多くの犠牲者を出した東京大空襲ですが、その被害範囲や凄惨な遺体状態について日本人の記憶が薄れつつあります。
今回は東京大空襲の被害範囲や死者数、遺体の行方、皇居の被害や体験談など、「なぜ?」をわかりやすく解説します。
この記事の目次
東京大空襲とは…2時間足らずで10万人を焼き殺した大虐殺】
「民間人への攻撃は非人道的かつ野蛮である」
第2次世界大戦が欧州で勃発した1939年、当時の米国大統領、フランクリン・ルーズベルトは参戦した各国政府に対して、上記のように呼び掛けました。
が、しかし!そのたった6年後の1945年3月10日のこと。
たった2時間足らずの間に、10万人もの民間人を焼き殺した“大虐殺行為”が、そのアメリカ軍により行われたのです。
このアメリカ軍による大虐殺は、一般に「東京大空襲」と呼ばれています。
右上に流れる川は隅田川で、手前の丸い屋根の建物は両国国技館です。
人間の歴史上、こんなに短時間の内に10万人もの人命が失われたことなどありませんでした。
まさに、「未曾有の」とか「空前の」などといった言葉では、到底形容できないほどの大虐殺行為が行われたのです。
そして、この大虐殺の指揮を執ったのがこの人。
ルメイは後年、北朝鮮とベトナムへの空爆を行い、1962年10月のキューバ危機ではソ連への核による先制攻撃を執拗に主張した殺人鬼です。
当時の日本の総理大臣・小磯国昭は、ルメイを「もっとも残酷、野蛮なアメリカ人」と激しく非難しました。
するとラジオ東京は、空襲を「虐殺」と断じ、ルメイを現代のローマ皇帝ネロと比喩して次のように報じています。
「東京の住宅街と商業街を囲む炎の海は、皇帝ネロによるローマ大火の大虐殺を彷彿とさせる」
出典:https://twitter.com/
しかし、ルメイはその後も手を緩めませんでした。
3月11日に名古屋、3月13日には大阪、さらに3月16日は神戸、そして3月18日は再び名古屋…と東京大空襲同様の無差別絨毯爆撃を繰り返し、文字通り日本全土を火の海にしたのです。
これを受けて当時の朝日新聞などは、次のような思いつく限りの誹謗と罵倒を新聞紙上で浴びせたました。
「やりをったな、カーチス・ルメー」
「暴爆専門、下劣な敵将」
「嗜虐性精神異常者のお前は、焼ける東京の姿に舌舐めづりして狂喜してゐるに相違ない」
「われわれはどうあつてもこのルメーを叩つ斬らねばなるまい」
まるで現代の北朝鮮並みの罵詈雑言です。かつて我が日本が、これほどまでに取り乱したことはあったでしょうか…。
東京大空襲はなぜ起きた?
そこで今回、そんな東京大空襲について…
・なぜそれほどまでに被害が広がったのか?
・なぜアメリカ軍は10万人もの民間人を虐殺する必要があったのか?
出典:https://antsuan.exblog.jp/
など、東京大空襲にまつわる「なぜ?」についてわかりやすく解説するとともに、空襲の範囲や死者数、東京大空襲で亡くなった10万人もの遺体の行方、そして皇居の被害をまとめました。
まずは、東京大空襲の概要について、時系列に沿って整理することにより、東京大空襲による被害がなぜこれほどまでに大きなものになったのかについて考えてみたいと思います。
東京大空襲の「なぜ?」をわかりやすく解説① 被害が広がった理由とは?
カーチス・ルメイがアメリカ軍の戦術を変えた
東京大空襲以前、つまり1945年2月までの空襲は、約1万メートルの高度から特定の目標を狙い撃ちする爆撃法、いわゆる「高高度精密爆撃」という戦術がとられていました。
出典:https://www.asahi.com/
攻撃の目標となったのは、あくまで軍需工場や軍事関連施設で、商業地や住宅地は例外的だったのです。
しかし、日本上空を西から東に流れる偏西風の影響と、悪天候による視界不良により、爆弾の目標への命中率はわずか20%にとどまり、アメリカ軍は十分な成果を上げられませんでした。
そんな中、日本への爆撃部隊の司令官として抜擢されたのが、ヨーロッパ戦線でドイツ爆撃に成果を上げた、カーチス・ルメイ少将だったのです。
ルメイは「高高度精密爆撃」の成果が上がらないと見ると、約1500~2400メートルの超低空からの爆撃に変更するなど、戦術の大幅な転換を行ったのです。
中でも最も重要だったのが焼夷弾の使用でした。木造の建物が密集して建っている東京の建築事情を考慮して、B-29に搭載する全ての爆弾をより有効な焼夷弾としました。
さらに、B-29の防御用機銃を全て取り外し、燃料も最小限にすることで、軽くなった機体の分だけ目いっぱい焼夷弾の搭載するという徹底ぶり。
また、それまでの空襲は目標が確認しやすい昼間に行われていたのに対し、防御用機銃を取り外していることから、日本軍が防御体制を取りにくい夜間爆撃に変更しました。
この超低空からの夜間焼夷弾爆撃作戦が、史上初めて実行されたのが…1945年3月10日の東京だったのです。
ルメイはこの出撃に際して、自らも作戦機に搭乗し、空中指揮をとることも考えたようです。
しかし、ルメイは原子爆弾の開発計画「マンハッタン計画」の概要を聞いており、撃墜され捕虜となり尋問されるリスクを考え、部下のトーマス・パワー准将を代わりに出撃させています。
アメリカ軍は風の強い夜を選び、民間人の寝込みを襲った…
1945年3月9日、この日は午後から風が強くなり、夜になると突風が吹き荒れていたと言います。
先行した4機のB-29がが房総海岸近くの海上で、約1時間半に渡って旋回しながら日本本土に接近している本隊を無線誘導していました。
出典:https://www.cnn.co.jp/
強風で日本軍の監視レーダーはほとんど役に立っていない状況でしたが、防空監視哨が、勝浦市南方に現れた4機のB-29を発見、9日22時30分、ラジオ放送を中断し、警戒警報を発令します。
しかし、間もなく4機のB-29が房総半島沖に退去した(実は無線誘導のために旋回していただけ)ことが確認され、警戒警報を解除してしまうんですよね。
警報から解放され、多くの民間人が眠りについたちょうどその時、先行した4機のB-29に誘導されてやってきた300機以上からなるB-29の大編隊が日本本土に到達。
大音響とともに焼夷弾の雨を降らせたのです。
出典:https://ja.wikipedia.org/
ちなみに…このB-29の大編隊は、アリアナ諸島に配備されたB-29のほぼ全勢力だったと言います。
日付が変わった直後の3月10日午前0時8分、雨あられのような容赦ない爆撃が開始されましたが、空襲警報が鳴り響いたのは0時15分で、爆撃が始まって7分後のことだったのです。
この空襲での爆弾の量は実に38万1300発、総計1,665トンにも上りますが、その全てが焼夷弾でした。
地面に落下すると炸裂してナパーム(ガソリンをグリセリンなどと混合してドロドロの油脂にしたもの)を飛散させる焼夷弾の集中豪雨の前には、バケツリレーなど無意味です。
出典:https://www.cnn.co.jp/
折からの強風にあおられ、火災はさらに激しさを増します。広範囲で火災が発生すると、その範囲内では酸素を消費するため、周囲から火災発生地帯に向け空気が猛烈な勢いで流れ込みます。また、大火災により激しい上昇気流が発生し、火炎もろとも周囲の人や物を上空に押し上げる現象も発生。このような一連の現象により、空襲の現場では、巨大な炎が突風に押し流されて街を走り回り、渦を巻く現象があちらこちらで起きました。
引用:東京大空襲(2)-2時間で10万人の市民を焼き殺した焼夷弾の大量投下 – 太平洋戦争とは何だったのか http://historyjapan.org/
まさに火炎地獄ですね。このような現象を「火災旋風(かさいせんぷう)」と言い、1923年の関東大震災や広島・長崎の原爆投下などでも確認されています。
出典:https://prepper.jp/
また、東京には、隅田川や荒川といった大きな河川だけでなく、無数の運河が流れているのですが、火災による熱から逃れようと、逃げ場を失った多くの市民が水の中へ飛び込みました。
しかし、そんな川の水面にも焼夷弾から飛散したガソリンにより引火し、さながら「燃える川」と化していたと言われています。
また、たとえ水中に逃れても3月上旬の水温は氷が張るほどに冷たく、防火用の厚い服装は水中での身動きを封じ、凍死や溺死する人が続出。
翌朝の隅田川・荒川には焼死・窒息死・中毒死・凍死・溺死体で水面が溢れていたとも…。
出典:https://ameblo.jp/
東京大空襲は約2時間後に終了し、午前2時37分にはアメリカ軍機の退去により空襲警報は解除されました。
ですが、その後も火の勢いはとどまるところを知らず、火災は10日の夜まで続いたと言います。
東京大空襲の範囲や死者数などの被害状況
東京大空襲の範囲は東京の3分の1に及んだ
東京大空襲でアメリカ軍が爆撃目標としたのは、東京市街地の東半分、現在の行政区分で言うと台東区、墨田区、江東区、中央区のあたりでした。
出典:http://historyjapan.org/
たった2時間あまりの空襲だったにもかかわらず、実に東京35区の3分の1以上の面積に当たる約41平方キロメートルが消失しました。
東京大空襲の死者数・負傷者数・被災者数などの被害状況
当時の警視庁の調査による東京大空襲の被害は次の通りです。
・死亡: 83,793人
・負傷者: 40,918人
・被災者: 1,008,005人
・被災家屋: 268,358戸
引用:東京大空襲 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/
出典:https://www.cnn.co.jp/
死者数が負傷者の倍以上に及んでる点だけとっても、いかに東京大空襲が凄まじかったかがわかりますね。
しかし、実際の被害はこんなものではなかったと言われており、一説には死者数は10万人、負傷者も11万人に及んだとも…。
と言うのも、上記の警視庁がまとめた被害は、早期に遺体が引き取られた者を含んでおらず、それ以外にも、行方不明者が数万人規模で存在するとも言われています。
東京大空襲は、単独の空襲による犠牲者数は世界史上最大です。
東京大空襲の「なぜ?」をわかりやすく解説② 10万人の民間人を虐殺した理由とは?
東京大空襲に関するアメリカ軍の「戦術作戦任務報告書」には、爆撃目標となった地域は「日本の兵器産業を含む大企業が支配・経営する場所」と記されていたと言います。
出典:https://togetter.com/
しかし、爆撃目標となった場所には「築地市場や中央卸売市場」「神田青果市場」など、工業・軍事目標とは程遠い場所も含まれていたんですよね。
その一方で、B-29が上空を通過し、明らかな工業・軍事目標となるべき東京湾岸の造船所や工業地帯の被害は軽微でした。
と言うことは…東京大空襲でのアメリカ軍の爆撃目標は、あくまで東京の中でも木造住宅が密集している下町であったことは間違いありません。
前述のように、下町をその実態とはかけ離れた「日本の兵器産業を含む大企業が支配・経営する場所」とみなしたことは、すなわち“無差別爆撃の正当化”であり、アメリカ軍の本来の目的は…
下町地域に暮らす民間人を大量殺戮することで、日本国民の「戦意の喪失」を目的にしたものである。
と、言われています。
東京大空襲で亡くなった10万人もの遺体のゆくえとは?
たった2時間の間に、東京の3分の1を焼き払った東京大空襲。
一夜明けた東京の下町は、文字通り一面の焼け野原と化し、町のいたるところには遺体が散乱していたと言います。
出典:https://ja.wikipedia.org/
しかし、多数の遺体を放置したままでは衛生上大きな問題がありますし、第一、国民の士気がダダ下がりになり、戦争を継続することが難しくなります。
そこで軍部は急いで、都内のあちこちの公園や学校、寺、空き地などに遺体を「仮埋葬」したんですよね。
財団法人東京都慰霊協会が1982年に発行した冊子「戦災殃死者改葬事業始末記」には、71カ所の仮埋葬地が記されています。
そして、この71ヶ所に仮埋葬された遺体は、敗戦後の1948年から3年かけて掘り起こされたのですが、その大部分は引き取り手がなく、東京・両国の慰霊堂に安置されていると言います。
東京大空襲で皇居に被害はあった?
さすがのアメリカ軍も、皇居への攻撃は意図的に控えていたようで、東京大空襲でも被害を免れています。
しかし、東京大空襲後の5月25日の空襲で、皇居の半蔵門に焼夷弾を誤爆しています。
それによる火災は表宮殿から奥宮殿に延焼し、皇居内の建物の28,520平米のうち18,23平米を焼失しています。
また、この誤爆により、御文庫附属庫に避難していた昭和天皇・皇后両陛下はご無事でしたが、宮内省の職員ら34名と近衛師団の兵士21名が死亡しています。
さらに7月20日にも、皇居は原子爆弾投下の演習として全国各地に投下されていたパンプキン爆弾の目標にもなっています。
この攻撃は、原子爆弾投下訓練のため東京上空を飛行していた、クロード・イーザリー少佐と、副航空機関士ジャック・ビヴァンスの独断によるものでした。
天皇の殺害を企てた攻撃でしたが、幸い、当日の皇居上空は雲が立ちこめており、パンプキン爆弾は八重洲口側の皇居の堀に着弾。ただ、死者1人と負傷者62人を出しています。
上記画像は、1945年8月9日に長崎に投下された原子爆弾「ファットマン」の模擬爆弾です。その独特の色から「パンプキン」と名付けられたようです。
日本のラジオ放送で皇居爆撃の事実を知った爆撃団司令部により、イーザリーらは厳しく叱責されたものの、原子爆弾投下任務から外されることはなかったと言います…。
東京大空襲を体験した人の証言まとめ
東京大空襲という未曾有の大虐殺が起こった1945年当時、物心つくかつかないかという5歳だった人も、2020年現在では80歳になり、東京大空襲の記憶が年々薄れていきつつあります。
出典:https://www.nhk.or.jp/
最後に、東京大空襲を実際に体験した方の、生々しく貴重な証言をいくつか拾ってみました。
三月一〇日未明、私は激流のような火の粉をかきわけ、火のないところへ逃げました。火のないところは空からみると黒く見えるために米軍重爆撃機B29の標的になり、たちまち火の壁となりました。右往左往しながら、無我夢中でしたね。
そのうちに地上が白熱状態になり、水分がない体は燃え尽きていきました。私は逃げる途中何度も、防火用水の水を鉄兜ですくって体中にふりかけながら走りました。生きるも死ぬも紙一重という状態でした。
引用:特集1 「激流のような火のなかを生きのびた」 東京大空襲体験者 早乙女勝元さんに聞く https://www.min-iren.gr.jp/
「当時、私は8歳で、両親と兄弟と暮らしていました。戦時中とはいえ、今の子どもたちと変わらない幸せな家族との日常でした。その日常が突然、空襲で断ち切られたのです。深夜、異変に気付いた父親に起こされて逃げ惑いました。住み慣れた街は辺り一面が火の海で、道路には炎がゴウゴウと渦を巻いて川のように流れていました。炎が燃え移った赤ちゃんを背中におぶったまま気が狂ったように走る母親の姿や、火だるまになって道路に転げ回る子どもたち。大勢の人たちが生きたまま焼き殺され、街は泣き叫ぶ人の悲鳴に包まれました」
引用:語られない惨禍 東京大空襲 | その他 | NHK生活情報ブログ:NHK https://www.nhk.or.jp/
壕で猛火を避けながら目の前で人々が燃えていくのを見ていたそうです。
「子どもがね、転んで火が着くんだよ。あっと言う間(に火だるま)だよ。わかる?親はね、なんにも出来ないんだよ。わかる?助けようとして一緒に(火だるまに)なっちゃうんだよ。そんなのを見たの。わからないでしょ。そんな話をしてもね。。」
「火が収まってみたらね、もうわからないんだよ。男か女かわからないの。真っ黒。」「不思議だけど全然焼けていない(遺体)のもあった。」
引用:東京大空襲から73年-ある体験者の方のお話し – history for peace スタッフブログ http://historyjapanpwblog.net/
出典:https://www.nhk.or.jp/
色あせた小さな着物は、母親に背負われていた生後7か月の女の子が着ていたものです。突然の空襲を受けて逃げ惑う中、母親は足を滑らせ、冷たさが肌に突き刺さるような川に転落します。
「子どもだけでも助けて!」と叫ぶと、しばらくして誰かに引き上げられました。しかし、眠っていると思っていた背中の女の子は、冷たい水で着物がぐっしょりとぬれて、すでに亡くなっていました。着物は、今104歳となる母親が長らく形見として手元に残していたものでした。
引用:語られない惨禍 東京大空襲 | その他 | NHK生活情報ブログ:NHK https://www.nhk.or.jp/
「私は恐怖と疲労で倒れてしまいました。すると父が私を炎から守ろうと抱きかかえるように道路に伏せたのです。父の上には逃げ惑う人たちが次から次に覆いかぶさり私たちは下敷きになりました。上にいた人たちは焼かれて亡くなり、私は多くの遺体の山の中から引きずり出されて奇跡的に一命を取りとめました。焼き尽くされた街を見渡すと墨のように真っ黒になった遺体が至るところに転がっていました。目に焼き付いているのは、小さな子どもを胸に抱いたままの姿で亡くなった数多くの親子です。」
引用:語られない惨禍 東京大空襲 | その他 | NHK生活情報ブログ:NHK https://www.nhk.or.jp/
空襲による延焼を防ぐため強制取り壊しが行われた原っぱに、ポツンと建っていたコンクリートの交番にからくも逃げ込み、そこで一夜を過ごした少年が目撃した翌朝の東京の様子がこちら。
夜が明けて外に出ると、辺りはもう全部焼け落ちていました。
五〇ぐらいの女の人が火膨れになって顔面蒼白、虫の息で交番に寄りかかっていました。
錦糸町行きの市電の線路には七歳ぐらいの女の子がうつぶせになって死んでいました。
どこも焼けていなかったので、煙りによる窒息死だったのでしょう。
兄や姉を探して住吉町まで行きましたが、丸焦げ、半焦げの死体が仰向けになったり、手を伸ばしたり、様々の体位で重なって道をふさいでいました。
死体を跨いで行くのですが、電線の焼けた臭いや死体の脂の焼けた臭いが混じって、今思い出してもぞっとするような嫌な臭いでした。
兄達に会えないので住吉町から家に戻りましたが、その途中にも数限りない死体を見ました。
引用:東京大空襲体験記 http://www.nskk.org/
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=L7kohypl1SM&w=640&h=360]
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=fSZhXXellM0&w=640&h=360]
[youtube https://www.youtube.com/watch?v=KzRjOWLIAdQ&w=640&h=360]
まとめ
いかがでしたでしょうか。
たった2時間足らずの間に、10万人もの民間人を虐殺した「東京大空襲」は単独の空爆による犠牲者数は世界史上最大となりました。
そんな「東京大空襲」にまつわる「なぜ?」について、わかりやすく解説するとともに、被害の範囲や死者数、10万人もの遺体のゆくえ、皇居が受けた被害などについてまとめてみました。
そして、最後に1つだけ。
今回のテーマ「東京大空襲」はもちろん、日本の主要都市に無慈悲にも「無差別絨毯爆撃」を命じ、無数の民間人を虐殺したカーチス・ルメイ。
そんなカーチス・ルメイに対して、1964年12月4日、日本政府は勲一等旭日大綬章を贈っているんですよねぇ…。
出典:https://togetter.com/