日本人なら誰もが知っている歴史上の人物・聖徳太子ですが、知名度の高さとは裏腹にその実態は謎に包まれています。
今回は聖徳太子について、実在したかいなかったかの謎、同時に何人聞けるかなど伝説、死因や家系図もまとめました。
この記事の目次
聖徳太子は実在した?何をした人?
日本人ならば、誰もが歴史の授業で名前を聞いた事のある聖徳太子ですが、その実体は謎に包まれており、本当に実在したのかどうかすらはっきりとは分かっていません。
今回はそんな聖徳太子の伝説や謎について紹介したいと思います。
その前にまずは、聖徳太子についての基本的な事をおさらいしておきましょう。
聖徳太子は天皇の一族で本当の名前は「厩戸」とされている
聖徳太子は、574年2月7日に誕生したと伝わっています。
父は第31代天皇の用明天皇、母は第29代天皇、欽明天皇の第三皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)です。
「聖徳太子」という名前は死後に送られた諡号(生前の実績に基づいて貴人に贈られる名前)で、幼名は「厩戸(うまやど)」だと言われています。
聖徳太子は飛鳥時代に活躍した政治家
聖徳太子(厩戸皇子)は、第33代天皇である推古天皇の摂政として、「冠位十二階の制定」や「憲法十七条の制定」を行なったとされます。
その他にも国史の編纂や、遣隋使の派遣、法隆寺や四天王寺を建立して仏教の興隆に努めた、などの多くの実績が伝えられています。
これらを全て聖徳太子と呼ばれた人物が行ったのか?という事には、現在の最新の研究では疑問符がついていますが、当時の政権での最有力の政治家の1人であった事は間違いないようです。
聖徳太子は様々な名前で呼ばれている
聖徳太子は、ここまでに紹介した「厩戸」以外にも、史料の中では様々な呼び名が見られます。
その他の名前を挙げてみました。
「豊聡耳皇子(うまやどのとよとみみおうじ)」
「厩戸王」
「上宮王(かみつやのみこ)」
「上宮太子聖徳皇(じょうくうたいししょうとくおう)」
「豊聡耳法大王(とよとみみのりのおきみ)」
「法主王(のりのぬしのおおきみ)」
「東宮聖徳(ひがしのみやしょうとく)」
など
聖徳太子の伝説① 誕生にまつわる伝説
聖徳太子には様々な伝説が残されており、誕生の際の伝説的エピソードがあります。
西暦573年の正月、聖徳太子の母である穴穂部間人皇女の夢の中に、全身が金色に輝いた僧侶が現れたそうです。
そして「我は西方の救世観音菩薩である」と名乗り、「我に救世の願いがあるからしばらくの間、皇女の腹に宿らせて欲しい」と告げます。
穴穂部間人皇女がこれに承諾すると、僧侶は皇女の口の中から体内へと入っていきました。
そこで目が覚めるのですが、喉には違和感が残っており、とても夢だとは思えなかったそうです。
穴穂部間人皇女は、夫である橘豊日皇子(たちばなのとよひのみこ。後の用明天皇)にその事を相談すると、「それはただ事ではない、きっと聖人を生むだろう」と語ったそうです。
まもなく穴穂部間人皇女は妊娠し、それから8ヶ月後、突然お腹の中から胎児が言葉を話し、周囲の人々を大層驚かせたそうです。
しかし、十月十日を過ぎても出産の兆しは全く見られませんでした。
そして、翌年の正月、穴穂部間人皇女が不思議な夢を見てからちょうど1年後の事です。
その日、穴穂部間人皇女が磐余池辺双槻宮(用明天皇の皇居)を歩き、ちょうど厩の前を通りかかった時、突然産気づき、何の陣痛もないまま赤ん坊を産み落としました。
赤ん坊は、小豆くらいの大きさの仏舎利(お釈迦様の骨)を握っていたとも伝わります。
厩の前で産み落とされた事から、赤子は「厩戸皇子」と命名されました。
2月に生まれた厩戸皇子はこの年の4月には言葉を話すようになり、霊能力のようなものも見せたそうです。これが聖徳太子の誕生にまつわる伝説です。
この逸話は、イエス・キリストの誕生の話に酷似しています。
後に遣隋使が大陸に渡った際、イエス・キリスト誕生にまつわる伝承を耳にしてその話を日本に持ち帰り、当時の権力者がそれをヒントこの伝説を創作したのではないかという説もあります。
聖徳太子の伝説② 同時に何人聞ける?豊聡耳伝説とは
聖徳太子の伝説の中で最も有名なものは、「耳」にまつわる伝説です。
最古の歴史書と言われる「日本書紀」によれば、ある時、聖徳太子は人々からの要望を聞く機会を設けました。
それで、願いを聞き入れて欲しい人々が大勢押しかけ、10人もの人々が同時に聖徳太子に話しかけます。
聖徳太子はその10人全員の言葉を同時に聞き分け、その全員に的確な答えを返したそうです。
この出来事以来、聖徳太子には大変耳が良い事を意味する「豊聡耳(とよさとみみ)」と呼ばれるようになったのだそうです。
現存する聖徳太子の最古の伝記「上宮聖徳法王帝説」や、聖徳太子伝説の元になったとされる、平安時代に書かれた伝記「聖徳太子伝暦」では8人とされ、「厩戸豊聰八耳皇子」と呼ばれたとも書かれています。
また、「聖徳太子伝暦」ではこの逸話とは別に、子供時代の聖徳太子が子供36人の言葉を同時に聞き取ったという逸話も記されています。
これらのエピソードは当然ながら伝説ですが、聖徳太子の称号「豊聡耳(とよとみみ)」は当時の実際の呼び名として使われていた可能性が高く、極めて優秀な人物だった事は間違いないようです。
聖徳太子の伝説③ 死因にまつわる伝説
先ほども紹介した平安時代の伝記「聖徳太子伝暦」には、聖徳太子の死因にまつわる伝説も記されています。
聖徳太子は、生前に自分の死期を正確に予言し、自分のお墓の完成を急がせたのだそうです。
聖徳太子には4人の妃がいましたが、その中で最も愛したとされるのが、平民の出とされる「膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ」です。
この膳部菩岐々美郎女は、聖徳太子と1日違いで亡くなり、同じ墓に眠っていると伝わっています。
「聖徳太子伝暦」では、死の前日に聖徳太子は膳部菩岐々美郎女に「あの世へ一緒に行こう」と伝え、2人で沐浴して身を清め、その翌朝に2人は亡くなったとされています。
聖徳太子の伝説④ 様々な予言を残している
聖徳太子は、自分の死期以外にも様々な事を予言したと伝わっています。
「日本書紀」には、聖徳太子について「兼ねて未然に知ろしめす」と書かれており、未来を予言する能力があった事を示唆しています。
そして、聖徳太子は「未然本紀」「未来記」という2冊の予言書を残したと伝えられているのです。
この2冊の写本が、国会図書館に封印されているという噂もあるのですが、真相は明らかになっていません。
ただ、後世の「平家物語」の中に「聖徳太子の未来記にも」という一文が、「太平記」の中にも「正成天王寺の未来記披見の事」と書かれた一文がみつかっています。
「未来記」と呼ばれる何らかの書物が、当時の人々に知られていた事は確かなようです。
そして、この2冊の予言書には、聖徳太子が生きた時代から現代までにかけての様々な事柄を予言した事柄が書かれているというのです。
それには、「平安遷都」や「黒船来航」が予言されていると言われています。その部分の現代語訳とされるものがネット上で出回っているので紹介します。
私の死後二百年以内に、一人の聖皇がここに都を作る。そこはかつてない壮麗な都になり戦乱を十回浴びても、それを越えて栄え、千年の間都として栄える。しかし一千年の時が満ちれば、黒龍が来るため、都は東に移される
前半部分の自分の死後200年以内に都を作るというのは「平安遷都」を指し、その後京都として長く栄える事を示しているとされています。
そして、後半部分の「黒龍」は「ペリーの黒船来航」を指し、「都は東に移される」は明治維新後に、江戸を東京と改めて首都とした事を指していると言われています。
そして、これにはさらに以下の一文が続けられているそうです。
その二百年の後、クハンダが来て、東の都は親と七人の子供のように分かれるだろう
クハンダは、インド神話や仏教に登場する「鳩槃荼(くばんだ)」を指していると見られ、増長天の一種の悪鬼で、馬の頭に人間の体を持ち、人の精気を吸い取る化け物なのだそうです。
つまり東京が定められて200年後、クハンダという化け物が現れてなんらかの災いを起こし、「親と7人の子供のように分かれる」すなわち、日本が8つに分裂すると予言しているとされています。
なんとも恐ろしい予言ですが、実はこの伝説の出所は「ノストラダムスの大予言」を書いた事で知られる五島勉の書いた何冊かのトンデモ本です。
確かに、聖徳太子が未来を予測できるほどの天才的な頭脳を持っていた可能性は否定できません。
ですが、聖徳太子が現代から未来の事まで正確に予言しているというのは、あくまでも都市伝説だと言えます。
聖徳太子の伝説⑤ 南嶽慧思の生まれ変わり説
聖徳太子が、中国発祥の仏教の宗派・天台宗の開祖である天台大師の師匠として知られる南嶽慧思の生まれ変わりとする伝説も残ります。
奈良時代、大変な苦労の末に唐から日本へと渡り、律宗を広めた高僧・鑑真和尚は、この聖徳太子の生まれ変わり伝説を聞いたことにより、日本行きを決意したという説も伝わっています。
聖徳太子の伝説⑥ 神馬に乗って富士山を飛び越えた飛翔伝説
出典:https://www.kanko-takarazuka.jp
ここまでで何度も紹介している伝記「聖徳太子伝暦」や、平安時代に編纂された歴史書「扶桑略記」などには、聖徳太子が神馬に乗って飛翔し、富士山を飛び越えた伝説が記されています。
それによれば、聖徳太子は598年の4月頃、諸国から数百匹の馬を献上させ、その中から1頭の甲斐の烏駒(くろこま)を神馬として見出し、それを飼育させました。
そしてその年の9月、その馬に聖徳太子が騎乗すると馬はにわかに天へと舞い上がり、そのまま富士山を超えて、東国信濃国まで至り、それから3日かけて都へと帰還したと記されています。
聖徳太子の伝説⑦ 片岡山飢人伝説
「日本書紀」には、聖徳太子にまつわる「片岡山伝説」または「飢人伝説」と呼ばれる伝説が記されています。
613年頃、聖徳太子が大和国葛城の片岡山というところを訪れた際に、道の傍らに飢えて倒れている人を発見します。
哀れに思った聖徳太子は、飢え人に食べ物と水を与え、自分の衣を脱いでその飢え人に掛け、「安らかに眠りなさい」と声をかけました。
その翌日、聖徳太子は飢え人の様子を見に使いを走らせます。使いが戻り、「すでに死んでいた」と報告すると聖徳太子は大変悲しみ、飢え人の遺体をその地に埋葬して厳重に封印します。
数日後、聖徳太子は何かを悟ったのか、近習(側近の事)を呼び「先日埋葬した人物は只者ではない、きっと真人(ひじり)であろう」と語り、墓の様子を見に行かせました。
近習が戻り「墓は動かした様子がありませんでしたが、墓の中には遺骸も骨も跡形もなく消えてていました」と報告します。
そして、棺の上に綺麗に畳まれていたという聖徳太子がかけた衣を持ち帰って来ました。聖徳太子は何事もなかったかのように、その衣を再び身につけたと言います。
人々はこの様子を見て「聖人は聖人を知ると言うが、どうやらそれは本当の事だったらしい」と言って、これまで以上に聖徳太子を畏敬するようになったと伝わります。
聖徳太子の謎① 本当はいなかったという説も
聖徳太子はここまで見てきたように様々な伝説が残る人物ですが、その他にも様々な謎が残されている人物でもあります。
聖徳太子は、様々な書物にその名前が出てくるにも関わらず、その実体が全くはっきりしないため、本当は実在しないのではないか?との説も出ています。
聖徳太子の存在が語られるようになるのは、聖徳太子の死から数十年後に編纂された「日本書紀」からです。
その時の権力者・天武天皇が自分の権威を正当化するために、また、官民の模範となる信仰対象を作り出すために、藤原不比等らと図って聖徳太子という超人を創作したという説があります。
もっとも、聖徳太子の生存時の名前とされる「厩戸王」と呼ばれる人物は実在の可能性が高いとされています。
聖徳太子とは、この「厩戸王」と呼ばれた人物をモデルにして、大幅に脚色されて作り出された架空の人物ではないか?と言われているのです。
聖徳太子の謎② 聖徳太子が天皇に即位しなかった理由とは?
聖徳太子は、第31代天皇の用明天皇の息子で、母は第29代天皇、欽明天皇の第三皇女・穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)というれっきとした皇太子です。
聖徳太子の父である用明天皇が崩御(天皇が亡くなる事)した後、用明天皇の異母弟に当たる崇峻が第32代天皇として即位しました。
その崇峻天皇は、592年に大臣・蘇我馬子の策謀により暗殺されてしまいます。
崇峻天皇に男子はおらず、前天皇の皇太子である聖徳太子はこの時、19歳の若者でした。
崇峻天皇には男の兄弟もいなかったため、普通に考えれば、次期天皇に最もふさわしいの聖徳太子でした。しかし、実際に皇位についたのは、崇峻天皇の異母姉である推古天皇でした。
推古天皇は日本史上初の女帝として有名ですが、何故、最も適任と見られる聖徳太子ではなく、あえて女性を天皇の位につける必要があったのかは聖徳太子にまつわる大きな謎の1つです。
研究者の間では、推古天皇が自分の幼い息子、竹田皇子を即位させるための中継ぎとして即位した説や、不穏な事件が続く朝廷の動揺を抑えるために自ら即位した説があります。
伝説的な話として、聖徳太子は自分の死期が50歳前後である事を悟っていたため、即位を望まれたものの頑なに拒否していた、という説も存在します。
聖徳太子の謎③ 聖徳太子の死因にも謎が多い
聖徳太子の死因についても多くの謎が残されています。
聖徳太子の死因は伝染病説
聖徳太子は622年に亡くなったとされていますが、前年621年には聖徳太子の母・穴穂部間人皇女が亡くなり、聖徳太子の死の前日には妃である膳部菩岐々美郎女も亡くなっています。
3人が相次いで亡くなった事は非常に不自然です。これは研究者の間でも注目されており、3人が立て続けに亡くなったのは「伝染病」が原因ではないか?という説が示されています。
この説の根拠としては、立て続けに亡くなった聖徳太子と膳部菩岐々美郎女と穴穂部間人皇女の3人が同じ墓に埋葬されていると伝わる事などが挙げられています。
当時は伝染病は禍々しい超常現象だと考えられていたため、正常な死に方をした人間とは埋葬先を分ける必要があったのではないかと推測されているのです。
また、他の妃たちと比べて1人だけ身分の低い膳部菩岐々美郎女だけが、聖徳太子と同じ墓に埋葬されている事もこれで説明できるとされています。
聖徳太子は夫婦で心中した説
聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女は1日違いで亡くなっています。そのため、2人が心中のような形で自殺したのではないかと見る説もあります。
この時期、聖徳太子が政権に関わったという史料はほとんど存在していません。
そのため、この頃の聖徳太子は権力を失い、政治の世界から遠ざけられていたと推測され、それに絶望した夫妻が服毒自殺したのではないかと言われているのです。
これは、前述で紹介した、聖徳太子が自分の死期を正確に予期していた話や、死の前日に膳部菩岐々美郎女に「あの世に一緒に行こう」と伝え、その翌日に亡くなった話とも符合します。
聖徳太子は暗殺された説
聖徳太子の生きた時代、皇位継承をめぐって毎回血みどろの権力争いが繰り返されていました。
こうした背景から、聖徳太子もまた権力闘争の果てに暗殺されたのでは?という説も存在します。
聖徳太子は存命していれば、皇位継承者として十分な権利を有していたため、皇位が聖徳太子にわたる事を恐れた何者かが聖徳太子を暗殺したという可能性です。
聖徳太子を暗殺した勢力としては、蘇我氏や、大陸の唐や朝鮮半島の新羅の陰謀ではないかとも言われています。
この暗殺説も真相は歴史の闇の中ですが、聖徳太子の息子である山背大兄王は、643年に暗殺され、聖徳太子の一族はここで絶えたとされています。
政治的争いに敗れ、聖徳太子の一族は根絶やしにされたという説も十分に考えられます。
聖徳太子の家系図も紹介
聖徳太子は存在すら疑われる謎の多い人物ですが、明確な家系図は存在しており、その血縁とされる人物は実在が確認されている人物が大勢います。
聖徳太子の実体をイメージしやすくするために、家系図を見てみましょう。
聖徳太子が摂政として仕えたとされる推古天皇は、聖徳太子の父・用明天皇の実の妹です。したがって、聖徳太子にとって推古天皇は叔母にあたります。
また、家系図を見ると、聖徳太子と当時最大の有力豪族であった蘇我氏との関係の深さもよく分かるかと思います。
まとめ
日本人ならばほとんどの人が知っているであろう歴史上の人物・聖徳太子についてまとめてみました。
誰もが知っている聖徳太子ですが、その実像は謎に包まれており、実在を疑う声すらも出ています。
聖徳太子の登場する史料には、太子にまつわる多くの伝説が多く記され、その人物像はより神秘的なものとしています。
現在も多くの研究者が聖徳太子に関する研究を進めており、その実像が少しでも明らかになる事に期待が高まります。