太平洋戦争の年表&原因や戦死者数!きっかけや日本がしたこと・激戦地・人々の暮らし・終戦までをわかりやすく解説

日本と連合国が戦った「太平洋戦争」が注目されています。

 

この記事では太平洋戦争の概要や開戦日、原因やきっかけなどをわかりやすく解説し、年表形式での終戦までの経緯や戦死者数、激戦地、結局日本がしたことはなんだったのかや当時の人々の暮らしについてまとめました。 

この記事の目次

太平洋戦争をわかりやすく解説① 太平洋戦争の定義

 

出典:https://www.jiji.com/

 

太平洋戦争をわかりやすく解説していきます。

 

太平洋戦争とは、1941年12月から1945年8月までの期間、日本(大日本帝国)及びその同盟国である枢軸国と、アメリカ合衆国、大英帝国、中華民国、オランダ王国、オーストラリアなどの連合国との間で勃発した戦争を指す言葉です。第二次世界大戦における太平洋方面での戦いを指す意味合いもあります。

 

また、「太平洋戦争」というのは、アメリカや連合国側の呼称であり、戦時中は日本側は「大東亜戦争」と呼称していました。

 

太平洋戦争は日本の降伏によって終戦となり、連合国側の勝利で終わりました。

 

 

 

太平洋戦争をわかりやすく解説② 開戦日は1941年12月8日で終戦は1945年8月〜9月

 

出典:https://mainichi-kotoba.jp/

 

太平洋戦争の開戦日は、「1941年12月8日」です。

 

1941年12月8日の未明、日本軍はマレー半島のコタバルに上陸し、ハワイオアフ島にあったアメリカ海軍の太平洋艦隊基地への空母艦載機による奇襲攻撃を仕掛けました。

 

これ以前から、日本軍は大陸で中華民国と戦争状態(日中戦争)にありましたが、太平洋戦争の開戦日はこの1941年12月8日です。

 

また、太平洋戦争の終戦日は日本側では、日本政府(玉音放送)により、ポツダム宣言の受諾と降伏が国民に向けて公表され、全日本軍部隊に向けての武装解除と投降命令が出され、連合国側も戦闘行為を停止した1945年8月15日とされています。

 

なお、終戦日については、連合国側の多くの国では日本政府が降伏文書に調印した1945年9月2日とされています。

 

 

 

太平洋戦争をわかりやすく解説③ 開戦に至った原因やきっかけ

 

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太平洋戦争の口火を切ったのは日本でしたが、なぜ日本が開戦を決断したのか、それに至った原因やきっかけについてもわかりやすく解説します。

 

 

太平洋戦争の原因ときっかけ① 日中戦争の泥沼化

 

太平洋戦争の開戦日から見て4年以上前から、日本は中華民国(中国)との間に日中戦争を戦っていましたが、アメリカやイギリス、ソ連などが中国軍を支援したため戦火が拡大して全面戦争となり泥沼の様相を呈していました。

 

日本軍部は、日中戦争を勝利によって終結させるためには、米英ソによる中国軍への補給路を遮断する必要があると考え、その目的のために南部進出(仏印進駐)と、その後のドイツ(ナチス政権)とイタリア(ムッソリーニ政権)との三国同盟締結(日独伊三国同盟)を押し進めました。

 

アメリカは日本のこの動きに強く反発し、段階的に経済制裁を強めて日本軍の中国からの撤兵と三国同盟の破棄を求めるなど対立が強まりました。

 

こうした動きの中で、日本の国内世論も次第に対米英開戦やむなしという雰囲気が強まり、日米交渉決裂と太平洋戦争開戦へとつながっていきました。

 

 

太平洋戦争の原因ときっかけ② アメリカと周辺国による禁輸措置

 

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大陸への進出を強める日本に対して、アメリカとイギリス、中国、オランダは連携して、1930年代後半(1935年頃)から、経済制裁(経済封鎖)を強め、石油や屑鉄などの輸出規制を強める包囲網(ABCD包囲網)を敷きました。

 

当時、日本は国内で必要な石油のほとんどをアメリカからの輸入に頼っていたため、政府はこのまま禁輸措置が強化されれば、国力はジリ貧状態になり、国体を保つ事は困難になるという危機感を抱くようになります。

 

そこで、日本政府及び軍部は、新たに石油を確保する方法として、アジア最大の石油の産出地帯であったオランダ領東インド(蘭印)の獲得を目指す方針へと傾きました。

 

そして、1941年7月の日本軍の南部仏印進駐をきっかけにして、アメリカによる石油の全面禁輸措置が発動されると、日本政府は武力行使によって蘭印の石油地帯を獲得する事を決断しました。

 

 

太平洋戦争の年表① 1941年(マレー半島上陸、真珠湾攻撃、フィリピン上陸)

 

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続けて、太平洋戦争を年表形式で時系列順に見ていきます。なお、日時は全て日本時間です。

 

 

1941年12月8日、マレー作戦開始

 

当時イギリスの植民地であったマレー半島のコタバルに、日本軍部隊が上陸し英印軍との戦闘が開始されました。

 

同時に日本軍は仏印と国境を接するタイへの進駐も開始し若干の戦闘が発生した後、全域を支配下に置いています。さらにその後、日本軍は12月中にタイの先にある、事実上イギリスの植民地だったビルマ国(現在のミャンマー)へも侵攻を開始しています。

 

 

12月8日、真珠湾攻撃

 

出典:http://historyjapan.org/

 

マレー半島上陸とほぼ時を同じくして、空母6隻を基幹とした日本海軍の機動部隊が、ハワイ・オアフ島のアメリカ海軍太平洋艦隊の基地に奇襲攻撃を仕掛けました。艦載機350機による攻撃により、アメリカ太平洋艦隊は戦艦4隻が沈没4隻が大きな損傷を受け、多数の航空機が地上破壊される大損害を受けました。

 

 

12月8日〜、米領フィリピンへの日本軍の攻撃が開始される

 

同じく12月8日、日本軍はアメリカの植民地だったフィリピンを航空攻撃し、続けて順次上陸作戦が開始され、12月中にダバオ市などが日本軍に占領されています。

 

 

12月10日、マレー沖海戦

 

仏印の地上基地から出撃した日本海軍の陸上攻撃機85機が、イギリス東洋艦隊の主力戦艦、プリンス・オブ・ウェールズとレパルスをマレー沖で撃沈しました。

 

また、12月25日には、イギリス領であった香港が日本軍によって占領されています。

 

 

 

太平洋戦争の年表② 1942年前半(シンガポール、蘭印、ビルマを日本軍が攻略)

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

 

1942年1月2日、フィリピン・マニラを日本軍が占領

 

1942年1月2日、日本軍はフィリピンの首都・マニラの占領に成功しています。

 

アメリカ軍とフィリピン軍はバターン半島とコレヒドール島に撤退して抵抗を続けました。

 

 

1942年1月11日〜、蘭印作戦が開始され、3月までに全域が日本軍に占領される

 

1月11日、日本軍による蘭印作戦が開始され、オランダの植民地だった、ボルネオ島、ジャワ島、スマトラ島への侵攻が順次開始されました。同年3月9日には蘭印政府が降伏し、日本軍が蘭印全域の占領に成功しています。

 

 

1942年2月15日、シンガポールを日本軍が占領

 

一方、太平洋戦争開戦と同時に始まった日本軍によるマレー半島攻略作戦は、日本軍にとって順調に推移し、2月15日にはイギリス軍のアジアにおける重要拠点であったシンガポールが陥落しています。これにより日本軍はマレー半島のほぼ全域を占領下に置きました。

 

 

1942年3月8日、ビルマの首都・ラングーンを日本軍が占領

 

3月8日には、ビルマ(現在のミャンマー)の首都・ラングーンを日本軍が占領しています。その後、5月末までに日本軍はビルマの全域を占領下に置いています。

 

 

1942年2月〜4月、日本軍がニューギニアへの侵攻を開始

 

一方、太平洋方面でも日本軍は作戦を展開し、ニューブリテン島のラバウル(オーストラリアの委任統治領)を2月までに占領し、3月8日にはニューギニアのラエとサラモアに上陸しています。

 

その後、ニューギニアでは日本軍と連合軍との激しい攻防が繰り広げられるようになり、太平洋戦争中でも激戦地の1つとなりました。

 

 

1942年5月4日〜8日、珊瑚海海戦

 

1942年5月、日本軍はニューギニアの重要拠点、ポートモレスビーを攻略を目的とした「MO作戦」を発動しました。

 

この作戦には、日本海軍は「翔鶴」、「瑞鶴」、「祥鳳」の3隻の空母を動員して航空支援にあたらせました。一方のアメリカ軍も、「レキシントン」と「ヨークタウン」の空母2隻を出撃させました。

 

5月4日、歴史上初となる空母同士の海戦「珊瑚海海戦」が勃発。互いに艦載機を出撃させての激戦となり、日本軍は軽空母「祥鳳」が撃沈され、アメリカ軍は空母「レキシントン」が撃沈されています。

 

 

太平洋戦争の年表③ 1942年後半(ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦い)

 

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1942年6月5日〜7日、ミッドウェー海戦

 

日本海軍はアメリカ海軍の太平洋の重要拠点であったミッドウェー島の占領と、誘い出した空母部隊壊滅させる事を目的とした「MI作戦」を立案し、1942年5月27日に発動しました。

 

日本海軍は空母4隻を基幹とする機動部隊と、戦艦を中心とした主力部隊、ミッドウェー島上陸部隊とその護衛艦隊などをミッドウェー方面へと出撃させました。

 

一方、アメリカ軍は暗号解読と諜報活動によってこの日本側の作戦を事前に察知しており、空母3隻を主力とした機動部隊をミッドウェー島支援のために出撃させました。

 

6月5日、日本艦隊は作戦計画通り、ミッドウェー島への空襲を行いますが、ミッドウェー島の基地航空隊の反撃にあって断続的な航空攻撃を受けて指揮が混乱。その隙をアメリカ軍の空母部隊の艦載機に攻撃され、「赤城」、「加賀」、「蒼龍」の空母3隻が炎上し、その後沈没しています。

 

また、1隻だけ離れたところにいたために最初の攻撃を免れた空母「飛龍」は単独で反撃を行い、航空隊がアメリカ軍の空母「ヨークタウン」を大破(その後、潜水艦の攻撃を受けて沈没)させましたが、その後、アメリカの空母艦載機の攻撃を受けて撃沈されています。

 

このミッドウェー海戦での敗北により、日本海軍は空母4隻と艦載機および熟練のパイロット多数を失い、太平洋での作戦の主導権をアメリカ軍に奪われました。

 

 

1942年8月〜、ガダルカナル島の戦いが開始

 

ミッドウェーでの敗戦後、日本軍はニューギニアの東に位置するソロモン諸島・ガダルカナルに進出して飛行場を建設し制空権を確保しようと考えました。

 

1942年8月7日、アメリカ軍はガダルカナル島の飛行場建設を阻止するために、同島に海兵隊を奇襲上陸させた事でガダルカナル島の戦いが始まりました。

 

ガダルカナル島はその後、双方が援軍を送り込み大激戦地となり消耗戦となって双方に大きな損害が生じましたが、これは国力に劣る日本軍にとっては致命的な損害となり、太平洋戦争における攻守の転換点となりました。

 

また、ガダルカナル島周辺海域では12月までの間に6度の海戦(ソロモン海戦など)が発生し、両軍ともに多くの損害を出しています。

 

 

太平洋戦争の年表④ 1943年(アメリカ軍の反撃が本格化)

 

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1943年2月、ガダルカナル島から日本軍が撤退

 

1943年2月、半年にわたる攻防戦が続いていたガダルカナル島からついに日本軍が撤退します。

 

 

1943年3月〜11月、アメリカ軍のソロモン諸島の攻略を経てラバウル無力化

 

ガダルカナル島からの日本軍撤退後、アメリカ軍は順次ソロモン諸島を攻略し、日本軍の重要拠点であったラバウル基地を空襲して同年11月までに無力化しています。

 

 

1943年5月、アッツ島の日本軍が玉砕

 

同年5月には、アリューシャン列島のアッツ島の日本軍が米軍の攻撃を受けて玉砕しました。

 

 

1943年11月、ギルバート諸島陥落

 

アメリカ軍の反攻作戦が本格化し、1943年11月に、中部太平洋ギルバート諸島のタラワとマキンがアメリカ軍の上陸を受けて陥落しています。

 

 

太平洋戦争の年表⑤ 1944年(マーシャル諸島陥落、インパール作戦、サイパン島陥落)

 

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1944年1月〜2月、マーシャル諸島陥落

 

ギルバート諸島を陥落させたアメリカ軍は、その北西に位置するマーシャル諸島(日本の委任統治領だった)の攻略に移り、1944年1月〜2月にかけて主要な島を陥落させています。

 

さらに、2月にはアメリカ軍はこのマーシャル諸島を拠点として、日本軍の太平洋における最重要拠点だったトラック島を空襲し、同基地の航空兵力を壊滅させ、日本軍は中部太平洋における制空権と制海権を喪失させました。

 

 

1944年3月〜5月、インパール作戦の失敗でビルマ方面の日本軍が壊滅状態に

 

一方、ビルマ方面では日本軍とイギリス軍の戦闘状態が続いていました。

 

ビルマ方面軍司令官だった牟田口廉也中将は戦況の逆転を狙い、ビルマ・インドの国境の要衝で、英印軍の拠点だったインパールの攻略目指す「インパール作戦」を実施しますが、大軍に難路を無理矢理突破させるという無謀な作戦計画に加えて、その後の補給も全く考慮されていなかったため、日本軍は弾薬も食料も枯渇して壊滅しました。

 

日本軍の参加兵力約85000名のうち約30000名が戦死、または戦病死し、さらに約20000名の戦病者と負傷者が後送を余儀なくされ、ビルマ方面の日本軍は実質壊滅状態となりました。

 

 

1944年6月〜7月、サイパン島の日本軍が玉砕

 

1944年5月26日、アメリカ軍はサイパン島攻略のための合計500隻を超える大艦隊を真珠湾から出撃させました。

 

サイパン島には日本軍の大部隊が配備され防備を固めていまたが、アメリカ軍は6月11日から1100機〜1400機もの航空機での空襲を加え、その後、猛烈な艦砲射撃を数日にわたって加えた後に上陸作戦を行いました。

 

日本軍守備隊は激しい抵抗を行いアメリカ軍を苦戦させましたが、7月9日までに玉砕(全滅)しています。

 

また、このサイパン戦の中、6月19日から20日にかけて、アメリカ機動部隊の撃滅を狙う日本軍空母機動部隊(再編された空母9隻からなる部隊)とアメリカのサイパン攻略艦隊との間で「マリアナ沖海戦」が発生しましたが、日本側が空母3隻と艦載機400機近くを失い、一方的な敗戦に終わりました。

 

 

1944年9月〜11月、ペリリュー島の戦い

 

1944年9月15日、日本軍の重要拠点パラオ諸島南西のペリリュー島にアメリカ軍が上陸しました。ペリリュー島の日本軍守備隊は頑強な抵抗を行い、アメリカ軍に多大な損害を強いましたが11月27日に玉砕しています。

 

 

1944年10月〜、米軍のフィリピン上陸、レイテ沖海戦で日本海軍が事実上壊滅

 

1944年10月、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島への上陸を開始しました。

 

これに対して日本海軍は残された主力艦隊を投入してレイテへと向かわせ、アメリカ艦隊との間に「レイテ沖海戦」が発生しました。この海戦で日本海軍は空母3隻、戦艦3隻を含む、主力艦のほとんどを喪失して敗北し、これをもって日本海軍の戦力は事実上壊滅しました。

 

フィリピンでは、日本軍守備隊と上陸したアメリカ軍、そして蜂起したフィリピンゲリラとの間で激しい戦いが繰り広げられています。日本軍守備隊は一時的に制空権を確保した航空隊の活躍などもあり、アメリカ軍を苦戦させましたが、圧倒的な戦力差の前に次第に追い詰められました。

 

フィリピンでの戦闘は終戦日の1945年8月15日まで続きました。

 

 

 

太平洋戦争の年表⑥ 1945年(硫黄島の戦い、沖縄戦、原爆投下と終戦)

 

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1945年2月〜3月、硫黄島の戦い

 

1945年2月19日、アメリカ軍が小笠原諸島の硫黄島に上陸し「硫黄島の戦い」が起こりました。

 

日本軍は硫黄島を要塞化してアメリカ軍を迎え撃ち甚大な損害を与えましたが、3月26日に総司令官の栗林忠道中将以下残存兵力300人余りでの突撃が行われ守備隊のほぼ全員が戦死し、硫黄島は陥落しています。

 

 

1945年3月〜9月、沖縄戦

 

硫黄島が陥落した1945年3月、アメリカ軍は沖縄への攻撃も開始しています。

 

アメリカ軍は、激しい航空攻撃と空襲、周辺の島への上陸占領などを行った上で1945年4月1日に沖縄本島への上陸を開始しました。

 

沖縄戦での組織的な戦闘は6月23日に終わりましたが、その後も散発的な抵抗が続き、終戦日である1945年8月15日の後にも戦闘が続いていました。

 

沖縄は太平洋戦争でも最大の激戦地となり日本軍兵士の戦死者(約8万人)を超える約10万人もの民間人の犠牲者を出し、アメリカ軍側も2万人もの死者を出すなどあまりにも悲惨な戦場となりました。

 

 

1945年8月6日に広島に、8月9日に長崎に原爆が投下される

 

出典:https://il-data.s3-ap-northeast-1.amazonaws.com/

 

1945年8月6日に広島に、8月9日に長崎に原子爆弾が投下されました。

 

この原爆投下により、広島では推計で9万人から16万6千人が、長崎では6万人から8万人の方が亡くなりました。

 

 

1945年8月9日、突如としてソ連軍が国境を超えて満州へ侵攻

 

長崎に原爆が投下される直前の1945年8月9日の未明、突如としてソ連軍が日ソ中立条約を一方的に破棄し、満州国境を越えて侵攻を開始しました。これは、ヤルタ会談でソ連と連合国との間に「千島列島をソ連に引き渡す代わりに、ドイツ降伏後3か月以内にソ連は対日宣戦布告をする」という密約があったためでした。

 

満州国境には日本陸軍の精鋭といわれた関東軍が配備されていましたが、太平洋方面に大半の戦力を引き抜かれて弱体化しており、一部の部隊は奮戦したものの、ソ連軍の侵攻を食い止める事はできずに敗北し、現地の居留民にも膨大な数の犠牲者が出ました。

 

その後、ソ連軍は樺太と千島列島にも侵攻して占領しました。この時にソ連軍が占領した千島列島のうち、択捉島、国後島、色丹島、歯舞群島がいわゆる北方領土で、日本政府はこの4島を日本の固有の領土と主張してロシア政府に返還を求めていますが、解決の目処は立っていません。

 

 

1945年8月15日、玉音放送

 

出典:https://www.nhk.or.jp/

 

ソ連に対米講和の仲介を依頼するという最後の希望も絶たれた日本政府は1945年8月14日にポツダム宣言(日本に降伏を求めるアメリカ、イギリス、中華民国による宣言)を受諾しました。

 

翌8月15日に、昭和天皇の肉声でポツダム宣言を受諾した事が全日本国民に向けてラジオ放送で表明されました。(いわゆる玉音放送)

 

これによって、全日本軍の戦闘行為が停止されましたが、この後もソ連軍の侵攻は止まずに千島列島の日本軍との交戦が続きました。

 

 

1945年9月2日、日本国政府が降伏文書に調印し終戦

 

 

玉音放送後の1945年9月2日、東京湾に停泊するアメリカ軍の戦艦「ミズーリ」の艦上で、日本政府の重光葵外務大臣と梅津美治郎参謀総長による連合国に対する降伏文書への調印がなされました。これにより、太平洋戦争(および第二次世界大戦)が終結しました。

 

なお、この降伏文書調印後もソ連軍は侵攻を止めず、満州全域と朝鮮半島北部、南樺太、千島列島全域を支配下に置いた9月5日になってようやく戦闘行為を停止しています。

 

 

太平洋戦争で日本がしたこと① 資源獲得のための侵略戦争

 

ここまで太平洋戦の開戦日から終戦までの経緯について年表形式でざっと紹介しましたが、この太平洋戦争で日本がした事については色々な意見があります。

 

太平洋戦争に至るまでの経緯(世界恐慌からブロック経済化の流れと日本に対する経済封鎖)を見れば、日本は国の経済を維持するためには植民地獲得のための戦争(日中戦争)を継続する必要があり、それに反対する欧米諸国に対抗する必要もある。そして、そのために必要な資源を獲得するために南方の資源地帯の獲得を目指したという流れは明白です。

 

なので、太平洋戦争で日本がしたことは資源獲得のための侵略戦争だといえます。ただ、日本が武力侵攻した資源地帯は既にイギリスやフランス、オランダなどの大国から植民地支配を受けていた地域なので列強国との植民地の争奪戦ともいえ、現在の国際社会の感覚でいうところの「侵略行為」とは少しニュアンスが異なります。

 

 

太平洋戦争で日本がしたこと② 欧米の植民地支配からアジアを解放した説

 

一方で、日本(大日本帝国)は、太平洋戦争(大東亜戦争)の大義名分として「植民地化されたアジアの解放」を掲げていました。

 

この事から、太平洋戦争で日本がしたことはアジアの国々を欧米諸国の植民地支配から解放を目指した正義の戦争だったと主張する人も一部存在します。

 

第二次世界大戦後、世界中の植民地に独立の流れが生まれました。太平洋戦争で日本がしたことをアジアの植民地解放戦争だったと主張する人々は、こうした動きも日本が作り出したものと主張しています。

 

一時はこの主張はかなり多くの人々に受け入れられていましたが、最近では流石に無理がある理屈だという事で、日本人の間でも否定的な意見が増えてきています。

 

 

太平洋戦争の戦死者数は日本軍が200万人超、連合軍が400万人超と推計

 

太平洋戦争での戦死者数は日本軍(軍人、軍属で民間人を除く)で200万人を越えると推計されています。また、太平洋戦争での連合国側の戦死者数は400万人以上と推計されています。

 

なお、この戦死者数は太平洋戦争勃発以前の満州事変や日中戦争での戦死者も含んだ推計数です。

 

 

太平洋戦争の激戦地① ガダルカナル

 

出典:https://rekishi-memo.net/

 

太平洋戦争の激戦地としては、太平洋戦争のターニングポイントの1つに数えられる「ガダルカナル」があげられます。

 

ガダルカナル島は、日本軍と連合軍が互いに次々と増援を送り込み太平洋戦争が始まってからはじめての本格的な消耗戦となりました。特に日本軍は戦力を分散投入したため各個撃破される形になって多大な損失を出しました。

 

ガダルカナルの戦いは、1942年8月から1943年2月まで約半年にわたって繰り広げられ、日本側の戦死者が約2万人(半分以上が餓死や病死)、連合国側の戦死者が約7100人でした。

 

 

太平洋戦争の激戦地② サイパン島

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

サイパン島も太平洋戦争屈指の激戦地でした。

 

日本軍はサイパン島を「絶対国防圏」の1つと定めており、アメリカ軍の襲来に備えて、3万人を超える大戦力が送り込まれていました。

 

1944年6月、そこへ総兵力約13万人のアメリカの大上陸艦隊が襲来して大激戦地となりました。

 

圧倒的な火力で攻撃するアメリカ軍に対して、日本軍は肉弾戦術も交えて徹底的に抗戦し、双方に多大な戦死者が出ました。

 

サイパン島での日本軍側の戦死者は約3万人(ほぼ全滅)、連合国側の戦死者も3551名にのぼりました。

 

 

太平洋戦争の激戦地③ 硫黄島

 

出典:https://www.jiji.com/

 

小笠原諸島の硫黄島も太平洋戦争の最激戦地の1つとして知られています。

 

防衛の総司令官の栗林忠道中将は、硫黄島を徹底的に要塞化して防衛体制を整え、日本軍守備部隊は圧倒的な火力を備えた数倍の上陸部隊を相手に粘り強く抗戦して、連合軍側に多大な損害を強いました。

 

硫黄島の戦いでの日本軍側の戦死者は約2万(ほぼ全滅)、連合軍側の戦死者は6821人でした。

 

 

太平洋戦争の激戦地④ 沖縄

 

出典:https://www.jiji.com/

 

太平洋戦争通じて最大の激戦地となったのは間違いなく沖縄です。

 

沖縄本島が主戦場となり、民間人の徴用も含めて10万人近い日本軍と、延数で30万人近い連合軍の上陸部隊が戦いました。

 

日本軍の組織的な戦闘は2ヶ月半にわたって続き、その後も残存兵力による散発的な戦闘が1945年9月頃まで続きました。

 

日本軍側の戦死者は約8万人、連合軍側の戦死者も1万5千人〜2万人にのぼりました。

 

そして何よりも、沖縄戦では20万人を超える民間人が犠牲になりました。

 

 

太平洋戦争下での人々の暮らし① 食料や生活必需品は配給制になった

 

出典:http://www.pcf.city.hiroshima.jp/

 

戦況が逼迫するにつれて、太平洋戦争中の日本国内の人々の暮らしも悲惨なものになっていきました。

 

食料や衣服や燃料などの生活に必要なものは配給制になって自由に手に入らなくなり、「欲しがりません勝つまでは」、「ぜいたくは敵だ」などといったスローガンが盛んに宣伝されました。

 

また食料が不足が深刻化するにつれて小学校の校庭にまで畑が作られて、子供達が作物を育てました。

 

 

太平洋戦争下での人々の暮らし② 思想が統制され監視社会が作られた

 

出典:https://www.asahicom.jp/

 

国のための滅私奉公が促され、国民には物資の供出や勤労奉仕、防空演習などが義務付けられました。10戸を単位とした「隣組」が組織され国家への協力体制の管理と相互監視の体制が作られました。

 

こうした空気に異議を唱えたり、戦争自体に批判的な発言をした者は「非国民」などといわれて社会的な攻撃を受け、場合によっては逮捕され罰せられました。

 

 

まとめ

 

今回は1941年から1945年まで日本軍とアメリカを中心とした連合国との間で戦われたか「太平洋戦争」について年表などでわかりやすくまとめてみました。

 

太平洋戦争の開戦日は1941年12月8日で、この日の日本軍によるマレー半島への上陸と真珠湾攻撃によって始まりました。その後、1942年前半までは日本軍の攻勢が続きましたが、ミッドウェー海戦とガダルカナル島の戦いを契機にして連合軍の反撃が始まり、1945年8月に日本の降伏によって終戦を迎えました。

 

太平洋戦争の原因やきっかけは、世界恐慌によるブロック経済化の流れの中にあって、植民地の拡大を目指して中国大陸に侵攻した日本に対して、アメリカを中心とした連合国が経済封鎖を行った事でした。

 

太平洋戦争で日本がしたことは、基本的には資源を獲得するための侵略戦争ですが、戦争に至るまでの経緯を客観的にみれば、そうせざるを得ない状況にまで追い込まれたともいえます。

 

太平洋戦争での戦死者は日本側が約200万人、連合国側が約400万人と推計されています。

 

太平洋戦争の激戦地としては、ガダルカナル島やサイパン島、硫黄島や沖縄などが挙げられます。

 

太平洋戦争中の人々の暮らしも悲惨で、食料や衣服は配給制になり、国民には国家への滅私奉公が義務付けられ、それに異議を唱えたり戦争に反対するものは徹底的に攻撃されました。

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