小林カウはホテル日本閣殺人事件の犯人で、女性死刑囚として戦後初めて死刑執行された元死刑囚です。
今回は小林カウの生い立ちや家族(夫や娘)、事件詳細、逮捕のきっかけや判決、死刑執行時の最期の言葉、映画化をまとめました。
この記事の目次
小林カウはホテル日本閣殺人事件の犯人
出典:twitter.com
小林カウ
生年月日:1908年(明治41年)10月20日
没年月日:1970年6月11日
出身:埼玉県大里郡(現在の熊谷市)
犯行:3人殺害
小林カウは、戦後に女性死刑囚の中で初めて死刑が執行された元死刑囚です。1966年に死刑が確定し、1970年に死刑が執行されました。
小林カウの名前は「カウ」と書きますが、発音は「コウ」となります。
小林カウが犯した犯罪は殺人罪です。ホテル日本閣殺人事件で2人を殺害し、さらに事件の8年前には夫を殺害していたことが発覚しています。
小林カウは写真を見る限り、美女とは言えません。
しかし、妙な色気・愛嬌があったようで、「女」であることを最大限に利用しながら生活して犯行を犯し、逮捕後はもちろん死刑が執行されるその時まで「女」であり続けた人物です。
そのため、小林カウは「悪女」「毒婦」などを称されることもあります。
小林カウの家族① 実家
3人を殺害した元死刑囚の小林カウ。彼女を理解するためにも、まずは家族について見ていきましょう。
実家の家族
小林カウは埼玉県で生まれています。明治時代の人ですから、兄弟は多かったようです。
・母親
・7人姉弟
小林カウは7人姉弟の次女として生まれました。
実家は農家ですので、祖父母なども同居していた可能性は高いですね。
また、両親とも畑仕事をしている時はカウが妹や弟たちの面倒を見ていたようです。
小林カウの家族② 結婚した夫や子供
小林カウは22歳の時にお見合い結婚をしています。旦那との間には、2人の子供が生まれました。
・小林カウ
・長男
・長女
結婚後は4人家族になりました。
旦那は5歳年上で、身長は160cm未満と低く貧弱な体型をしていました。また、慢性胃腸炎と慢性淋病を持っていて病弱な体質であり、常に顔色が悪い人物でした。
そのような事情もあったためか、小林カウは旦那からは性的な満足を得ることはなかったようです。また、旦那は酒飲みで、短気で嫉妬深い性格だったとのことです。
長男は17歳の時に死亡しています(誕生後すぐに死亡したという情報もあり)。
長女は音信不通(いつの時点で音信不通になったかは不明)の状態とのことです。
長女がなぜ音信不通になったのかは明らかになっていませんが、次章からの小林カウの生活状況・恋愛を知ると、音信不通になるのも納得できると思います。
小林カウの生い立ちから結婚まで
小林カウの生い立ちから結婚までを見ていきましょう。
貧乏な少女時代
小林カウは1908年(明治41年)に埼玉県で生まれました。
実家は農家でしたが、小林カウの実家がある地域は土地が瘦せていたため、かなり生活は厳しく、極貧の少女時代を送っています。
貧しかったこともあり、最終学歴は小学校卒業(小卒)です。しかし、小学校4年生の頃からは弟や妹の世話をするために学校を欠席することも少なくありませんでした。
小学校すらまともに通っていなかったため、逮捕後に書いた上申書はほぼカタカナで書かれていて、文章も間違っていたようです。
また、子供のころから次のような性格でした。
・強気の性格
・人情味がない
・嘘つき
小学校卒業後は裁縫塾に通い、16歳になると、憧れの東京に行き、女中として旅館で住み込みで働くようになりました。
小林秀之助との結婚
小林カウは22歳の時、姉が持ってきた縁談でお見合い結婚をします。
相手は小林秀之助という5歳年上の男性です。子供が生まれ、家族で東京近郊を転々としますが、夫は戦争に行き、体を壊して帰ってきました。
もともと病弱だったこともあり、戦争から帰ってきた夫はあまり働くこともなく、家計は小林カウが支えていました。
・熊谷名物の「五家宝」という和菓子の製造・販売
・漬物の販売や行商
・土産物の製造や卸売り
この頃に、小林カウは商売の面白さを覚えたようです。
また、出入り業者への支払いや八百屋・炭屋への支払い、さらに電気代などの支払いは、お金を払うのではなく、「自分の体で払う」ようにしていました。
自分を抱かせる代わりに、支払いはチャラにしてもらうということですね。ある意味、物々交換のようなものでしょうか。
小林カウの場合、「生きるために仕方なく体を売る」というよりも、お金にがめつく、「セックスをすることで、お金を払わなくて良いならラッキー」くらいの感覚だったと思われます。
小林カウは娘の婿候補と恋愛&夫を殺害
小林カウは夫に満足していませんでした。身長が低く貧弱な体型で性的に満足できず、さらに戦地から帰ってきた後に働かなくなっためでしょう。
そのような中、小林カウは初めての恋を経験するのです。
若い警察官との恋
昭和26年のある日、中村又一郎という交番の若い警察官が戸口調査にやってきました。
小林カウはヤミ米を扱っていて、それを警察に取り締まられたことがあったため、この警察官を手厚くおもてなししています。
警察官の年齢はすらりとしたイケメンだったため、最初は自分の娘の結婚相手にしようと思っていたようです。そうすれば、ヤミ米の扱いも見逃してもらいやすくなります。
しかし、イケメンの中村と親しくしているうちに、小林カウは中村と肉体関係を持つようになりました。小林カウは43歳、警察官の中村は25歳でした。
小林カウはイケメンで若い中村又一郎にはまっていきます。
性的な満足も得られただけでなく、純粋に恋愛感情を持っていたようです。そのため、「もし私を捨てたら警察署長に全部バラす」と中村に脅すような言葉を言ったこともありました。
夫を殺害
小林カウはイケメン警察官の中村又一郎にどっぷりはまっていたので、小林カウの夫が2人の不倫に気付くのに時間はかかりませんでした。
小林カウは夫に離婚を申し出るものの、夫はそれを了承せず、ずっとカウを監視するようになりました。
夫が疎ましくなった小林カウは、風邪薬と偽って青酸カリを夫に飲ませて殺害しました。
この時、近所では「小林カウが殺した」という噂は立ったものの、カウが夫を殺害したことはバレず、夫の死因は「脳溢血」で処理されています。
同棲するもうまくいかず
邪魔な夫を殺した小林カウは、イケメン警察官の中村又一郎と同棲します。
中村はカウとの関係が警察にバレた上、さらに普段の素行も問題視されていたため、懲戒免職となりました。
小林カウは中村又一郎に捨てられないように必死に働きます。同時にお金への執着も増していきました。
ある夜、中村が泥酔して帰ってきて嘔吐したまま寝てしまいました。
そして、翌朝にカウは朝食におじやを作って中村に出しました。しかし、このおじやは昨晩に中村が嘔吐した吐しゃ物をかき集めて作ったものだったんです。
中村は当然激怒しますが、カウは気にすることなく、それを完食しています。
そんなカウに中村は愛想をつかし、夫を殺害してまで同棲したのに、同棲生活は2年しか続かずに破局しました。
そもそも、中村は自分の母親とさほど年齢が変わらない小林カウと添い遂げるつもりはなかったようです。
小林カウが起こした「ホテル日本閣殺人事件」の詳細
小林カウはホテル日本閣殺人事件を起こして逮捕されました。
小林カウが事件を起こすことになった経緯、ホテル日本閣殺人事件の詳細を見ていきましょう。
土産物屋で成功
小林カウは中村又一郎と破局した後、栃木県の那須塩原に移住します。
小林カウは既に48歳になっていましたが、「色っぽい」と言われることも少なくなかったようで、大人のおもちゃやセクシー写真を売り歩きます。
そして、1956年に土産物店「那珂屋物産店」を開き、その後も「風味屋」という食堂を開いて、商売を成功させます。
この那須塩原での3年間で300万円(現在で1800万円程度)を貯め込みました。
土産物屋・食堂を成功させたことで、カウはホテル経営を夢見るようになりました。そして、1958年に旅館「日本閣」が経営難に陥っていることを知ります。
日本閣は創業2年という新しい旅館で、引き湯の権利がない三流旅館でした。
那須塩原の中でも旅館としてのランクは低いものの、小林カウにとっては十分に魅力的に思えたようで、この日本閣をどうやって乗っ取ろうか画策し始めます。
日本閣の経営者に近づいて妻を殺害
1959年、小林カウはまずは日本閣の経営者である生方鎌輔に近づきます。ここでも「女」という武器を最大限に使ったようです。
経営者の生方は、カウに対して次のような条件を突きつけました。
3年で300万円を貯めたカウにとっては、50万円は用意できないお金ではありませんでした。
しかし、お金にがめつくて、お金への執着心が強いカウは、次のように考えます。
そして、カウは生方鎌輔に妻の殺害を持ちかけます。生方鎌輔は殺害に賛成しますが、自分で手を下すのは渋りました。
そこで、小林カウは日本閣で雑用をしていた大貫光吉(36歳)に「2万円で殺せ。うまくいったら、抱かせてやる」と持ち掛けます。ここでも、自分の体を餌にしたのです。
大貫は小林カウの体に魅力を感じたのか、1960年2月8日に日本閣の経営者・生方鎌輔の妻を絞殺しました。
妻の遺体は土間の地下に埋められ、「妻は行方不明になった」ということで通しています。
そして、小林カウは晴れて日本閣の女将として、経営に乗り出します。
しかし、ここで誤算が生じました。200万円をかけて改築したのに、経営者の生方鎌輔はカウをだましていて、カウが知らないうちに日本閣が競売にかけられることになったのです。
さらに、生方鎌輔は妻を殺害したことで精神的に追い込まれたようで、妻が殺されたことを周囲に匂わせるようになりました。
次に経営者を殺害
だまされたことに怒り狂い、さらに妻の殺害がバレそうになったことに危機感を覚えた小林カウは、生方鎌輔の殺害を大貫に命じました。
そして、1960年の大みそか、カウと生方、大貫は3人でコタツに入り、テレビを見ていた時、カウは生方の首をひもで締めようとします。
生方は抵抗しますが、大貫が包丁で生方の首を数回刺して殺害しました。
生方の遺体は日本閣の廊下に埋めています。
逮捕されたきっかけとは?
小林カウは生方鎌輔がいなくなったことについて、周囲には「東京に金策に行った」と説明していました。
しかし、田舎特有の情報網があり、「小林カウが妻を殺害した。生方も殺したらしい」という噂が出て、それは警察にも届くようになりました。
小林カウと大貫は取り調べを受けましたが、まず大貫が自供しました。そのことで小林カウも逮捕されることになりました。
生方を殺害してから約2ヶ月後の1961年2月20日に、小林カウと実行犯の大貫は逮捕されたのです。
逮捕時、小林カウは52歳になっていました。
小林カウの逮捕後の様子や判決
小林カウが逮捕された後の様子を見ていきましょう。
夫殺害が判明
小林カウは、ホテル日本閣殺人事件で経営者の生方夫婦を殺害したことで逮捕されています。
この事件はマスコミでも扱われ、カウが犯人であることは日本全国に知れ渡りました。
すると、警察に「小林カウは夫も殺した」という投書が何通も舞い込んだのです。夫が亡くなった時に小林カウを疑っていた人たちからの密告だったようです。
警察が取り調べをすると、カウは夫殺害を自供しました。
小林カウが夫殺害自供したことで、当時愛人関係にあった中村又一郎も共犯として逮捕されています。逮捕時、中村又一郎は結婚していて、子供もいました。
小林カウは、経営者夫婦殺害の実行犯である大貫も口封じにために殺すつもりだったという供述もしています。
女を忘れなかった
小林カウは逮捕されるまで、「女」であることを利用しながら生きてきました。
48歳でも「色っぽい」と言われ、36歳の大貫に対して50歳のカウは「うまくいったら抱かせてやる」と言って、殺害させています。
そして、「女」を利用することは逮捕後も変わりませんでした。
取り調べ中でもシナを作ったり、取調官の太ももに手を這わせたり、手を握ったりしました。また、セックスの話になると身を乗り出して積極的だったと言われています。
さらに、裁判中も厚化粧をして、レースの被り物をかぶり、派手な着物を着て、裁判官の気をひこうとしたこともあったようです。
死刑判決となる
3人を殺した小林カウでしたが、出所できると思っていたようで、取り調べ中も出所後のことなどを話していたようです。また、「死刑だけはかんべんしてね」と言っていました。
しかし、第一審で死刑判決となり、控訴審でも死刑、さらに上告は棄却されたため、1966年に死刑が確定しました。
共犯の大貫も死刑判決となり、夫殺害の共犯として逮捕された中村又一郎は懲役10年の判決となりました。
小林カウの最期の言葉と死刑執行時の様子
小林カウは、死刑判決から4年後の1970年に死刑が執行されました。小林カウは61才でした。
戦後初の女性死刑囚の死刑執行で、同日に大貫の死刑も執行されています。
小林カウは死刑が決まってからは厚化粧を止めていたようですが、死刑執行日は自ら死に化粧をしたとのことです。最後まで「女」だったということかもしれません。
そして、死刑執行時は取り乱すことなく落ち着いていて、最期の言葉は次のようなものでした。
子どもの頃から女を武器にして、お金に執着して生きてきた小林カウは、死刑が決まってからは憑き物が落ちたような状態になったのかもしれませんね。
小林カウとホテル日本閣殺人事件は映画化されている
小林カウとホテル日本閣殺人事件は、吉永小百合主演で1984年に映画化されています。
小林カウを吉永小百合が演じていますので、かなり美化されているものの、吉永小百合が汚れ役を演じた唯一の映画となっています。
・公開:1984年
・監督:出目昌伸
・主演:吉永小百合
・興行収入:8億円
吉永小百合だけでなく、主役級の俳優が何人も出ているので、見ごたえがある映画になっています。
小林カウのまとめ
小林カウの生い立ちや家族、ホテル日本閣殺人事件の詳細や死刑執行と最期の言葉、映画化された作品などをまとめました。
この小林カウは女としての生命力は群を抜いていると思います。
そのエネルギーを商売だけに真っ当に注ぎ込んだら、すごい実業家になったのかもしれません。