第二次世界大戦の原因や死者総数は?年表やきっかけ・日本が参戦した理由と敗戦国としての終戦後・株価への影響もわかりやすく徹底解説

第二次世界大戦は1939年に勃発し、日本は敗戦国として一時アメリカの支配下に置かれました。

 

今回は第二次世界大戦の総死者数と年表、きっかけや原因、日本が参戦した理由株価への影響など終戦後までわかりやすく解説します。

この記事の目次

第二次世界大戦をわかりやすく解説

 

第二次世界大戦は、1939年に開戦して1945年までの6年に渡って続いた人類史上最大の戦争です。 

 

当時の日本は「大日本帝国」という国名で、ドイツ、イタリアと合わせた日独伊三国同盟を中心とした枢軸国陣営側でした。

 

そして枢軸国陣営は、アメリカ、イギリス、フランス、ソ連、中華民国、ポーランド、ベルギー、オーストラリア、ブラジル、ギリシャなどや植民地を合わせた連合国陣営と戦いました。 

 

第二次世界大戦は、ドイツがきっかけとなって開戦したヨーロッパ戦線と、日本がきっかけとなって開戦した東アジア・太平洋戦線という2つの戦線に大きく分かれています。

 

この双方の戦線が拡大することで多くの国が巻き込まれることとなり、地球規模で戦争が広がりました。

 

発端は、1931年の満州事変、1936年のスペイン内乱、1937年の日中戦争などの説がありますが、日中戦争は第二次世界大戦に付随して発生したと考えるのが一般的です。

 

また、日本とアメリカとの太平洋戦争は、海外では「第二次大戦の太平洋戦場」として扱われることが多く、第二次世界大戦に包括されています。

 

 

第二次世界大戦の死者総数とは

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第二次世界大戦の被害がどれほど大きかったか、両陣営の総死者数を紹介します。

 

<連合国軍>

イギリス帝国

アメリカ合衆国

ソビエト連邦

中華民国

フランス共和国

オーストラリア

英領インド

カナダ

オランダ王国

ニュージーランド

フィリピン

 

軍人死者数: 1700万人

民間人死者数: 3300万人

 

<枢軸国軍>

ドイツ国

大日本帝国

イタリア王国

ハンガリー王国

ルーマニア王国

ブルガリア王国

フィンランド

タイ

イラク

 

軍人死者数: 800万人 

民間人死者数: 400万人

 

 

全体で見ると、軍人死者数が2500万人、民間人死者数が3700万人となっており、途方もない尊い人命が短期間のうちに失われたことになります。

 

次からは、第二次世界大戦が火ぶたを切ったきっかけや原因、日本が参戦した理由や終戦までの経緯などを解説していきます。 

 

 

第二次世界大戦のきっかけとは

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なぜ第二次世界大戦は起きてしまったのでしょうか。

 

実はとても複雑に多くの要因が絡み合っているため、複合的に考える必要がありますが、おおむね以下の流れで起きたとされています。

 

アメリカ発の金融における世界大恐慌が起き、世界に波及

とりわけ日本、ドイツ、イタリアの経済状況が急速に悪化

ドイツは、第一次世界大戦の戦争責任による賠償金200兆の負債で首が回らない

ヒトラーは経済の要所であるポーランドの奪還を図った

ポーランドと安全保障条約を結んでいたイギリス、フランスがドイツへ宣戦布告

第二次世界大戦勃発

 

第二次世界大戦のきっかけは、世界各国の経済状況の悪化が大きな要因の1つだったようです。

 

 

第二次世界大戦の原因① 米国発の世界恐慌

 

 

1929年10月、ニューヨーク株式市場の株価が大暴落したことをきっかけに、世界大恐慌へと発展していきます。

 

当時のアメリカは世界の債権国となっていたため、ドルの暴落の影響はアメリカ国内にとどまらず、世界の国々に波及しました。

 

この世界大恐慌に対応するため、イギリスやフランスは「ブロック経済」と呼ばれる、植民地の自治領の囲い込みを行い、輸出を制限させて物資を確保することで経済の安定化を図りました。

 

そのため、第一次世界大戦までに多くの植民地を有していたイギリスやフランスなどヨーロッパの大国は、自国の経済を守ることができました。

 

しかし、それ以外の国々はブロック経済の影響を受けて自由貿易ができなくなり、経済はさらに困窮して行ったのです。 

 

このブロック経済の悪影響を受けた国の代表格が、日本やドイツ、イタリアでした。

 

そして、自国が潰れるを防ぐために、武力によって他国を侵略し、植民地を得ることで貿易圏を拡大しようと考えました。

 

 

第二次世界大戦の原因② ミュンヘン会談でのソ連の除外

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第二次世界大戦の開戦を決定的にしたと言われている原因が、1938年9月の「ミュンヘン会談」です。

 

会談では、ドイツ人住民が多数居住していたチェコスロバキアのズデーテン地方をドイツが割譲するよう要求し、ドイツ、イギリス、フランス、イタリアの首脳が話し合いました。

 

このズデーテン地方は地下資源が豊富で、チェコスロバキアにとって経済の要所となる地域だったことから、当然各国はドイツに譲る気はありませんでした。

 

しかし、ヒトラーはこのズデーテン地方を手に入れることが民族自決を回避するためには不可欠だとして強硬姿勢を崩さず、会談は難航します。

 

戦争につながることを恐れたイギリスのチェンバレン首相は宥和政策を提案し、それによってズデーテン地方はドイツに併合されました。

 

チェンバレン首相は当時、最大の敵はソビエト連邦と見ており、日本とドイツをその防波堤にしようと考えていたため、ドイツを敵に回すことをよしとしていませんでした。 

 

これはヒトラーも承知しており、イギリスがソビエト連邦を恐れていることを知っていたため、自分の無理な要求も通るとにらんでの要求だったようです。 

 

しかし、このミュンヘン会談では、当事者であるチェコスロバキアのエドヴァルド・ベネシュ大統領が呼ばれていなかったにもかかわらず、併合が決まったことが問題となりました。

 

そのため、チェコスロバキアは会談に出席できなかったことをきっかけに、それまでフランスと結んでいた相互援助条約を解消しています。

 

さらに、フランスと同盟関係にあったソビエト連邦の最高指導者であるスターリンも会談に呼ばれていませんでした

 

これをきっかけに、スターリンはフランスとの決別を決め、イギリスが恐れていたドイツとの独ソ不可侵条約締結をする結果となりました。 

 

この時、のちにイギリス首相となったチャーチルは、独ソ不可侵条約締結の報を聞いて、これで第二次世界大戦の開戦は避けられなくなったと頭を抱えたと言われています。 

 

 

第二次世界大戦の原因③ ドイツのポーランド侵攻

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ミュンヘン会談により、ドイツにとって都合のいい状況が作られたことで、さらにヒトラーはポーランドにあるダンツィヒを奪還しようとポーランドに侵攻しました。 

 

ダンツィヒとはドイツ語読みで、現在のポーランドにあるグダニスク(グダンスク)にあたる地名で、バルト海に面しているこの海港都市は中世時代より栄えてきました。

 

元々はドイツの貿易港だったダンツィヒですが、ドイツが第一次世界大戦で敗北し、ベルサイユ条約で事実上ポーランド領となっていました。

 

ドイツにとって経済の要の1つだったダンツィヒをなんとしてでも奪還したいと、ポーランド侵攻を決めたのです。

 

ポーランド侵攻を決行したヒトラーの凶行の原因は、第一次世界大戦の戦勝国がドイツを押さえ込むために、ベルサイユ条約によりドイツが厳しい軍備制限下に置かれたことが原因でした。 

 

しかしドイツを激しく抑圧したことで、国家主権の侵害に当たるとの思想を掲げたナチスの登場に繋がり、ドイツの再軍備宣言に繋がっていきました。 

 

ヒトラーは、イギリスとフランスが軍を出すことはないと踏んで、べルサイユ条約で非武装地帯と定められていたラインラントにドイツ陸軍を進軍。

 

これにより、ヒトラーは一躍英雄視されるようになりました。 

 

この時、もしイギリスやフランスが反撃に出ていたら、再軍備して間もないドイツ軍は敗戦に追い込まれ、第二次世界大戦は勃発しなかった可能性が高いと言われています。

 

 

第二次世界大戦の原因④ ドイツの莫大な借金

 

ドイツがここまで強硬手段に出た背景に、前述したベルサイユ条約において課された1320億金マルク(日本円で約200兆円)にも及ぶ多額の賠償金も要因でした。

 

第一次世界大戦の敗戦により、ドイツ国内は荒廃するとともに経済も衰退したため、途方もない金額の賠償金を払うような力はどこにもありませんでした。

 

そして賠償金を払えないことを理由に、フランスとベルギーはドイツ北西部にある炭鉱地帯でヨーロッパ有数の工業地帯であるルール地方を占領してしまいました。 

 

ドイツはこの不当な侵略に対して、労働者を働かせないことで生産を停止させるサボタージュを行いました。

 

ですが、これはさらなる経済悪化とハイパーインフレーションを起こすきっかけとなり、ドイツ経済はますます深刻な状況に陥ってしまったのです。 

 

そんなどうしようもなくなったドイツに救いの手を差し伸べたのが、アメリカでした。

 

大量のドルを貸し付けることで、死にかけていたドイツ経済の復活、そしてイギリスとフランスへの賠償金の支払いが可能になりました。

 

しかし、ドイツ経済が軌道に乗り始めると思った矢先に発生したのが、1929年に発生した世界大恐慌でした。

 

なお、賠償金は2010年に完済され、半世紀以上にわたって借金返済にあたってきたドイツ経済の底力にも驚かされます。

 

 

第二次世界大戦の原因⑤ べルサイユ体制崩壊

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 べルサイユ条約によってドイツの軍事的活動を押さえ込む目的の体制を、「べルサイユ体制」と言います。

 

ベルサイユ条約の締結により、有志国による平和を目指す国際組織「国際連盟」が設立され、世界の平和維持活動がスタートします。なお、日本は国際連盟の常任理事国でした。

 

ドイツも常任理事国でしたが、世界大恐慌によりもはや侵略でしか自国が存続する道はないと考えて再軍備を進めたため、1933年に国際連盟を脱退します。

 

そして同年、日本も満州国からの撤退を勧告されたことで国際連盟を脱退

 

さらに、イタリアも植民地を増やそうと軍事活動に力を入れていたことが諸外国から強い非難を浴び、1937年に国際連盟を脱退しました。

 

日本、ドイツ、イタリアの3国は国際連盟脱退により世界からの孤立を深め、日独伊三国防共協定を結んだことで枢軸体制が出来上がり、ベルサイユ体制は完全に崩壊したのです。 

 

 

第二次世界大戦の出来事をわかりやすく年表で紹介

 

枢軸国体制が出来上がったことに対抗して、イギリス、フランス、アメリカ、ソビエト連邦、中国などの大国を始めとした連合国体制も組まれました。 

 

ここからは、第二次世界大戦の開戦から終戦までの主だった出来事を、わかりやすく年表で紹介していきます。

 

「第二次世界大戦」1939年 開戦

9月1日・・・ドイツと独立スロバキアがポーランドへ侵攻

9月3日・・・イギリス・フランスがドイツに宣戦布告

9月17日・・・ソビエト連邦が東部ポーランドに侵攻、ポーランドは独ソ両国に分割・占領される

11月30日・・・ソビエト連邦がフィンランド侵略開始、この侵略行為を非難され国際連盟から除名

 

「第二次世界大戦」1940年 枢軸国の同盟締結

4月9日・・・ドイツがデンマークとノルウェーに侵攻開始

5月10日・・・ドイツがオランダ・ベルギー・ルクセンブルクに奇襲攻撃開始

6月4日・・・イギリス・フランス軍による、ダンケルクからの奇跡の撤退作戦完了

6月10日・・・イタリアがイギリス・フランスに宣戦布告

6月14日・・・ドイツ軍がパリに無血入城

7月10日〜10月31日・・・ドイツ軍によるイギリス本土航空戦

8月・・・ソビエト連邦が「バルト三国」と呼ばれるリトビア・ラトビア・エストニアを併合

9月13日・・・イタリアが植民地リビアよりエジプトへ侵入

9月27日・・・日独伊三国同盟締結

10月28日・・・イタリアがアルバニアからギリシャへ侵攻

「第二次世界大戦」1941年 世界規模に発展

4月6日・・・ドイツ軍がギリシャ・ユーゴスラビアへ攻撃開始

6月22日・・・ドイツがソ連に侵攻

12月8日・・・日本軍がマレー半島上陸、真珠湾攻撃を仕掛け、アメリカ・イギリスに宣戦布告

12月11日・・・ドイツとイタリアがアメリカに宣戦布告

 

「第二次世界大戦」1942年 連合軍の反撃

1月20日・・・バンゼー会議にてナチス指導者はユダヤ人殺害を決定

6月5日・・・アメリカがミッドウエー海戦で日本海軍を破る

8月22日・・・ドイツがスターリングラード猛攻撃開始

10月23日・・・連合軍、北アフリカのエル・アラメインで反撃

 

「第二次世界大戦」1943年 枢軸国崩壊

2月2日・・・スターリングラードで戦っていたドイツ軍が降伏

5月13日・・・ドイツ軍、北アフリカ戦線で降伏

7月10日・・・連合軍、シチリア島に上陸

7月25日・・・イタリアのムッソリーニ首相が失脚

9月8日・・・イタリア降伏

11月6日・・・ソビエト連邦がキエフを解放

11月22日・・・ルーズヴェルト・チャーチル・蒋介石によるカイロ会談

11月28日・・・ルーズヴェルト・チャーチル・スターリンがテヘランで会談

 

「第二次世界大戦」1944年 ドイツ敗戦が濃厚になる

6月4日・・・アメリカ・イギリスによるローマ解放

6月6日・・・ノルマンディー上陸作戦開始

8月1日・・・ワルシャワ蜂起

8月25日・・・パリ解放

8月29日・・・スロバキア民族蜂起

9月9日・・・フランスでド・ゴール臨時政府樹立

 

「第二次世界大戦」1945年 枢軸国敗戦と終戦

1月12日・・・ワルシャワ解放

2月13日・・・ソビエト連邦軍がブタペストを解放

2月19日・・・硫黄島の戦い開始

4月1日・・・アメリカ軍、沖縄上陸開始

4月13日・・・ソビエト連邦軍、ウイーン占領

4月16日・・・ソビエト連邦軍によるベルリン攻撃開始

4月28日・・・パルチザンによりムッソリーニが銃殺される

4月30日・・・ヒトラー自殺

5月7日・・・ドイツが連合国に対し無条件降伏

7月26日・・・ポツダム宣言発表

8月6日・・・広島に原子爆弾投下

8月8日・・・ソビエト連邦が日本に宣戦布告、満洲へ侵攻

8月9日・・・長崎に原子爆弾投下

8月15日・・・日本がポツダム宣言受諾、無条件降伏

 

 

第二次世界大戦と日本が参戦した理由と経緯① 昭和恐慌から満州事変へ

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1920年代の日本は、第一次世界大戦や関東大震災の影響で起きた金融恐慌などで、著しく経済が悪化しており、極めて国力が低下していました。 

 

景気回復策として、1930年1月に金の輸出を解禁し、為替相場を安定させることで輸出を促進させました。

 

しかしドイツと同様、持ち直し始めた矢先の1929年10月、世界大恐慌が起きたため、輸出促進策はもろくも崩れ、輸入超過となり、金が大量に流出して昭和恐慌を呼び込みました。 

 

深刻な経済危機に陥った日本は、やはりドイツと同じく、他国に侵略することでしか生き残る手立てがないとの考えに至ります。

 

そして、1931年9月18日に関東軍が奉天郊外で満州鉄道を爆破するという軍事行動「柳条湖事件」を皮切りに、満州主要部を占領した「満州事変」が勃発しました。

 

 

第二次世界大戦に日本が参戦した理由と経緯② 国際協調体制からの離脱

第二次世界大戦

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満州事変を受けて、日本が侵略行動に出たとして中国は国際連盟に提訴しました。

 

国際連盟の常任理事国はアジアの局地的な事件としてしばらく様子を見ていましたが、日本に対する不信感を強め、リットン調査団を派遣しました。

 

これに対して、日本はリットン報告書が国連により発表される前に、 日満議定書に調印し、満州国の既成事実化を強行しています。

 

この頃のヨーロッパでは、ドイツでヒトラー率いるナチスが台頭していたこともあって、国際連盟の常任理事国の多くは、日本の武力侵攻によって成立した満州国へ反発の声をあげました。

 

そして国際連盟臨時総会において、満州国からの日本軍撤退を求める決議案が可決され、これを受けて、1933年3月12日に日本は国際連盟を脱退しています。

 

国際連盟脱退後の日本は、経済回復の要となる満州国を維持しつつも、まだこの時はイギリスやアメリカ、ソビエト連邦などとの関係を修復し、新たな関係を構築しようと考えていました。 

 

 

第二次世界大戦に日本が参戦した理由と経緯③ 日中戦争開戦

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満州事変により中国との関係が悪化の一途をたどっていた1937年7月7日、「盧溝橋事件」をきっかけに日中戦争が開戦しました。 

 

日本政府は当初、戦争拡大を抑止する方針でしたが、中国で抗日活動が広がっていたことを憂慮して、それを武力で押さえ込むために戦線を拡大させることを決定。

 

当時の日本は軍需物資をアメリカからの輸入に頼っていました。

 

そのため、宣戦布告をして開戦すると、アメリカが中立の立場をとった時に軍需物資の輸出を止められてしまう可能性があったため、あえて宣戦布告をしませんでした。

 

つまり、アメリカとの関係をむやみに悪化させることは望んでいなかったのです。

 

しかし、1938年11月に日本が日・満・華の新たな秩序を作るという「東亜新秩序声明」を発表。

 

これにより、アメリカは欧米勢力の排除とワシントン体制の否定と捉え、1940年7月に日米通商航海条約の廃棄を通告して日本への経済制裁を始めました。 

 

そのため、1940年1月以降、日本はアメリカに頼っていた軍需物資の確保ができなくなります。

 

日本陸軍は軍需物資の確保のために、インドシナ半島など南方地域を確保しようとする南進政策を主張し、1940年9月に北部仏印進駐が行われました。

 

 

第二次世界大戦に日本が参戦した理由と経緯④ ソビエト連邦との軍事衝突

 

当時の日本の外交の軸だったのが、脅威となるソビエト連邦や国際共産主義運動の指導組織・コミンテルンに対抗できる新秩序を作ることです。

 

そのため、満州事変や日独伊防共協定もこの構想に基づいて行われた策でした。

 

当然、こうした日本の動きをソビエト連邦は面白く思っておらず、日本軍は度々ソビエト連邦軍と軍事衝突を起こすようになりました。

 

1939年5月、満州国とモンゴルの国境紛争である「ノモンハン事件」が発生。関東軍は陸軍中央部の命令を無視してソ連軍との戦闘を行い、敗北しています。

 

同年9月には、ついにドイツのポーランド侵攻をきっかけとして、ヨーロッパにおいて第二次世界大戦の火ぶたが切って落とされました。

 

この時、日本政府はイギリスやアメリカとの対立を避けるために、日中戦争の終結に向けて全力を尽くす姿勢を見せていました。

 

 

第二次世界大戦に日本が参戦した理由と経緯⑤ 日独伊三国同盟と日ソ中立条約

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日本は1940年9月に、日独伊三国同盟を結び、南進政策を本格化させました。 

 

これは、アメリカとの関係悪化を恐れて、枢軸国としての結束を強めることでアメリカを牽制する狙いがありました。 

 

そして、目の上のたんこぶであったソビエト連邦の脅威を排除するために、1941年4月に日ソ中立条約を締結。

 

これは、ドイツと険悪な関係にあるソビエト連邦が、日本とは本格的な戦争を起こしたくないと考えていたため、条約の締結に至っています。 

 

 

第二次世界大戦に日本が参戦した理由と経緯⑥ アメリカとの関係悪化で太平洋戦争開戦

 

日ソ中立条約によって、ソビエト連邦からの脅威が無くなった日本は、南進政策をますます強め、アメリカは警戒心を強めてきました。

 

しかし、日本海軍はアメリカとの戦争は絶対に避けるべきだと主張しており、時の近衛文麿首相は日米交渉継続の重要性を訴えていました。

 

南部仏印進駐計画が明るみになると、アメリカはいよいよ警戒して、在米日本資産を凍結する経済制裁に乗り出しました。

 

さらに南部仏印進駐計画が実行に移されると、アメリカは対日石油輸出を全面禁止とし、アメリカ、イギリス、中国、オランダによる「ABCD包囲陣」を強めていきました。

 

 

第二次世界大戦に日本が参戦した理由と経緯⑦ ドイツの勝利に乗じて太平洋戦争開始

 

前述の通り、1939年9月1日にドイツがポーランドに侵攻したことをきっかけに、イギリスとフランスがドイツに対して宣戦布告したことで第二次世界大戦が開戦しました。

 

時の阿部信行第36代内閣総理大臣・米内光政第37代内閣総理大臣の両名は、ヨーロッパを発端とした第二次世界大戦に不介入の姿勢を貫いていました。

 

しかし、1940年にドイツが予想に反して快進撃を続け、6月にはパリを陥落させたため、これに乗じて日本政府の中でも南方に進出しようとする意見が強くなりました。 

 

同年7月には、軍部の支持を受けていた近衛文麿が2度目の首相に就任します。近衛文麿は日独伊三国同盟を結び、枢軸体制を築いた張本人ですが、対米開戦には消極的でした。

 

しかし1941年10月18日、東条英機が政権に就くと一転して対米開戦路線に転換。1941年11月、御前会議にて、連合国軍との開戦準備と対米交渉を並行して進めることを決定します。

 

同月26日、アメリカは最後通牒とも言える「ハル=ノート」を日本政府に提示し、満州事変以前の状態に戻すように日本に迫りました

 

これを受諾することはできないとした日本政府は、12月1日の御前会議でついにアメリカやイギリスを筆頭とする連合国軍との第二次世界大戦の開戦を決定。

 

1941年12月8日、日本軍はイギリス領マレー方面に侵攻、さらに1941年12月8日にハワイの真珠湾を奇襲した真珠湾攻撃を敢行し、アメリカとイギリスに宣誓布告しました。 

 

これが、第二次世界大戦におけるヨーロッパ戦線とは別の、東側で起きた東アジア・太平洋戦線の始まりです。 

 

 

第二次世界大戦の各戦線の状況① ヨーロッパ戦線

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ヨーロッパ戦線は、西部戦線、東部戦線、アフリカ戦線に細かく分かれます。順に流れを説明しましょう。

 

 

西部戦線

 

西部戦線は、ドイツおよびその西方に位置するフランス、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、デンマークなどを主戦場に、ドイツとイギリス・フランス・アメリカ合衆国との戦いです。

 

1940年からドイツは西部への攻撃を開始し、中立国だったデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーに次々と侵攻。その破竹の勢いは衰えず、6月にはパリを制圧しています。 

 

これにより、フランスの北半分をドイツが占領して、南半分はフィリップ・ペタン内閣が統治することになりました。 

 

ドイツのフランス支配に対し、フランス国内ではレジスタンス活動が活発化し、ロンドンに亡命したド=ゴールが「自由フランス政府」を組織して抵抗を続けました。 

 

一方、イギリスは時のチャーチル首相が徹底抗戦してドイツ軍の激しい空襲に耐えたため、本土上陸は許しませんでした。 

 

そして1944年6月には、アメリカ軍を主体とした連合国軍がドイツ占領下の北西ヨーロッパへ侵攻したノルマンディー上陸作戦を成功させ、ドイツに奪われた領土を奪還。 

 

フランス国内で激化していたレジスタンス活動もこれに乗じて蜂起し、ナチスによって占領されていたパリは同年8月に解放されました。 

 

ドイツが完全敗北を喫したことで、1945年5月にヒトラーは自殺し、ドイツは無条件降伏、西部戦線は完全に終結します。 

 

 

東部戦線

 

東部戦線は、ドイツやイタリアを中心とした枢軸国とソ連が戦った戦いのことです。

 

1941年になると、ドイツは独ソ不可侵条約を破ってソビエト連邦に宣戦布告し、独ソ戦争が開戦します。 

 

ヒトラー率いるナチスドイツの快進撃に、ソビエト連邦は第二次世界大戦の参加国の中でも最も多い被害者を出しました。

 

しかし、1942年からのスターリングラードの戦いが、1943年にソビエト連邦の勝利で終結したことで戦況の決定的な転機となり、ドイツはソビエト連邦から撤退を余儀なくされます。

 

これにより、ドイツは戦力を失い、東部戦線は事実上の終結となりました。 

 

 

北アフリカ戦線

 

北アフリカ戦線は、エジプトからモロッコまで、北アフリカ北岸で行われた戦闘を指します。

 

イタリアは東アフリカの植民地拡大を狙い、1940年9月、エジプトに侵攻しました。一時は有利に進めるものの、アフリカ駐在のイギリス軍から反撃され敗北。

 

ドイツ軍が応援に駆け付け一進一退を続けますが、枢軸国の戦力は次第に削られ、さらに補給路が激しく攻撃されたため、1943年5月のチュニジアの戦いで現地の枢軸国軍は降伏しました。

 

北アフリカ戦線が終わりを迎えた後の1943年7月には、連合国軍がシチリア島に上陸してイタリアのムッソリーニ首相が逮捕されます。そして同年9月、イタリアは無条件降伏しました。 

 

 

第二次世界大戦の各戦線の状況② 東アジア・太平洋戦線

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日本は真珠湾攻撃が成功してアメリカに打撃を与えましたが、1942年6月のミッドウェー海戦で大敗を喫したことを皮切りに一気に形勢が逆転しました。 

 

日本海軍は航空母艦の主力を失い、制空権をアメリカに制圧されたことから、1944年末から本土への激しい空襲が始まります。 

 

1945年4月になると、アメリカ軍が沖縄に上陸して激しい地上戦が繰り広げられました。 

 

また空爆も激しさを増し、ついに同年8月6日に広島へ原爆投下8月8日にはアメリカ軍のソ連対日戦への参戦、続く9日に長崎へも原爆が投下され、日本の完全敗北が決定しました。

 

 

第二次世界大戦の特徴

 

第一次世界大戦はそれぞれの国の覇権争いという帝国主義戦争でしたが、第二次世界大戦は日独伊の枢軸国軍のファシズムと、英仏米ソを始めとした連合国軍の民主主義の闘いでした。

 

そのため、共産主義国であるソビエト連邦や中国が民主主義側に入っていた特異な戦争だと言えるでしょう。 

 

また、当時の中国国内では国民党と共産党が権力争いをしていましたが、日中戦争開戦により両党が結束して抗日民族統一戦線を結成し、対抗していました。 

 

こうした構図は、主義主張を越えて利害の一致が最優先された結果だと言えるでしょう。

 

そして、第二次世界大戦は、各国の科学技術力や工業生産力、経済力を全てつぎ込んだ総力戦であり、核武装など近代化が進んだ分、第一次世界大戦よりも激しいものとなりました。  

 

 

第二次世界大戦の終戦に向けた動き

ヤルタ会談の開催

 

日本が降伏する約半年前の1945年2月、第二次世界大戦の戦後処理を戦勝国である連合国軍が話し合うため、ソビエト連邦のクリミア半島にあるヤルタにて「ヤルタ会談」が開かれました。

 

ヤルタ会談に出席したのは米フランクリン・ルーズベルト大統領、英のチャーチル首相、ソ連のスターリン書記長でした。

 

また、アメリカとソビエト連邦の間で秘密協定が結ばれ、南樺太及び千島列島をソ連の領土とする密約が交わされました。

 

そのため、その後無条件降伏をした日本はこれを受け入れざるを得ませんでしたが、現在までの北方領土問題として話し合いが続いています。 

 

 

ポツダム宣言の発布と日本の受諾

 

1945年7月17日から8月2日、ドイツのベルリン郊外にあるポツダムにて、米・英・ソの首脳による「ポツダム会談」が行われました。

 

この会談により、日本の無条件降伏を勧告する「ポツダム宣言」が採択されました。

 

同時に、戦後処理をめぐってアメリカとソ連の間の対立が表面化し、後の米ソ冷戦時代へのきっかけとなります。 

 

米ソの対立により、7月に「ポツダム宣言」が発布された時、参加したのは米・英・中の3国のみで、ソ連の参加は8月8日までずれ込みました。 

 

当初、日本は「ポツダム宣言」の受諾を拒否していましたが、8月10日に行われた御前会議において受諾が決定し、14日に連合国側へ通告、翌15日に玉音放送で国民は知らされました。 

 

 

第二次世界大戦の終戦後の日本① 敗戦国としてGHQ占領下に

 

第二次世界大戦の敗戦国となった日本は、占領地から兵士を引き上げ、日清戦争以降に獲得した植民地を全て手放すこととなりました。

 

そして前述のように、北方領土はソビエト連邦の支配下に置かれ、沖縄や小笠原諸島、奄美諸島はアメリカの支配下に置かれることとなりました。

 

国内における戦争の爪痕はひどく、住宅や工場などが多く破壊されたため、物価が激しく高騰して国民の生活は困窮を極め、失業者が大量に出ました。

 

また、日本はアメリカをはじめとした連合国軍の占領下に置かれ、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)が設置されます

 

GHQは戦後改革を進め、日本の非軍事化、政府や軍の指導者らを戦争犯罪人として極東軍事裁判にかけ、公職から追放しました。

 

また、GHQによって1946年、昭和天皇は天皇の神性を否定する「人間宣言」を行いました。

 

 

第二次世界大戦の終戦後の日本② GHQによる民主化と日本国憲法制定

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

GHQは日本の非軍事化と民主化を進めるために、それまであった治安維持法を廃止し、政治活動や言論の自由などを保証して、選挙権を満25歳の男子から、満20歳の男女に与えました。

 

また、戦前・戦中の日本の経済を牛耳っていた大財閥を解体し、労働者を保護するための労働組合法や労働基準法の策定、農村部では農地改革などが行われ、自作農が増えています。

 

また、日本の民主化を進める上で、憲法の改正は必須でした。

 

当初、日本政府は改正案を提出していましたが、GHQがこれを退け、独自の草案を作成しました。

 

日本政府はこのGHQによる草案を受け入れて、新しい改正案を作成。その後、帝国議会で審議した後、1946年11月3日に日本国憲法が公布され、1947年5月3日から施行されました。

 

GHQが作った新しい日本国憲法は、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の3つを基本原理とし、天皇は国民の象徴であるとしました。

 

また、国策を担う最高機関は国会とし、内閣が国会に責任を負う議院内閣制が採用されます。

 

それに伴って、日本自由党や日本社会党などの党が結成され、新憲法の下で政治を行うこととなりました。

 

 

第二次世界大戦の終戦後の日本③ 高度経済成長から現代へ

第二次世界大戦

出典:https://www.nhk.or.jp/

 

1950年から始まった朝鮮戦争により、日本は好景気の波に乗って経済が活性化し始めます。

 

翌1951年には、日本はアメリカとサンフランシスコ平和条約を結び、同時に日米安全保障条約を結びました。

 

1955年に自由民主党が結成されると、長期政権を担うようになり、当時の岸内閣はアメリカとの関係をよりよいものにしていくために、新しい安全保障条約を結びました。

 

ただ、アメリカにおもねる姿に激しい反対運動が起こっています。

 

 

第二次世界大戦の終戦後の日本④ 国際社会への復帰

出典:https://www.nhk.or.jp/

 

1950年代後半になると、アメリカとソビエト連邦の米ソ冷戦は少しずつ雪解けの兆候が見え始め、1956年に日ソ共同宣言が調印されたことでソ連との国交が回復しました。

 

同年、日本は国際連合に加盟し、国際社会に復帰を果たします。

 

この頃から日本の平均成長率は10%と高度成長期を迎え、技術革新やエネルギー革新なども相まって、企業が著しく成長、産業が活性化していきました。

 

1968年には、国民総生産がアメリカに次いで第2位という目覚まし成長を遂げ、日本は経済大国となったのです。

 

その一方で、都市部への一極集中が進み、農村の過疎化が問題となり始めます。

 

また、都市部は交通問題や住宅不足が発生し、工場の乱立や生活排水などにより大気汚染や水質汚染などが環境問題も深刻化しました。 

 

 

第二次世界大戦の終戦後の日本⑤ 沖縄返還と中国との国交回復

出典:https://www.nhk.or.jp/

 

1972年、アメリカから沖縄が返還され、同時に中共同声明が発表されたことで中国との国交が回復しました。

 

1978年には日中平和友好条約も結ばれたことから、両国の貿易はますます盛んとなり、日本は安定した成長を続けましたが、1980年代末にバブル崩壊が起きます。

 

これにより、銀行や企業の連鎖倒産などが相次ぎ、深刻な平成不況を迎えました。

 

都市部と農村部での貧富の格差も広がる一方で、政府はアメリカに言われるままに国営事業を次々と民営化し、外資への投げ売りが始まりました。

 

それでも高度経済成長期からの経済力を背景に、日本はアジアのリーダーとして国際貢献や環境問題に乗り出し、多くの発展途上国を支える国としての役割を果たすようになっていくのです。

 

 

第二次世界大戦が日本の株価に与えた影響とは?

第二次世界大戦後、株式市場の民主化

 

歴史を振り返ってみると、日本の社会システムが大きく変革を迎える時というのは、幕末時の黒船来航のように外圧によるケースが多々あります。

 

第二次世界大戦後も、GHQによる占領政策は日本を経済大国に押し上げる大きな要因となりました。

 

1945年の財閥解体令で財閥が解体されたことで、財閥が保有していた大量の株式が民間に放出され、日本の株式市場の民主化と近代化が著しく進み、富む人々が増えたと言われています。

 

1947年には、アメリカ証券取引法をモデルに以下の施策が取り入れられました。

 

①証券業者の登録制

②企業情報の開示(ディスクロージャー)の重視

③会員制の証券取引所

④金融機関の証券業務兼務禁止

⑤証券取引委員会の設置

 

これらにより、日本の株式市場は欧米と同様の環境が整えられ、目覚ましい高度経済成長を遂げることとなりました。

 

 

第二次世界大戦の被害者の声を紹介

 

最後に、広島・長崎で被爆した方たちの声を紹介します。

 

広島で原爆に被爆した方の声

まずは、現在は東京都西東京市に住まわれている、被爆時は17歳で爆心地から2キロの場所にいた池田瑛さんの体験談です。

 

 アメリカは親の仇であり原爆は悪魔である。これは事実だ。黒焦げの死体が散乱し幽霊のような方々がさ迷い歩く地獄絵を見てきた。最近出版の「庄原市の歴史」に私の体験談が出ている。母が9月1日に死んだ場所。しかし現在、アメリカを憎んではいない。今はチョンマゲの時代ではない。親の仇と憎しみ合う連鎖は絶つべきだ。それと今一つ、大きな 理由を下に記します。

 

 「あのとき、日本の敗けは決まっていた。残虐な爆弾を使わずとも戦争は終ったハズだ」が通説です。しかし、これは全くマチガッているのであります。海軍は全滅、街は焦土、物資はナイナイづくしで国民は腹ペコ。この死に体の日本にあって、帝国陸軍はなお、「国体護持のため本土決戦で一億玉砕、最後の一兵まで戦う」と怒号、天皇を松代大本営10kmの トンネルに移し、民族絶滅を期して闘うつもりでした。帝国陸軍の誇りと伝統は絶対に降伏を許さぬこと。アッツ島もサイパンも硫黄島も沖縄もすべて圧倒的な米軍に水際まで押しつめられ住民もろとも自決、又はバンザイ突撃で全滅しております。

 

引用:広島・長崎の記録

 

 

長崎で原爆に被爆した方の声

次は、被爆時は16歳で、爆心地から1キロの場所にいた吉冨安美さんの体験談です。

 

落とされた時刻は、11時2分。 突然、トンネルの電気が消え、真っ暗やみになりました。 ‥と、同時に100メートル手前の入口から、パッと目を刺すような閃光がさして、バラバラッとまるで大きな台風が来たようなものすごい音がしました。 入口付近の人達が、ヒヤッと悲鳴をあげながら、爆風で吹き飛ばされて来たのです。 機械とか土間にたたきつけられたまま、動けません。 「新型爆弾がおちたぞー」と誰かが叫びました。 三日前、広島が大型爆弾で大被害を受けたと噂を聞いていましたが、それが原子爆弾だとはまだ分からず、ものすごく新型の爆弾が落とされた‥と、暗闇の中で怖さに震えながら、「これからどうなるのだろうか」と友達と心配してヒソヒソと話し合っていました。 しばらくすると、先程までトンネルに避難していた、女子学生たちが、再び逃げ戻って来ました。仕事に帰る途中に原爆が落ちたのです。 わずかな明かりで見ると、殆んどがザンバラ髪毛に焼き焦がれ、皮膚や、ほっぺたの皮が火ぶくれで、焼け爛れたり、まるで幽霊みたいにこわい顔になっているのです。 とっさの出来事で薬も包帯もなく、ただ自分の手拭いで傷を押さえたままトンネルに逃げて来たのです。まだ、15、6歳で、丁度皆さん達の少し上の生徒さん達がいっぱいいたのですよ。 手当するにも手がつけられず、「しっかりして‥頑張って!」と励ますばかり。さぞ、熱かったろう、痛かったろう、怖かったろうなあとかわいそうでたまりませんでした。 

 

引用:「私の被爆体験記」 

 

第二次世界大戦では原爆を筆頭に、多くの人が亡くなり、その犠牲の上に今の日本の平和があることを、後世に正確に伝えていかなくてはいけません。

 

 

まとめ

 

1939年から1945年まで続いた、史上最大規模の戦争である「第二次世界大戦」についてまとめてきました。

 

ヨーロッパ戦線とアジア・太平洋戦線それぞれのきっかけを作ったのはドイツと日本でしたが、開戦まで同じように経済的に追い詰められ、戦争でしか生き残る手段がないという状態でした。

 

戦争を始めた罪は決して許されませんが、植民地を獲るか、植民地になるか、ギリギリの選択だったのです。

 

この第二次世界大戦では、兵士と民間人を合わせて莫大な数の人命が失われました。

 

第二次世界大戦当時よりさらに兵器などの技術が格段に向上した現在、第三次世界大戦を起こさないことが、現代を生きる私達の責任と言えるでしょう。

 

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