三島由紀夫の切腹や死因!自決後の首写真・身長・子供など総まとめ

三島由紀夫が壮絶な自決を遂げてから2020年でちょうど50年を迎えます。

 

今回は改めて三島由紀夫の一生を振り返り、有名な「三島由紀夫事件」での切腹や死因、事件後に掲載された生首写真について、身長や肉体へのコンプレックス、子供を愛する父親としての一面、残した名言の数々についてまとめました。

 

三島由紀夫の生い立ちや経歴

 

出典:https://www.nikkei.com

 

三島由紀夫は戦後の日本文学界を代表する小説家の1人です。世界にも認められた天才的文豪であると同時に、政治活動家、皇国主義者であり、その最期は、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自衛官達に向けて憲法改正のためのクーデターを促す演説をした直後に壮絶な割腹自殺を遂げ、世界中に衝撃を与えました。

 

まずは、そんな三島由紀夫の生い立ちや経歴から紹介していきます。

 

 

未熟児として東京で誕生〜虚弱体質だった子供時代

 

出典:https://ja.wikipedia.org

 

三島由紀夫は太平洋戦争が勃発する約17年前の1925年1月14日、農商務省の官僚だった父・平岡梓と母・平岡倭文重(しずえ)の間に、東京都四谷区で生まれました。「三島由紀夫」というのはペンネームで、本名は平岡公威(きみたけ)といいます。

 

三島由紀夫は、誕生時の体重が「約2400グラム」ほどの未熟児として生まれ、子供時代は病弱で度々高熱を発し、5歳の時には自家中毒にかかってで生死の境をさまよった事もありました。

 

祖母の夏子は、病弱な孫・三島由紀夫を心配し、男の子らしい激しい外遊びを禁じ、車や鉄砲などの男の子向けの玩具も取り上げ、大人しい年上の女の子を遊び相手にさせるなど、少年時代の三島由紀夫をかなり過保護に育てています。

 

子供時代の三島由紀夫は見た目も色白でひ弱で、学習院初等科時代には「蝋燭(ロウソク)」「アオジロ」というあだ名をつけられイジメられる事もあったようです。

 

ただ、色白虚弱であっても負けん気の強い性格を持っていたようで、学校の仲間に「おいアオジロ、お前の睾丸もやっぱりアオジロなのだろう」とからかわれた時に、自らズボンのボタンを外してイチモツを取り出して見せ「おい見てみろ!」とからかった相手に迫り、その気迫でたじろがせたという逸話があります。

 

三島由紀夫は成長した後もこうした自分の虚弱な身体へのコンプレックスを強く持っていたともいわれ、後年にはボディビルのトレーニングや自衛隊への体験入隊などで身体を鍛え、剣道やボクシング、居合いの稽古などにも傾倒して筋肉質の強靭な身体を作り上げています。

 

 

10代で文学の世界へ「三島由紀夫」のペンネームを名乗る

 

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1937年4月、三島由紀夫は学習院中等科に進学して文芸部に入部し、作文や詩などを書いて学習院校内誌「輔仁会雑誌」で発表し始め、13歳の時には早くも短編小説「「酸模(すかんぽ)」「座禅物語」などを完成させ同誌で発表しています。

 

16歳になると全国的に読者を獲得していた同人文学雑誌「文藝文化」に小説「花ざかりの森」を発表します。この「文藝文化」の同人仲間達は、まだ若い三島由紀夫の才能に驚き「天才が現れた」と祝福し合ったといいます。

 

「三島由紀夫」と言うペンネームは、まだ10代の若い作家が実名で活動する事を案じたこの時の同人仲間達によって名付けられたものです。

 

 

太平洋戦争終結後、小説家としての地位を確立

 

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太平洋戦争の終結後の1947年、三島由紀夫は東京大学法学部を卒業し大蔵省へと入省しています。これは、安定した大蔵官僚になって欲しいという父親の意を汲んでのものでした。

 

三島由紀夫は、官僚勤めをしながら文学活動を続け、幾つかの文芸誌で数々の短編作品を発表しますが、作家活動と大蔵省勤務の両立による過労と睡眠不足により、通勤途中に渋谷駅のホームから足を滑らせて転落するという事故を起こしてしまいます。

 

この時はすぐにホームへと這い上がったため大事には至らなかったものの、この事故がきっかけになって父は三島由紀夫に大蔵省を退職する事を許しまし。

 

こうして三島由紀夫は、わずか9ヶ月で大蔵省を退職し、その後は作家一本で活動していく事になります。

 

1949年、自身初の書き下ろし長編小説となる「仮面の告白」を発表し、これが文壇で高い評価を受けた事により作家としての地位を確立した三島由紀夫は、その後も「純白の夜」「愛の渇き」「青の時代」など、話題作を次々と発表しています。

 

 

代表作となる長編小説「潮騒」を発表

 

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1954年には、三島由紀夫の代表作の一つとして知られる書き下ろし長編小説「潮騒」がベストセラーとなり「新潮社文学賞」を受賞。これは三島由紀夫にとって人生初の文学賞受賞となりました。

 

1956年には、長編小説「金閣寺」で「読売文学賞」を受賞するなど、三島由紀夫子はこれ以降も数々の文学賞を受賞しています。

 

この時期には、「永すぎた春」「美徳のよろめき」などのベストセラー作品を次々と発表し、そのタイトルがそれぞれ流行語になるほどの人気を集め、天才作家として時の人となりました。

 

 

恋愛と結婚〜長女誕生

 

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三島由紀夫は、1954年8月頃から1957年5月頃まで、赤坂の料亭の娘・豊田貞子という女性と真剣交際しています。豊田貞子との恋愛は1955年発表された長編小説「沈める滝」や1956年に発表された短編「橋づくし」のモデルになったと言われています。

 

1958年頃、三島由紀夫は幼馴染の女友達に写真で見せられた女子大生・杉山瑤子に一目惚れしてすぐにお見合いをしています(銀座のドイツ料理店で食事をし、青山のナイトクラブでダンスをするという洒落たデートだった)。2人はすぐに惹かれ合い、その6月には親交の深かった小説家・川端康成とその妻を晩酌人として明治記念館で結婚式を挙げています。

 

三島由紀夫の妻・杉山瑤子は、日本画家・杉山寧の長女で、小柄で目鼻立ちのはっきりとした美しい女性だったそうです。翌1959年には、新築したビクトリア風コロニアル様式の新居へと妻とともに転居し、その年の6月には長女・紀子が誕生しています。

 

 

政治的なメッセージが込められた作品を次々と発表

 

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三島由紀夫は、1961年に発表された、二・二六事件をテーマに書かれた短編小説「憂国」や1966年に発表された、二・二六事件や神風特攻隊をテーマに書かれた短編小説「英霊の聲」など、次第に政治的なメッセージが込められた作品を発表し始めます。

 

1966年には広島県の海上自衛隊第一術科学校を見学に訪れて、そこで特攻隊員の遺書を読んだ後、明治政府に対する士族の反乱「神風連の乱」にまつわる土地を訪れ、一振りの日本刀を購入するなど、この頃から三島由紀は皇国主義を色濃くしていきました。

 

同時期に自衛隊への体験入隊なども経験し、祖国防衛を目的とする民兵組織「楯の会」を設立して全国の若者達から隊員を募り、親しい自衛官とともに訓練指導にあたっています。

 

そして三島由紀夫は次第に「戦後民主主義」に対する批判姿勢を明確に示すようになり、戦後政策によって衰退し形骸化した日本文化の現状を皮肉り、そうなってしまった原因は「菊と刀の永遠の連環を断つ」事を目指す政策にあるとし、戦後の官僚政治を痛烈に批判した評論文「文化防衛論」を発表します。

 

この時代は学生運動が盛んな時期であり、また、未曾有の経済発展を遂げ、戦後文化が日本人に根付き始めていた当時の時代背景の中で、天才と呼ばれる人気作家・三島由紀夫が「天皇」の重要性を強く訴える評論「文化防衛論」をあえて発表した事は、各界に大きな波紋を投げかけました。

 

1970年、三島由紀夫は現在も衝撃的な事件として語り継がれる「三島由紀夫事件」を起こす事になります。「三島由紀夫事件」についてはこの後詳しく紹介します。

 

 

世界でも高く評価された三島由紀夫

 

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三島由紀夫の作品のいくつかは諸外国後に翻訳され、海外でも出版されています。三島由紀夫作品は世界的にも高く評価されており、ノーベル文学賞の候補にも複数回上がっています。

 

当時、国連事務総長だったダグ・ハマーショルドは「金閣寺」を読み、ノーベル財団委員宛にこれを激賞し推薦する手紙を書き送っています。

 

その他にも、三島由紀夫は劇作家としても活躍し、国内外に高い評価を得ていました。代表作品は1956年に発表された「鹿鳴館」や、1965年に「芸術祭賞」を受賞した戯曲「サド伯爵夫人」などがよく知られています。

 

 

 

三島由紀夫の死因は切腹での自決!自衛官の前で演説した「三島由紀夫事件」とは

 

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三島由紀夫の死因はあまりにも衝撃的なものでした。ここからは、三島由紀夫が切腹での自決を遂げた「三島由紀夫事件」について見ていきます。

 

 

自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れた三島由紀夫

 

1970年11月25日の午前中、三島由紀夫は自らが作った私兵組織「楯の会」の隊員4人(森田必勝、小賀正義、小川正洋、古賀浩靖)と共に、自衛隊市ヶ谷駐屯地を訪れました。

 

この面会は事前に予約されており、三島由紀夫は著名人である上に、自衛隊の体験入隊などを通じて自衛隊と親しい関係にあったため、フリーパスで幕僚室へと通され、当時の自衛隊東部方面総監・益田兼利陸将と面会しています。

 

しばらくの間、三島由紀夫は益田陸将と和やかに談笑し、同席した「楯の会」のメンバー4人を、優秀な隊員達だと益田陸将に紹介したり、持参した名刀「関孫六」を鞘から抜き刀身を益田陸将に見せたりして10分ほど過ごしました。

 

 

突如益田陸将を拘束し人質に取る

 

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三島由紀夫はこの「関孫六」を抜刀した後、連れてきた「楯の会」の隊員1人に向けて「小賀、ハンカチ」と呼びかけ、刀身についた油分を拭うためのハンカチを求めます。

 

実はこれは、彼らが事前に計画していた行動を起こす合図でした。

 

しかし、これを聞いていた益田陸将が気を利かせ「ちり紙ではどうかな?」と言って、手頃な紙を探しに席を立つという予想外の行動を起こしたため、行動に移すタイミングを逸し、呼びかけられた隊員・小賀正義は、仕方がなくハンカチを三島由紀夫に渡しています。

 

三島由紀夫は隊員らに目配せをしつつ、刀をハンカチで拭った後、鞘に「バチン」と音を立てて刀身を納めました。

 

この音を合図にし、「楯の会」隊員の内の1人が益田陸将の後ろ側に回り込んで、持っていた布で総監の口を塞ぎ、他のメンバーらが益田陸将を椅子に縛り付けて拘束。さらに隊員らは益田陸将に手布で猿ぐつわを噛ませ、小賀正義が短刀を突きつけるようにします。

 

最初、益田陸将は何かの戯れかと思ったそうで、「三島さん、冗談はやめなさい」と話しかけています。しかし、三島由紀夫が尋常ではない表情で睨みつけてきたため冗談ではない事に気がついたと、益田陸将は事件後に述懐しています。

 

 

幕僚や士官らとの乱闘を展開

 

三島由紀夫らは益田陸将を拘束すると、総監室の3ヵ所の出入り口に、室内にあった調度品や家具などを使ってバリケードを構築しました。

 

それから間も無く、異変に気がついた自衛隊幕僚や士官らが、バリケードを破って幕僚室に突入しますが、三島由紀夫は日本刀を振るって抵抗、「楯の会」隊員らもそれぞれに抵抗し、何人かの幕僚、士官らに傷を負わせています。

 

 

三島由紀夫が要求を提示

 

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ひとしきり争った後、幕僚や士官らは、益田陸将の身の危険も考えて、一時室外へと撤退し、三島由紀夫からの要求を待ちます。

 

三島由紀夫は「これをのめば総監の命は助けてやる」として、6項目の要求が書かれた要求書を幕僚らに渡しました。この要求書には市ヶ谷駐屯地の自衛官を本館前に集合させ、三島由紀夫による演説を静聴させる事などの要求が記されていました。

 

幕僚らは、この三島由紀をの要求を受け入れる事を決定し、駐屯していた自衛官ら800名から1000名ほどを本館前に集合させます。

 

 

三島由紀夫が演説

 

 

これを受け三島由紀夫は、総監室前バルコニーに立ち、本館前に集めた自衛官達を向けて、憲法と自衛隊の存在の矛盾を訴えクーデターを呼びかける演説をはじめました。

 

しかし、集まった自衛官らは、熱のこもった様子で演説を始めた三島由紀夫に向けて「聞こえないぞ」「引っ込め」「下に降りて来い」などの野次を飛ばしました。この野次や、いち早く事件を聞きつけたマスコミが現場上空を飛ばしていたヘリコプターの騒音などで、三島由紀夫の演説は掻き消されました。

 

三島由紀夫はこの状況を見て、当初予定されていたよりも大幅に少ない10分ほどで演説を切り上げ、皇居の方向に向かって「天皇陛下万歳」と三唱しました。バルコニーから総監室内へと戻った三島由紀夫は「あれでは聞こえなかったな」と誰に言うともなく呟いたといいます。

 

 

壮絶な割腹自殺を遂げる

 

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12時10分頃に、室内へと引き下がった三島由紀夫は、拘束していた益田陸将に「総監には恨みはありません。自衛隊を天皇にお返しするためにこうするしか無かったのです」と話すと、隊員の1人が益田陸将に突きつけていた短刀を受け取りました。

 

そして、日本刀「関孫六」を「楯の会」の隊員・森田必勝(まさかつ)に手渡してから、上半身裸になって、総監室に敷かれた赤絨毯の上にバルコニーに向かうようにして正座し、短刀を両手に持ち、自らの腹部に向けました。

 

そして、気合を込めて、自分の左脇腹あたりに短刀を突き立てると、右腹部に向けて真一文字に切り裂き、左後方に立っていた森田必勝が、三島由紀夫の首に日本刀を合計3度振り下ろしますが、傷は首の半ばで止まってしまいました。

 

介錯に失敗した森田必勝は、古賀浩靖に刀を渡し、古賀が代わりに三島由紀をの首を頸部の皮1枚残して切断しトドメを刺しました。

 

その後、森田必勝も古賀浩靖の介錯によって切腹自殺を遂げています。2人の首は並べられ、残った3人は合掌して静かに涙を流したそうです。また、3人によって拘束を解かれた益田陸将も、2人の首の前に正座し瞑目して合掌しています。

 

 

 

三島由紀夫の生首写真を新聞や週刊誌が掲載していた

 

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アップで撮影された三島由紀夫の生首写真と現場写真を、朝日新聞がその日の夕刊の早版にデカデカと掲載しています。あまりにも衝撃的な写真だったためか、遅版では、三島由紀夫が演説する写真へと差し替えられています。

 

1984年には写真週刊誌「フライデー」がこの生首写真を再び掲載し、三島由紀夫の遺族からの抗議を受け、出版が差し止めにされる騒動を起こしています。この三島由紀の生首写真はあまりにも刺激が強すぎるためここで紹介する事はできませんが、ネット検索すると現在も閲覧する事ができます。

 

 

 

三島由紀夫は身長コンプレックスでシークレットシューズを履いていた

 

出典:https://ja.wikipedia.org

 

自衛隊の総監を人質に取って籠城し、自衛官達の前で憲法改正のクーデターを促す演説を打ち、さらに壮絶な切腹を遂げた事から、並はずれた精神力を持つように思われる三島由紀夫ですが、意外にも、身長が163cmと小柄だった事に強いコンプレックスを抱いていたと言われます。

 

楯の会の元メンバーの1人によれば、三島由紀夫はいつも背が高く見えるシークレットシューズを履いていたのだそうです。

 

また、お見合いをする女性の条件として「自分よりも小柄である事」「ハイヒールを履いても160cm以上にならない事」をあげていたというエピソードがあります。

 

ボディビルのトレーニングで肉体を改造し、自分の理想とする身体を作り上げた三島由紀夫でしたが、シークレットシューズを履いて理想の身長も手に入れようとしていたのかも知れません。

 

 

 

三島由紀夫には子供が2人

 

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三島由紀夫には妻の平岡瑤子との間に2人の子供を儲けました。

 

長女の平岡紀子さんと長男の平岡威一郎さんは現在も存命中で、三島由紀夫作品の著作権保護に努められています。

 

三島由紀夫の長女・平岡紀子さんは、父・三島由紀夫の死から20年後、三島作の戯曲「葵上(あおいのうえ)」、「弱法師」の舞踊劇化でプロデュース・演出を手がけています。

 

三島由紀の長男・平岡威一郎さんは、三島由紀夫の映画論をまとめた書籍「三島由紀夫映画論集成」の監修に携わっています。

 

 

三島由紀夫は子供を愛する良き父親だった

 

三島由紀夫は平岡紀子さんが幼い頃に「子供について」というエッセイを書いており、そこで「これは並々ならぬ可愛いものだと不安を感じた」と書いており、また、敬愛する川端康成から4歳の頃の平岡紀子さんに可愛い鞄がプレゼントされた時には、川端への礼状に「飛んだり跳ねたりして喜んでいます」と嬉しそうに書いている事など、娘を溺愛していた様子が読み取れます。

 

長男の平岡威一郎さんについては、誕生してすぐに「こんな綱渡りのような職業である小説家だけにはさせたくない」「親が有名人だから、勘違いを起こして人格形成に害を及ぼすのではないか?」と心配する気持ちを吐露しており、息子をとても大切に思っていた事がわかります。

 

また、三島由紀夫と平岡威一郎はとても仲が良い親子だったようで、漫画家・赤塚不二夫の作品「もーれつア太郎」を、子供時代の威一郎さんと奪い合うようにして一緒に読んでいたという話や、威一郎さんの友人らが家を訪れると、ボディビルで鍛えた体を見せながら怪獣のように振舞って子供らを大喜びさせていたという話など息子との微笑ましいエピソードが複数残されています。

 

三島由紀夫は1970年「三島由紀夫事件」で切腹して亡くなっていますが、その直前には死を意識し子供との別れを惜しんでいたのか、「後楽園ゆうえんち」に威一郎さんを連れて遊びに行き、その帰りにトンカツ屋で食事をして帰ってくるなど、積極的に子供との時間を作ろうとしていたそうです。

 

三島由紀夫が「三島由紀夫事件」で命を賭してまで訴えようとした事について、三島が子を愛する良き父親だったという側面からもう一度見つめ直してみると、また違った意味が伝わってくるような気がします。

 

 

 

三島由紀夫の名言集

 

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最後に、三島由紀夫の名言をいくつか紹介します。

 

女の部屋は一度ノックすべきである。しかし二度ノックすべきじゃない。そうするくらいなら、むしろノックせずに、いきなりドアをあけたほうが上策なのである

 

どんなに醜悪であろうと、自分の真実の姿を告白して、それによって真実の姿をみとめてもらい、あわよくば真実の姿のままで愛してもらおうなどと考えるのは、甘い考えで、人生をなめてかかった考えです

 

恋愛にとって、最強で最後の武器は『若さ』だと昔から決まっています。
 ともすると、恋愛というものは『若さ』と『バカさ』をあわせもった年齢の特技で、『若さ』も『バカさ』も失った時に、恋愛の資格を失うのかもしれませんわ

 

三島由紀夫はその作品の中においては「男性同性愛」「レズビアン」「SM」「近親相姦」「性的不能者」など、様々な恋愛形態を描写して見せていますが、論評やインタビューなどでは明確に男女を分け、鋭く切り込んだ、現実主義的な名言を数々残しています。

 

守勢に立つ側の辛さ、追われる者の辛さからは、容易ならぬ狡智(こうち)が生れる。追ってゆく人間は、知恵を身につけることができぬ。追ってゆくことで一杯だから。

 

人を悪徳に誘惑しようと思う者は、大ていその人の善いほうの性質を百パーセント利用しようとします。善い性質をなるたけ少なくすることが、誘惑に陥らぬ秘訣であります。

 

似合っても似合わなくても流行は従うべきなのであります。それはあなたの最上の隠れ蓑であって、思想をよく隠すのは流行の衣装だけだと言っても宜しい。

 

思想家であった三島由紀夫ですが、その一方でとても冷静に社会を見つめ本質を見抜いていました。人間の本質をズバリと切り捨てるような名言の数々を多く残しています。

 

 

 

まとめ

 

華麗で精緻な文体によって、芸術品とまで言われた数々の小説を残した天才小説家・三島由紀夫についてまとめてみました。

 

三島由紀夫は、少年の頃から天才的な文章センスを見せ、職業小説家として活動を開始すると、その才能は瞬く間に知れ渡り、世界中からその才能が愛される存在となりました。

 

しかし、次第に政治思想を色濃く表現するようになり、その最期は自衛隊駐屯地でクーデターを促す演説をした後、割腹自殺を遂げるという壮絶なものでした。

 

三島由紀夫の残した数々の美しい作品とその壮絶な最期とのコントラストの激しさは、現在も人々の興味を惹きつけてやみません。今後も三島由紀夫作品は人々に愛され続けていく事でしょう。

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