明智光秀の子孫は?父と母・妻と子供など家系図/出身地など出生まとめ

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」で話題の戦国武将・明智光秀の家系についても注目が集まっています。

 

今回は明智光秀の家系図、その謎に包まれた出生のルーツや、母について、また仲睦まじかったとされる妻や、その子供達、子孫達についてもまとめました。

明智光秀の家系図や一族について

 

出典:https://ja.wikipedia.org

 

2020年スタートの大河ドラマ「麒麟がくる」の主人公でもある明智光秀は「本能寺の変」を起こし、織田信長を殺害した事で有名な戦国武将です。

 

NHK大河ドラマ「麒麟がくる」により、明智光秀への注目度が上昇し、同時にその先祖や子孫、子供や父母などにも注目が集まっています。

 

今回は明智光秀の家系図と共に、先祖などのルーツや父や母、子供や子孫についてを中心にまとめます。

 

 

明智光秀の家系図

 

明智光秀の家系図といっても、明智光秀のルーツは謎に包まれており、信ぴょう性の高い史料が少ないため先祖にまつわる確定的な系図というものは存在せず諸説あります。

 

その中でも最も有力な説と言われているのが、初代美濃守護である土岐頼貞を始祖とする、土岐明智家が明智光秀のルーツであるとする家系図「土岐系図」です。

 

また、大河ドラマや歴史小説などのフィクションでよく出典とされるのが、江戸時代に書かれた軍記物「明智軍記」に書かれている内容を元に作成された家系図です。

 

何れにしても、明智光秀の明智家が歴史の表舞台に出るのは光秀の代になってからのため、先祖については確定的な情報がありません、ここではメジャーな「明智軍記」による家系図を作成してみました。

 

 

明智光秀のルーツは土岐明智氏とするのが通説

 

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明智光秀のルーツとされる美濃土岐氏は、酒呑童子退治の逸話などで知られる平安期の武将で清和源氏の3代目にあたる源頼光の子・源頼国の子孫、源光衝が、平安時代末期頃に美濃国の土岐郡に土着して土岐氏を名乗ったのが始まりとされ、鎌倉時代には美濃一帯に勢力を拡大し、南北朝時代に足利尊氏に従い、その後は長く美濃国守護に任じられてきた武家貴族です。

 

明智光秀の土岐明智氏は、美濃守護の土岐氏のさらに庶流で、史料がほとんど残されていないことから、記録に残らないほどの下位に位置する一族だったのではないかと言われています。

 

しかし、足利尊氏が弟の直義と戦った「観応の擾乱」の初期に、足利尊氏から、光秀の直系の先祖だとされる「土岐明智彦九郎(最初に明智姓を名乗った明智頼重を指す可能性が高い)」という人物に宛てて出された援軍を求める書状が発見されており、また、同時期には足利尊氏の嫡男の足利義詮からも「土岐あけち殿」宛ての書状が出されています。

 

この事から、少なくとも足利尊氏の時代には、土岐明智家は土岐守護家から独立して扱われるほどの有力な一族であった可能性が高そうです。

 

 

本能寺の変の前に詠んだ句も土岐氏ルーツ説の根拠になっている

 

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明智光秀は何らかの理由で主君・織田信長を討とうと決意し、「本能寺の変」を起こす直前、京都・愛宕山御坊で「愛宕百韻」として有名な連歌を催しました。

 

この連歌で光秀が詠んだ発句が「ときは今 あめが下しる 五月かな」というもので、この「とき」というのは「土岐」をあらわしていて、「あめが下しる」は「天に下知をする」の意で、つまりこの句は「土岐氏出身の自分が、いよいよ天下に下知を下す」という決意が現れた句であるという巷説があるのです。

 

これはあくまでも、こういう意味なのではないか?という推測に過ぎないのですが、明智光秀が土岐氏の出身である事を示す根拠の一つとされています。

 

 

明智光秀自身の生年や出身地もはっきりしない

 

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明智光秀の生年については、「明智軍記」の享禄元年(1528年)説、江戸時代初期の歴史書「当代記」の永正13年(1516年)説、また、戦国時代から江戸初期にかけての公卿・吉田兼見の日記「兼見卿記」の明智光秀の妹の記述から、明智光秀の生年を1540年代と推定する歴史研究家も見られます。

 

以上のように、明智光秀の生年について確定的な情報は存在しません。

 

また、明智光秀の出身地については、美濃国(現在の岐阜県)のあたりで生まれた可能性が高いと言われており、岐阜県可児市に所在した「明智城」で生まれたという説が有力です。

 

ただし、出身地についても確定的な情報がなく、その他にも、近江国犬上郡説、岐阜県瑞浪市説、岐阜県大垣市上石津町説など、少なくとも6カ所の出生地が後世に伝えられています。

 

また、明智光秀が織田信長の配下武将として歴史の表舞台に現れる以前の前半生に関する良質な記録はほとんど皆無といって良いほど残されておらず、そのほとんどが謎に包まれています。

 

以上のように、明智光秀という人物のルーツは、本人の出生も含めてほとんど何もわかっていないというのが実情です。

 

 

 

明智光秀の父は諸説がありはっきりしていない

 

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明智光秀のルーツはほとんど何もはっきりした事がわからないというのは既に書きましたが、実は父親の名前すらも確定した情報はありません。

 

江戸時代に作成された諸系図では、父の名前は「明智光綱」、「明智光国」、「明智光隆」、「明智頼明」と呼び名だけで様々なものがあり一致しません。

 

この事から、明智光秀自身が、父親の名前も記録されないほど身分の低い出自なのではないかとする見方があります。

 

これについては、土岐明智氏嫡流で明智光秀の祖父にあたるとされる明智頼典という人物が、父(光秀の曽祖父)の明智頼尚に敵対したため、土岐明智氏の所領を全て弟の明智頼明に譲ったとする史料が残されているため、明智光秀祖父の反逆が原因となって明智光秀の父は記録に残らないような立場に追いやられていたのではないかとも考えられます。

 

また、明智光秀の父については、美濃の戦国大名だった斎藤道三に従う東美濃に拠点を置く国衆(土着の武士)だったとする記録もあり、肥後熊本藩主細川氏の家史である「細川家記」によれば、その後、なんらかの理由で斎藤道三に居城・明智城を攻められた際に討ち死にしたとされますが、真偽は不明です。

 

その他にも、光秀の父は遠江守光綱という人物で、天文7年(1538年)に死亡し、当時明智光秀はまだ11歳だったため、叔父の光安、光久、光廉に後見されて明智城主になったとされる史料など、様々な情報があります。

 

このように、明智光秀の父親に関しては様々な情報が残されているものの、それらの情報が錯綜していて、それぞれの辻褄が合わず、どれもほとんど信用できないというのが実際のところなのです。

 

 

明智光秀が本当に武士の出なのかも不明

 

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明智光秀の父親については、はっきりとした情報がほとんどないため、明智光秀は武士の出ではないのではないか?とする説も存在します。

 

明智光秀は武士として出世するために、自らの出自を武家貴族の名門「土岐家」だと詐称したのではないか?とする説です。戦国時代の武士社会では、自分を誇大に宣伝して売り出す事が当たり前に行われていたとされるため十分にあり得る話だと考えられます。

 

明智光秀が武士以外の出自だとする資料としては、「若州観跡録」に、明智光秀は若狭国小浜の刀鍛冶・藤原冬広の次男だったが、刀鍛冶を継ぐのを嫌って、近江国の佐々木六角氏に仕官したという内容が見られます。

 

織田信長との関係を深めた後の時代に記された明智光秀についての記録では、土岐氏の出身である事を示すものが多く見つかるため、少なくとも明智光秀が自分自身の出自を「土岐明智氏」と名乗っていたとする可能性は高いと言われています。

 

 

明智光秀の母は武田義統の妹「お牧の方」?

 

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明智光秀の母についても諸説あります。

 

その中の一つは、明智光秀は、若狭国の守護大名・武田義統の妹と、父・明智光隆との間に、美濃国の多羅城(現在の岐阜県大垣市)で生まれたというものです。この母の名前については「お牧」「於牧の方」というのが通説となっています。

 

美濃国多羅城は、土岐明智氏となんの縁もない場所のため、光秀の父・明智光隆は、前述のように光秀の祖父・明智頼典が、父親に反逆して所領から追放され、その後は美濃国のあちこちを流浪していたのではないかと見る研究者もいます。

 

また、光秀の母親は明智光綱の妹で、光綱に男子が出来なかったために、養子に入って明智家の家督を継いだとする説があります。

 

この説では明智光秀の父親は進士信周という人物で、足利将軍家の親衛隊である「幕府奉公衆」の一人だったともされていますが、はっきりしません。

 

ただ、明智光秀本人も足利義昭に仕えていた際にこの「幕府奉公衆」に名を連ねていたと伝わるため、可能性のある説だとは言えます。

 

明智光秀の母に関するその他の逸話

 

明智光秀の母親に関する逸話としては、後世に書かれた戦記「総見記」などで、光秀が織田信長の命令で丹波国八上城を攻めた際に、自分の母親を人質とする事を条件に八上城主の波多野秀治・秀尚兄弟に降伏を促し、城外に出て来させて交渉にあたったものの、波多野兄弟が移送中に織田信長の命を受けた刺客によって殺害されたため、八上城に残った家臣らはその報復として明智光秀の母親を惨殺し、その恨みが本能寺の変の遠因になったとするものがあります。

 

ただしこれは、その他の史料との一致が全く見られないため、完全に後世の創作だとされています。

 

 

明智光秀の妻 煕子(ひろこ)

 

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明智光秀の妻については、「細川家記」などから「妻木勘解由左衛門範煕の女」と記されています。

 

この妻、明智光秀の正室は、後の歴史小説などで「煕子」と言う名前が用いられた事から、明智光秀の妻は「明智煕子」あるいは「妻木煕子」と言う俗称で呼ばれています。生年は享禄3年(1530年)頃とされますが、はっきりしません。

 

明智光秀との夫婦仲は非常に良かったとされ、光秀が浪人を経て越前の大名・朝倉義景に仕えた際に、困窮して酒宴の用意にすら苦労する夫を見かね、煕子が自分の黒髪を売って、その費用を工面したと言う逸話が残されています。

 

また、明智光秀は生涯、この正妻・煕子以外の妻を持たなかったとの逸話も伝わります。

 

戦国時代の公卿・吉田兼見の日記である「兼見卿記」には、天正4年10月14日に明智光秀の妻が病気に罹り、明智光秀から妻の病気の治癒のための祈祷を依頼された事などが記されています。

 

没年は天正4年頃とされ、享年は46歳、42歳、36歳と諸説あります。また、滋賀県大津市坂本に所在する「西教寺」には、明智光秀の妻の墓が残されています。

 

 

明智光秀の子供① 細川ガラシャ

 

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明智光秀の子供として最も有名なのが、足利将軍家の支流・細川家を出自とする大名・細川忠興に溺愛された事で知られる「細川ガラシャ」でしょう。

 

細川ガラシャは明智光秀の三女とされ、後にキリスト教に帰依して洗礼を受け「ガラシャ」の洗礼名を授かりました。

 

洗礼前の名前は「珠」「玉」「珠子」などとされます。生年は永禄6年(1563年)とされています。

 

細川ガラシャこと珠は、天正6年(1578年)に、足利幕府に仕えていた有力武将で、後に織田信長に従って大名となる細川藤孝の嫡男・細川忠興に嫁いでいます。

 

細川忠興は珠を溺愛し、屋敷に出入りする庭師が珠を見ていたという理由だけで、この庭師を殺害したという逸話も残されています。

 

庭師殺害は創作でしょうが、忠興がガラシャを溺愛していたのは事実のようで、父の明智光秀が本能寺の変を起こして、天下の大悪人の娘となった珠を離縁せず、幽閉して監視下に置きつつもずっと妻として身近に置いています。

 

この幽閉下において、珠は細川忠興の子を何人も産んでおり、この時に誕生した三男・細川忠利は、その後細川家を継いで、肥後熊本藩54万石の藩祖となっています。

 

珠は、その後キリスト教の教えに惹かれ、1587年に洗礼を受けて「ガラシャ」の洗礼名を授かっています。

 

細川ガラシャはその後、1600年に関ヶ原の合戦が勃発した際に壮絶な死を遂げています。

 

大阪で石田三成らが挙兵した時、細川ガラシャは大阪の細川屋敷に居ましたが、夫の細川忠興は徳川家康の起こした会津討伐軍に属して東に向けて進軍中でした。

 

石田三成ら西軍方は、徳川家康を大将とした会津討伐軍に所属する東軍方の武将らの大阪にいる妻子を人質として確保しようとしました。

 

その騒動の中で、細川屋敷も取り囲まれましたが、出陣の際に細川忠興は大阪の屋敷をも守る家臣らに、「妻の名誉に危険が及ぶ事があれば、まず妻を殺し、全員が自害せよ」と命じていました。

 

そのため、細川ガラシャは「夫の言う通りに自分は命を絶ちたい」と言い、侍女らを脱出させた後、キリスト教では自殺を禁じられている事を理由に、家老の小笠原清秀に自らを殺害させ、その後遺体が敵の手に渡らないよう、爆薬を仕掛けて屋敷ごと爆破させたのでした。

 

 

明智光秀の子供② 嫡男は明智光慶とされる

 

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明智光秀の子供のうち、ある男児を「十五郎」とする明智光秀による書状が残っています。

 

江戸時代の軍記物である「明智軍記」では明智光秀の嫡男を明智光慶としているため、この「明智光慶」が「十五郎」だとするのが通説となっています。

 

また、前述した本能寺の変直前に明智光秀が催した「愛宕百韻」では結句をこの明智光慶が詠んだとする記録が残ります。

 

明智光秀の嫡男とされる明智光慶は、本能寺の変の時に、14歳だったとされますが、詳細な生年は不明です。また、その最期についてはふた通りの説があります。

 

一つは、丹波亀山城に在城しており、その時に父・明智光秀の起こした「本能寺の変」を知って、ショックを受けてその場で悶死したと言う説。

 

もう一つは、近江坂本城にあって、山崎の合戦(中国地方から引き返してきた羽柴秀吉軍と明智光秀軍が戦った合戦)で敗れた明智光秀が討たれた後、羽柴秀吉方の諸将に坂本城を攻められ、落城の際に自害して果てたとの説です。

 

また異説として、本能寺の変や山崎の合戦の後も明智光慶が生存して出家しており、妙心寺の住職・玄琳や、光秀の唯一の肖像画を所蔵する和泉国本徳寺の開山僧・南国梵桂が明智光慶なのではないかとする説も存在します。

 

 

明智光秀の子供③ その他の息子や娘たち

 

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軍記物「明智軍記」によれば、明智光秀は正妻・煕子との間に3男4女の子供を儲けたと伝えられています。

 

また、その他の史料では、側室の子も含めて6男7女がいたとする記録も残ります。

 

ただし、明智光秀の子供に関しては、信ぴょう性の高い史料が残されておらず、俗説も多いため、確定的な説は存在しません。そのため、ここで触れるのはあくまで、こうした記録が残っていると言う程度の情報になります。

 

明智光秀の長女

 

明智光秀の長女は、近畿地方の有力武将で、後に織田信長に従った荒木村重の嫡男・荒木村次に正室として嫁いだという記録が残っています。

 

しかし、後に義父・荒木村重が織田信長に対して反乱を起こしたため、離縁されて実家に戻り、その後は、明智家一門衆である明智秀満の正室になったと伝えられています。

 

明智光秀の次女

 

明智光秀の次女は、明智光秀の重臣で、丹波国八上城主も務めた明智光忠に嫁いだとされますが、これは軍記物である「明智軍記」に拠るもので、信ぴょう性はあまり高くありません。

 

明智光秀の四女

 

明智光秀の四女は、織田信長の弟の織田信勝の嫡子・津田信澄に嫁いだとする記録が残ります。

 

舅の明智光秀が本能寺の変を起こした時、津田信澄は変前に計画されていた四国遠征軍の一角として大阪住吉に在陣していましたが、光秀の娘を娶っていた事が災いし、同じく四国遠征軍に属していた織田家重臣の丹羽長秀や、信長三男の織田信孝の軍に攻撃され殺害されています。

 

明智光秀の次男

 

軍記物「明智軍記」では、明智光秀の次男として十次郎光泰が登場し、その幼名は「自然(じねん)」だと記されています。

 

この「自然(じねん)」は、2017年のNHK大河ドラマ「女城主直虎」にも登場したため、知名度を上昇させました。

 

ただ、繰り返しになりますが、出典が軍記物である「明智軍記」であるため、実在も含めて詳細は不明です。

 

その他の史料では明智光秀の五男として「自然(じねん)」の名前が登場しますが、こちらでは本能寺の変、山崎の合戦後の坂本城落城で死亡したと記録されています。

 

 

明智光秀の子孫

 

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明智光秀の子供らは、父・明智光秀の起こした「本能寺の変」の影響を受けて、その多くが死亡したり、行方知れずになったりしたと考えられますが、その子孫の何人かは、この波乱を乗り越えて血脈を保ち、後世に記録を残しています。

 

明智光秀の孫・織田昌澄

 

明智光秀の四女が嫁いだとされる津田信澄は本能寺の変の後に殺害された事は紹介しましたが、2人の間の嫡男で明智光秀の孫にあたる織田昌澄は、その後も生き延びており、藤堂高虎に仕えた後、豊臣家の直臣となり、大坂冬の陣では、旧主である藤堂高虎の軍と激戦を展開、豊臣秀頼から報償を受けるほどの活躍を見せています。

 

大坂の陣で豊臣方が敗北し、大阪城が落城した後は徳川方に降伏、藤堂高虎の取りなしもあって助命され、出家して「道半斎」を号しました。

 

さらにその後、二代将軍・徳川秀忠の治世となった折に、旗本として登用され、近江国内に2000石を与えられています。

 

その後は、徳川幕府の旗本として奉公し、63歳で死去、天寿を全うしています。また、次男の織田信高も旗本として幕府に仕え、明智光秀の血筋を守っています。

 

この明智光秀の孫・織田昌澄が、その後も武士として家を守れたのは、明智光秀の子孫であると共に、織田信長の家系の血も受け継いでいた事が大きかったと考えられます。

 

 

細川ガラシャの家系は現在まで残されている

 

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また、細川家に嫁いだ、明智光秀の娘・細川ガラシャによる明智の血は現代まで残り、第79代内閣総理大臣・細川護熙(ほそかわもりひろ)氏などを輩出しています。

 

 

まとめ

 

今回は、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」でも話題の戦国武将・明智光秀の家系についてや、父や母、妻、子供らについてなど、その血脈を中心にまとめてみました。

 

明智光秀は、清和源氏美濃土岐氏の庶流である、土岐明智氏を出自とする説が有力ですが、確定的な証拠が見つかっておらず、あくまでも有力な説というレベルに留まります。

 

また、明智光秀の前半生についてはほとんど史料が残されておらず、そのほとんどが謎に包まれています。そのため、明智光秀の父や母、妻についても、確定的な情報は現在のところ見つかっていません。

 

明智光秀が歴史の表舞台に姿を見せて以降の記録については比較的良質なものが残され、明智光秀の血脈を現在まで辿る事が可能です。特に娘の細川ガラシャが残した明智の血は現在まで受け継がれています。

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