ひめゆり学徒隊の生存者/生き残りの現在!沖縄の悲劇・自決や死因・年齢・アニメや映画もまとめ

太平洋戦争末期の沖縄戦で悲劇的な犠牲を出した「ひめゆり学徒隊」が注目されています。

 

この記事ではひめゆり学徒隊の沖縄戦での悲劇的な経緯、年齢、自決などの死因、外科手術での切断の手伝い、生き残りの数や生存者の現在、ひめゆり学徒隊を題材としたアニメや映画、漫画などについてまとめました。

ひめゆり学徒隊は太平洋戦争の沖縄戦で多数が犠牲になった女子学徒隊

 

出典:https://ryukyushimpo.jp/

 

「ひめゆり学徒隊」とは、太平洋戦争末期1944年12月に沖縄県で日本軍が中心となり実施された看護訓練により動員された女子学徒隊のうち、沖縄県立女子師範学校、沖縄県立第一高等女学校の生徒らを中心に編成された女子学徒隊を指す言葉で、両校の学舎が「ひめゆり学舎」と呼ばれ「姫百合」の名が定着していた事から、終戦後にこの名前で呼ばれるようになったとされています。(沖縄戦当時は「一高女生」、「師範生」などと呼ばれていたとされる)

 

1945年3月23日、アメリカ軍の沖縄上陸が迫る中、ひめゆり学徒隊は沖縄守備軍(陸軍第32軍)が直轄する沖縄陸軍病院(通称・南風原陸軍病院)に看護要員として動員されました。編成は沖縄県立女子師範学校、沖縄県立第一高等女学校の女子生徒222人と引率教師18名の合計240名で構成されていました。

 

ひめゆり学徒隊が動員された沖縄陸軍病院は当初沖縄本島南部の南風原(はえばる)町の黄金森と呼ばれる小高い森に、40近い壕(横穴)を掘り、その土壁に2段ベットを設えて沖縄陸軍病院壕群を構築し、本部、内科、外科、伝染病科を設置したものでした。

 

 

沖縄陸軍病院の壕内部を再現したもの(南風原文化センター展示)

 

その後、沖縄本島への米軍上陸後の激戦により負傷者が急増するに伴い、内科を第二外科、伝染病科は第三外科に変更され、那覇近郊の一日橋、識名、知念半島近くの糸数に分室がおかれて、ひめゆり学徒隊は各地に分散配置され、女生徒らは過酷な環境の中で負傷兵の看護に従事しました。

 

しかし、日本軍の沖縄戦での敗色が濃厚となった1945年6月18日、突如として解散命令が出され、ひめゆり学徒隊は壕より放り出されて米軍の猛烈な砲撃や空爆、銃撃にさらされる事になりました。

 

解散命令翌日の6月19日から約1週間の間に、ひめゆり学徒隊は多くの犠牲者を出し、最終的には240名のうち136名が死亡しています。ひめゆり学徒隊の犠牲者の死因は米軍の攻撃によるものだけでなく、集団自決や餓死、感染症も多くの割合を占めたとされています。

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

終戦後、ひめゆり学徒隊で最大の犠牲者を出した伊原第三外科壕跡に、犠牲者を慰霊し平和を願うための「ひめゆりの塔」が建立され、沖縄戦の悲劇を伝える象徴として現在も多く人々が訪れています。

 

 

ひめゆり学徒隊の年齢は15歳から19歳

 

出典:https://www.otv.co.jp/

 

太平洋戦争末期の沖縄戦で悲劇的な犠牲を出したひめゆり学徒隊ですが、その中心となった女生徒たちの年齢はまだ15歳から19歳の本来であれば未来のある少女達でした。

 

師範学校女子部百五十七人と、県立第一高等女学校六十五人の、計二百二十二人の生徒は「ひめゆり学徒隊」と呼ばれた。

十五~十九歳の女子学徒は、劣悪な環境の壕(ごう)の中で、負傷兵を看護し、手術の時には切断する手足を押さえる役も務めた。砲火の合間に水くみや炊事をし、銃弾が行き交う中を壕から壕へと伝令として駆け回り、そして倒れた。

 

引用:根こそぎ動員された県民

 

当時、アメリカ軍を中心とする連合軍を相手に太平洋戦争を戦っていた日本政府は戦況が逼迫し、不足する戦力を補うために沖縄住民の「根こそぎ動員」を実行し、まだ年齢が10代の学生(中等学校や師範学校)まで戦場へと動員しました。そして、その多くが戦争の犠牲となり理不尽に亡くなりました。

 

 

ひめゆり学徒隊の悲劇的な沖縄戦での経緯

 

ひめゆり学徒隊は、現在でも沖縄戦での悲劇の象徴のように伝えられています。

 

ひめゆり学徒隊の悲劇的な沖縄戦での経緯についても時系列で紹介していきます。

 

 

ひめゆり学徒隊の悲劇的な経緯① 過酷な環境下での負傷兵の看護

 

出典:https://www.nhk.or.jp/

 

ひめゆり学徒隊は1945年3月23日から24日にかけて動員され、沖縄本島南部、南風原の丘陵黄金森に本部が置かれた沖縄陸軍病院(通称・南風原陸軍病院)に看護要員として配備されました。

 

そして、1945年4月1日、アメリカ軍が沖縄本島への上陸を開始。激しい戦闘が発生し日本軍には大量の負傷者が発生し、沖縄陸軍病院には大勢の負傷兵が運び込まれました。

 

沖縄陸軍病院は、病院とは名ばかりの施設で砲爆撃を避けるために横穴が掘られた壕の土壁に粗末な2段ベットが取り付けられ、照明も不十分で、狭い空間に湿気と悪臭がこもっている劣悪な環境でした。

 

ひめゆり学徒隊は、沖縄陸軍病院の院長、軍医、看護婦(看護師)、衛生兵の助手として負傷兵や感染症などに罹った兵士らの看病や世話に従事し、包帯の交換や水や食事の世話、排泄物の片付け、外科手術での手足の切断のサポートなど、眠ったり休んだりする暇もほとんどないほど荷重な労働を強いられました。

 

それだけでなく、ひめゆり学徒隊は激しい砲撃や爆撃が続く中を壕の外へ出て、麓の集落から食事を運ぶ作業(「飯上げ」と呼称された)や水汲み、力尽きて亡くなった兵士の遺体や、外科手術で切断した腕や足などを埋葬するといった命懸けの作業にも従事させられました。

 

 

ひめゆり学徒隊の悲劇的な経緯② 女生徒達も栄養失調などで衰弱

 

負傷兵や戦病者の看護に当たっていたひめゆり学徒隊の女生徒達でしたが、食料や医薬品は当初から不足しており、最初はテニスボールくらいの大きさのおにぎりが朝夕に割り当てられていた食事も次第に小さくなり、最後はピンポン球くらいの大きさのおにぎりが1日に1個割り当てられるだけになりました。

 

また、ひめゆり学徒隊の女生徒らは、わずかな隙間に休憩し仮眠を取ろうとしても、すぐに壕内に埋め尽くされた負傷兵から「水をくれ」、「おしっこがしたい」、「痛い、なんとかしてくれ」などと呼び起こされて、ほんの10分すら睡眠をとる事すらできないというあまりにも過酷な環境におかれました。

 

こうした中で、ひめゆり学徒隊の女生徒達も衰弱して倒れるものが出始め、痩せ細り、栄養不足から生理や排便が止まり、衣服は汚れきって頭髪にシラミが湧くような有様となりました。

 

 

ひめゆり学徒隊の悲劇的な経緯③ 解散命令により砲火の中へ放り出される

 

出典:https://himeyuri-and-hawaii.com/

 

沖縄戦の戦況は日本軍にとって悪化の一途をたどり、日本軍の防衛戦は次々と後退を余儀なくされました。

 

ひめゆり学徒隊が陸軍沖縄病院の看護要員として動員されてからちょうど1ヶ月後の4月24日頃になると、沖縄陸軍病院が置かれた南風原黄金森周辺一帯も山容が変わってしまうほどの猛烈な砲爆撃に晒されるようになりました。

 

そして、さらに1ヶ月後の5月25日にはこの地点を維持する事は困難との判断が下され、司令部は沖縄陸軍病院の後退を決定し、病院機能と要員の南部の伊原・山城周辺への撤退が命じられました。この時、自力歩行が困難な負傷兵、戦病者、学徒は置き去りにする事も決定され、そうした者には自決用の青酸カリが渡されたとされています。実際にこれを服用して自決した方も大勢いたという事でした。

 

後方へて一体した沖縄陸軍病院の要員と自力歩行できた負傷兵、ひめゆり学徒隊の女生徒や引率教師らは分散して壕やガマに潜みましたが、負傷者を収容する壕を十分に確保できず、そもそも医薬品も食料も既に枯渇していたため沖縄陸軍病院の野戦病院としての機能は完全に喪失しており、この時点で負傷兵は原隊に戻るようにという非情な命令が下される事になりました。

 

そして、6月18日の夜、ひめゆり学徒隊は突然解散命令を言い渡され、アメリカ軍の激しい砲爆撃が飛び交う、壕の外へと出される事になりました。

 

この時点で沖縄本島はほぼ全域がアメリカ軍の支配下に置かれており、激しい砲撃や空爆が続いていたため、壕から放り出される事は死に直結するような状況でした。

 

 

ひめゆり学徒隊の悲劇的な経緯④ 多くが悲惨な死を遂げる

 

出典:https://himeyuri-and-hawaii.com/

 

軍の都合で一方的に動員され一方的に解散命令を出されたひめゆり学徒隊ですが、従う他なく各壕に班ごとに集まって脱出の準備を整えました。しかし、翌19日の朝に96名(内ひめゆり学徒隊は教師5名生徒46名)がこもっていた第三外科壕(現在の沖縄県糸満市伊原)に、アメリカ軍の黄燐手榴弾が投げ込まれ、90パーセントにのぼる87名が死亡しました。

 

生き残った者も壕を這い出したところで銃撃や砲撃を受け、第三外科壕で生き残ったのはわずか5名(ひめゆり学徒隊4名と軍医1名)と記録されています。

 

他の壕にこもっていたひめゆり学徒隊の人々も、茂みや岩陰に身を隠しながらアメリカ軍から逃げ惑いましたが、次第に海岸方面へと追い詰められて行きました。(アメリカ軍に捕まれば強姦や拷問され殺されると教え込まれていた)

 

この逃亡の時、多くの方々が、砲撃に巻き込まれ、ガス弾を受け、自決用の手榴弾を爆発させ、崖から海へと飛び込み悲惨な形で死んでいきました。

 

ひめゆり学徒隊の犠牲者の正確な数はわかっていませんが、ひめゆり平和祈念資料館刊行の資料では戦没者は136名と記録されており、その他の理由により亡くなった方を合わせると犠牲者は累計で226名にものぼるとされています。

 

ひめゆり学徒隊の生き残りは、6月20日から28日の間にアメリカ軍に捕まった事で保護され、各地の収容所へと送られています。しかし一部は、日本が降伏した事を知らずに8月22日まで沖縄の壕の中に身を潜めていた方もいました。

 

ひめゆり学徒隊は戦没者が136名とされていますが、このうちの8割以上にあたる117名は陸軍による一方的な解散命令により壕の外へ出された後に亡くなったとされています。解散命令前の沖縄陸軍病院での看護活動中に爆撃に巻き込まれたり栄養失調や病気で亡くなったりした方は19名だけでした。

 

ひめゆり学徒隊の沖縄戦での一連の動きとは、まだ年齢が15歳から19歳の少女達が日本政府(軍部)の一方的な都合で動員され、過酷な環境で看護に従事させられ、一方的に解散命令を出されて戦場に放り出され、あまりにも理不尽に命を失っていくという悲劇でした。

 

 

ひめゆり学徒隊の死因は米軍の攻撃だけでなく自決や栄養失調、感染症も

 

出典:https://image.typeline.play.jp/

 

既に書いているように、ひめゆり学徒隊の240名のうち、ひめゆり平和祈念資料館が刊行している資料によると戦没者を136名(それ以外の戦没者が90名・戦没者の合計は226名)としています。

 

ひめゆり学徒隊の1人1人の死因は混乱を極めた中で詳しい記録が残っておらず、正確に特定する事は困難ですが、当時の状況の証言やひめゆり学徒隊の生存者の証言などにより、砲撃や爆撃、銃撃に巻き込まれた事の他に、自決用に配布された手りゅう弾による集団事件、崖から海へ飛び込んでの集団自決、栄養失調による餓死、マラリアなどの感染症による病死などが死因となったとされています。

 

 

ひめゆり学徒隊は負傷兵の切断手術などを手伝わされた

 

出典:https://image.space.rakuten.co.jp/

 

ひめゆり学徒隊の悲劇としてよく伝えられているのが、ひめゆり学徒隊の女生徒達が負傷兵の外科手術での手足の切断を手伝わされたという逸話です。

 

ひめゆり学徒隊の生存者もこの手足の切断にまつわる逸話を語られている方が多くいます。そうした方々によると、麻酔薬が切れて薬品を嗅がせて失神状態にした負傷兵を押さえつけるようにして手足を切断するが、負傷兵が痛みで大暴れするのを力づくで押さえ込むのを手伝ったのそうです。

 

いきたまま麻酔もなく手足を切断する行為はあまりにも恐ろしい事ですが、何度も切断を手伝わされるうちにだんだんと感覚が麻痺してきて、無感情にそうした仕事をこなせるようになったと証言されたひめゆり学徒隊の女生徒の生存者方もいます。

 

また、こうしたあまりにも悲惨な状況に他の負傷兵の方も精神を病んでしまい、切断された手足がカゴなどに入れられているのを見て、何を思ったのか「それを煮てくれ」とひめゆり学徒隊の女生徒に頼んで来る方もいたのだそうです。

 

負傷兵の看護や食料運搬、死体埋葬に駆けずりまわる日々になった。命令を受けて移動した糸数壕(南城市)では、手足の切断手術を手伝った。麻酔注射が不足すると、患者に薬品を嗅がせて失神状態のまま手術が始まった。

精神を病んだのか、切り落とされた手足がかごに入っているのを見て「学生さーん、それを煮てくれよ」と言う人もいた。

 

引用:切断された手足「学生さーん、それ煮てくれよ」 動員された17歳少女、想像していた戦争と「違う」

 

ひめゆり学徒隊の女生徒達はこのような地獄のような状況の中に1ヶ月〜2ヶ月も置かれていたのです。

 

 

ひめゆり学徒隊の生存者数と生き残りの方の現在

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

ひめゆり学徒隊の方の生存者数は、当時の混乱した状況もあって正確な数値は出ていません。

 

ここまででも何度も引用しているひめゆり平和祈念資料館が刊行している資料では、戦没者を136名(それ以外の戦没者が90名・戦没者の合計は226名)とされており、単純に240名から226名を引けば生存者は14名だけという事になりますが、ひめゆり学徒隊の生存者22名の証言を記録した映画「ひめゆり」があり、計算が合いません。

 

沖縄戦では、ひめゆり学徒隊以外にも多くの学徒隊が編成されており、解散命令が出された後は別々の学徒隊に所属していた方々が協力しあって逃亡していた場合もあったという事なので、戦争末期の混乱した状況もあり、ひめゆり学徒隊の正確な犠牲者数と生き残り数を算出する事は極めて困難であったと考えられます。

 

これまで、ひめゆり学徒隊の生き残りの方の多くが、終戦後に戦争の悲惨さと平和の大切さを伝えるために自身の悲惨な体験を語り継いでくれていました。しかし、2025年の現在、そうした生存者の方々も高齢で亡くなる方が増えていて、そうした貴重な語りを生で聞く機会が減っているというのが現在の実状です。

 

ひめゆり学徒隊の生存者、生き残りの方々の貴重な語りは、映像記録や文書記録に多く残されていますが、今後もそうした大切な記録を保存し、戦争の悲惨さと平和の大切さを未来へと語り継いでいかなくてはなりません。

 

 

ひめゆり学徒隊を題材にしたアニメ「cocoon〜ある夏の少女たちより〜」

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

2025年の現在、ひめゆり学徒隊を題材にしたテレビアニメ「cocoon〜ある夏の少女たちより〜」がNHKにより制作され放送されました。

 

このアニメによりひめゆり学徒隊への関心が若い世代にも広がったようです。

 

どうアニメはひめゆり学徒隊を題材にした今日マチ子さんの漫画作品「cocoon(コクーン)」を原作としたもので、2025年3月にNHKBSで先行放送されたものが2025年8月15日の24時35分(8月16日の0時35分)にNHK総合で放送される事が発表されています。

 

ひめゆり学徒隊を題材にしたアニメ「cocoon〜ある夏の少女たちより〜」は、アニメプロデューサーに元スタジオジブリの舘野仁美さんが起用された事でも話題になりました。

 

 

 

ひめゆり学徒隊と現在の高校生を対比したアニメ作品がコンテスト最優秀賞

 

ひめゆり学徒隊を題材にしたアニメーション作品としては、2024年の第6回「“ひめゆり”を伝える映像コンテスト」にて最優秀の「ひめゆり映像賞」を受賞した「同い年のふたり」というショートアニメーション作品があります。晃華学園中学校高等学校の3年生のチームが制作したものです。

 

晃華学園中学校高等学校(東京都調布市)の高校3年生チームが、太平洋戦争下の沖縄のひめゆり学徒隊をテーマにアニメ作品を制作し、第6回「“ひめゆり”を伝える映像コンテスト」で最優秀の「ひめゆり映像賞」を受賞しました。タイトルは「同い年のふたり」。同じ世代の自分たち高校生とひめゆり学徒隊を対比させた独特な作品です。

 

引用:ひめゆり学徒隊と現代高校生を対比、アニメ作品が最優秀賞…晃華

 

このショートアニメーション作品「同い年のふたり」はYouTubeで公開されています。短い作品ながら心に強く訴えかけるものがあります。

 

 

 

ひめゆり学徒隊を題材にした映画① 「ひめゆりの塔」(1953年版)

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

ひめゆり学徒隊を題材にした映画も、戦後から現在にかけて多くの作品が制作されています。

 

1953年には今井正監督の「ひめゆりの塔」という映画が公開されています。

 

津島恵子さんら、当時を代表する若手女優達がひめゆり学徒隊の引率教師や女生徒を演じ、ひめゆり学徒隊の悲劇を忠実に描いています。戦争批判とセンチメンタリズム、ヒューマニズムをテーマが盛り込まれた映画で、配給収入1億8000万円と当時としては大ヒットを記録し、倒産の危機にあった東映を救う作品にもなりました。

 

1982年には栗原小巻さんを主演としてリメイク版も公開されています。(同脚本同監督によるセルフリメイク映画)

 

 

ひめゆり学徒隊を題材にした映画② 「あゝひめゆりの塔」

 

出典:https://m.media-amazon.com/

 

ひめゆり学徒隊を題材とした映画としては1968年公開の舛田利雄監督映画「あゝひめゆりの塔」があります。

 

映画「あゝひめゆりの塔」は、当時、国民的な人気を集める若手女優であった吉永小百合さんを主演とし、ひめゆり学徒隊の少女らが過酷な環境の中で懸命に人を助けよう、自らも生き抜こうとする姿が描かれます。

 

序盤は明るく華やかな雰囲気で、心は現在の若者と何ら変わらぬ少女達の姿が描かれますが、後半にいくつれて次第に重苦しくなり、悲劇的な結末を迎えます。このコントラストが、戦争の悲劇が現在とも地続きにあるという事を観るものに強く感じさせる作品となっています。

 

 

ひめゆり学徒隊を題材にした映画③ 「ひめゆりの塔」(1995年版)

 

出典:https://u-watch.jp/

 

ひめゆり学徒隊を題材にした映画では、1995年公開の神山征二郎監督映画「ひめゆりの塔」があります。

 

こちらは、1953年公開の今井正監督の「ひめゆりの塔」の直接的なリメイク作品ではありませんが、同映画の水木洋子の脚本と仲宗根政善さんの著作「ひめゆりの塔をめぐる人々の手記」を原作として構成された映画作品となっています。

 

主演は沢口靖子さんで、永島敏行さんや後藤久美子さん、酒井美紀さん、高嶋政宏さんといった現在も活躍する俳優陣が出演しており、若い世代にも親しみやすくなっています。

 

ひめゆり学徒隊の悲劇を忠実に描き出そうとしているものの、スポンサーとの兼ね合いや時代的な事情もあってか若干ソフトに描かれている面もあり、戦争の真実を伝えるという意味での作品の重厚さやメッセージ性という点では先に紹介した1953年版「ひめゆりの塔」や「あゝひめゆりの塔」に軍配があがるという印象です。

 

 

ひめゆり学徒隊を題材にした映画④ 「ひめゆり」(ドキュメンタリー)

 

出典:https://storage.eigaland.com/

 

2007年に公開された柴田昌平監督によるドキュメンタリー映画「ひめゆり」は、ひめゆり学徒隊の生存者達の証言に主眼を置き、1994年から13年間にわたっての撮影と緻密な取材を経て世に出された、ひめゆり学徒隊と沖縄戦を題材とした作品の中では究極ともいえるノンフィクションです。

 

柴田昌平監督は徹底的に中立の立場を貫いており、真実をただ正確に記録し未来に残し、ただ次の世代に問いかけるという事を主眼としてこの作品を制作したように感じられます。そうした点で同映画は、既成の思想にとらわれる事なく多角的に沖縄戦、ひいては広く戦争というものを捉え、思考するための極めて貴重な資料と位置付けられるかと思います。

 

沖縄出身の歌手・Coccoさんは、このドキュメンタリー映画「ひめゆり」について、折に触れて発言しており、若い世代が同作品を鑑賞するきっかけを作っています。

 

戦争に関するドキュメンタリー映画として極めて重要な意味を持つこの「ひめゆり」ですが、ひめゆり学徒隊の生存者の方の意向によりテレビでの放映やDVD販売などはされていません。ただ、毎年の節目に各地で上映されていて、公式ウェブサイトで上映予定を知る事が可能です。

 

 

ひめゆり学徒隊を題材にした漫画① 「COCOON」

 

出典:https://m.media-amazon.com/

 

ひめゆり学徒隊を題材とした漫画作品としては、今日マチ子さんの「cocoon」(コクーン)があります。すでに紹介した2025年に放送されたNHKのアニメ作品「cocoon〜ある夏の少女たちより〜」の原作となった漫画です。

 

漫画「cocoon」は、大人女性向けの漫画雑誌「Eleganceイブ」にて、2009年5月号〜2010年7月号にかけて連載された作品で、とある南の島(沖縄を思わせるが作中では明示されない)で、戦争に動員された少女サンが、親友のマユと共に戦火を懸命に生き抜こうとする様子が描かれます。

 

今日マチ子さんの繊細で透明感のある柔らかいタッチの絵柄が逆に、凄惨で残酷なシーンを際立たせており、それにより少女達の繊細な心の中と戦争の残酷さが対比的に浮き上がり、それが読者に強く訴えかけてくる作品です。

 

 

ひめゆり学徒隊を題材にした漫画② 「水筒〜ひめゆり学徒隊戦記〜」

 

出典:https://m.media-amazon.com/

 

ひめゆり学徒隊を題材した漫画作品の名作としては、沖縄県出身の劇画漫画家・新里堅進さんの「水筒 ひめゆり学徒隊戦記」が挙げられます。

 

「水筒 ひめゆり学徒隊戦記」は、沖縄の地方紙「琉球新報」で1984年に全20回にわたって連載された劇画漫画で、その年に大幅加筆を経て単行本化され、1989年に新潮社より上下二巻にて刊行されました。

 

沖縄戦でのひめゆり学徒隊の一連の行動が極めてリアルな描写で忠実に描かれており、登場人物達の心情についても、おそらく生存者の丁寧な取材を基にして緻密に描き出されています。

 

 

まとめ

 

今回は、太平洋戦争末期の沖縄戦において動員され多くの犠牲者を出した「ひめゆり学徒隊」についてまとめてみました。

 

ひめゆり学徒隊は、戦況の逼迫した当時の日本政府(軍部)が、不足する戦力を補うために看護要員として女学生を動員し編成された学徒隊で、年齢15歳〜19歳の少女たちを中心に編成されていました。

 

ひめゆり学徒隊は軍部の都合により一方的に動員され、野戦病院である沖縄陸軍病院に看護要員として配備され、劣悪かつ過酷な環境の中で看護に従事し負傷兵の食事の世話や包帯交換、外科手術での手足切断の手伝いだけでなく、壕の外に命がけで出て遺体を埋めに行ったり、食料を取りに行ったりという危険な任務を強いられました。

 

戦況が逼迫すると、ひめゆり学徒隊は一方的に解散命令を出されて壕から追い出され、多くに人々がアメリカ軍から逃亡する中で命を落とすという悲劇に見舞われました。ひめゆり学徒隊の死因は、砲爆撃に巻き込まれたといったものだけでなく、自決や餓死、感染症などで亡くなった方も多く含まれていました。

 

ひめゆり学徒隊の生き残りの方々は終戦後に、戦争の悲惨さや平和の大切さを伝えるために自らの辛い体験を語り継がれてきましたが、2025年の現在は高齢によって多くの方が亡くなり、直接その貴重な体験を聞く機会が減っています。ただ生存者の方の証言の貴重な映像記録や文書記録が多く残されているのでそれを大切に保存して未来に伝えていく事が必要です。

 

ひめゆり学徒隊を題材にした映画やアニメ、漫画作品なども多く制作されており、2025年にはNHKアニメ「cocoon〜ある夏の少女たちより〜」が放送されています。

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