず、父の残した遺産を売り払って福沢家の年収4年分とも言われる多額の借金を整理します。
そして、親族の反対を押し切って大阪に戻り、緒方洪庵塾へと戻り蘭学を学び続け、1857年(安政4年)には、塾生最年少の22歳で塾頭となるなど、その才能を示しました。
蘭学教師として江戸出仕
1858年(安政5年)、中津藩の江戸藩邸より23歳になっていた福沢諭吉への突然の呼び出し命令が下されます。
藩士達に洋式砲術を教える蘭学教師をせよとの命令でした。
これは福沢諭吉にとって思いがけなかったようで、家老の息子と揉めて一時は脱藩まで考えた自分を藩が評価してくれるとは思わず、喜び勇んで江戸への出仕命令に応じたと言われます。
1859年(安政6年)、開港したばかりの横浜へと遊びに出た福沢諭吉は、そこでは外国人が英語ばかりを話しており、自身の学んだオランダ語がほとんど通じない事に愕然とします。
これに危機感を覚えた福沢諭吉は、英蘭辞書を用いて英語の独学を始め、これをきっかけにして福沢諭吉は英学も学んでいく事になります。
日米修好通商条約の使節団護衛として渡米
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1860年(安政7年)、福沢諭吉は、日米修好通商条約に関係する渡米使節団の護衛船「咸臨丸」の軍艦奉行・木村摂津守の従者の1人としてアメリカへと渡ります。
アメリカ・サンフランシスコにしばらく滞在した福沢諭吉は、アメリカの文化に大きな衝撃を受けたようです。
ここで福沢諭吉は、「ウェブスター大辞書」を購入して日本に持ち帰っています。
幕臣に出世して結婚
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アメリカから帰った福沢諭吉を、渡米経験を持つ語学堪能の者として高く評価した幕府外国方は、外交文書の翻訳者として雇っています。これは福沢諭吉にとって大きな出世だと言えます。
この出世もあり、福沢諭吉は1861年(文久元年)300石の扶持(給料)を受ける中津藩士・土岐太郎八の次女・お錦との縁談が持ち上がり、結婚します。
福沢家は中津藩の中では下級武士であり、300石の扶持を持つれっきとした武士の家との縁談は異例でした。それだけ、福沢諭吉が中津藩で高く評価されていた事を示していると言えます。
文久遣欧使節の翻訳方として渡欧
1862年1月20日(文久2年1月1日)、福沢諭吉は文久遣欧使節の翻訳方として、欧州各国へと派遣されます。
途中、当時イギリスの植民地だった香港へと立ち寄るのですが、この時のことを福沢諭吉は「香港の人は風俗が極めて卑しく、英国人に奴隷のように使われるのみ」との感想を述べています。
福沢諭吉はその他にもイギリスの植民地であったシンガポールなどにも立ち寄り、当時の欧米列強による植民地支配の実態を肌で感じ、強い関心と危機感を持ったようです。
福沢諭吉はこの渡欧で6カ国の都市を周り、それぞれひと月ほど滞在し、蒸気機関や電気に触れるなど、様々な見識を得たようです。
また、幕府からの支度金400両を使い、物理書や地理書などを買い込んで日本へと持ち帰っています。
幕府が崩壊し平民となる
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1863年1月30日(文久2年12月11日)、欧州から帰国した福沢諭吉は幕臣として忠勤に励み、1864年(元治元年)に幕府の直参の「御旗本」に取り立てられるという大出世を遂げます。
しかしその後の1867年12月9日、朝廷は「王政復古」を宣言し、翌1868年に江戸城は開場、福沢諭吉が忠勤に励んだ幕府はついに崩壊してしまうのです。
福沢諭吉は新政府から何度も出仕を要請されますが、これを頑なに固辞して平民となり、以降福沢諭吉は一度も政府の官職には就きませんでした。
その後、平民となった福沢諭吉は、数々の偉大な功績を残すことになります。次からは、福沢諭吉の残した偉大な功績の数々を紹介します。
福沢諭吉の偉大な功績① 慶應義塾大学の元となる蘭学塾を創設
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福沢諭吉が現在の慶應義塾大学の創始者である事は有名ですが、その元となったのは、福沢諭吉がまだ中津藩士だった頃の1858年(安政5年)に藩令で塾長を務めた蘭学塾「一小家塾」です。
1868年、幕府が崩壊し平民となった福沢諭吉は、この蘭学塾に「慶應義塾」という名前をつけ、各地の藩から大量の藩士を受け入れ、しばらくの間教育に専念します。
そして、九鬼隆一や白根専一をはじめとする、慶應義塾で学んだ優秀な塾生を政府の省庁へ官僚として送り込んでいます。彼らは国政に関わり続け、新しい日本を作っていく礎となりました。
現在の慶應義塾大学は、東京都港区三田に所在していますが、これは明治3年に、福沢諭吉が旧島原藩中屋敷の土地を買い取り、慶應義塾を移転した事に由来しています。
福沢諭吉はこの慶應義塾の経営に情熱を注ぎ、初期の頃は経営難に陥りながらもこれを維持し続けました。
これが、現在の慶應義塾大学をはじめとする、全ての系列校の元となっているのです。
実は福沢諭吉は、慶應義塾大学以外にも「専修大学」や「一橋大学」など、現在に残る多くの名門大学の創立に関わっています。
福沢諭吉は、教育者としてあまりにも偉大な功績を残した人物なのです。
福沢諭吉の偉大な功績② 「学問のすゝめ」で日本国民の意識を改革
福沢諭吉は数々の名著を残していますが、その中で圧倒的な知名度を持つのが「学問のすゝめ」でしょう。
「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の一節があまりにも有名な「学問のすゝめ」は、1872年に初編が出版され、それから1876年までに全17編が出版されています。
福沢諭吉はこの中で、中世以来の封建的社会と儒教思想しか知らなかった当時の民衆に向けて、欧米の近代的思想「民主主義」の概念を論じて啓蒙し、民主主義の主権者たる自覚ある「市民」への意識改革を目指しました。
また、人の人生は「身分」で決まるものでは無く、その人がどれだけ「学問」を身につけたかで決まるとも説いており、いわゆる自己啓発本です。
現在では当たり前のように感じる「努力すれば幸せになれる」という感覚は、福沢諭吉が「学問のすゝめ」によって世に出すまでは、一般の民衆にとっては考えすらもしない事でした。
そんな「学問のすゝめ」は、民衆にも読みやすいように安易な文章で書かれ、その内容は希望に満ちていました。
当時の一般民衆に熱狂的に受け入れられ、総計では300万部以上も売れたと言われており、これは当時の人口の10人に1人が購読していたという計算になります。
貸し借りなども考慮すれば、当時のかなりの割合の日本人が「学問のすゝめ」を読み、新たな時代に向けて大きく意識を改革させたと考えられます。
福沢諭吉は一冊の本によって、世の中の価値観そのものを大きく変えたのです。
福沢諭吉の偉大な功績③ 男女同等論をいち早く国内に紹介
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福沢諭吉は明治維新の折、いち早く欧米諸国の新しい考え方である「女性解放思想(フェミニズム)」を国内に紹介しました。
福沢諭吉は「一夫多妻制」や、女性が男性より下に扱われている当時の社会常識を批判。
さらに、女性にも自由が与えられなくてはならないと説き、女性も男性と同等で教育を受ける権利を与えねばならないと主張しています。
その後も、日本や世界中において男性優位社会が根強く残っている事を考えても、この時代に男女平等を説いた福沢諭吉の先駆性は素晴らしいと言えるでしょう。
福沢諭吉の偉大な功績④ 銀行システムを紹介し日本銀行設立にも尽力
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福沢諭吉は、著書「民間経済録」の中で、銀行のシステムを初めて国内に紹介しています。
「大丈夫と呼ばるる人物が発起して一社を設立し、あまねく世人の手にありて余るその金を一所に集めて以(もっ)て商工の便利を達す。之(これ)を銀行という」
引用:福沢諭吉「民間経済録」
福沢諭吉は日本の中央銀行である「日本銀行」の設立にも尽力し、現在の銀行制度の生みの親の1人とも評されています。
福沢諭吉の偉大な功績⑤ 近代的な保険制度も紹介
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福沢諭吉は1867年(慶応3年)に、自著「西洋旅案内」にて、ヨーロッパの近代的な保険制度を国内に紹介しています。
著書の中で「生命保険」「火災保険」「海上保険」の3つの保険制度を、「災難請合の事-インスアランス-」という言葉で説明しています。
これが発端となって、1881年(明治14年)に福沢諭吉の弟子である阿部泰蔵が、日本初の生命保険会社である「有限明治生命保険会社」を設立します。
この日本最古の生命保険会社は、「明治安田生命保険相互会社」として現在も残っています。
福沢諭吉の最期・死因とは?
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以上のように数々の偉業を残してきた福沢諭吉は、1898年(明治31年)の9月26日に脳出血で倒れ生死の境を彷徨いますが、この時は回復しています。
1899年(明治32年)の8月8日に、再び脳出血で倒れ意識不明に陥るものの、1時間後に回復しています。
そして、1901年(明治34年)の1月25日に脳出血で倒れ、同年2月3日に再出血し、午後10時50分頃に死去したとされます。
死因は「脳出血」ですが、医学博士の土屋雅春は、福沢諭吉が晩年、健康のためといって「居合」の稽古に明け暮れていたことを挙げ、死因の1つは「居合のやりすぎ」と指摘しています。
ちなみに、福沢諭吉はの居合の稽古は1日1000本以上だったとも言われています。
福沢諭吉は現在の日本と韓国の問題を予言していた?
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現在の日本につながる、様々な功績を残した福沢諭吉には、「先見の明」があったと言われています。
実は「脱亜論」という題がつけられた評論文の中で、現在の日本と韓国の関係のこじれを予測するような考え方を発表しています。
「脱亜論」は1885年(明治18年)の3月16日に、当時の日刊新聞「時事新報」の社説として、初めて掲載されました。最初「脱亜論」は無署名で掲載されていました。
誰が書いた評論なのか不明だったものの、1933年(昭和8年)に出版された「続福澤全集」に「脱亜論」が掲載されたため、福沢諭吉が書いた可能性が高いと言われるようになります。
「脱亜論」の中で、福沢諭吉は何故近隣のアジア諸国の中で日本だけが文明化に成功したのかについて、それは旧態依然とした体制(幕府)を破壊したからだと説明しています。
近隣の諸国である清(原文では「支那」)や朝鮮の政府は、現在でも専制政治を続けており、法律を重んじず、士人は古い考え方に惑わされており、科学的な思考ができないと指摘します。
さらに、清(支那)人が恥知らずで卑屈な人間だと欧米人が知れば、日本人も同様に見なされる恐れがあると警告しています。
そのため、悪友とつるむ者は悪友とみなされるから、私の心の中においては、こうした「悪友」たる隣国(支那と朝鮮)とは交友関係を断ちたいと考えている、と締めくくっています。
そして、「脱亜論」の発表から約10年後の1897年(明治30年)に福沢諭吉は「時事新報」にて以下の言葉を発表したとされます。
左れば斯る国人に対して如何なる約束を結ぶも、背信違約は彼等の持前にして毫も意に介することなし。既に従来の国交際上にも屡ば実験したる所なれば、朝鮮人を相手の約束ならば最初より無効のものと覚悟して、事実上に自ら実を収むるの外なきのみ
朝鮮人は約束をなんとも思っていないため、朝鮮人相手の約束は最初から無効であると覚悟せよ、と書いているようです。
2015年、日韓両国は「慰安婦問題」は不可逆的に解決したと正式に合意していますが、わずか2年後の2017年に韓国政府はこの合意を一方的に破棄してしまいます。
韓国政府の約束を約束とも思わないこの非常識な行動を受け、「脱亜論」や時事新報の文章がネットで紹介されると「福沢諭吉は現在の日韓関係を予言していた」と驚きの声が挙がりました。
福沢諭吉の名言集
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続いては、福沢諭吉の残した名言の数々を紹介します。
進まざる者は必ず退き、退かざる者は必ず進む。
「学問のすゝめ」に書かれている名言です。進まない者は必ず退いてしまうもので、退かない者は必ず進んでいる者だとし、実際に行動する事がいかに大切かを説いている言葉です。
努力は、「天命」さえも変える。
こちらも「学問のすゝめ」の中の一節。「天命(運命)」すらも努力によって変えられる事を力強く訴えています。
「身分」によって人生を決められていた大衆の古い考え方を破壊するために書かれた、希望に溢れた名言です。
人間は、負けるとわかっていても、戦わねばならない時がある。だから、たとえ勝っても負けても、男子は男子なり。勝負をもって人物を評するなかれ。
人生の中には、負けると分かっていても戦わねばならない場面があるのだから、男の価値を勝負の勝ち負けで判断してはいけないという名言です。
勝負に挑む勇気自体にこそ価値がある、と言っているようにも感じられます。
今日も、生涯の一日なり。
1日1日を、人生の中の大切な1日だという事をしっかりと意識して生きなさいと諭されているようです。
毎日を全力で生きようという気持ちになれる名言です。
未だ試みずして、先ず疑うものは、勇者ではない。
やっても見ないうちから、どうせできはしないと疑いの念を持つのは、勇者とは言えないと断じています。この言葉も、行動する事の大切さを説いた名言です。
学問の本趣意は、読書に非ず。精神の働きに在り。
学問は本を読む事自体が重要なわけではない、読書をして考えるその精神の働きこそが学問の本質であると説いています。
空想はすなわち実行の原案
何かを成し遂げるために、まずは夢を抱けと言っているように思います。強く願う事によって人は必ず行動する事が出来ると説いているのでしょう。
難(かた)きを見て為(な)さざるは、丈夫の志に非ず。
難しいからと言って挑戦を諦めてしまうのは男の志ではない、という意味の名言です。
福沢諭吉は人々の闘志に火を点ける名言を数多く残しています。
福沢諭吉の子孫である有名人3人を紹介
実は、福沢諭吉の子孫には有名人が大勢います。ここでは、近年から現在にかけて活躍する福沢諭吉の子孫達を紹介します。
NHKアナウンサー・片山千恵子
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NHKの美人アナウンサー・片山千恵子さんは、母方の先祖が福沢諭吉です。
自分が何代目の子孫かは不明と語っていますが、「スポーツ報知」によれば「福沢諭吉の玄孫(5世)」という事です。
周囲から「一万円札の福沢諭吉の肖像に似ている」と言われる事があるのだとか。
テレビドラマ演出家・福澤克雄
「誰にも言えない」「3年B組金八先生」「華麗なる一族」「陸王」「ノーサイドゲーム」など数々のドラマを手がけた、TVディレクター・演出家の福澤克雄さんも福沢諭吉の玄孫です。
幼稚舎から大学までを「慶應義塾」で過ごし、大学は法学部を卒業しています。
小学生時代から大学までずっとラグビーを続け、高校時代には日本代表にも選ばれた有名選手でした。
さすがは、文武両道の福沢諭吉の血を引いているといったところでしょうか。
イケメンカーレーサー・福澤幸雄
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福沢諭吉のひ孫にあたる福澤幸雄さんは、ギリシャ人の母を持つハーフで、第二次世界大戦中の1943年、ヴィシー政権下のフランス・パリで生まれました。
戦争終結後に日本に帰国し、慶應義塾に入学、慶應義塾中等部から慶應義塾高等学校を経て、大学法学部を卒業しています。
学生時代にモータースポーツに出会い、若くしてプロドライバーとして活躍。
しかし1969年2月、レース中の事故により25歳の若さでこの世を去っています。
まとめ
一万円札の肖像や「学問のすゝめ」の著者として知られる福沢諭吉について、まとめてみました。
福沢諭吉は、佐賀藩の下級藩士の家に生まれ、蘭学や英学を学んで自らの才覚で幕臣となり、幕府の外交使節と共に、米国や欧州へと派遣されるなどして経験を積みました。
そうして得た見識をもとにして、これまでの日本には無かった西洋の新しい思想を国内に向けて次々と紹介し、民衆に大きな意識改革をもたらしました。
また、教育者として、人間には誰しも学問をする権利があると提唱し、慶應義塾をはじめとする数々の大学や研究施設などを設立し、現在もそれらの学府は日本の学問の中心を担っています。