土方歳三の最期と死因!高身長イケメン話や写真・刀・子孫・ゴールデンカムイでの活躍まとめ

土方歳三は新撰組の隊士の中でも特に人気の高い存在です。

 

この記事では土方歳三の生涯や高身長イケメンとして女性にモテまくっていたエピソード、現存する写真、愛用の刀、嫁や子供、子孫、最期の様子や死因、人気漫画「ゴールデンカムイ」での活躍などについてまとめした。

土方歳三は江戸末期の幕臣で新撰組副長として知られる歴史上の人物

 

土方歳三のプロフィール

 

生年月日:天保6年5月5日(1835年5月31日)

没年月日:明治2年5月11日(1869年6月20日)

出生地 :武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)

 

土方歳三(ひじかた・としぞう)は、江戸末期から明治はじめにかけて活躍した武士(元の出自は豪農の家柄)で、「新撰組」の副長として人気の高い歴史上の人物です。

 

幕末ファンの間で人気の高い新撰組の面々の中でも、土方歳三は高身長イケメン、剣術家としても戦術家としても一流のハイスペックな人物として知られ、最期まで新政府軍と戦って旧江戸幕府への忠誠を尽くしたという点でも絶大な人気を誇る人物です。

 

 

土方歳三の生い立ち

 

土方歳三は、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)の豪農の家の生まれで、10人兄弟の末っ子でした。

 

父親は土方歳三が生まれる3ヶ月前に、母親も6歳の時に亡くなり、家督を継いだ次兄(長兄は盲目だった)の隼人喜六の妻・なかによって育てられています。

 

最新の史料では、土方歳三は14歳頃に実家を出て江戸に奉公へ行ったとする説が有力とされています。土方歳三の奉公先については「松坂屋いとう呉服店」や「松坂屋上野店の支店の木綿問屋」などの説がありますが、実際にどこに奉公していたのかは判明していません。

 

土方歳三は17歳の頃に、姉のらんの嫁ぎ先で、土方家の兄弟の従兄弟でもある日野宿名主の佐藤彦五郎が庭先で開いていた天然理心流の道場に入門し剣術修行に励みました。

 

この頃、土方歳三は、実家秘伝の薬「石田散薬」(打ち身、捻挫に効く飲み薬)の行商をして各地を回りながら、その道中の剣術道場に他流試合を申し込むなどして腕を磨いたと言われています。

 

佐藤彦五郎の道場には、江戸市中で開かれていた天然理心流の道場「試衛館」から近藤勇が指導に来ており、土方歳三はこの時に近藤勇と出会っています。(「試衛館」は近藤勇の養父が創設した)また、試衛館の内弟子には沖田総司もおり、土方歳三は沖田ともこの頃に親交を結んだようです。

 

その後、土方歳三は25歳になった安政6年3月29日に天然理心流に正式に入門しています。

 

 

新撰組副長として活躍

 

文久3年(1863年)2月の江戸幕府将軍・徳川家茂上洛にあわせて、江戸幕府は将軍警護のための組織「浪士組」の参加者を募りました。

 

土方歳三と近藤勇、沖田総司ら試衛館の8人はこれに応じて、他の参加者らと共に京都へと赴きました。

 

この浪士組の結成を幕府に献策したのは清河八郎という人物でしたが、この清河八郎が浪士組本当の目的は、朝廷に尊皇攘夷の志を申し立てる事だと宣言し、江戸帰還を提案したため、近藤勇らはそれに反発して京都に残留する事を決め「壬生浪士組」が結成されました。当然、土方歳三もこれに加わっています。

 

その後、壬生浪士組は当時の京都守護職で会津藩主の松平容保の傘下に入り、八月十八日の政変後に活躍が認められて「新選組」という名前を賜りました。

 

その後、新見錦、芹沢鴨らが死亡して、近藤勇と土方歳三らの試衛館の一派が新撰組の実権を握り、土方歳三は新撰組の副長に就任しています。

 

新撰組のトップは局長である近藤勇でしたが、実際の指揮命令を発していたのは土方歳三だったと言われています。

 

土方歳三は、元治元年6月5日(1864年7月8日)に起きた池田屋事件でも新撰組の半数を率いて活躍しています。この時の活躍で新撰組の名は天下に轟き、副長である土方歳三の名も知れ渡りました。

 

 

戊辰戦争

 

新撰組の活躍が認められ、慶応3年(1867年)6月に、土方歳三は他の隊士らと共に幕臣(将軍直属の家臣)に取り立てられました。

 

しかし、新撰組の活躍があっても倒幕の流れを止める事は叶わず、土方歳三が幕臣に取り立てられたわずか4ヶ月後のの慶応3年10月14日に、江戸幕府は大政を奉還し、15代将軍徳川慶喜が将軍職を辞し、同年12月9日に王政復古の大号令によって、江戸幕府は事実上の終焉を迎えました。

 

そしてその翌年の1868(明治元)年1月に、新政府軍と旧幕府軍との間で「鳥羽・伏見の戦い」が起こり「戊辰戦争」が始まりました。

 

鳥羽・伏見の戦いでは、土方歳三は負傷した近藤勇に代わって新撰組の指揮を執って奮戦しますが、旧幕府軍は大阪を捨てて江戸まで撤退しました。

 

新撰組は甲陽鎮撫隊に改名して、旧江戸幕府の直轄領(天領)であった甲斐国(現在の山梨県)へと向かい、板垣退助率いる迅衝隊、因幡鳥取藩兵からなる新政府軍と戦って惨敗を喫しています。(甲州勝沼の戦い)

 

この戦いの後の同年4月に近藤勇が新政府軍に捕縛され、4月25日に斬首に処されています。

 

近藤勇捕縛後も土方歳三は新撰組を率いて旧幕府軍の主力と合流して戦い、4月19日の宇都宮城攻城戦では参謀を務めて宇都宮城を落城させています。しかしその後の壬生の戦いには敗れ、宇都宮城も23日に奪還されています。

 

この戦いの中で土方歳三は足に銃弾を受けて戦線離脱を余儀なくされています。その後、会津へと退いた土方歳三は3ヶ月間療養生活を送りました。

 

土方歳三は回復後、同年8月に会津藩藩境の要衝で発生した母成峠の戦いに加わりますが、圧倒的な戦力差(新政府軍が旧幕府軍の約10倍の兵力で装備にも差があった)により大敗を喫します。

 

これによって新政府軍は会津藩領内に殺到し会津戦争が激化、土方歳三らは、会津を離れて仙台へと撤退し榎本武揚率いる旧幕府海軍と合流し、奥羽越列藩同盟の残兵と共に蝦夷地(北海道)へと渡りました。

 

 

蝦夷地でも新政府軍に対して徹底抗戦を続け箱館戦争で戦死

 

慶応4年(1868年)10月、蝦夷地に上陸した土方歳三らは、箱館(現在の北海道函館市)の城塞「五稜郭」へと向かいこれを占領しています。

 

土方歳三はその後、松前城へと進軍してこれを落城させ、敗走した松前藩兵を江差方面まで追撃しています。その後、旧幕府軍勢力は蝦夷地の平定に成功しています。

 

その後、旧幕府軍勢力は幹部を決定するための選挙を行い、榎本武揚を総統とする「蝦夷共和国」が成立して五稜郭を本拠に定めました。土方歳三もこの時、陸軍奉行並の役職に就き、箱館市中取締、陸海軍裁判局頭取も兼務しました。

 

そして、翌年の明治2年(1869年)の4月9日、新政府軍の第一陣約1500名が蝦夷地乙部に上陸を開始し、4月12日には、陸軍参謀・黒田清隆率いる主力2800名も江差へと上陸しました。

 

土方歳三は約300名の兵を率いて、台場山(現在の北斗市)の各所に陣地を築いて新政府軍を迎え撃ちました。4月13日正午過ぎ、約700名の新政府軍が攻撃を開始しますが、土方軍はこれに激しく抗戦し、4月25日までに3度にわたって新政府軍を押し返しています。

 

しかし、4月29日に新政府軍が迂回して退路を断つ動きを見せたため、土方歳三はやむなく撤退を決断して五稜郭へと退きました。

 

明治2年(1869年)5月11日、新政府軍は五稜郭のある箱館への総攻撃を開始しました。

 

この時、要衝の箱館山を島田魁ら新撰組の一隊が守備していましたが、新政府軍の奇襲受けて、弁天台場へと敗走しました。

 

土方歳三は島田魁らが弁天台場で包囲を受けているのを救出するため、僅かな兵を率いて出撃し、箱館市中と五稜郭の間にある箱館一本木関門に本陣を置いて、馬上で指揮を執りましたが、この時に銃撃を受けて落馬し戦死しています。

 

土方歳三の最期については後半で改めて紹介します。

 

 

 

土方歳三の身長

 

出典:https://cdn-ak.f.st-hatena.com/

 

土方歳三の身長は、これまでに発見されている史料などからおおよそ五尺五寸〜八寸(165cm〜174cmほど)だったと言われています。

 

「両雄士伝補遺」には、土方歳三の身長やルックスについての「身長五尺五寸眉目清秀にして頗る美男子たり」記述があります。

 

 

 

 

土方歳三はイケメンで女性にも男性にもモテていたという逸話も多数

 

出典:http://makoto.shinsenhino.com/

 

かなりの高身長だったという土方歳三ですが、ルックスも抜群でイケメンと言われて女性にも男性にもモテていたという逸話が伝承も含めて多数残されています。

 

土方歳三は10代の頃から江戸に奉公に出ていますが、17歳の頃に奉公先の木綿問屋で働いていた年上の女性と恋仲になり妊娠させてしまうという問題を起こし、これが原因で暇を出されて故郷に戻ったというエピソードが伝えられています。ただ、この逸話については最新の研究では事実かどうかが疑問視されています。しかし、こうした逸話が残されているのも、当時から土方歳三がイケメンだと周知されていた事の証拠だと言えそうです。

 

また、土方歳三は京都で新撰組として活躍し始めた頃、京都や大阪の芸妓や舞妓、遊女たちにモテまくっているという内容の手紙を、自身の縁戚で新撰組の支援者でもあった武蔵国の小島鹿之助に宛てて2度も送っています。

 

1度目の手紙には、自分を慕う女性達の名前をずらりと書き並べた挙句に、これでも書ききれないと自慢をした上に、「女性たちのせいで国に尽くす気持ちを忘れてしまいそうだ」という内容の俳句まで添えられています。

 

さらに2度目に送った手紙には、自分がモテている証拠として、自分を慕う女性達からもらったラブレターを「婦人恋文」という冊子にまとめて送る事までしています。

 

残されている晩年の写真を見てもわかりますが、土方歳三は中性的で整った顔立ちをしており、現代人の美的センスで見てもイケメンです。

 

当時の感覚でも土方歳三はかなりのイケメンだったようで、戊辰戦争や箱館戦争で土方歳三と共に戦った武士・榎本武揚は、土方歳三ついて後に「入室伹清風(にゅうしつしょせいふう)」と評しています。これは、土方歳三は部屋に入ってくると、まるで清らかな風が吹くような爽やかな人間だったといった意味になり、そのイケメンぶりを示す証拠としてよく挙げられています。

 

この他にも、土方歳三は若い頃に奉公先の番頭に衆道(男性同士の性的な関係)を迫られたため、奉公先から逃げ出したという逸話も残されるなど、そのイケメンぶりで女性にも男性にもとてもモテていたと言われています。

 

 

 

土方歳三の写真は2種類が現存しており晩年に函館で撮影されたもの

 

出典:https://mag.japaaan.com/

 

イケメンだったと言われている土方歳三ですが、本人の写真が2種類現存しており、そのイケメンなルックスの証拠にもなっています。

 

土方歳三の写真は1枚は上半身をアップで写したものと、もう1枚は洋風の軍服姿で腰をかけた全身を撮影したもので、どちらもよく知られています。

 

現存する土方歳三の写真は共に西洋の軍服姿や同じ髪型である事などから2種類とも同じタイミングで撮影されたものと言われており、戊辰戦争で敗れた後に渡った函館の地で撮られたと言われています。

 

土方歳三は函館にいた写真家に自身の撮影を依頼し、死の直前に小姓を勤めていた市村鉄之助に遺髪とともに託して、日野に住む佐藤彦五郎(姉の嫁ぎ先)に遺品として届けさせたとする記録が残されています。佐藤彦五郎が写真を土方歳三本人と確認しているため、この写真が土方歳三本人を撮影したものである事はまず間違いありません。

 

土方歳三の写真は多くの複製が作られていますが、ほとんどのものは顔立ちをはっきりさせるための修正が加えられています。下の画像の左側がオリジナルの写真、右側の写真は修正が加えられたものです。

 

出典:https://chie-pctr.c.yimg.jp/

 

土方歳三の写真は明治時代にかなりの数が出回っていたようで、中には「土方久元」という全く別人の政治家のブロマイド写真として出回っていたものまで発見されています。

 

なお、土方歳三の写真を撮影したのは、当時、函館で写真館を開いていた紀州出身の田本研造という人物だったと言われています。この田本研造は同時期に榎本武揚の写真も撮影しています。

 

 

 

土方歳三の刀① 和泉守兼定

 

出典:https://img21.shop-pro.jp/

 

土方歳三が愛用していた刀も複数が現存しています。

 

土方歳三が使用していたとされている刀の中で、資料館や博物館などで見られる、ものは三振りあります。

 

土方歳三の愛刀として最も有名なのが「和泉守兼定(いずみのかみ・かねさだ)」という刀で、会津藩お抱えの刀工であった会津11代和泉守兼定の作刀とされています。

 

元治元(1864)年に池田屋事件の戦果を伝えるために近藤勇が故郷日野の佐藤彦五郎に宛てた手紙の中に土方歳三の刀「和泉守兼定」の刀身が2尺8寸(約85cm)である事が記されています。

 

土方歳三はこの刀「和泉守兼定」を複数持っており、土方歳三資料館に刀身2尺3寸1分(約70.3cm)のが残されています。

 

この和泉守兼定は箱根戦争で土方歳三が戦死する前に、小姓・市村鉄之助に写真や遺髪、手紙などと共に託されて、故郷日野の佐藤彦五郎(姉の嫁ぎ先)に遺品として届けられたものと伝えられています。

 

12代目兼定による作刀とされ、届けられた時には所々に刃こぼれが見られるなど、晩年の土方歳三の戦いの激しさを物語っていたと言われています。

 

この和泉守兼定は、昭和初期に研ぎ直され美しい刀身の姿で展示されています。しかし、茶の石目塗に牡丹唐草と鳳凰の見事な蒔絵が施された鞘には傷が残され、白鮫着せ黒糸巻の柄も摩耗していて、土方歳三が日頃からこの刀を愛用していた様子を偲ぶ事が可能です。

 

 

 

土方歳三の刀② 大和守源秀國

 

出典:https://cloudfront-ap-northeast-1.images.arcpublishing.com/

 

京都の霊山歴史館では、土方歳三の愛刀の1つ「大和守源秀國(やまとのかみ・みなもとのひでくに)」が一般公開されています。

 

この土方歳三の大和守源秀國は、会津藩主・松平容保(かたもり)が、京都守護職を拝命して上洛した際に、会津藩お抱えの刀工・秀國に土方歳三が作らせた刀でした。この時には、近藤勇も刀を作らせています。

 

土方歳三の大和守源秀國は、刀身は2尺2寸8分(68.7cm)、縁金に土方歳三が好きだったという梅の意匠が施されています。

 

直刃の実用刀であり、土方歳三は実際に戦場で使用し、戊辰戦争時に鳥羽・伏見の戦いや甲州勝沼の戦いなどで使用されたと見られています。鞘の一部には帯で擦れて螺鈿が剥がれた跡、鯉口の一部が摩耗し色が薄くなっており、土方歳三がこの刀をよく使い込んでいたのを窺い知る事ができます。

 

 

土方歳三の刀③ 越前康継

 

出典:http://blog.cnobi.jp/

 

土方歳三の所有した刀の1つとして、佐藤彦五郎資料館に葵の御紋の「越前康継」が現存しています。

 

越前康継は江戸初期に活躍した刀工で、徳川家康の次男の結城秀康(結城家の養子に入った)お抱えの刀匠として活躍した人物です。

 

その鍛治技術は高く評価されており、徳川家の家紋である「葵の紋」を茎(なかご)に切る事が許されていました。

 

土方歳三が所有していたとされる「越前康継」は、背負太刀作りで、刀身は2尺3寸5分(約69.8cm)です。

 

1968年の甲州勝沼の戦いに敗れた後、一時的に新政府軍に捕縛されて刀を全て没収されてしまった佐藤彦五郎の長男の佐藤源之助を気の毒に思った土方歳三はこの刀を源之助に与えた伝わります。

 

 

 

土方歳三には嫁や子供はいないが婚約者がいた

 

イケメンで女性に非常にモテたという土方歳三でしたが、生涯結婚はしておらず子供もいませんでした。

 

生涯結婚しなかった土方歳三でしたが、於琴(おこと)という許嫁がいたという伝承が残ります。

 

土方歳三の許嫁と伝わる於琴は、宿場町「内藤新宿」からほど近い戸塚村の三味線屋の看板娘で、佐藤彦五郎の縁戚だったとも言われています。近隣でも評判の美人だったとされます。しかも、三味線の調律や演奏技術も一流で、長唄は名取の腕前だったそうです。

 

土方歳三の長兄・為次郎は盲目でしたが、浄瑠璃・義太夫を好む風流人で、三味線屋で三味線の糸や撥を買い求めたのが縁となって於琴の存在を知って気に入り、可愛がっていた末弟の土方歳三との結婚を望んだとされます。

 

ところが、土方歳三は「この天下多事の際、何か一事業を遂げて名を挙げたい。」として、この結婚話を少し待ってもらうように兄弟達に頼みました。

 

そこで兄弟達は土方歳三と於琴を許嫁とする事で結婚を延期としたといいます。

 

しかし、その後は土方歳三は京都で新撰組副長として活躍するようになり、箱館戦争で戦死するまでの間に故郷に戻ったのはただの1度だけでした。

 

許嫁の於琴との結婚も果たされずに、その1度の帰郷での再開が今生の別れとなったと伝わっています。

 

この、土方歳三と結婚寸前だったという許嫁の於琴という女性ですが、本当に実在したのかどうかは分かっていません。ただ、土方歳三が登場する物語などではその恋人としてよく登場しているので新撰組ファンの間ではよく知られた存在となっています。

 

 

 

土方歳三の直系の子孫はいないが次兄の子孫の土方愛さんが活躍

 

出典:https://www.apio.jp/

 

土方歳三には子供はおらず、直系の子孫は存在しないとされていますが、次兄の隼人喜六(土方家の家督を継いだ人物)の子孫は現代まで存続しています。

 

その中で、土方歳三の次兄・土方隼人喜六から数えて、6代目の子孫の土方愛(ひじかた・めぐみ)さんは、東京都日野市の土方歳三資料館の館長として活躍されています。

 

土方歳三資料館は、元は土方歳三の生家で、子孫の土方愛さんも幼少期はこの家で育ったそうです。

 

土方愛さんは資料館運営の他、土方歳三の一族の子孫として、土方歳三の人となりなどを語り継ぐ講演活動なども展開され、総合旅行誌「旅行読売」にも連載を持たれています。

 

イケメンと伝わる土方歳三の一族の子孫というだけあって、土方愛さんも美しい方だと話題になっています。

 

 

 

土方歳三の最期と死因

 

出典:https://hokkaido-travel.com/

 

土方歳三の最期は、明治2年5月11日(西暦1869年6月20日)でした。

 

当時、土方歳三は旧江戸幕府軍勢力の将として北海道函館(蝦夷地)で新政府軍と戦っていました。(箱館戦争)

 

土方歳三の最期の日となった明治2年5月11日は、新政府軍の函館への総攻撃が開始された日でした。

 

土方歳三は新撰組隊士・島田魁らの一隊が守備していた弁天台場が新政府軍に包囲され窮地に陥っているのを見て、その救出のために五稜郭から僅かな兵を率いて出陣しました。

 

土方歳三とその部隊は箱館一本木関門に至り、土方歳三はそこで新撰組隊士の大野右仲に命じて、市中から敗走してくる味方を押しとどめさせました。

 

この時、箱館港で交戦していた旧幕府軍艦「蟠竜丸」の放った砲弾が新政府軍艦の「朝陽丸」を撃沈します。これを見た旧幕府軍の将兵は士気を取り戻しかけ、土方歳三は大野に「この機を逃してはならない、味方を前進させて反撃に出よう。しかし、急遽敗残兵を指揮するのは難しいだろうから、私はこの関門に残り、退いてくる者を斬り捨てる。」と言い、兵の指揮は大野右仲に任せました。

 

この命令を発した直後、土方歳三は馬上で指揮を執っていたところに腹部に銃撃を受けて落馬し、最期を迎えています。時刻は午前9時頃だったようです。

 

大野右仲は兵を率いて奮戦し一時は敵を押し返したものの、ついに総崩れとなって敗走。大野は撤退してきたところで、新撰組隊士・安富才助に土方歳三が銃撃を受けて落馬した事を知らされ、急いで土方歳三のところへと駆けつけますが、この時すでに土方歳三は絶命していたという事です。享年は数え年で35歳(満34歳)でした。

 

土方歳三最期の地となったこの一本木関門跡のすぐ近くにある若松緑地公園には、「土方歳三最期の地碑」という石碑が建立されています。

 

土方歳三最期の地碑は土方歳三のファンや新撰組ファンの聖地のようになっており、現在でも献花が絶える事はありません。

 

土方歳三の死因については伝わっていませんが、腹部に銃撃を受けた後に死亡したという事から、死因は失血死だったという説が有力です。

 

土方歳三の遺体が埋葬された場所は五稜郭内(一本松の土饅頭)に埋葬されたとの説がありますが、特定されていません。

 

 

 

土方歳三の死因は暗殺とする説も存在

 

土方歳三は乱戦の最中に銃撃を受けたのが死因とされていますが、実は新政府軍の銃弾に斃れたのではなく、味方による暗殺だったという説も存在します。

 

旧幕府軍勢力の最高指揮官であった榎本武揚は、独立政府を目指して自ら総裁となって成立させた「蝦夷共和国」と新政府側との共存を望んでおり、降伏しては先に死んだ近藤勇に顔向けできないとして徹底抗戦を主張する土方歳三が邪魔になり暗殺したというものです。

 

土方歳三の本当の死因が暗殺とする説の根拠としては、土方歳三が最期を迎えてすぐに旧幕府軍勢力が降伏している事や、旧幕府軍側の名のある指揮官で戦死しているのが土方歳三だけという点が挙げられています。

 

 

土方歳三は漫画「ゴールデンカムイ」に実は生存していたという設定で登場

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

週刊ヤングジャンプで2022年4月まで連載されていた野田サトルさんの人気漫画「ゴールデンカムイ」には、五稜郭で戦死したと思われていた土方歳三が実は生存していたという設定で、主要キャラの1人として登場します。

 

ゴールデンカムイに登場する土方歳三は、五稜郭の戦いで戦死したと噂されていたが実は生き延びて網走の監獄に投獄されていました。

 

その後、のっぺら坊を名乗る男の誘いに乗って他の囚人たちを引き連れて脱獄し、「蝦夷共和国」の再興を目指してその軍資金とするためにアイヌの隠し金塊を狙うというキャラクターでした。

 

ネタバレを避けるために具体的な活躍は紹介できませんが、作中の土方歳三は既に年老いて70歳を超えているものの、若い頃と変わらず凄腕の剣客として登場し、ゴールデンカムイの最終盤まで重要なキャラクターとして活躍します。

 

ゴールデンカムでは実は生存していたという設定で登場した土方歳三ですが、実際に生存説もあり、箱館戦争後に落ち延びてロシアへ渡ってという説があります。

 

その生存説の証拠として、土方歳三戦死の6日後の箱館降伏を描いた「箱館降伏図」には、なぜか土方歳三の姿が描かれている事などが挙げられています。

 

 

 

まとめ

 

今回は、新撰組の副長で、最期まで旧幕府軍勢力の将として新政府軍と激戦を繰り広げた事で知られる江戸末期から明治はじめにかけての武士・土方歳三についてまとめてみました。

 

土方歳三は、武蔵国多摩郡石田村の豪農の家の出身で、若い頃から剣術修行に励み、近藤勇らと浪士組募集に応じ、その後、その浪士組が新撰組を拝命してその副長として活躍しました。

 

江戸幕府が滅びた後も、旧幕府軍勢力に加わって新政府軍に抵抗を続け、最期は激戦の最中に銃弾を受けて数え35歳で死亡しています。

 

土方歳三は身長167cmと当時としてはかなりの高身長に加えてイケメンであり、新撰組の副長としてその名を轟かせていたため、京都では芸者や舞妓、遊女らにすこぶるモテていたと言われています。

 

土方歳三の写真も2種類が現存しており、本人の晩年の姿を撮影したものである事がほぼ確定しています。

 

土方歳三が使用していた刀は複数ありますが、そのうちの「和泉守兼定」、「大和守源秀國」、「越前康継」の三振りが、博物館や資料館などに所蔵され、一般公開もされています。

 

土方歳三は生涯結婚をせずに独身で嫁はいませんが、於琴という許嫁がいた事が伝わっています。

 

土方歳三には子供はいませんでしたが、次兄の子孫が存続しており、6代目の子孫である土方愛さんが土方歳三資料館の館長を務められています。

 

土方歳三の最期は乱戦の中で銃撃を受け戦死したというものですが、その死因については味方による暗殺だったという説が存在しています。

 

新撰組の隊士の中でも特に人気の高い土方歳三ですが、2022年4月に完結した人気漫画「ゴールデンカムイ」にも実は生存していたという設定で重要なキャラクターとして登場し話題になりました。

 

このゴールデンカムイでの活躍により、史実での土方歳三に興味を持った方も多かったようです。

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