「あさま山荘事件」は連合赤軍のメンバーが起こした人質籠城事件で、犠牲者数、人質や犯人たちのその後と現在が話題です。
今回は「あさま山荘事件」の人質救出・鎮圧作戦、犠牲者と死者、人質と犯人のその後や現在をまとめました。
この記事の目次
「あさま山荘事件」の概要【最高視聴率90%の昭和史に残る大事件】
上の画像は、テレビで繰り返し流れた、巨大な鉄球が建物を打ち付ける瞬間の映像です。この映像を当時の日本国民のほとんどが固唾を飲んで見守っていたと言われています。
このシーンこそ、日本中を震撼させた昭和史に残る大事件である、「あさま山荘事件」の最後の攻防でした。
浅間山荘への機動隊突入は全国にテレビ中継され、NHK・民放を合わせたテレビの総世帯の最高視聴率は、なんと驚異の89.7%に達しました。
この数字は、国民のほとんどすべてがこの映像に釘付けになっていることを示すという、まさに空前の出来事だったのです。
そんな昭和史に残る大事件「あさま山荘事件」は、1972年2月19日午後3時頃、長野県軽井沢町の新興別荘地、軽井沢レイクニュータウンにある河合楽器の保養所「浅間山荘」で起きました。
出典:https://ja.wikipedia.org/
1970年代初頭に活動した日本のテロ組織・連合赤軍のメンバー5人が、「浅間山荘」に逃げ込み、当時、管理人の妻・牟田泰子さんを人質にとって立てこもったのが事件の始まりでした。
ところが連合赤軍のメンバーは、警察に何も要求しません。
警察は山荘の周囲を包囲して、メンバーらの母親を使った説得を試みたり、放水や鉄球を使って追い込むなど、約10日間に渡る攻防戦が延々と続きました。
警察と連合赤軍メンバーとの激しい攻防や血まみれで搬送される隊員たち、巨大な鉄球での山荘破壊など、衝撃的なシーンが全てテレビで生中継されたのです。
そして、「あさま山荘事件」発生から10日目の2月28日、催涙弾を使って機動隊が突入し、死者3名、重軽傷者27名を出しながらも犯人5人全員を逮捕しました。
人質になっていた牟田泰子さんは、犯人らによって219時間も監禁されており、警察が対応した立てこもり事件としては史上最長の監禁時間となりました。
出典:https://www.huffingtonpost.jp/
今回は「あさま山荘事件」における決死の人質救出・鎮圧作戦をじっくり振り返るとともに、犠牲者と死者、人質と犯人のその後、現在の様子に重点を置いてまとめてみたいと思います。
「あさま山荘事件」の10日間の攻防~犠牲者・死者数
「あさま山荘事件」の最初の犠牲者は民間人だった
犯人グループの家族による説得作戦も功を奏さず、警察と連合赤軍のにらみ合いが続く中、「あさま山荘事件」発生から3日後の2月22日、遂に最初の犠牲者が出ました。
この最初の犠牲者は、なんと新潟県から来たという民間人の男性で「自分が人質の身代わりになる」と言って、無謀にも銃弾飛び交う山荘に近づいたのです。
当然、犯人グループは、この男性を不審に感じ、至近距離でこの男性に発砲しました。命中した男性は病院に運ばれるも、3月1日に死去しています。
ただ、この民間人については、名前や年齢はもちろん、なぜ「浅間山荘」にやって来て人質の身代わりになろうとしたのかなど、全く明らかにされていません。
一部では、この男性が薬物依存症患者だったために公表できなかった…なんて噂もあるようですが、真相は不明です。
人質救出・鎮圧作戦は実は着々と進行していた
「あさま山荘事件」が発生した翌日である2月20日には、「浅間山荘」の電気は止められていたそうです。
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警察は「浅間山荘」への放水と同時に、坂口弘らに満足な睡眠をとらせず体力を奪うため、夜間は銃撃音などを録音した音声を断続的に流したり、一晩中投石を繰り返すなどの地味な作戦を積み上げていました。
実際、坂口弘らは警察の思惑通り、籠城している間はろくに眠りにもつけず、ずっと不眠に悩まされるようになり、犯人グループは次第に疲弊していきました。
「あさま山荘事件」の代名詞とも言われる“鉄球作戦”
山岳地帯の中腹の急斜面な崖にそびえ立つ「浅間山荘」は、見晴らしの良い宿舎でした。
しかし一方で、籠城する犯人グループ、そしてそれを鎮圧しようとする警察にとっては、さながら難攻不落の要塞となりました。
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また、「あさま山荘事件」の戦いが10日間にも及んだ理由としては、もちろん人質がいるため不用意な突入ができなかったこともありました。
しかし、それ以上に警察を苦しめたのは、坂口弘ら犯人5人全員を“生け捕りにせよ”との上からの厳命が下っていたからなんですよね。
そのため、犯人グループは容赦ない砲撃を浴びせかけてくる一方で、警察は銃火器の使用が一切禁じられていたのです。
では、なぜ警察は犯人の“生け捕り”にこだわったのか?
それは、もしも「あさま山荘事件」で犯人を射殺するようなことがあれば、連合赤軍は警察に射殺された人物を、その後、英雄として神格化する可能性を恐れたからです。
こうした、上からの無理難題を押し付けられた現場の判断として取られた最大の作戦が、あの「あさま山荘事件」を象徴する「鉄球作戦」だったのです。
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「鉄球作戦」は、機動隊突入前夜の2月27日に決行されました。
浅間山荘の設計図が取り寄せられて検討した結果、犯人グループと人質の牟田泰子さんが、別々の階にいると、警察は予測します。
そして、「浅間山荘」の2階と3階を分断するように、階段部分の外壁を巨大な鉄球を使って外から激しく破壊したのです。
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しかし、実際は、牟田泰子さんはメンバーらと一緒にいたため、分断作戦は失敗に終わりました…。
「あさま山荘事件」発生から10日目、遂に警察が強行突入
「あさま山荘事件」発生から10日目になり、警察は人質救出のために機動隊の突入を決断しました。
人質救出・鎮圧作戦は2月28日午前10時から始まりました。
事件を解決へと前進させたのは、アメリカ製の大型クレーン車から吊るされた巨大な鉄球だった。午前10時47分すぎ、振り子のように動かした直径70センチ、重さ1.7トンの鉄球が山荘の壁を打ち破った。そこへ催涙ガス弾や激しい放水も加わり、最後は銃撃戦になった。
引用:浅間山荘事件から45年。視聴率90%、日本中が息をのんだ瞬間(画像集) | ハフポスト https://www.huffingtonpost.jp/
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警察は崩れた壁の隙間から催涙ガス弾を打ち込んで敵を無力化し、機動隊がなだれ込んで銃撃戦となりました。
そんな事件の経過は克明にテレビで生中継されました。負傷した血まみれの警察官が担架で運ばれる姿など、現場の生々しい様子が、まさにリアルタイムでお茶の間に伝えられたのです。
この日本で、テロリストと警察の闘いが、テレビで実況中継されたのは初めてのことでした。
人質救出と犯人全員の逮捕に成功!犠牲者と死者の数は?
辺りがすっかり暗くなった2月28日午後6時15分、警官から人質の牟田泰子さんを無事救出したとの一報が入り、同20分には犯人5人全員が逮捕されます。
ここに10日間、約219時間におよぶ「浅間山荘事件」は終結しました。
あさま山荘事件の犠牲者
死者: 3名(警察官2名、民間人1名)
負傷者: 27名(警察官26名、報道関係者1名)
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結局、「あさま山荘事件」で、TVカメラマンを含む27名が負傷、内田尚孝警視(当時47歳、死後警視長)と高見繁光警部(当時42歳、死後警視正)、民間人1名の計3名の死者が出ました。
「あさま山荘事件」のその後&現在① 人質・牟田泰子さんに横領&駆け落ちの噂
「あさま山荘事件」の人質となった牟田泰子さん
連合赤軍メンバーが警察に追われ、たたまた逃げ込んだ「浅間山荘」で、1人留守番をしていたのが牟田泰子さんでした。
事件当時、牟田泰子さんは夫の牟田郁夫さんと共に、河合楽器の保養所「浅間山荘」の管理人業務を行っていました。
ちなみに、事件が発生した際、牟田郁夫さんは宿泊客をスケート場まで案内していたそうです。
そんな事件当時の牟田泰子さん夫婦の画像がこちら。
牟田郁夫さんは、もともと九州の運輸会社でサラリーマンとして働いていたそうです。
しかし、妻である泰子さんの年老いたご両親の健康を気遣い、思い切って空気の良い長野県山間部への移住を決心したのだとか。
人質となった牟田泰子さんが解放後、口を閉ざしている理由とは?
「あさま山荘事件」で長時間に渡り人質になるも、無事解放された牟田泰子さんですが、現在は「ご主人と、ひっそりとどこかで暮らしている」という漫然とした情報しかありませんでした。
そんな牟田泰子さんは、事件後は「あさま山荘事件」に関して一切語らない、という態度を貫いていました。
理由には、事件直後の取材で「連合赤軍メンバーは大事に扱ってくれた」「食事も与えられた」と述べた際、記者が誇張して捉え、牟田泰子さんが犯人と心を通わせたように書かれたたからだと言われています。
その記事を読んだ読者からは、「テロリストと心を通わせるなどけしからん!」などと、炎上騒動に発展することに…。
それ以来、牟田泰子さんは大のマスコミ不信になったようです。
そんな牟田泰子さんに横領&駆け落ちの噂が……
実は、もう1つ、牟田泰子さんが「あさま山荘事件」について語りたくても語れない理由があるのではないか…?そんな噂が囁かれているようです。
それは、牟田泰子さんがまだ九州にいた頃、なんと公金横領を働き、人目を忍んで郁夫さんと長野県の山奥まで“駆け落ち”してきた…なんて噂なんですよね。
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この事実を掴んだ警察は「あなたの過去の問題は消してあげるから、マスコミに色々と喋ってはいけない」と告げたとか告げなかったとか…。
まぁ、警察としては同僚の命を奪った宿敵である連合赤軍メンバーの、紳士的な一面など一切表に出したくなかったのかも知れません。
あくまで凶悪犯に仕立て上げるためにも、それに矛盾する情報は極力カットしたかったのでしょう。
この“横領&駆け落ち説”にどこまで信憑性があるのかは不明ですが、実は、映画「実録・連合赤軍あさま山荘への道程」の中でも、横領と駆け落ちのシーンがあるようなんですよね。
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この映画が史実に描かれていたのか、はたまたこの映画を観た多くの人々に“横領と駆け落ち”が事実のような錯覚を与え、それがいつしか一人歩きした…なんてことも考えられますね。
ちなみに、「あさま山荘事件」の舞台となった「浅間山荘」の現在は、中国企業の所有の青少年更生施設になっているそうです。
「あさま山荘事件」のその後&現在② 犯人5人や連合赤軍メンバー
次に、「あさま山荘事件」を起こして逮捕された5人の犯人達の、その後と現在についてまとめてみました。
出典:https://www.fnn.jp/
森恒夫(連合赤軍リーダー)のその後と現在
連合赤軍のリーダーだった森恒夫は、1973年1月1日、初公判が行われる前に収監されていた東京拘置所の獄中で首吊り自殺をしているのが発見されました。
そんな森恒夫は、前年である1972年7月に、収監中の東京拘置所の中で次のような遺書めいた文章を書いています。
「私は自分が狂気の世界にいたことは事実だと思う。私は革命の利益から考えて有罪であり、その罪は死刑である、ということである。私が亡き同士や他のメンバーに対して言った『革命家たる者は革命の利益に反することをした場合、自らの死を持って償(つぐな)わなければならない。』ということを文字通り守らなければならないということである。」
引用:No.039 連合赤軍05~判決 http://ww5.tiki.ne.jp/
革命の利益から考えた”有罪”とは、「連合赤軍」として革命を成し遂げる前に逮捕されたことが罪であり、それは死を持って償うべき…と他のメンバーに言ってきた以上、自分も貫く、ってことでしょうか?
永田洋子(連合赤軍ナンバー2)のその後と現在
永田洋子は1971~1972年までの一連の“連合赤軍事件”で、殺人罪や死体遺棄罪などに問われ、1993年に死刑が確定していましたが、2006年3月に東京拘置所内で倒れました。
もともと1984年に脳腫瘍の手術を受けていた永田洋子ですが、その後遺症からか脳萎縮と意識障害が認められたため、同年5月に八王子医療刑務所に移送されました。
2007年3月には再び東京拘置所に移されたものの、この間はずっと寝たきりの状態が続いていたようで、2011年2月5日午前10時6分、東京拘置所にて、多臓器不全のために死亡しています。
なお、永田洋子は森恒夫の自殺を独房内で聞かされた時、「森さんはずるい。卑怯だ。自分だけ死んで。」と語ったそうです。
坂口弘(連合赤軍ナンバー3)のその後と現在
連合赤軍ナンバー3にして、「あさま山荘事件」を主導した坂口弘は、17人もの殺人に関わったことで、1993年2月19日に死刑が確定しています。
この判決が下った日は、奇しくも「あさま山荘事件」発生日からちょうど21年目でした。
坂口弘は判決訂正の申し立てをするも、同年3月9日に棄却され、死刑が確定し、現在は死刑囚として東京拘置所に収監されています。
ちなみに、17人殺人は死刑囚としては当時の戦後最悪の数字でした。
しかし、オウム真理教事件で27人殺人を犯した、教団代表・麻原彰晃の死刑判決が2005年9月に確定したことで記録を塗り替えられています。
なお、そんな坂口弘の死刑が未だに執行されていない理由は、共犯者である坂東國男が国外逃亡して裁判が終わっていないため、と言われています。
また、1975年の日本赤軍によるクアラルンプール事件の際、釈放リストに坂口弘の名前が挙がったのですが、坂口弘は自ら釈放を拒否しています。
その理由は……
「私の闘争の場は法廷」
「もはや暴力革命を志す時期ではない。」
とのことです。
坂東國男のその後と現在
「あさま山荘事件」から3年後の1975年8月4日、「日本赤軍」がクアラルンプールのアメリカ大使館を占拠して人質を取る事件が発生しました。
人質解放の交換条件として、日本で投獄中の連合赤軍メンバーの釈放を要求しました。
日本政府はこの条件を飲むという苦渋の決断を下し、超法規的措置として、5人のメンバーを釈放しましたが、そのうちの1人がこの坂東国男でした。
坂東国男はそのまま海外へ逃亡し、日本赤軍と合流しています。
あさま山荘事件から3年後の昭和50年8月4日、「日本赤軍」がクアラルンプールのアメリカ大使館を占拠し、日本で投獄中のメンバーの釈放を要求するという事件が起きた。
「日本赤軍」とは、まだ連合赤軍の誕生以前の「赤軍派」であった時代、その中の一部の同士が集まり「日本から革命を起こすのではなく、まずは共産主義国へ渡り、その国から援助を受けて軍事訓練を行い、世界革命を起こす」という目標のもと、海外へ渡った赤軍派のことである。
この日本赤軍がアメリカ大使館を占拠して人質を取り、その交換条件として連合赤軍の釈放を要求してきたのだ。
日本政府はこの条件を飲み、超法規的措置として、5人のメンバーを釈放したが、そのうちの一人が坂東国男であった。坂東国男はこのまま海外へ逃亡し、日本赤軍と合流することとなった。
引用:No.039 連合赤軍05~判決 http://ww5.tiki.ne.jp/
出典:https://twitter.com/
坂東國男は現在も、連合赤軍事件だけでなく、日本赤軍としてダッカ日航機ハイジャック事件に関与した罪も加わって、警視庁から指名手配されており、国際指名手配もされています。
吉野雅邦のその後と現在
吉野雅邦には、無期懲役が確定しており、1983年3月から現在に至るまで千葉刑務所に収監中です。
刑務所内では「あさまさん」と呼ばれ、「計算夫」と呼ばれる所内の工場での責任者を任されているとも言われています。
また、吉野雅邦は囚人たちの職業訓練としての陶芸の指導補助も行っているようで、模範囚としてまじめに務めているようです。
吉野自身は「あさまさん」という呼び名について、相手が好意で呼んでいるのがわかっていても事件への感情からそれを素直に受け止められず、いささかの抵抗を覚えると1997年に両親に宛てた手紙に記している。
引用:Wikipedia – 吉野雅邦 https://ja.wikipedia.org/
加藤倫教・元久兄弟のその後と現在
実は、加藤倫教・元久兄弟の上にもう1人長兄がいたのですが、山岳ベース事件で殺害されています。
その時、兄の加藤倫教(みちのり)は、弟の加藤元久を連れて脱走を試みるのですが果たせず、逃亡最中にあさま山荘に立て篭もり、警察と9日間に渡る銃撃戦に参加することになりました。
事件当時は未成年だった弟の加藤元久とともに、実名は伏せられ「少年A」と報道されていました。
そんな加藤倫教には、1983年2月に懲役13年の刑が確定し、以来、三重刑務所で服役していましたが、1987年1月に仮釈放されました。
現在は実家の農家を継ぎ、また野生動物保護、自然環境保護の団体でも理事を務めているようです。
ちなみに…現在は自由民主党を支持し、自民党にも入党しているのだとか。もう共産主義はコリゴリってところでしょうか。
一方、弟の加藤元久(もとひさ)は、逮捕時は16歳だったため、「少年B」と報じられ実名は伏せられ、中等少年院出所後は保護処分扱いとなっていたようです。
植垣康博のその後と現在
植垣康博は、「あさま山荘事件」が起きる直前に軽井沢駅で不審者として逮捕されました。逮捕後は、約26年の刑期を終えて1998年10月6日に出所しています。
そんな植垣康博の現在は、静岡市葵区内で「スナック・バロン」を経営しており、2005年には同店でアルバイトをしていた33歳年下の中国人留学生と結婚し、子供にも恵まれています。
まとめ
いかがでしたでしょうか。
昭和史に残る大事件「あさま山荘事件」の決死の人質救出・鎮圧作戦、この事件による犠牲者と死者、さらに人質と犯人のその後と、現在の様子をまとめてみました。
最後に、この「あさま山荘事件」でお亡くなりになった、3名の犠牲者のご冥福を心よりお祈り致します。