山下清の死因!生い立ちや障害(吃音)・結婚歴/嫁や子供の有無・代表作や作品の最高額・ドラマ作品5つも徹底紹介

山下清さんは日本各地をまわり名所を描いてきた画家で、映画やドラマの「裸の大将」のモデルです。

 

今回は山下清さんの生い立ちや障害(吃音)、代表作や作品の最高額、結婚や嫁・子供の有無、死因、映像作品5つも紹介します。

この記事の目次

山下清のプロフィール:「裸の大将」のモデルで知られる放浪画家

 

生年月日:1922年3月10日

出身地:東京都

所属:なし

 

山下清さんは知的障害などを持ちながらも、各地を旅してその名所を絵に描くスタイルで知られている画家です。

 

愛称は「日本のゴッホ」「裸の大将」など。

 

また、過去には山下清さんをモデルにした作品「裸の大将」が話題となり、これまでに舞台・映画・ドラマとなっています。

 

 

山下清の生い立ち:風邪をこじらせた後遺症で言語障害・知的障害に

 

山下清さんは、東京で生まれるもその翌年に発生した関東大震災で住まいを失い、両親の故郷である新潟県へ転居。

 

さらに3歳の時には、風邪から重い消化不良に陥り、命の危機に瀕してしまいます。なんとか一命を取り留めたものの、後遺症として言語障害・知的障害となってしまいました。

 

 

山下清の経歴① 母親に八幡学園に預けられる

出典:https://pixabay.com/

 

家族は1926年に東京に戻るも、1932年に父親が脳出血で他界。

 

母親はその後再婚。養父となった男性は最初こそ優しかったものの、酒に酔うと暴力をふるうような人物だったそうです。

 

そのため、山下清さんの母親は1934年、養父の留守の間に子供たちを連れて家出。しかし、すぐに生活に困るようになり、母子家庭のための社会福祉施設「隣保館」へと移りました。

 

また、「山下」は母親の旧姓だそうで、このころより「山下清」と名乗るようになります。

 

新天地での生活が始まった山下清さんでしたが、学校の勉強に苦労し、態度も反抗的に。

 

母親はそのような状況から、千葉県の知的障害児施設「八幡学園」へと山下清さんを預け入れました。

 

 

山下清の経歴② 知的障害児施設でちぎり紙細工と出会い、才能が開花

 

山下清さんは、八幡学園で人生の転機となる「ちぎり紙細工」と出会います。

 

山下清さんはちぎり紙細工に没頭し、さらに同学園の顧問医であった精神病理学者・式場隆三郎さんの指導を受けてよりその才能を開花。

 

その後、1937年に早稲田大学で行われた貼り絵の展覧会に出品したほか、翌年の1938年には銀座の画廊で初の個展が開催されました。

 

さらにその翌年の1939年には、大阪・朝日記念会館ホールでも展覧会が開催され、山下清さんの作品は多くの人から注目されるようになります。

 

 

山下清の経歴③ 脱走と放浪の旅をくり返していた

 

山下清さんは長らく八幡学園に在籍していましたが、第二次世界大戦中であった1940年に「イヤになったから」と脱走。

 

以降、1955年まで脱走と放浪の旅を繰り返す日々を送り、半年放浪しては千葉に戻る、という生活を送っていたのだとか。

 

1942年にも徴兵検査を受けたくないと脱走しており、その際には千葉県我孫子市の売店で住み込みで働いていたそう。

 

しかし、翌年に八幡学園の職員が連れ戻しに訪れ、母親によって強制的に徴兵検査へ。ただ、知的障害を持っていた山下清さんは徴兵免除となっています。

 

 

山下清の経歴④ 戦後は日本のゴッホとして注目を集める

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

戦争が終わると、その才能やタンクトップといったラフな服装から「日本のゴッホ」「裸の大将」と呼ばれるように。

 

1956年には東京の大丸で「山下清展」を開催したほか、全国で130回もの展示会が行われ、のべ500万人を超える観客が訪れました。

 

そして、1961年には恩師・式場隆三郎さんらとともに40日ほどのヨーロッパ旅行へ。その際に訪れた名所も絵として残されています。

 

その後、「東海道五十三次」の制作のため、東京から京都までスケッチをしながら旅行。約5年もの歳月をかけて、55枚の作品を完成させました。

 

さらに、1963年公開の映画「拝啓天皇陛下様」に端役で出演。庶民の役で、数秒間だけの出演ながらセリフ付きの演技に挑戦しています。

 

 

山下清は「映像記憶能力」の持ち主で「サヴァン症候群」だった?

出典:https://pixabay.com/

 

山下清さんは飛び抜けた「映像記憶能力」の持ち主であるとされており、旅行先での風景を、八幡学園や自宅に戻ってから記憶を基に描くというスタイルをとっていました。

 

映像記憶(えいぞうきおく、英: eidetic memory)は、生物が眼に映った対象を映像で記憶したもの、またはその能力のこと。写真記憶、直観像記憶ともいう。

 

引用:映像記憶

 

そのため、山下清さんが知的障害を持っていたことから、「サヴァン症候群」だったのではないか?と推測する海外の研究者などもいるそうです。

 

《savant syndrome;(フランス)savantは、賢人の意》自閉症や知的障害をもちながら、ある特定の分野で非常に卓越した才能を発揮する症状の総称。男性に多く、記憶力・音楽演奏・絵画などにおいて天才的な能力をもつ。

 

引用:サバン‐しょうこうぐん〔‐シヤウコウグン〕【サバン症候群】

 

確かに山下清さんは軽度の知的障害があり、記憶力・絵画の能力も高いため、サヴァン症候群の特徴に当てはまりそうです。

 

しかし甥の山下浩さんは、山下清さんは映像記憶能力と言えるほど記憶力が高かったものの、作品の多くは見たものを忠実に描く「写実的」ではなく「心象的」だったとも語っています。

 

 

山下清の抱えていた障害とメディアの誇張:強調された吃音と知的障害

出典:https://pixabay.com/

 

山下清さんは前述のとおり、言語障害と知的障害を持っていました。

 

しかし、ドラマや映画ではその点を誇張されることが多く、「仕方ないね」と言いつつも不満を感じていたのだとか。

 

山下清さんは言語障害の1つである吃音がありましたが、ドラマや映画で演じられる際には吃音が強く強調されていたそうです。

 

吃音(きつおん)とは、言葉がすらすら出てこない発話障害です。少し前までは「どもり」と呼ばれることもありましたが、「どもり」という言葉は差別的な意味合いが強いため、現在は使われなくなりました。吃音は珍しくない疾患であり、数か月にわたって吃音らしい特徴を示す子どもの割合は10~20人に1人くらいと言われています。

 

引用:吃音とは

 

甥の山下浩さんは、山下清さんの映像作品やそれを受けたマスコミのステレオタイプの報道に対する思いについて、以下のように振り返っています。

 

ライターK : 山下清さん自身はマスコミのステレオタイプの報道について、どう思っていたのでしょうか。

不満を漏らしていました。とくに、自分がコンプレックスに思っていた吃音を強調されたり、知的障害を感じさせる言動を誇張されたりすることには不快感を示していました。いじめのように感じていたのだと思います。

 

引用:画家・山下清の素顔について考える 中編

 

 

山下清のタンクトップ姿は実は演出だった

また、山下清さんは有名になってからは開襟シャツ・ジャケット・ベレー帽を着用するなど服装に気を使っていました。

 

ですが、マスコミから「絵にならないから」と夏でもないのにランニングに着替えさせられたこともあったそう。

 

しかし、山下清さんは映像作品の放送やそれによる弊害などについて、有名になって絵を売るための営業の一環だと、割り切っていたといいます。

 

なお、山下浩さんら親族も、ドラマなどに影響を受けた、世間の山下清さんへ対するイメージに違和感を感じていたそうです。

 

ライターK : 日常生活において知的障害者だと感じられることはなかったのですか。
山下浩 : ほとんどないですね。唯一あるとすれば、おじは質問魔で、周りが「そんな質問するな」と思うことを平気で聞いてしまうところがあって、それは困ったなと思っていました。それぐらいですかね。

 

引用:画家・山下清の素顔について考える 前編

 

ちなみに、精神科医の式場隆三郎さんは山下清さんのIQを70~80程度だとしていましたが、山下浩さんいわく、山下清さんは実際には正式な知能測定を受けたことはなかったそう。

 

そのため、IQの推測にも疑問を抱いているようです。

 

山下清さん自身、勉強はできなかったといっているため、もしかすると知的障害というよりは学習障害や重めの発達障害だった可能性もあるかもしれませんね。

 

 

山下清の作品には偽物が多い?各地で絵を描いたのもドラマの演出だった

山下清さんは画壇に所属しておらず、その作品を鑑定できる人物はほとんどいません。

 

また、山下清さんをモデルとしたドラマなどでは「訪れた先に御礼として作品を残す」というシーンがあり、そのイメージを悪用して贋作を本物と称した展覧会などが開催されているそう。

 

しかし、前述にもあるとおり、実際の山下清さんは作品のほとんどを学園や自宅で制作しており、作品は遺族によって管理されています。

 

 

山下清は結婚しておらず、嫁や子供はいない・”よめこ”はフィクション

 

山下清さんは結婚しておらず、生涯独身でした。そのため嫁はおらず、子供も誕生していません

 

山下清さんが亡くなった後の作品の管理などは、甥・山下浩さんが行っているそうで、前述のとおり鑑定が難しいとされてきた山下清さんの作品を鑑定する「山下清鑑定会」を設立。

 

山下清さんの作品の著作権の管理や鑑定などを行っているといいます。

 

また、山下浩さんは著書『家族が語る山下清』を出版しているほか、『山下清作品集』を監修しています。

 

なお、山下清さんをモデルとしたドラマなどでは「よめこ」と呼ばれる、お嫁さんになりたいと山下清さんを追いかけ続けるキャラクターが登場していますが、フィクションなのだとか。

 

もしかするとモデルがいるのかもしれませんが、その点に関しては言及されていません。

 

 

山下清の死因は脳出血・享年49歳と若すぎる死だった

 

山下清さんは、1968年に高血圧が原因で眼底出血に見舞われてしまいます。

 

そして1971年7月12日に死去。享年49歳で、死因は脳出血でした。

 

脳出血とは、脳の中を走る細い動脈が突然破れて出血が起こり、脳を壊したり圧迫したりすることでさまざまな症状が現れる病気です。脳出血は、出血性の脳卒中のひとつです。どのような症状が現れるかは、出血の量と場所によって大きく異なりますが、最悪の場合には意識障害や呼吸不全を引き起こし、命を落とす危険性もあります。

 

引用:脳出血

 

 

山下清と冨士眞奈美の意外な関係とは?色紙とカラーテレビを交換?

山下清さんは、1960年に放送されていた音楽バラエティ番組「東は東」に出演。同番組の生放送中に、ガラス板に白いペンキで絵を完成させるというコーナーを受け持っていました。

 

同番組のホステス役を務めていた役者・冨士眞奈美さんは、当時の思い出を以下のように振り返っています。

 

山下さんと自衛隊を訪問して、一緒に戦車に乗ったり。奈良に行ったときは、マネージャーである弟さんが、「鹿に乗っちゃいけないよ」と注意したにもかかわらず、目を盗んで鹿に乗って、転倒したり。山下さんは、笑うととってもかわいくて面白い方だった。でも、最後まで私の名前を覚えてくださらず「お、沖縄の女だな」と言われたことを覚えている。静岡県・三島市出身なんだけど、山下さんはお構いなし(笑)。

 

引用:昭和の有名画家・山下清、欲しかった「カラーテレビ」と引き換えに描いた“色紙の絵”

 

また、冨士眞奈美さんが山下清さんの誕生日にプレゼントをしたいと思い、欲しいものを尋ねたところ、「カラーテレビ」と即答されたそう。

 

当時のカラーテレビは超高級品で、当時の冨士眞奈美さんにとっては購入が難しい品物。

 

そのため「カラーテレビを贈ったら何をお返ししてもらえるのか」と思わずたずねると、「色紙」といい、その場で色紙にペンで花を書き、「これは3000円だな」と手渡したのだとか。

 

冨士眞奈美さんはその後もその色紙を大切に飾っていたものの、色紙が劣化。

 

そのことを飲み仲間に嘆いていたところ、その場で花の下に道を書き足され、山下清さんの色紙としての価値はなくなってしまったというのだから残念です。

 

冨士眞奈美のプロフィール

生年月日:1938年1月15日

出身地:静岡県

職業:役者・随筆家・俳人

所属事務所:アンテーヌ

 

冨士眞奈美さんは役者で、随筆家・俳人としても活躍されています。

 

劇団「俳優座」付属の養成所で声優の大山のぶ代さんや役者の田中邦衛さんらと切磋琢磨し、1956年にNHKのドラマ「この瞳」の主役でデビューを果たしました。

 

以降、NHK専属の役者として活躍し、同時期に活躍していた役者の馬渕晴子さん・小林千登勢さんと「NHK三人娘」として人気を博します。

 

1960年からは、音楽バラエティ番組「東は東」で司会を担当を務めたほか、バラエティ番組などにも多数出演。

 

その後、1970年に日本テレビ系列で放送されたドラマ「細うで繁盛記」で演じた意地悪でヒステリックな小姑役をきっかけに、それまでのヒロイン路線から脱却し、幅広い役柄を演じます。

 

結婚を機に一時役者業を引退していたものの、離婚を機に役者へ復帰すると、1999年放送のフジテレビ系列のドラマ「OUT」や2009年放送の朝の連続テレビ小説「つばさ」などに出演。

 

近年は加齢を理由に仕事をセーブしているものの、ドラマ「やすらぎの郷」シリーズや、2022年公開の映画「ばあばは、だいじょうぶ」などに出演し、今も現役で活躍されています。

 

 

山下清の作品の代表作は?市場にある作品の最高額はそこまで高くない?

 

 

山下清さんの代表作には「花火」・「桜島」・「東海道五十三次」などが挙げられます。

 

しかし、前述にもあるようにその作品の多くは遺族によって管理されており、市場にはほとんど出回っていません。

 

しかし、冨士眞奈美さんに渡した色紙のように、まれに旅先で出会った人や知り合いに作品をプレゼントすることがあったようです。

 

そのため、本物の山下清さんの作品は希少価値が高く、高値で取引されることも。

 

とはいえ、山下清さんの作品として広く知られているちぎり紙細工などはほとんど出回っておらず、これまでの最高額などもわかっていません。

 

過去には、ネットオークションで「富士山」が36万4000円、油絵「長岡の花火」が31万9000円で落札されたようですが、海外の著名な作品と比べるとそこまで高価ではないようです。

 

しかし、山下清さんの代名詞でもあるちぎり紙細工の作品が販売されるとなると、その価値は計り知れません。

 

「裸の大将」で映像作品としても人気を博した山下清さんの作品で、かつそのほとんどが世に出回っていない作品であれば、より高額となることが予想されます。

 

 

山下清をモデルにした映像作品① 映画「裸の大将」/小林桂樹

山下清さんは放浪時のスタイルから「裸の大将」という愛称で親しまれていました。

 

また、その生い立ちがドラマや舞台などの原案となっており、いずれの作品も人気を博しています。

 

 

 

1958年公開の映画「裸の大将」では、山下清さん役を役者・小林桂樹さんが演じました。

 

小林桂樹のプロフィール

生年月日:1923年11月23日

出身地:群馬県

職業:役者

所属事務所:不明

 

小林桂樹さんは役者で、のべ253本もの映画に出演しています。

 

日本大学専門部の芸術科(現在の日本大学芸術学部)に進学するも、学費の問題で中退。

 

その後、大学時代からアルバイトをしていた朝日新聞社の仲間に役者になろうと誘われ、日活・東宝・松竹の入社試験を受験。

 

日活へと入社し、「日活演技研究所」の研究生を経て194年公開の「微笑の国」で役者としてデビューしました。

 

その後、出征を経験し終戦後に役者へと復帰。1951年公開の映画「その人の名は言えない」で主演を務めたことで注目を集めるように。

 

東宝へと移籍すると、1958年に公開された映画「裸の大将」で主演を演じ、「毎日映画コンクール」で主演男優賞を受賞しました。

 

そのほか、代表作としては1960年公開の映画「黒い画集 あるサラリーマンの証言」や1961年公開の映画「名もなく貧しく美しく」、ドラマ「牟田刑事官事件ファイル」シリーズなどです。

 

また、声優としてディズニー映画「わんわん物語」の主人公・トランプや、スタジオジブリの映画「耳をすませば」で地球屋の主人・西司郎の声を担当しました。

 

そして、2010年に心不全で死去。享年86歳でした。

 

 

山下清をモデルにした映像作品② ドラマ「裸の大将放浪記」/芦屋雁之助

 

1980年に関西テレビ・東阪企画によって放送されたドラマ「裸の大将放浪記」では、山下清さん役を役者・芦屋雁之助さんが演じました。

 

同作は、1956年に発売された著書「放浪日記」を題材としたフィクション作品として制作され、1964年に芦屋雁之助さんの劇団「喜劇座」が上演していた舞台をドラマ化。

 

その後の1981年には、社会福祉面にフォーカスした映画版も制作されています。

 

なお、1967年には舞台版を山下清さんが激励しており、「客席にもボク、舞台にもボク」と喜びのコメントを発していたそうです。

 

しかし、甥の山下浩さんは山下清さんは映画しか見ていないそう(どの作品かも言及なし)。

 

また、その作品に対しても「半分は本当で、半分はお芝居だな」と落胆の様子も見せていたと語っているため、真意のほどは分かっていません。

 

芦屋雁之助のプロフィール

生年月日:1931年5月29日

出身地:京都府

職業:役者・歌手

所属事務所:不明

芦屋雁之助さんは役者で、染物屋を営みながらも芸人として活動を始めた父親に付いて過ごすうちに、漫才師・五條家弁慶さんの弟子となります。

 

その後、18歳の時に弟と当時の人気漫才師、芦の家雁玉・林田十郎さんへと弟子入り

 

その際に「雁之助・小雁」という名をもらいますが、「芦の家」を「芦家」と勝手に変えてしまったため破門となります。

 

2人は関西で若手有望株として期待されていましたが、1954年から漫才を辞めてコントをやるように。そして、兄弟そろって喜劇役者へと転身します。

 

1959年に結成された劇団「笑いの王国」に在籍し活躍したほか、同年にスタートした毎日放送のお笑い番組「番頭はんと丁稚どん」に出演したことで、世間の注目を集めました。

 

1964年に同劇団が解散すると、弟らとともに劇団「喜劇座」を立ち上げ。

 

座付き作家・藤本儀一さんから、山下清さんと風貌が似ていることを指摘されたことをきっかけに、舞台「裸の大将放浪記」を上演したことが話題となります。

 

劇団は1969年に解散してしまいますが、芦屋雁之助さんは映像作品へと活動の場を移し活躍。

 

そして、1980年に関西テレビ・フジテレビ系列のドラマ「裸の大将放浪記」で山下清さん役を演じたことで大ブレイクを果たします。

 

また、1984年にはシングル「娘よ」で演歌歌手としてもブレイク。同年の「NHK紅白歌合戦」にも出場しました。

 

しかし、2004年に鬱血性心不全により死去。享年72歳でした。

 

 

山下清をモデルにした映像作品③ 舞台「新・裸の大将放浪記」/芦屋小雁

 

2005年には、舞台「新・裸の大将放浪記」が愛知県の名鉄ホールをはじめとする全国各地で上演されました。

 

同舞台では山下清さんを、芦屋雁之助さんの弟で役者の芦屋小雁さんが演じました。

 

芦屋小雁のプロフィール

生年月日:1933年12月4日

出身地:京都府

職業:役者

所属事務所:小雁倶楽部・さち子プロ

 

芦屋小雁さんは役者で、芦屋雁之助さんの弟であることでも知られています。

 

兄・芦屋雁之助さんと漫才師を経て役者となりますが、若い頃はさまざまな職業を経験。商業美術の世界で働き、映画看板などを手掛けていた時期もあるそうです。

 

1959年には芦屋雁之助さんと出演した毎日放送のお笑い番組「番頭はんと丁稚どん」に出演し、同番組を機に人気を博します。

 

その後も芦屋雁之助さんと同じく劇団「笑いの王国」「喜劇座」に在籍するも、いずれも解散。

 

以降、ABCのドラマ「必殺」シリーズや朝ドラに数多く出演。

 

朝ドラにおいては、1982年放送の「よーいドン」をはじめ、2008年の「ちりとてん」、2009年の「ウェルかめ」、2016年の「べっぴんさん」と4作品に出演しています。

 

近年では、2013年公開の映画「忍たま乱太郎 夏休み宿題大作戦!の段」や2014年公開の映画「舞妓はレディ」などに出演。

 

2018年にTBS系列のバラエティ番組「爆報! THE フライデー」に出演し、認知症を患っていることを公表しました。

 

しかし、2021年に放送された朝日放送のドラマ「ミヤコが京都にやって来た!」に出演するなど、役者として今も活動しています。

 

 

山下清をモデルにした映像作品④ ドラマ「裸の大将〜放浪の虫が動き出したので〜」/塚地武雅

 

2007年、フジテレビ系列の単発ドラマとして「裸の大将〜放浪の虫が動き出したので〜」が放送されました。

 

山下清さん役は、お笑いコンビ「ドランクドラゴン」の塚地武雅さんが演じています。

 

また、同作は好評を博し、2008年には第2作となる「裸の大将 宮崎編〜宮崎の鬼が笑うので〜」、第3作「裸の大将 山梨編〜富士山にニセモノが現われたので〜」を放送。

 

さらには、2009年に第4作「裸の大将 火の国・熊本編〜女心が噴火するので〜」が放送されました。

 

お笑い芸人である塚地武雅さんは、自身が出演したバラエティ番組「はねるのトびら」や「有吉の壁」などで、山下清さんを思わせるキャラクターをパロディーで演じることがあります。

 

塚地武雅のプロフィール

生年月日:1971年11月25日

出身地:大阪府

職業:お笑い芸人・役者

所属事務所:プロダクション人力舎

 

塚地武さんはお笑い芸人で、お笑いコンビ「ドランクドラゴン」でボケを担当。また、役者としても活動しており、数多くの作品に出演しています。

 

桃山学院大学の経済学部を卒業後、仏壇メーカーの営業を経て24歳でお笑いの世界に。

 

お笑い情勢所「スクールJCA」に入学し、1996年に相方・鈴木拓さんとお笑いコンビ「ドランクドラゴン」を結成します。

 

2003年頃から役者活動を始め、2006年公開の映画「間宮兄弟」では佐々木蔵之介さんとW主演を務めて「キネマ旬報」「ブルーリボン賞」「毎日映画コンクール」で新人賞を三冠受賞。

 

お笑い芸人とタレントという二足のわらじがゆえ、ジレンマを抱くような出来事が多いようで、時折トーク番組で役者との待遇の差などといった不満を口にすることも。

 

しかし、今もなおどちらの業界でも活躍しています。

 

 

山下清をモデルにした映像作品⑤ 映画「この空の花 長岡花火物語」/石川浩司

 

2011年公開の映画「この空の花 長岡花火物語」では、山下清さんの役をミュージシャンで、かつてフォークロックバンド「たま」のメンバーとして活躍した石川浩司さんが演じました。

 

石川浩司のプロフィール

生年月日:1961年7月3日

出身地:東京都

職業:シンガーソングライター・空き缶収集家

所属事務所:不明

 

石川浩司さんはシンガーソングライターで、フォークロックバンド「たま」のメンバーとしても活躍していました。

 

石川浩司さんは高校を卒業後、和光大学に進学するも中退。病院で深夜受付のバイトをしつつ、弾き語りをする日々を送っていたそうです。

 

その後、イベント「地下生活者の夜」を主催し、出演者同士で即席バンドを組む企画を機にフォークバンド「たま」が結成されました。石川浩司さんはパーカッションやオルガンを担当。

 

TBS系列の音楽番組「三宅裕司のいかすバンド天国」に出演すると話題を呼び、大ヒットとなった「さよなら人類」で「NHK紅白歌合戦」にも出演しました。

 

2003年に同バンドを解散後は、音楽ユニット「パスカルズ」として国内外で活動。フランスでは音楽チャート1位を獲得したほか、日本においてもドラマなどで劇伴音楽を担当しています。

 

また、2002年公開の映画「害虫に」出演して以降、時折役者としても活動。映画・ドラマなどに出演しています。

 

 

まとめ

山下清さんは幼い頃に風邪をこじらせた後遺症で、言語障害・知的障害に。そして、障害児施設でちぎり紙細工と出会い、その才能を開花させました。

 

その後、各地を放浪しその名所を絵に残すということを繰り返していた山下清さん。

 

その過程を綴った著書を基にした作品「裸の大将」は、映画・舞台・ドラマそれぞれで大ヒットしました。

 

しかし、実際の山下清さんは、それらの映像や舞台作品で吃音や知的障害といったコンプレックス面を強調されたことを残念に思っていたようです。

 

現在は作品のほとんどを遺族が管理されているそうですが、作品の素晴らしさのみならず、「裸の大将」シリーズでの知名度によってその価値は高まるばかり。

 

世には贋作も数多く出回っているようなので、今後も山下清さんの作品がしっかりと守られていくことを願いたいですね。

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