明智光秀は本能寺の変でなぜ裏切った?最後や死因・5つの説まとめ

NHK大河「麒麟がくる」で話題の戦国武将・明智光秀が起こした「本能寺の変」は、現在でも多くの歴史ファンの興味を惹きつけています。

 

今回はこの本能寺の変について、明智光秀はなぜ裏切ったのか?の数々の説を紹介すると共に、その悲惨な最後や死因についてもまとめました。

明智光秀が起こした「本能寺の変」とは

 

出典:https://ja.wikipedia.org

 

NHK大河「麒麟がくる」で話題の戦国武将・明智光秀を語る上で避けては通れないのが「本能寺の変」でしょう。今回はこの「本能寺の変」に焦点を当ててまとめます。

 

「本能寺の変」とは天正10年6月2日(1582年6月21日)の早朝、京都の中心部に位置する寺「本能寺」に、わずかな供回りを連れただけで宿泊していた織田信長を、その家来で有力武将だった明智光秀が、手勢1万3000人の軍勢で急襲し殺害した事件です。

 

「本能寺の変」発生時の状況

 

当時の織田信長は、天下統一を目前にしており、京都周辺の近畿地方一帯に織田家に敵対する勢力は存在しなかったため、この日、織田信長は完全に油断しきった状態でわずかな護衛をつけただけで本能寺に滞在していました。

 

また、周辺にいた織田家の戦闘可能な部隊は織田信長の嫡男・織田信忠の率いる数百の手勢のみで、大規模な戦力を持つ織田軍の主力部隊は全て、遠方で敵対勢力と対峙しているか、今後予定される軍事作戦の準備のために出払っており、本能寺へすぐに救援に駆けつけられる軍勢は存在しませんでした。

 

その中にただ一つ、明智光秀の軍勢だけは畿内にあり、織田信長の命を受けて、中国地方の大名・毛利家と交戦を続ける羽柴秀吉の援軍に赴くため出陣準備中でした。明智光秀は、毛利攻めの援軍として13000名の軍勢を率いて居城丹波亀山城を出陣した後、突如として織田信長の滞在する京都本能寺へと軍勢を向かわせて急襲、「本能寺の変」が引き起こされたのです。

 

織田信長と嫡男・信忠が殺害される

 

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明智光秀の襲撃当時、織田信長は寝所で眠っていたとされ、明智の襲撃の音で目を覚まし、自ら弓や槍を取って交戦したとされますが、本能寺は明智の大群に完全に包囲されており、脱出は不可能だと悟ると、本能寺建物内部に引き下がり、火を放つと自害して果てたとされます。

 

また、すぐ近くの「妙覚寺」に宿泊していた、織田信長の嫡男・織田信忠は、本能寺で父が襲撃を受けているのを知ると、近くの「二条御新造(二条城)」に手勢と共に立て篭もって備えを固めました。やがて「二条御新造」にも明智勢が押し寄せました。織田信忠は交戦した後、こちらも館に火を放ち自害して果てています。

 

「本能寺の変」は戦国時代最大のミステリーと言われている

 

このようにして、突然反乱を起こした明智光秀によって、当時の日本最大の権力者であった織田信長と、その嫡子・織田信忠が殺害されました。

 

「本能寺の変」は日本全体を揺るがすような大事件であったにも関わらず、その真相は謎に包まれています。何しろ、何故明智光秀が織田信長を突然殺害したのかの動機すらも判明していないのです。

 

この事件は「戦国最大のミステリー」などと呼ばれ、古くから歴史研究家から一般の歴史ファンまでもを巻き込んでの一大論争にまで発展しており、数多くの仮説が提唱され、その真実が探し求められ続けています。

 

次の見出しからは、そうした「本能寺の変」の真相として提唱されている様々な仮説を紹介していきたいと思います。

 

 

明智光秀はなぜ裏切ったのか① 天下を獲りたいという野望説

 

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本能寺の変が起きた直後から昭和40年頃までの長きにわたって主流の説として支持されて来たのがこの「野望説」です。

 

この説が本能寺の変直後から当時の人々の考えの主流となったと見られるのは、山崎の合戦で明智光秀を討った羽柴(豊臣)秀吉が、自分の正当性を示すために、明智光秀は自分の私利私欲のために主君である織田信長を討った大悪人であると宣伝した事が大きいと言われています。

 

また、信頼度の高い史料である「信長公記」を書いた信長の書記官である太田牛一という人物が記した「太閤様軍記の内」の中に「明智光秀は自分の野望のために本能寺の変に及んだ」といった趣旨の内容が見られ、この「太閤様軍記の内」は秀吉の死後に成立したと見られる事から、秀吉に気を使ってこのように書かれたわけでも無いと考えられるため、事件当時を生きた太田牛一すら明智光秀が野望によって本能寺の変を起こしたと考えていた事が窺えます。

 

また、当時在日していたポルトガル人宣教師のルイス・フロイスがまとめた「フロイス日本史」の中で、本能寺の変の感想として、「彼は利欲と野心が募り、ついには天下を望むまでになったのかもしれない」と書いています。

 

こうした当時の人々の感想に加え、昭和40年の頃までは、戦国時代の武将達は一般的に誰もが天下を望んでいたと考えられていたため、この「野望説」が主流として受け入れられていました。

 

しかし、最近の研究では、戦国時代の武将達は天下への野心などほとんど誰も抱いておらず家を保つ事が最優先事項であり、実際に天下人となった織田信長すら、既存の秩序の中で家を保つために権力を得ようと行動していた事なども明らかになって来ており、武家の棟梁として責任のある立場であった明智光秀が、個人的な野望などを理由にしてリスクの極めて高い行動に走るとは考えづらいとして、この「野望説」に対しての否定的な意見が多数出て来ています。

 

 

明智光秀はなぜ裏切ったのか② 信長への恨みを募らせた「怨恨説」

 

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長きにわたって「野望説」と同じくらいの市民権を得ていたのがこの「怨恨説」でした。

 

「怨恨説」は、明智光秀が織田信長に繰り返し非道な扱いを受けたため次第に恨みを募らせ、その復讐のために本能寺の変を起こしたというものです。

 

これには、江戸時代頃に書かれた史料に、明智光秀が織田信長に酷い仕打ちを受けたという逸話が多数紹介されている事が影響しています。

 

例えば、織田家がついに長年の宿敵武田家を滅ぼした際に、明智光秀が「我らが苦労した甲斐もあった」と発言したところ、織田信長が突如「お前に何の功があったのだ!」と激昂し、光秀に暴行を働いたという逸話など、明智光秀が何らかの発言や失敗をし、それに信長が怒って理不尽な暴行や暴言を加えるという系統の逸話が多く見られます。

 

また、明智光秀のこれまでの領地が突然召し上げられ、まだ敵の領地であった地域を制圧次第に領地として与えるという命令を受けた事を非道だとして怒り謀反したという逸話や、明智光秀が自分の母親を人質に差し出して、敵将と交渉していたところ、その敵将を織田信長が騙し討ちにしたため、人質に出しいてた光秀の母親が殺害されてしまい、それに光秀が恨みを抱いて謀反したという逸話など、多数の明智光秀が織田信長に恨みを抱いて本能寺の変を起こしたとする逸話が残っています。

 

しかし、これらはほとんどが、江戸期以降に書かれた、本能寺の変をエンターテイメントとして扱ったような軍記物の類に書かれた創作的内容であり史実だとは認め難いとして、現在ではほぼ否定されています。

 

 

明智光秀はなぜ裏切ったのか③ 将来に不安を抱いて謀反を決行した説

 

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明智光秀は、織田政権内では外様の新参武将でした。しかし、極めて優秀な武将であったため織田信長に重用され、家中でも1、2を争う出世頭となりました。

 

しかし、この天下統一が目前となった織田信長は、これまで用いて来た古くからの重臣を、過去の失敗を持ち出して追放したり、有力な新参武将たちを地方へと送って、畿内や尾張、美濃などの織田政権の中枢地域を一族や譜代の家臣で固めたりといった組織の改革を開始していました。

 

明智光秀はこうした状況を見て、将来は自分も粛清されるか、地方へと送られるのではないかと不安を募らせ、それを悲観して織田信長を殺害したのではないか?という説が提唱されています。

 

さらに、「本能寺の変」が発生した当時、織田信長は四国の大名、長宗我部元親を滅ぼすために四国遠征軍の準備を進めていました。この長宗我部元親は明智光秀との関わりが深く、盟友といっても良い関係を築いていました。その長宗我部家と織田家が敵対関係になった事で、自分の立場が悪くなると考え不安が増幅したのではないか?と唱える歴史学者もいます。

 

その他、元々は室町幕府15代将軍足利義昭の家来であった明智光秀は、足利義昭が織田信長との関係が悪化した事で追放された事で、自分に対する心証も悪化したと考えたというのも「不安説」の根拠として上げられています。

 

加えて、高齢だった明智光秀は、嫡男がまだ10代前半の若者だった事から、自分の死んだ後、織田信長は若輩の嫡男から領地を召しあげるだろうと考え不安になったという説など、その他にも様々な明智光秀の不安要因が根拠として示されています。

 

それなりに信ぴょう性を感じる説ですが、実際に明智光秀が不安を感じていた事を示す歴史史料は見つかっておらず、当時の状況のみを根拠にした想像の域を出ていません。

 

 

明智光秀はなぜ裏切ったのか④ 義憤に駆られ、暴君・織田信長を殺害した説

 

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「本能寺の変」の以前、織田信長は、比叡山を焼き討ちにしたり、長島一向一揆を皆殺しにしたりと、当時の人々からも悪逆非道と批判されるような事を強行していました。また、自身の家臣に対しても厳しく接するなど、人々から恐れられていたとされます。

 

明智光秀がこうした織田信長の暴君ぶりを見かねて、義憤に駆られて謀反に及んだとする説も提唱されています。

 

これの根拠となっているのは、本能寺の変を起こした直後に明智光秀が周辺の武士らを味方につけるために送った手紙の中に「織田信長父子の悪行は天下のためにならないので殺害した」という趣旨の文言が含まれている事です。

 

ただ、周囲の武士達を味方につけるために自分の正当性をアピールするのは当然のことなので、実際にこれを動機に明智光秀が行動を起こしたとする証拠にはならないでしょう。

 

また、問題の「比叡山焼き討ち」に関しても、明智光秀自身が主導的な立場で行動していた事などが明らかになっており、そうした非道な行いを明智光秀が謀反を起こすほど問題視していたとは考えづらいという事もあります。

 

この他、古い秩序を尊重する明智光秀は、朝廷権力をないがしろにする織田信長を阻止するために犯行に及んだとする説も存在しますが、織田信長は朝廷からの任官を断るそぶりは見せているものの、朝廷権力を否定していた事を示す史料は存在しておらず、また、明智光秀自身の朝廷に対する考えも不明であるため、推測の域を出ていません。

 

 

明智光秀は何故裏切ったのか⑤ 明智光秀以外に主犯がいたとする「黒幕説」

 

近年「本能寺の変」の真相として盛り上がりを見せているのが明智光秀の他に本当の犯人がいたとする「黒幕説」です。

 

この「黒幕」とされる人物や勢力は多種多様で、

 

朝廷黒幕説

 

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当時の天皇である正親町天皇は、織田信長と長年友好関係にあったものの次第に関係が悪化し、本能寺の変の起こる以前から、信長に譲位(天皇の位を次の継承者に譲る事)を要求されていたとされています。

 

この譲位要求を正親町天皇は拒否し続けていましたが、次第に信長からの圧力が高まり、織田信長と朝廷の間には緊張状態が生まれたていたと推測する説があります。

 

織田信長はいずれは朝廷を傀儡化、あるいは滅ぼしてしまおうと考えており、それに危機感を持った朝廷側が画策し明智光秀を使って織田信長を殺害させたのが「本能寺の変」の真相であるとするのが「朝廷黒幕説」です。

 

本能寺の変が発生した直後に、正親町天皇は明智光秀の元に使者を遣わして京都(洛中)の治安維持を依頼しており、その後光秀は朝廷に参内し、安土城(織田信長本拠)の金蔵から奪った金品銀子五百枚を朝廷に献上しています。

 

このように、いくつかの怪しい状況証拠があるため、一定の信ぴょう性のある説として支持されています。

 

しかし、もし朝廷の意向だったのだとすれば、明智光秀が本能寺の変後にそれを宣伝していないのはおかしいという点や、天皇からの「命令書」である「治罰綸旨」が出ていない点、そもそも織田信長と正親町天皇は友好関係にあったとする説などから、否定的意見も多く存在します。

 

 

足利義昭黒幕説

 

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織田信長に京都を追われ、中国地方の大名毛利氏の元に身を寄せていた室町幕府15代将軍・足利義昭が、織田信長を排除して、京都に戻り室町幕府を再興する為に起こしたのが「本能寺の変」の真相とする説が「足利義昭黒幕説」です。

 

明智光秀は、元々は足利義昭の家来だったため、その繋がりから足利義昭の意向を受けて本能寺の変を実行したと推察されています。

 

また、本能寺の変後に明智光秀が周辺の勢力に送った手紙には「協力差し上げるべきだ(現代語訳)」といった、明らかに目上の人への協力を要請する内容が含まれている事もこの説の根拠として示されています。

 

さらに、足利義昭本人も、「信長を討ち果たしたので上洛したい(現代語訳)」と自分が本能寺の変の首謀者である事を宣言するような手紙を毛利氏に宛てて送っており、この手紙には「これを機に上洛して室町幕府を再興せよ」と要請する内容も書かれています。

 

こうした証拠から、ある程度信ぴょう性のある内容として指示を受けています。

 

しかし、明智光秀が周辺の勢力に書き送った手紙などで足利義昭の名前をはっきりあげていない事や、本能寺の変後に毛利氏は羽柴秀吉軍とあっさりと講和し、秀吉撤退の翌日には毛利氏は本能寺の変を知っていたにも関わらず、撤退していく羽柴軍を追撃しなかった事などから、足利義昭と明智光秀が共謀していた可能性は低いと指摘されています。

 

 

羽柴秀吉黒幕説

 

出典:https://ja.wikipedia.org

 

「本能寺の変」の直後に、瞬く間に中国地方から兵を返して逆臣明智光秀を討伐し、それをきっかけにして一躍天下人の座に躍り出た羽柴秀吉ですが、実はこの羽柴秀吉こそが、天下を取るために明智光秀を利用して織田信長を殺害させたのではないか?とする説も存在します。

 

根拠となっているのは、あまりにも羽柴秀吉の中国戦線からの撤退(中国大返し)の手際が良すぎる事や、明智光秀が織田信長に怪しまれる事なく大軍勢を出陣させられたのは、事前に秀吉が中国戦線への援軍を信長に要請しており、これが秀吉と光秀の共謀だった可能性がある事などがあげられています。

 

しかし、もしもこれが事実だとするならば、明智光秀が秀吉に利用されたと気づいた段階で、周囲にその事を主張しないのはおかしいという疑問が残ります。もし明智光秀が「秀吉も共犯である」という事を宣伝していれば、秀吉は周囲(織田家の武将達や同盟勢力)からの協力を得られなくなり、その後の展開は全く違うものになっていたはずです。

 

 

徳川家康黒幕説

 

出典:https://ja.wikipedia.org

 

徳川家康は、織田信長とは長年の盟友関係にあり、信長の天下統一事業を支援し続けてきました。その徳川家康が「本能寺の変」の黒幕であるとする説も存在しています。

 

徳川家康は長年、織田家にとって東の最大の強敵である武田家との最前線に立ち、その侵攻を支え続ける役割を担っていました。しかし、本能寺の変の直前の1582年に織田信長は武田家をついに滅亡させました。

 

「徳川家康黒幕説」は、武田家滅亡により、自分の存在価値が消滅したと考えた徳川家康は、このままではいずれ織田信長は自分を粛清する可能性が高いと思案し、先手を打って織田信長を殺害したとするものです。

 

この説は、歴史小説などで多数扱われており、ロマンのあるフィクションとして親しまれていますが、史実とは矛盾する点が多くほぼ否定されています。

 

 

「本能寺の変」のその後、明智光秀の悲惨な最後、死因とは

 

続いては、「本能寺の変」後の明智光秀がどうなったのかについても紹介していきます。

 

 

「本能寺の変」後、周囲に支援要請するもほとんど味方は現れず

 

出典:https://www.huffingtonpost.jp

 

天下人・織田信長とその後継者の織田信忠を瞬く間に殺害した明智光秀は、天下の実権を握るべく、織田家の本拠地である近江「安土城」を落とし、その周辺の守りを固めると共に、畿内の周辺武将に自分に味方するように働きかけますが、ほとんど光秀の下に参じる者はいませんでした。

 

これは、明智光秀が織田信長と織田信忠の遺骸を発見できず、確実に殺害したと証明できなった事や、中国地方で「本能寺の変」を知り、急遽毛利家との講和を取りまとめて、畿内へと軍勢を反転させ走らせていた(中国大返し)羽柴秀吉が、畿内一帯に「織田信長も織田信忠も無事脱出して健在である」という偽情報を流したため、畿内の有力武将らは謀反人・明智光秀に味方するリスクの大きを考え、誰も味方しようとしなかったとされています。

 

 

羽柴秀吉が予想外のスピードで引き返してくる

 

出典:http://www.town.oyamazaki.kyoto.jp

 

その後、羽柴秀吉軍は「本能寺の変」発生からわずか9日後の6月11日には尼崎に到達し、凄まじいスピードで反転してきた羽柴秀吉軍に、畿内各地の武将らの軍勢が加わって3万人以上の大軍勢となります。

 

それに対する明智光秀は6月10日、羽柴秀吉軍が接近している事を知りますが、予想外のスピードで秀吉軍が戻ってきたため、十分な対応策を整える時間的余裕がなく、兵力も1万数千にほどしか集まらず、3倍近い兵力差で決戦に及ばざるを得なくなりました。(双方の兵力については諸説あり)

 

 

山崎の合戦で大敗し逃走中に討たれる

 

出典:https://travel.rakuten.co.jp

 

この決戦は「山崎の戦い」と呼ばれますが、明智軍は大敗を喫します。明智光秀は戦場から逃走する途中、落ち武者狩りを行う百姓らに襲撃されて深手を負い、逃走を諦めて自害して果てました。

 

首は家臣の手で隠されますが、百姓により発見され、その後、首は本能寺に晒された後、さらに胴体とつなぎ合わされた上で磔にされ、京都粟田口でも晒されたと言います。

 

 

 

まとめ

 

今回は、戦国時代最大のミステリーとも呼ばれる「本能寺の変」についてまとめてみました。

 

「本能寺の変」は明智光秀が、本能寺に泊まっていた主君・織田信長を襲撃し殺害した事件ですが、あまりに突然の謀反であり、明智光秀の動機は現在まで解明されていません。

 

本能寺の変の真相については、これまでに数々の説が提唱され、歴史学者から一般の歴史ファンまでを巻き込んでの一大論争に発展しています。

 

しかし、いまだにその真相は明らかにされておらず、多くの謎が残されたままです。今回も「明智光秀はなぜ裏切ったのか」としていくつかの説を紹介しましたが、これは、本能寺の真相として語られる説のほんの一部に過ぎません。

 

「本能寺の変」は非常にロマン溢れるテーマであり、今後の研究にも期待したいと思います。

 

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