舞踊家であり女優・活動家の花柳幻舟はめがね橋から転落死しましたが、暗殺説も現在では囁かれています。
今回は花柳幻舟の生い立ちや家族、結婚歴や国籍、2度の逮捕歴、死亡した経緯や死因、事故説・暗殺説をまとめました。
この記事の目次
花柳幻舟は舞踊家&活動家
出典:sankei.com
花柳幻舟
生年月日:1941年(もしくは1942年)
没年月日:2019年2月28日
出身:大阪府大阪市
最終学歴:放送大学教養学部
活動:日本舞踊家、女優、社会活動家
花柳幻舟さんは日本舞踊家であり、女優です。
その一方で、日本の「家元制度」に反旗を翻し、家元制度打倒運動を始めたり、天皇制に反対する活動をしていたりしたフェミニストの社会活動家で、2回の服役歴があります。
花柳幻舟さんは、西日本各地を巡回する劇団の子供として育ち、2歳で初舞台を踏みます。
その後は、東映ポルノや日活ロマンポルノなどで主に活動しました。また、日本舞踊の花柳流に入門して、1966年に花柳流の名取となります。
また、エッセイや自伝なども多く執筆し、著述家・作家としての一面も持っています。
花柳幻舟の家族や生い立ち
花柳幻舟さんの家族は、地方を回る劇団員でした。いわゆる「大衆演劇」の旅芸人のようなものですね。
しかし、花柳幻舟の父親は元から大衆演劇の旅芸人だったわけではありません。
花柳幻舟の父親は嵐家三郎という歌舞伎役者でした。ただ、歌舞伎の家の出身ではなかったようで、歌舞伎の世界の「家」や「格」に苦しみ、歌舞伎の世界を離れたようです。
歌舞伎役者の奥さんですから、花柳幻舟の母親もキレイな人だったと思われます。
花柳幻舟が結婚した旦那と離婚原因
出典:twitter.com
花柳幻舟は元歌舞伎役者の旅芸人の家族でしたから、2歳の時から西日本各地を回りながら育ちました。
そのような生い立ちもあり、花柳幻舟の学歴は自称「小学校中退」となっています。3年生ごろまでは小学校に通っていたようですが、その後は全く行かなかったようです。
ただ、世の中で仕事をするには最低限の学歴は必要です。
そのため、花柳幻舟は18歳の時、高卒と偽って建設省の事務所でアルバイトしており、その時に出会った人と結婚しています。
しかし、「女性は家で家事をする」というその時代では当たり前とされていた女性としての役割や、家庭に縛られることに疑問を持ち、離婚することになりました。
花柳幻舟の結婚歴はこの若い頃の結婚1度のみで、その後は独身を貫き通しました。
ただ、1980年ごろには、歴史家で参議院議員を務めた羽仁五郎と交際していて、羽仁は花柳幻舟のことを「ぼくのガールフレンド」と呼んでいました。
しかし、羽仁五郎はすでに結婚していましたので、不倫関係ということになります。
花柳幻舟が逮捕された理由① 家元制度打倒運動で家元を切りつけた
花柳幻舟は花柳流の名取でしたが、名取になった後の1968年ごろから家元制度打倒運動を開始します。
花柳流でお家騒動が勃発
出典:twitter.com
花柳幻舟は離婚後、女性が1人で生きていく方法の1つとして、日本舞踊の花柳流に入門、1966年には名取になります。
しかし、日本の家元制度・家元集金制度に疑問を持つようになります。この辺りは父親の影響もあったのかもしれません。
そして、家元制度打倒を宣言するようになります。
1980年ごろには、花柳流ではお家騒動がありました。当時の花柳流の家元は3代目の花柳壽輔でした。
28歳の若さ、さらに女性が家元を継いだために、周りからの相当な反発があったことは想像に難くありません。
家元を切りつけてけがを負わせた
出典:twitter.com
1980年2月21日、国立劇場で花柳流の公演が行われていました。家元制度打倒運動をしていた花柳幻舟はファンを装って、楽屋に通じる廊下で家元の3代目・花柳壽輔を待ち伏せました。
そして、花柳壽輔が現れた時、「思い知れ!!!」と叫びながら包丁で切りかかり、首の右側に全治2週間のけがを負わせました。
切り付けられた時、家元は「何をするのよ!」と大声をあげたため、周囲の人がすぐに花柳幻舟の凶行に気づき、花柳幻舟は取り押さえられ、家元は大事には至りませんでした。
花柳幻舟は傷害罪で逮捕され、懲役8ヶ月の実刑判決を言い渡されています。
花柳幻舟は栃木刑務所に収監されますが、この時の獄中体験を『夕焼は哀しみ色』という著書に記しています。
この著書は、1984年に『花柳幻舟獄中記』としてテレビドラマ化され、さらに翌年の1985年にはその続編である『花柳幻舟獄中記II』が放送されています。
花柳幻舟が逮捕された理由② 天皇即位パレードに爆竹を投下
花柳幻舟は、1990年に行われた天皇(現在の上皇陛下)の即位パレードでも騒ぎを起こし、逮捕されたことがあります。
反天皇の思想
出典:amazon.co.jp
家元制度打倒運動をしていた花柳幻舟は、家元制度について勉強していくうちに、「結局は日本には天皇制度があるから家元制度がある。天皇制がすべて悪い」という結論に至ります。
「家元制度は世襲制である。それは天皇制が世襲制だからだ」という論理でしょう。この考えに行きついた花柳幻舟は、反天皇の思想になっていくのです。
パレードで爆竹を投げつけた
出典:twitter.com
反天皇制の思想を持つ花柳幻舟は、ただ単に「天皇制は良くない」と考えるだけでなく、そのための行動を起こすようになります。
事件が起こったのは、1990年11月12日のことです。この日は天皇陛下の即位の礼が執り行われた日です。
即位の礼のパレードが行われた時、花柳幻舟は南青山の路上で、天皇制を批判するビラ100枚をばらまきます。
それだけでは収まらず、60本の爆竹の束を投げつけました。この時、花柳幻舟は厚化粧をして、かつらをかぶって変装していました。
この犯行で花柳幻舟はすぐにその場で取り押さえられ、現行犯逮捕されています。
裁判では道路交通法違反の容疑で、罰金4万円の罰金刑を言い渡されましたが、彼女は支払いを断固拒否し、代わりに20日間の労役に服しました。
花柳幻舟の国籍
出典:hanayagi-genshu.sakura.ne.jp
花柳幻舟は日本古来の家元制度を打倒しようとし、さらに天皇制にも反対を唱えた人物です。
家元を切りつけ、天皇陛下の車に爆竹を投げつけるなんて、なかなかやばい行動もとっています。
これらの行動を見ると、花柳幻舟って日本人ではないんじゃないか?外国人なのでは?と思う人も多いと思います。
でも、花柳幻舟の国籍は正真正銘の日本です。本名は「川井洋子」と言います。
また、花柳幻舟は思想は過激であるものの、父親も日本の伝統芸能である歌舞伎役者だったことから、国籍は日本であることは間違いないと言えます。
花柳幻舟の今現在は死亡している…死因とは
出典:asahi.com
花柳幻舟は現在は死亡しています。死亡したのは2019年2月28日のことです。
2019年2月28日17時頃、群馬県安中市松井田町の碓氷第三橋梁の下の歩道で倒れているところを観光客に発見されました。
病院に救急搬送されましたが、約1時間後に死亡が確認されました。司法解剖の結果、死因は外傷性ショックであることが分かりました。
碓氷第三橋梁は通称・めがね橋と呼ばれる橋で、旧国鉄信越線のれんが造りの鉄道橋です。
この鉄道橋は1892年に完成したレンガ造りの4連アーチ橋で、観光客はこの橋の上を歩くことができるようになっています。
花柳幻舟が持っていたデジカメにはこのめがね橋の上から撮影した画像が残っていたため、デジカメで風景を撮影していたら、誤って転落してしまったのではないか?と見られています。
花柳幻舟の死亡原因は事故?暗殺?情報まとめ
事故で片付けられている
花柳幻舟は2019年2月28日、めがね橋の下で倒れているところを発見されました。死因は外傷性ショックであることが分かっています。
花柳幻舟のデジタルカメラには、めがね橋の上から真下を撮った写真が残っていました。また、橋の上には花柳幻舟のものと思われる傘も残っています。
このことから、警察は花柳幻舟はめがね橋の上からデジカメで撮影していた時に、何らかの原因で23m下に歩道に転落して、外傷性ショックで死亡したと判断しました。
つまり、花柳幻舟は事故死であると結論付けています。
時期的に暗殺も否定できない
ただ、花柳幻舟は事故死ではなく暗殺されたのではないか?という意見もあります。その理由は次の3つです。
・時期的に狙われてもおかしくない
・デジカメはポシェットの中だった
花柳幻舟のまとめ
花柳幻舟のプロフィールや経歴、家族・結婚歴について、家元制度打倒運動と傷害事件、天皇陛下即位パレードでの逮捕、現在と死因、事故説と暗殺説をまとめました。
花柳幻舟の死は事故なのか?暗殺なのか?「どちらの説も一理ある」と納得できてしまいますが、どちらなのかは永久に分かることはないかもしれません。