ひかりごけ事件の真相!船長の名前・裁判や判決・その後の映画化や漫画作品も徹底紹介

1944年5月に発覚した「ひかりごけ事件」では、船長が少年を食べた行為が緊急避難に当たるかが裁判で争われました。

 

今回は事件が起きた経緯や船長が語った真相、裁判や判決、事件の名前の由来や映画化・漫画化作品を紹介します。

ひかりごけ事件とは

 

「ひかりごけ事件」とは、1944年(昭和19年)5月、北海道目梨郡羅臼町で発覚した死体損壊事件です。

 

日本陸軍の徴用船が真冬の知床岬で遭難し、極寒の中、食べ物もなく飢餓状態に置かれた船長が、先に亡くなった乗組員の遺体を食べて生き延びました。

 

戦時中は食糧不足から、戦地にて死亡した仲間や敵兵の遺体を食べて飢えをしのぐということは頻繁にありました。

 

そのため、この事件では危機的状況に置かれた時に、遺体の食人によって生き延びることが刑法によって裁かれるべきかが論点となりました。

 

実際、釧路地方裁判所においては死体損壊事件として扱われました。

 

 

ひかりごけ事件の船長の名前

※画像は映画のものです。

 

徴用船の船長だったのは、山田亀吉(仮名)という当時29歳の男性です。

 

生い立ちや家族構成など、詳しいことは明かされていないようです。 

 

 

ひかりごけ事件の経緯

ひかりごけ事件

出典:https://i.ytimg.com/

船長と6人の船員が岬沖合で遭難

ひかりごけ事件が起きた1944年は、太平洋戦争真っ只中でした。

 

そして事件前年1943年12月3日午後1時頃に、日本軍暁6193部隊所属の徴用船 「第五清進丸」は、船長を含め7人の乗組員を乗せ、暁部隊の命令によって北海道根室港を出発しました。

 

この船の船長が山田亀吉で、宗谷岬を迂回して日本海を南下し、小樽へ向かう予定でしたが、翌4日に知床岬沖合で大しけに遭い、船は難破してしまいました。 

 

 

船長が死亡した乗組員の遺体を食べる

 

岩場の暗礁に船が漂着すると、乗組員7名は知床半島のペキンノ鼻に上陸します。

 

真冬の極寒の北海道であり、ペキンノ鼻は雪と氷で覆われている上、さらに数歩先が見えない猛吹雪に見舞われていました。

 

船長の山田亀吉は他の乗組員とはぐれてしまいましたが、沿岸沿いにある番家になんとかたどり着きます。

 

そして程なくして、乗組員の中で最年少だった当時18歳の西川繁一も同じ番家にたどり着きました。

 

山田亀吉と西川繁一は近くにあったもう1軒の番屋に移動し、そこで1か月を過ごします。

 

しかし食料は底を尽き、暖房もない極寒の中で体力を消耗した西川繁一は、先に死亡してしまいました。

 

そして、山田亀吉は自分が生き延びるために西川繁一の遺体を食べてしまいました

 

 

2か月後に船長だけが生還

それから2ヶ月後となる1944年2月3日の午後4時頃、知床岬から約16キロ離れた羅臼(らうす)臼村字ルシャ(現・羅臼町岬町)で漁業を営んでいた老人の家に、山田亀吉が現れます。

 

その時の山田亀吉は、外套の上にむしろを巻きつけた異様な風体をしており、疲労困憊の様子で倒れこむように屋内に入り込んできたといいます。 

 

山田亀吉は徴用船「第五清進丸」の船長だと名乗り、さらに知床岬で船が遭難し乗組員6人が死亡したものの、自分だけは番屋で生き延びてここまで歩いてきたと語りました。 

 

 

真冬の知床岬で2か月生き抜くのは不可能

 

山田亀吉の話を聞いた老夫婦は、真冬の知床岬で2か月も生き延びたことに驚愕しました。

 

当時、現地の漁師は5月から8月の暖かい季節に3か月間だけ、浜辺に建てられた番屋に泊まり込みながら、漁に出てウニや昆布を獲っていました。 

 

冬場は人が滞在することができない極寒の地であり、例え遭難して番屋にたどり着いたとしても、生き延びられるような環境ではなかったのです。

 

 

船長は「不死身の神兵」と呼ばれた

山田亀吉が生還した話は、この老夫婦から知円別(ちえんべつ)部落会長に伝えられました。

 

その翌4日には、部会長が、さらに約16キロ離れた羅臼村の標津(しべつ)警察署羅臼巡査部長派出所の巡査部長に、山田亀吉が書いた書面を届けています。

 

この知らせを聞いた村人たちは、山田亀吉を「不死身の神兵」として賞賛し、沸きかえったといいます。

 

村長らが山田亀吉のために救援隊を結成して、船で羅臼村まで運んだ後、山田亀吉は北海道日高浦河町から迎えにきた暁6193部隊に引き渡されます。

 

そして、山田亀吉は小樽市の暁部隊第5船舶輸送司令部で遭難報告をしたのちに、故郷の北海道岩内町に帰ることができました。 

 

 

ひかりごけ事件が発覚したきっかけ

漁師は船長の食人を疑った

 

山田亀吉の帰還から3か月が経過した5月14日の夕方頃、約1年ぶりに知床半島のペキンノ鼻へ出かけた漁師は、自分の番屋内に誰かが生活した跡を発見します。

 

そして、ここで「奇蹟の神兵」が生き延びたに違いないと考えました。

 

漁師が近くの岩場を調べてみると、ロープで縛られたリンゴ箱があり、その中には人骨や剥ぎ取られた人間の皮がぎっしり詰まっていました。

 

 頭蓋骨は割られており中身は空っぽで、それぞれの骨にはナイフで綺麗に肉を削ぎ落とされたような跡がついており、肉を焼いて食べたような跡も残っていました。

 

これらを見た漁師は、山田亀吉は何者かを殺害して食べた可能性があると考えました。 

 

 

漁師は警察に通報した

漁師は村に戻ると、標津警察署に番屋で見たことを通報しました。そして警察署員は、山田亀吉の行いに違いないと判断します。

 

釧路地裁検事局と緊急協議した結果、標津警察署署長をはじめ、釧路地裁予審判事、検事局次席検事、北海道庁警察部刑事課警部補らとともに現場検証に向かいました。

 

現場の状況から山田亀吉が番屋内で誰かを殺害し、その遺体を解体して食べたことは明らかだとして、山田亀吉は岩内町の自宅で殺人、死体損壊、死体遺棄の疑いで逮捕されています。

 

 

船長は英雄から一転してバッシングの的に

 

「奇蹟の神兵」として持ち上げられていた山田亀吉でしたが、一転して食人をした恐るべき非道な軍属として批判を浴びるようになりました。

 

逮捕された山田亀吉は取調べにおいて、栄養失調で死亡した西川繁一の遺体を食べたことは認めましたが、殺人はしていないと否定しました。 

 

 

ひかりごけ事件の真相:船長が明らかにした少年を食べるに至った経緯と感想

山田亀吉は取り調べで、遭難した時の状況を事細かく語っています。

 

船が難破し、ペキンノ鼻に上陸できたのは自分と西川繁一の2人だけ、他の5人は高波に飲まれるなどして上陸できなかったと思われたものの、猛吹雪でそれを確認はできなかったそう。

 

2人は一番近い番屋にたどり着き、幸いにも配給でしか手に入らなかったマッチがあったため、それを使ってストーブで暖をとることができたといいます。

 

翌日、2人は約50メートル先にある番屋に移り、浜辺に漂着するわかめや昆布などを取って味噌汁などにし、寝泊まりを続けました。

 

しかし、栄養不足から次第に2人は衰弱していき、上陸から約45日後に西川繁一は栄養失調で亡くなったそうです。

 

西川繁一の死亡から3日ほど経ったころあたりから、空腹が我慢ができなくなった山田亀吉は、包丁で遺体の肉を削いで食べ始め、10日ほどで遺体を食べ切ったといいます。

 

その後、天候が急速に和らいできたため、1月31日から2月1日頃の間に番屋を脱出し、約16キロの距離を歩いて、2月3日に老人の家にたどり着きました。

 

なお、乗組員3人のの遺体は船長と西川繫一が上陸した近くで発見されましたが、残り2人の遺体は発見されませんでした。

 

 

船長が語った食人体験

 

山田亀吉は検事からなぜ食人行為をしたのかと問われると、横たわっている遺体を見続けるとどうしても我慢できなくなり、股のあたりの肉を包丁でそいで味噌で煮て食べたと答えました。

 

そしてその時の味を聞かれると、山田亀吉は未だ食べたことがないぐらい美味しかったと答え、脳みそを食べた時は最も精力がついたような気がしたと答えました。

 

 

軍では食人は敵兵のみ許された

食人行為は、過酷な戦地のみで許された行為でした。

 

太平洋戦争の南方戦線では極端な食糧不足に陥っており、日本兵は極度の飢餓状態から遺体を食べて生きていたのです。

 

しかし、法的に許されていたわけではなく、あまりに頻繁に行われていたため、司令官が緊急処断令としてやむを得ず許していた状態でした。

 

ただし、敵兵に限っては許されていた食人行為も、仲間を食べることは最も人道に反した行為として処刑されていたようです。

 

 

ひかりごけ事件での船長の裁判・判決 【緊急避難に当たるかが争点に】

 

ひかりごけ事件

出典:https://pbs.twimg.com/

 

山田亀吉以外に生存者がいないことから、供述以外の証拠が得られず、検事局は死体損壊罪で山田亀吉を起訴しました。

 

食人行為という人としてあるまじき犯罪だったため、人目をはばかり、裁判はいずれも非公開で行われました。

 

 

検察側は有罪を主張

 

1944年7月中旬頃に、釧路地方裁判所において第1回公判が開かれました。

 

ただし当時の記録が残っていないため、裁判の内容は不明となっています。

 

8月28日に第2回公判が開かれ、この時は検事が「いかに飢餓に迫られていたとはいえ、食人行為は人道的見地から認められるものではない」という旨の理由から懲役2年を求刑しました。 

 

法律では、食人に関する罰則が存在しなかったため、山田亀吉は死体を損壊した罪により懲役が求刑されました。

 

 

船長の行為は刑法37条の「緊急避難」に当たるのか

 

検事側の主張に対して、山田亀吉の弁護人は無罪を主張しました。

 

その理由は、山田亀吉は救助の可能性もない孤立した状態で遭難し飢餓に陥ったため、その危機を回避するためにやむを得ず食人に及んだことからでした。

 

これは刑法37条の「緊急避難」に相当し、「自己の生命に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為」に当たると主張しています。

 

第37条
  1. 自己又は他人の生命、身体、自由又は財産に対する現在の危難を避けるため、やむを得ずにした行為は、これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合に限り、罰しない。ただし、その程度を超えた行為は、情状により、その刑を減軽し、又は免除することができる。

 

 

船長の判決内容

裁判長は、極寒の猛吹雪の中で食料も尽き飢餓に迫られた中で、生命の危機を回避するためにやむを得ず食人行為を行ったことは明らかだとしました。

 

しかし、山田亀吉の証言から、同胞の人肉をも食べなければならないほど逼迫していた状況だったとは認められないとしました。

 

また、山田亀吉の食人行為は社会生活の文化秩序維持の精神にもとる(反する)とする一方で、 犯行当時は心神耗弱状態にあったこと情状酌量の余地があるとされました。

 

山田亀吉の判決は同日中に下され、懲役1年(未決勾留期間40日通算)の実刑判決を言い渡しました。

 

 

ひかりごけ事件での船長の裁判・判決の疑問点

 

実刑判決が下った山田亀吉でしたが、裁判長の判決内容に世間からの異論が少なからずありました。

 

それは、「氷雪に閉ざされた僻地」と生命が助からない可能性が高い極寒の地だと認めながら、「同胞の人肉を食わねばならないほど逼迫していたとは認めず」という点でした。

 

船は難破しており、知床岬に漂着した時点で、すでに状況は命が脅かされるほど逼迫していたと考えられます。

 

事実、7人の乗組員のうち助かったのは2人だけだったことからも、生死に関わる事態だったことは明らかです。

 

また、山田亀吉の精神鑑定を行なっていないにも関わらず、「心神耗弱」と決めつけたことも疑問の声が挙がりました。

 

ただ、刑法39条によれば心神耗弱状態と認められた時点で無罪になるはずでしたが、山田亀吉は有罪となっています。

 

これは、食人という社会的に認められない、社会的な目を気にしての判決内容だったとみられています。 

 

 

船長は網走刑務所で服役した

有罪となった山田亀吉は、網走刑務所で服役しました。

 

1945年7月18日に出所予定でしたが、山田亀吉は模範囚だったため、20日早い6月28日に仮出所しました。

 

 

ひかりごけ事件の名前の由来

 

「ひかりごけ事件」の名称の元となったのは、1954年に出版された武田泰淳の短編小説『ひかりごけ』に由来しています。 

 

ヒカリゴケ同様の金緑色の光が,人肉を食した者の背後に輝く象徴的モチーフとして設定されており,その輝きが,法廷の船長の背後のみならず,いつの間にか,検事,判事,弁護人,そして傍聴人の背後にも現れるのである。 この小説が有名になったことから「ひかりごけ事件」と呼ばれるようになった

 

引用:釧路地方検察庁 – 「ヒカリゴケ」と「ひかりごけ」

 

知床半島にある羅臼町には、ヒカリゴケが群生しているマッカウス洞窟があります。

 

このヒカリゴケは、暗くジメジメした場所に自生する植物で、原糸体と呼ばれるレンズ状の細胞が光を反射して、暗所では綺麗な金緑色に輝くことからこの名前がついています。

 

 

小説『ひかりごけ』では船長らのやり取りが描かれている

 

小説『ひかりごけ』の中では、武田泰淳が取材により想像で書いた船長と乗組員達の会話があります。 

 

八蔵 おめえにゃ見えねえだ。おらには、よく見えるだ。

西川 おめえの眼の迷いだべ。

八蔵 うんでねえ。昔からの言い伝えにあるこった。人の肉さ喰ったもんには、首のうしろに光の輪が出るだよ。緑色のな。うッすい、うッすい光の輪が出るだよ。何でもその光はな、ひかりごけつうもんの光に似てるだと。

 

マッカウス洞窟には、ヒカリゴケというエメラルドグリーンに輝くコケが自生している。

自ら発光するのではなく、薄暗い場所で日光の反射によって輝く。小説の中では、その光が、人食をした者の罪深さを象徴するものとして表現されている。

 

引用:小説を旅する – ひかりごけ(武田泰淳)

 

物語の裁判のシーンでは、船長は、裁判長や検事、弁護士などに自分の首の後ろにある光の輪を見せようとしましたが、当然傍聴人も含めて見えるわけがありません。

 

しかし話が進むにつれ、食人をしていないはずのその場にいた全員に光の輪があることがわかり、そこで物語は終わっています。

 

この物語の言わんとすることは、食人をしようがしまいが、人は誰しも罪を背負っているということであり、罪にどのように向き合えばいいかを問いかけていると言われています。

 

 

ひかりごけ事件のその後:映画化や漫画化されている

 

武田泰淳の小説『ひかりごけ』が出版された後、ひかりごけ事件は、熊井啓監督による同名のタイトルで映画化されています。

 

主演は三國連太郎さんが務めており、1991年に公開されました。

 

また、ネットで気軽に漫画が読めるサイト「ラクラクコミック」では、「食人! ひかりごけ事件(1)」 という漫画が連載されています。

 

 

まとめ

 

1944年5月に発覚した、徴用船の船長が乗組員の少年の遺体を食べて極寒の地から生還した「ひかりごけ事件」について詳しくまとめてきました。

 

生き延びることが極めて難しい環境下で、極度の飢餓状態に置かれて死を目前にした人間が、食べるものが人しかなかった場合、それを食べて生き延びることは正しいのか…。

 

このひかりごけ事件は、とても難しい命題を投げかけています。

 

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