1942年のミッドウェー海戦での敗北は、日本が敗戦に向かう転換点です。
今回はミッドウェー海戦の概要や戦力差・空母などの被害、暗号漏洩など敗因、戦艦大和が前線に出ていたら?勝ってたら?という仮説をわかりやすく解説します。
この記事の目次
- ミッドウェー海戦とは
- ミッドウェー海戦が始まった経緯① 真珠湾でアメリカ空母の攻撃に失敗
- ミッドウェー海戦が始まった経緯② 短期戦しか日本の勝利はないと主張
- ミッドウェー海戦が始まった経緯③ 山本五十六が国民的英雄だった
- ミッドウェー海戦が始まった経緯④ 本土空襲で決定的に
- ミッドウェー海戦をわかりやすく解説① 日本出発~攻撃開始まで
- ミッドウェー海戦をわかりやすく解説② 日本の空母で混乱が生じる
- ミッドウェー海戦をわかりやすく解説③ アメリカからの攻撃
- ミッドウェー海戦をわかりやすく解説④ 日本軍撤退まで
- ミッドウェー海戦での被害:空母4隻が沈没・戦死者も3000人超え
- ミッドウェー海戦での日米の戦力差
- ミッドウェー海戦の敗因① 開戦前に暗号が解読され、奇襲がバレていた
- ミッドウェー海戦の敗因② ずさんな情報管理
- ミッドウェー海戦の敗因③ 完全な準備不足
- ミッドウェー海戦の敗因④ 目的の優先順位が決まっていなかった
- ミッドウェー海戦の敗因⑤ 日本軍上層部の楽観主義による判断ミス
- ミッドウェー海戦の敗因⑥ 戦力が拡散
- ミッドウェー海戦で「運命の5分間」は嘘?
- ミッドウェー海戦の仮説① 戦艦大和が前線に出ていたら勝てた?
- ミッドウェー海戦の仮説② 勝ってたら、日本は太平洋戦争にも勝利していた?
- ミッドウェー海戦のまとめ
ミッドウェー海戦とは
ミッドウェー海戦は、19042年6月5日~7日にかけて、太平洋中部のアメリカ領・ミッドウェー島付近で行われた日本VSアメリカの海戦です。
ミッドウェー島は、ハワイのホノルルから約2,000km、東京から約4,000km離れた場所にある島で、ハワイ防衛の拠点としてアメリカ軍の基地が置かれていました。
このミッドウェー海戦は当初、日本のほうが兵力が大きく、戦力差から見ても、日本が有利と見られていました。
しかし、様々な要因から日本が大敗したことで戦局は大きく変わり、これをきっかけに太平洋戦争において日本は劣勢に傾いて、敗戦への道を一直線に進んでいくことになるのです。
ミッドウェー海戦が始まった経緯① 真珠湾でアメリカ空母の攻撃に失敗
ミッドウェー海戦はなぜ始まったのでしょうか?ミッドウェー海戦が計画された経緯を見ていきましょう。
1941年12月8日、日本軍がハワイの真珠湾を奇襲したことで、太平洋戦争が開戦します。
奇襲は成功し、日本軍の一方的な勝利で終わりました。
しかし、アメリカ太平洋艦隊の空母は真珠湾を離れていたために、真珠湾攻撃の最大の目標であった「エンタープライズ」と「レキシントン」という2つの空母を逃していたのです。
連合艦隊司令長官だった山本五十六は、何とかこの逃した空母に攻撃を加えたいと考え、計画されたのが、ミッドウェー海戦でした。
ミッドウェー島を攻撃すれば、アメリカ太平洋艦隊の空母がやって来るはずだから、そこを攻撃しようという目論見でした。
ミッドウェー海戦が始まった経緯② 短期戦しか日本の勝利はないと主張
出典:president.jp
日本がアメリカに戦争で勝利するためには、「奇襲・短期決戦しかない」と山本五十六は見ていました。
太平洋戦争が始まる前までは、日本海軍は日本近海でアメリカ海軍と戦えば良いという方針だったといいます。
しかし、山本五十六は「それではアメリカ主導の戦争になる」として、短期決戦で一気にアメリカ軍を叩き、戦意を喪失させるしかないと考えていたのです。
劣勢な日本海軍がアメリカ海軍に対して優位に立つには、多少の危険をおかしても、奇襲によって自主的に積極的な作戦を行い、その後も攻勢を維持し相手を守勢に追い込み、相手の戦意を喪失させるしかない、と山本は考えていたと言われています
そのため、MI作戦(ミッドウェー島攻略・アメリカ空母の撃滅)を行うべきだと山本五十六は主張しました。
ミッドウェー海戦が始まった経緯③ 山本五十六が国民的英雄だった
出典:nhk.or.jp
そもそもミッドウェー島は、中部太平洋にぽっかりと浮かぶ孤島で、東京からは4,000kmも離れていました。
大本営(日本軍の最高統帥機関)も「ミッドウェー島への補給は難しく、補給路を断たれて、日本が疲弊したところを奪還されるのでは?」と、山本五十六の作戦には反対を示していました。
しかし、真珠湾攻撃を成功させたことで、国民からの支持が高く、発言力があった山本五十六は「この作戦を実行しないなら、司令長官を辞める!」と進退をちらつかせます。
そのため、山本五十六が押し切る形で、ミッドウェー海戦(MI作戦)は実行へと傾いていったのです。
ミッドウェー海戦が始まった経緯④ 本土空襲で決定的に
出典:jiji.com
ミッドウェー海戦が行われることが決定づけられた出来事は、初めての本土空襲です。
1942年4月18日、太平洋の犬吠埼東方沖で、アメリカの空母ホーネットから16機のB-25が発進し、東京・名古屋・大阪を散発的に爆撃し、そのまま中国大陸に脱出して不時着しました。
この空襲は太平洋戦争初の本土空襲で、特に天皇陛下が住む帝都・東京にも空襲されたことに山本五十六のプライドは傷ついたと言われています。
そして、ミッドウェー海戦(MI作戦)の重要性をさらに主張するようになり、大本営もそれを認めざるを得なくなっていったのです。
ミッドウェー海戦をわかりやすく解説① 日本出発~攻撃開始まで
ミッドウェー海戦では、日本軍は多くの損害を出し、その後の太平洋戦争の戦局を決める大きな戦いとなりました。このミッドウェー海戦をわかりやすく解説していきます。
実は、たった半日で勝負がついてしまった短期決戦だったのです。
ミッドウェー基地を攻撃
真珠湾攻撃から約半年後の1942年5月27日、南雲忠一中将率いる第一航空艦隊が広島湾柱島から出撃しました。
また、5月28日には占領部隊輸送船団がサイパンを出港、2日後の5月29日には連合艦隊司令長官・山本五十六率いる主力部隊が、広島湾柱島を出撃しています。
日本軍はミッドウェー島の基地を奇襲する計画でした。
ただし、その計画はすでにアメリカ軍に傍受されていて、アメリカ軍は海軍戦力をかき集め、ミッドウェー周辺で日本軍を待ち構えている状態でした。
ここからの時刻表記はすべて日本時間です。ミッドウェー島での時間は-21時間となります。
6月5日午前1時30分、南雲忠一率いる艦隊はミッドウェー島北西約210海里に到着し、戦闘機や爆撃機を計108機発進させ、3時45分から4時10分にかけてミッドウェー基地を空爆しました。
「第二次攻撃の要あり」の情報が入る
出典:ameblo.jp
奇襲を狙っていた日本軍でしたが、アメリカ軍は日本軍のミッドウェー島攻撃をあらかじめある程度把握できていたので、午前4時ごろから航空機による攻撃・迎撃を受けます。
このアメリカ軍の攻撃があったこともあり、第一航空艦隊の友永大尉は午前4時ごろに南雲中将に対し、「カワ・カワ・カワ(第二次攻撃の要あり)」と打電しました。
これは、「第1次攻撃だけでは不十分だから、第2次攻撃も必要」という意味で、この知らせを受けた南雲中将は、ミッドウェー島への第2次攻撃を決定。
日本の航空機は周囲にアメリカ軍の空母がいるかもしれないと考え、魚雷用のミサイルを搭載していましたが、第2次攻撃のために魚雷用から地上攻撃用に取り換えるように命じました。
ミッドウェー海戦をわかりやすく解説② 日本の空母で混乱が生じる
アメリカの空母を発見してアタフタ
日本軍の空母で、魚雷用から地上攻撃用のミサイルに取り換える作業が急ピッチで進められる中、4時28分に索敵機(偵察用航空機)から「敵らしき10隻を見た」との報告が入ります。
この報告で、南雲中将はアメリカ艦隊が近くにいることを知り、4時45分にミッドウェー島への第2次攻撃を中止し、航空機のミサイルを再度魚雷用に転換するように命じました。
・午前4時15分:魚雷から地上攻撃用にミサイルを取り換え
・午前4時28分:「敵らしき艦隊がいる」という報告
・午前4時45分:やっぱり地上攻撃用から魚雷にミサイルを戻す
この時の日本軍の空母上は、とんでもなくバタバタ&アタフタしていたことは、簡単に想像できます。
約1時間後の5時20分、索敵機から「空母みたいなものがいる」と報告が入り、アメリカ軍の空母が近くにいることはほぼ確実となりました。
空母帰還の時間でアタフタ
日本軍の空母上がミサイルの付け替え等でアタフタしていた午前5時から5時30分、ミッドウェー基地を攻撃していた友永大尉率いる航空隊が、空母(南雲機動部隊)上空に戻ってきました。
しかしこの時、南雲機動部隊はすでにアメリカ軍から攻撃を受けていて、すぐには航空機が空母に帰還できる状態ではありませんでした。
そのため、友永大尉の航空隊は上空で待機しなければならず、混乱した日本軍の駆逐艦から誤射を受けるという事態も起こっています。
さらに、ここに来て日本軍は大きなジレンマに襲われることになります。
アメリカ軍の空母を攻撃するために攻撃隊を発進させようとすれば、帰ってきた友永隊の飛行機は帰還できず、燃料切れで不時着しかありません。
一方で、友永隊を優先的に帰還させると、アメリカの空母攻撃が著しく遅れてしまうことになります。
日本軍は結局、友永隊の帰還を優先させることになりました。帰還した航空機を全部収容できたのは午前6時30分ことでした。
その後、攻撃用の航空機はミサイル装填をして、午前7時30分~8時ごろには発進可能という報告が入っています。
ミッドウェー海戦をわかりやすく解説③ アメリカからの攻撃
アメリカから空母に攻撃
もうすぐ攻撃用の航空機が発進できるという時になって、アメリカ軍の航空機は日本の空母4隻に攻撃を開始しました。
・7時26分:赤城が2弾命中
・7時30分:加賀が4弾命中
前述の通り、日本の空母上では魚雷から陸上攻撃用のミサイルに、そしてまた魚雷に替えていたため、甲板上にミサイルが溢れており、そこに爆撃を受けたため、大火災となっています。
日本側の攻撃態勢が整わないなかで、アメリカ空母から飛び立った米軍機が、日本の空母を襲ってきました。爆撃機が急降下し爆弾を投下、3隻の甲板に次々と命中しました。つけかえ作業中だった魚雷や爆弾にも誘爆し、大爆発が起こりました。
すべてが裏目に出ていることがわかります。
ここまでのミッドウェー海戦をわかりやすく、以下にまとめてみました。
2.ミッドウェー島への初回攻撃で迎撃され、「次の攻撃お願い!」と依頼
3.2回目の攻撃のために、航空機のミサイルを魚雷から陸上攻撃用へ変更!
4.やっぱり空母がいたから、ミサイルを魚雷に戻さなくちゃ!
5.航空機が帰還してきたけれど、空母に戻す?次の攻撃をする?どうしよう?
6.慌てて味方を誤射
7.とりあえず航空機を帰還させよう…
8.よし、もう少しで次の攻撃準備ができるぞ!というタイミングでアメリカ軍から攻撃
9.空母4隻中3隻が爆撃を受ける
10.ミサイルが誘爆して大炎上!!!
11.残りの空母は1隻のみ…
この流れ、何かのコントを見ているようです。
第一航空艦隊には4隻の空母が展開していましたが、たった5分の攻撃で3隻が大火災を起こして、残りは1隻となっています。
たった5分で主力の空母の4隻中3隻が撃沈。これで、ほぼ勝負は決まったようなものですね。
ミッドウェー海戦をわかりやすく解説④ 日本軍撤退まで
最後の空母の飛龍も沈没
残りの1隻となった空母は飛龍です。この時、飛龍は運よく雲の下にいて、しかもほかの空母3隻からは離れていたため、攻撃を受けることはありませんでした。
しかしその後、飛龍はほかの戦艦・母艦と共にアメリカ軍と戦い、14時05分にアメリカ軍の爆撃を受け、炎上します。
炎上したものの機関は無事だったため、消火と離脱作業が進められましたが、23時30分に消火不可能と判断されたことで総員退避となり、6月6日午前2時10分に雷撃処分、海に沈みました。
日本軍は撤退
6月5日午前3時45分にミッドウェー海戦は開始されましたが、約11時間後の14時05分には最後の1隻の空母が炎上し、ミッドウェー海戦はほぼ決着してしまいました。
山本五十六は夜戦も検討しましたが、6月5日21時15分に夜戦中止、23時55分にミッドウェー島の攻略中止を通達します。
これにより、日本軍は撤退となりました。
山本五十六は、追撃してきたアメリカ軍を日本軍の活動圏内に引き込んで攻撃することも考えていましたが、アメリカ軍は深追いして来ず、6月7日にミッドウェー海戦は終わっています。
ミッドウェー海戦での被害:空母4隻が沈没・戦死者も3000人超え
出典:jiji.com
ミッドウェー海戦では、日本軍がミッドウェー島の基地を攻撃開始してから、わずか4時間程度で4隻中3隻の空母を失い、さらに11時間後には最後の空母も大炎上という被害を出しました。
ミッドウェー海戦での日本軍の被害をまとめました。
<空母>
・赤城:沈没(267名戦死)
・加賀:沈没(811名戦死)
・蒼龍:沈没(711名戦死)
・飛龍:沈没(392名戦死)
<重巡洋艦>
・三隈:沈没(700名戦死)
・最上:損傷(92名戦死)
<駆逐艦>
・荒潮:損傷
<航空機(艦戴機)>
・喪失:289機(100%)
空母は4隻全部が沈没、艦戴機も全部が海に散りました。また、ミッドウェー海戦は人的被害も非常に大きい海戦でした。
このミッドウェー海戦で、3,057名が戦死しています。
<戦死した幹部>
・山口多聞少将
・岡田次作大佐
・柳本柳作大佐
・加来止男大佐
・崎山釈夫大佐
このほか、友永中尉ら熟練したベテランのパイロット110名が戦死し、日本軍にとって大きな損失となりました。
アメリカ軍の損失
ミッドウェー海戦では、勝利したアメリカ軍も大きな被害を出しています。
・沈没した空母:1隻(ヨークタウン)
・沈没した駆逐艦:1隻
・喪失した航空機:150機
日本と比べると、さすがに被害は小さいですが、それでも両軍の被害の大きさから、ミッドウェー海戦は激しい戦いだったことがわかります。
ミッドウェー海戦での日米の戦力差
出典:nikkei.com
ミッドウェー海戦は、はっきり言えば日本軍がボロ負けした戦いでした。
しかし、当初の戦力は日本軍のほうが上であり、戦力差から言えば日本軍が有利とされていたのです。
日本軍 | アメリカ軍 | |
空母 | 6(8という説もあり) | 3 |
戦艦 | 11 | 0 |
重巡洋艦 | 17 | 7 |
軽巡洋艦 | 7 | 1 |
駆逐艦 | 70余 | 11 |
水母 | 4 | 0 |
参加艦船は空母6隻、戦艦は大和など11隻を含む計約300隻。航空機が約1千機、兵力が約10万人と海軍始まって以来の大作戦となった。一方のアメリカ側は空母2隻に数隻の重巡洋艦と駆逐艦。ほかは島の航空隊や守備隊などと数では到底かなうものではなく、まるでトラとネコの戦いのはずだったが…。
引用:【歴史事件簿】ミッドウェー海戦(2)意気揚々と大作戦に踏み切った連合艦隊…戦力で劣る米軍は亡霊に頼った(1/5ページ) – 産経ニュース
艦船の総トン数は150万トン、兵力は10万人という兵力でミッドウェーに乗り込んだ日本軍に対して、アメリカ軍は戦艦等の数も少なく、兵力も必死に寄せ集めたものでした。
日本との戦力差があまりにも大きいことから、アリューシャン方面の増援は最小限にとどめ、ミッドウェー島に新鋭機を含む約110機の航空機と寄せ集めながら海兵隊ら約3千人を配置した。
引用:【歴史事件簿】ミッドウェー海戦(2)意気揚々と大作戦に踏み切った連合艦隊…戦力で劣る米軍は亡霊に頼った(1/5ページ) – 産経ニュース
しかも、アメリカの空母はハワイでの突貫作業で修理したばかりのもので、アメリカの兵力は万全とは程遠い状況でした。
日本とアメリカはこれだけの兵力差があったので、日本の圧勝との予想が大半でしたが…、日本軍の判断ミスの連続で、蓋を開けてみれば、日本のボロ負けで終わっています。
ミッドウェー海戦の敗因① 開戦前に暗号が解読され、奇襲がバレていた
出典:withnews.jp
ミッドウェー海戦の敗因の1つ目は、アメリカに日本の暗号を解読されたことです。
1942年4月ごろのアメリカ軍は、暗号を傍受し、日本軍が大規模な作戦を実行してくることを予測はしていましたが、標的がハワイなのか、本土の西海岸なのかまではわかりませんでした。
しかし、4月中旬になって「AF」と「AO」という符号が増えてきたことに気づきます。
「AO」はアリューシャンとわかりましたが、「AF」はミッドウェーっぽいけれど確証は全くないという状況でした。
そこでアメリカの暗号解読班は、ミッドウェーの守備隊にハワイに向けて「ミッドウェーで真水製造機が故障」という嘘の電文を打たせました。
すると、この電文を傍受した日本軍は「AFで真水不足」という電文を本国宛てに打ったのです。
これを傍受したアメリカの暗号解読班は、「AF=ミッドウェー」であると突き止め、日本軍がミッドウェーを攻める作戦を立てていることを把握しました。
このアメリカ軍の「釣り電文」のアイディアもすごいですが、まんまとそれに引っかかる日本軍・・・。
日本軍が無邪気に「真水不足だってよ!」と喜んでいたと思うと、その後の結果を知っているだけに切ないです。
ミッドウェー海戦の敗因② ずさんな情報管理
アメリカ軍は日本軍の暗号を解読し、ミッドウェー攻略の作戦(MI作戦)が進行中であることを突き止めましたが、それ以外でも日本の情報管理はガバガバだったようです。
・敵情が緊迫していることを知りながら、前線に知らせない
・暗号はほぼアメリカに傍受され、作戦全体を把握されていた
日本の暗号を傍受し、嘘の「釣り電文」を送って「AF」がミッドウェーであることを突き止めたアメリカとは、雲泥の差です。
ところが、今度は一般市民の方が乗組員よりミッドウェー作戦のことを知っていたという話もある。それほどに当時の情報管理はずさんだった。軍首脳部の中には「敵に一挙に出てきてもらった方が手間がかからない」などという奢(おご)った考えもあったようだ。
引用:【歴史事件簿】ミッドウェー海戦(1) 解読された暗号、軍部の奢りで情報がアメリカに筒抜け(3/4ページ) – 産経ニュース
これらを見ると、ミッドウェー海戦は始まる前から勝敗が決まっていたのかもしれません。
ミッドウェー海戦の敗因③ 完全な準備不足
ミッドウェー海戦の敗因の3つ目は、完全な準備不足です。
ミッドウェー作戦からハワイ攻略までの図上演習を行う時間は、わずか3日間。つまり、きちんと準備・分析してミッドウェー海戦に臨んでいなかったのです。
しかも、図上演習ではミッドウェー海戦中にアメリカの空母部隊が出現した場合、日本の空母に大きな被害が出て、ミッドウェー攻略作戦続行不可能という結果が出ました。
それなのに、日本軍上層部は審判をやり直し、日本軍の被害を意図的に減らし、沈没したはずの空母を復活させて、演習を続行したんです。
さらに、ミッドウェー島攻略後は艦艇の燃料が足りなくなり、座礁するという演習結果となりましたが、特別に対策はされず、「こうならないように作戦を指導する」とだけで終わりました。
ミッドウェー海戦では、その戦力差から、初回の奇襲が成功することに日本軍は自信がありすぎたのかもしれません。
ミッドウェー海戦の敗因④ 目的の優先順位が決まっていなかった
出典:twitter.com
ミッドウェー海戦では、日本軍の目的の優先度が曖昧だったことも敗因の1つと言われています。
ミッドウェー海戦(MI作戦)では、日本軍は2つの目的を持っていました。
・敵機動部隊の撃滅
この2つの目標のどちらを優先するのかがはっきりしておらず、非常に曖昧でした。
軍司令部はミッドウェー島の攻略を主張していましたが、連合艦隊首脳は敵機動部隊の撃滅を重視していたんです。
そのため、作戦に一貫性がなく、最前線部隊の南部中将の第一航空艦隊には目的がきちんと周知されていませんでした。
上層部の意見が割れ、意思統一ができておらず、最前線のパイロット・兵士に作戦の目標が周知されていなかったら、現場は混乱し、判断を誤って作戦を遂行できなくなります。
このような状態だったから、攻撃機に陸上攻撃用をつけたり、魚雷をつけたりという作業が必要になり、現場はアタフタしたのかもしれません。
ミッドウェー海戦の敗因⑤ 日本軍上層部の楽観主義による判断ミス
出典:jiji.com
ミッドウェー海戦の敗因の5つ目は、日本軍が楽観的だったことです。日本軍はミッドウェー海戦を「負けるはずがない」という姿勢で臨みました。
・日本の機動部隊が最強だから、何とかなると思っていた
・情報が洩れても、空母をおびき出せるから結果オーライと思っていた
実際、日本の機動部隊・パイロットは熟練していて、精強な部隊でした。でも、いくら搭乗員・パイロットが最強でも、作戦・上官・幹部がダメだったら、どうしようもありません。
安易な自信や楽観的な考えがあったから、準備不足のままミッドウェーに臨んだのでしょう。
機動部隊がなんとでもしてくれるだろうと思っていたから、きちんと索敵をしなかったのでしょうし、情報管理もガバガバでも気にしなくなり、情報戦の時点で負けていたのだと思われます。
ミッドウェー海戦の敗因⑥ 戦力が拡散
出典:sankei.com
ミッドウエー海戦当時、アメリカ軍を分散させる陽動作戦のために、日本軍はアリューシャン列島に空母「龍驤」と「隼鷹」を中心とする部隊を展開させていました。
それに対し、アメリカ軍は日本軍の陽動作戦を見抜いていて、アリューシャン列島には必要最低限の兵力のみを送り、ミッドウェーに兵力を集中させていました。
さらに、戦艦大和など山本五十六率いる主力部隊は南雲中将率いる機動艦隊の550km後方にいたため、ミッドウェー海戦には参加できていません。
つまり、アメリカ軍は、事前に暗号を傍受するなど情報収集を念入りにしており、しかも、自分たちの戦力が劣っていることもわかっていたから、ミッドウェーに戦力を集中していたんです。
一方の日本軍は、楽観視して準備不足。暗号が解読されていたことにも気づかないばかりか、自分たちに不利な情報は見てみないふりをしていました。
これでは、ミッドウェー海戦で日本が負けたのは当然の事と言えます。
ミッドウェー海戦で「運命の5分間」は嘘?
出典:jacar.go.jp
ミッドウェー海戦では、運命の5分間が戦況を変えたと言われています。運命の5分間とは、1942年6月5日午前7時25分~30分の5分間です。
ミッドウェー島の基地を攻撃していた第1次攻撃隊を空母に収容したのが、午前6時30分。
そして、新たにアメリカの空母を攻撃する攻撃隊航空機の発進準備ができるのが午前7時30分~8時とされていました。
しかし、7時25分に空母「蒼龍」がアメリカ軍の攻撃により被弾したのを皮切りに、次々に空母が沈没しています。
あと5分アメリカ軍の攻撃が遅かったら、航空機が発進されてアメリカ軍の空母攻撃は成功し、ミサイルの誘爆も起きず、日本は勝利していた…という考えが「運命の5分間」です。
この運命の5分間は、昭和28年の淵田美津雄・奥宮正武共著の「ミッドウエー」で主張された説です。
ただ、現在ではこの運命の5分間はなかったというのが定説となっています。たとえ、アメリカ軍の爆撃が5分遅かったとしても、日本はミッドウェー海戦に負けていたと言われています。
なぜなら、アメリカ軍の爆撃が5分遅かったとしても、発進できる航空機は1機だけだったからです。
空母の上に航空機が50機待機していたと仮定すると、全部が飛び立つには約1時間かかります。だから、たった5分では戦況は変わらないのです。
最初の1機が発艦した後でも、すべての攻撃隊が飛び立つまでには、1時間近くの時間が必要なのである。1隻の空母から1機が発艦するのに要する時間は、少なくとも1分はかかろう。攻撃隊が50機からなっていたとすると、1時間近くを要する。これではとうてい間に合うはずもない。 だいたい機動部隊はそれ以前の2時間も前から、いろいろな形の攻撃を受け続けているのである。この空襲下で、味方の航空機の収容、攻撃装備の2度の変更などを実施していては、勝利の公算など皆無であろう。
しかも、アメリカから空母3隻が爆撃を受けた時、空母の甲板にはまだ攻撃航空機は準備できていなかったという証言もあります。
初弾が、艦橋に近い飛行甲板に命中した。ときに、7時23分。「加賀」の第二次攻撃隊の大部分はまだ格納庫にあり、そこで搭載していた魚雷や爆弾による誘爆が起きた。
引用:76年前の今日、ミッドウェーで大敗した海軍指揮官がついた大嘘(神立 尚紀) | 現代ビジネス | 講談社(3/3)
蒼龍では索敵機が発進しようとしていた時に爆撃を受けたようですので、攻撃隊はまだ格納庫にあり、甲板には出ていませんでした。
このように一つ一つ史実を冷静に分析していくと、ミッドウェー海戦で日本が勝つことはほとんど不可能だったと言えるでしょう。
ミッドウェー海戦の仮説① 戦艦大和が前線に出ていたら勝てた?
ミッドウェー海戦には、戦艦大和も出陣していました。しかし、戦艦大和は最前線の後方約550kmにいただけで、実際の戦闘には参加していないのです。
戦艦大和は日本最強の戦艦
出典:mainichi.jp
戦艦大和は、史上最大にして唯一46センチ砲を搭載していた超弩級戦艦で、日本海軍が世界に誇る大和型戦艦の1番艦です。
1940年に進水し、当時は世界最大最強の戦艦でしたが、実は戦争の主役は航空機に移っていったため、戦艦大和はその能力を発揮することはほとんどなかったと言われています。
1945年4月7日、アメリカの機動部隊によって坊ノ岬沖で撃沈されました。
戦局が変わった可能性はある?
当時世界最強の戦艦大和がミッドウェー海戦の最前線に出ていたら、戦局は変わったのでしょうか?
もし大和が機動部隊と行動をともにしていれば、戦局を左右するその情報を、発光信号などで伝えることもできた。となれば索敵に全力をあげることになり、史実のように敵空母部隊の発見が遅れ、兵装転換の間に攻撃されて、空母4隻を失うことなどなかっただろう。
敵攻撃隊が機動部隊を襲った際、大和が「盾」となったはずなのだ。
元防衛大学校教授の平間洋一氏は、「当時の日本海軍の練度は米軍を凌いでおり、大和が機動部隊とともにあればまず負けることはなかった」と結論付けています。
もし戦艦大和が最前線に出ていたら、ミッドウェー海戦に日本は勝っていたのかもしれません。
ミッドウェー海戦の仮説② 勝ってたら、日本は太平洋戦争にも勝利していた?
歴史に「If」を考えてもしょうがありませんが、もしミッドウェー海戦で日本が勝ってたら、その後の歴史はどうなっていたのでしょうか?
日本がミッドウェー海戦で勝つには、事前の準備・情報戦からやり直す必要がありますが、ミッドウェー海戦で日本が勝っていたと仮定して、その後のシミュレーションをしてみましょう。
ハワイは攻略できた?
日本の奇襲が成功し、ミッドウェー海戦で完全勝利してミッドウェー島を攻略することができたとすると、次の関門は補給です。
事前の図上演習でも、ミッドウェー島を攻略できても、補給が続かないと出ています。
この補給問題が解決できたと仮定したら、日本は次にハワイを攻略し、占領できたかもしれません。
ただ、ハワイを占領し続けるのは困難を極めたと思われます。
アメリカ軍が沖縄を占領するために7個師団を投入し、期間は3か月間もかかっています。ハワイは沖縄よりもずっと大きいため、日本軍がハワイを占領し続けるのは厳しいでしょう。
ただ、もしハワイを占領し続けることができていたら、太平洋戦争の戦況は大きく変わっていた可能性があります。
オーストラリア占領で講和できたか?
出典:mainichi.jp
日本がハワイを占領できていたら、アメリカはさすがにきりきり舞いになります。
ハワイを拠点とするアメリカ本土攻撃を警戒しなければならず、オーストラリアへの支援もできなくなるでしょう。
アメリカ本土への集中的な攻撃や攻め込むことは実際には不可能だったと思われますが、手薄になった資源大国オーストラリアを日本が占領できる可能性はあったと言われています。
ハワイ・オーストラリアを占領していたら、日本に有利な状況で講和に持ち込むことができるでしょう。
そうすると、日本は敗戦国ではなくなりますので、戦後の状況も大きく変わってきます。
ミッドウェー海戦のまとめ
ミッドウェー海戦の概要と背景、経緯をわかりやく解説、空母などの損害、戦力差、暗号漏洩など敗因、戦艦大和が前線に出ていたら?勝ってたら?という仮説もまとめました。
ミッドウェー海戦を調べれば調べるほど、日本が勝つのは難しかったことがわかります。
いや、勝てたはずなのに、軍の準備不足やその他もろもろの気のゆるみ等で、自分たちから負けに行ってしまったと言ったほうが良いかもしれません。