「ルーシー・ブラックマン事件」の被疑者として逮捕された織原城二の特殊な生い立ちが話題です。
この記事では織原城二の在日の生い立ちや資産家の家族や大阪の実家、慶應義塾高校の出身、父に買い与えられた田園調布の豪邸、ルーシー・ブラックマン事件の概要やその後の裁判、現在などについてまとめました。
この記事の目次
- 織原城二はルーシー・ブラックマン事件の被疑者
- 織原城二が関与したとみられているルーシー・ブラックマン事件の概要
- 織原城二の家族は資産家の在日コリアン
- 織原城二の帰化前の名前は金聖鐘(キム・スンジョン)
- 織原城二の実家は大阪の高級住宅街である帝塚山・北畠だと言われている
- 織原城二は慶應義塾高校入学時に父親に田園調布にプール付き豪邸を買い与えられた
- 織原城二は17歳の時に父親が香港で不可解な状況で死亡し莫大な資産を相続
- 織原城二はルーシー・ブラックマン事件当時は事業失敗で多額の借金を背負っていた
- 織原城二は金にものを言わせて裁判を戦った
- 織原城二の現在① 無期懲役判決で服役中
- 織原城二の現在② 犯行現場とみられるマンションは税金滞納で差し押さえ
- まとめ
織原城二はルーシー・ブラックマン事件の被疑者
織原城二(おばら・じょうじ)は、2000年7月に発生した、当時21歳のイギリス人女性、ルーシー・ブラックマン (Lucie Blackman) さんが強姦されて死亡し、バラバラにされた遺体で見つかった事件「ルーシー・ブラックマン事件」への関与が疑われている男です。
織原城二は元在日コリアンという出自や、その異常な生い立ち、「ルーシー・ブラックマン事件」以前に、数百件に及ぶ性犯罪を起こしていた疑いがある事などでも注目されています。
今回はこの織原城二についてまとめていきます。
織原城二が関与したとみられているルーシー・ブラックマン事件の概要
出典:https://www.dailyshincho.com/
まず最初に、織原城二が関与したとみられている「ルーシー・ブラックマン事件」の概要を見ていきます。
2000年7月、ルーシー・ブラックマンが男性に誘われ出かけたまま行方不明に
出典:https://star.ap.teacup.com/
2000年7月1日、約2ヶ月前の同年5月4日に女性の友人と共に来日し、東京都六本木で外国人ホステスとして働いていた、元英国航空(ブリティッシュエアウェイズ)の客室乗務員の経歴を持つイギリス人女性、ルーシー・ブラックマンさん(当時21歳)が、男から電話で呼び出され、同居している同じくイギリス人の友人に「お客さんと海へドライブに行く、1時間後には戻る」と携帯電話で連絡を入れたのを最後に行方不明になりました。
同年7月3日、「タカギアキラ」を名乗る男から、このルーシー・ブラックマンさんの友人に電話があり、「ルーシーと私は一緒に千葉にいて、一緒に新興宗教の修行をしている」と伝えました。
この電話に不審を抱いたルーシー・ブラックマンさんの友人は、翌7月4日に警視庁麻布署に「家出人捜索願」を提出。事件性を感じ取った同警察署捜査一課が捜査本部を設置して捜査が開始されました。
同年8月22日、イギリスからルーシー・ブラックマンさんの父親と妹が来日し、記者会見を開いて1万ポンド(当時のレートで約160万円)の懸賞金をかけて情報を呼びかけ、この事件はマスコミでも大きく報じられるようになります。
同年10月、織原城二が容疑者として逮捕される
同年9月下旬、捜査本部が、ルーシー・ブラックマンさんが勤めていた六本木のクラブの常連客で、不動産管理会社を経営する当時48歳の男(後に織原城二と判明)を容疑者として捜査している事が判明。さらに、ルーシー・ブラックマンさんの周辺で別の外国人女性2名も行方不明になっている事なども明らかになりました。
同年10月、捜査本部の置かれていた警視庁麻布署の所長宛に、ワープロで作成された手紙が届きました。手紙は英文で「借金は必ず返します。この手紙が着く頃には私は日本にはいないでしょう」などと書かれ、約100万円相当の外国紙幣が同封されていました。警察はこの手紙を犯人が捜査を撹乱するために、ルーシー・ブラックマンさんを装って送付したものだと断定し捜査を強化しています。
捜査本部はルーシー・ブラックマンさんが勤めていた六本木周辺のクラブやスナックなどを徹底的に捜査したところ、スタイルの良い金髪の白人女性を好んで、誘い出しては暴行を繰り返している男の噂が浮上。この男は複数の偽名を使い分けて犯行を繰り返していたため特定は難航しますが、同年10月12日、別のカナダ人女性への準強制わいせつ容疑で、織原城二(当時48歳)が警視庁麻布署に逮捕されます。
警視庁麻布署が、織原城二の所有する神奈川県三浦市内のマンションなどを捜索したところ、数百人単位の複数女性に対する暴行の様子を記録した5000本を超えるビデオテープやノート、録音記録、大量の違法薬物などが発見されます。
同年11月17日、警視庁麻布署は、自宅から押収されたビデオテープなどを証拠として、日本人やイギリス人など10人のホステスに対しての准婦女暴行傷害などで織原城二を再逮捕し、同日付でルーシー・ブラックマンさんに対する準強姦罪で東京地裁に起訴しています。
2001年1月26日、織原城二は、別のオーストラリア人女性、カリタ・シモン・リッジウェイ(Carita Simone Ridgway)に対する強姦致死容疑で再逮捕。(1992年に織原城二による同様の手口による犯行が原因で死亡)
2002年2月、ルーシー・ブラックマンの遺体が発見される
そして、同年2月9日、神奈川県三浦市内の織原城二の自宅マンションから、わずか数百メートルほどの距離にある三浦海岸の洞窟から、バラバラに切断されて浴槽に入れられ地面に埋められていたルーシー・ブラックマンさんの遺体が発見されました。遺体は上からコンクリートを流し込まれ、大部分が白骨化した状態でした。
同年4月6日、警視庁はルーシー・ブラックマンさんに対する準婦女暴行致死、死体遺棄容疑で織原城二を逮捕しています。この逮捕の決め手となったのは、織原城二の自宅マンションからルーシ・ブラックマンの毛髪が発見された事や、ルーシー・ブラックマンさんが死亡したとみられる直後に織原城二が自宅近所のホームセンターでセメントやチェーンソーなど遺体損壊や隠蔽に使用したとみられる道具を購入していた事などでした。
織原城二は、ルーシー・ブラックマンさんを自宅に誘い入れた事は認めたものの、殺害については一切を否認し事件発覚当時既に死亡していた友人による犯行だとして無罪を主張しました。
2010年12月、裁判で「無期懲役」が確定
その後、織原城二は、ルーシー・ブラックマンさんを含む10人の女性(日本人4人、外国人6人)に対する準強姦と、そのうちの2人(ルーシー・ブラックマンさんとカリタ・シモン・リッジウェイさん)を死亡させたとして、準強姦致死罪などで起訴され裁判を受けました。
裁判でも織原城二はルーシー・ブラックマンさん殺害については無罪を主張し、2007年4月に下された一審判決では他の9人に対する罪は認められて「無期懲役」の判決が下されたものの、ルーシー・ブラックマンさん殺害については証拠不十分などを理由に「無罪」の判決が下されています。
この判決に対し、検察側、弁護側双方が不服として控訴しています。
2008年12月の二審判決では一審判決が破棄され、ルーシー・ブラックマンさんに対するわいせつ目的誘拐や死体損壊・遺棄罪などが認定されています。ただし、乱暴して死亡させたとまでは言えない事を理由に準強姦致死は認められず、改めて「無期懲役」の判決が下されています。
織原城二は、この判決を不服として上告しています。
そして、2010年12月、最高裁判所は織原城二の上告を棄却する決定を下し、高裁で下された「無期懲役」の判決が確定しました。
織原城二の家族は資産家の在日コリアン
出典:https://seihanzai.tripod.com/
続けて、織原城二について現在までにわかっている事をまとめていきます。
織原城二は、1952年8月10日に、在日コリアンの家族のもとに大阪で生まれました。織原城二の父親は若い頃は貧しい在日コリアンでしたが、タクシー会社、パチンコ店、不動産業などで成功を収め、織原城二が生まれる頃には家族は裕福な資産家となっていたようです。
織原城二の家族は両親のほか、兄弟が2人いる事などが明らかになっています。不確定情報ながら、親族や、この兄弟のうち1人が医者で病院を経営しているとの情報もあり、織原城二が「ルーシー・ブラックマン事件」などで使用した違法薬物などは、この家族が経営する病院から調達していたのではとの見方もあるようです。
織原城二の家族に関してはこれ以上の詳しい情報はありませんが、「ルーシー・ブラックマン事件」の裁判では、この家族が多額の裁判資金を負担していた事や、被害者遺族に「お見舞金」という名目で合計で1億円以上を支払っていた事などが明らかになっており、事件当時も織原城二の家族のうちの誰かが相当な有力者だったのは間違いないと見られています。
織原城二の帰化前の名前は金聖鐘(キム・スンジョン)
出典:http://godslounge.up.n.seesaa.net/
織原城二は在日コリアンの家族に生まれましたが、出生名は「金聖鐘(キム・スンジョン)」でした。
英紙「ザ・タイムズ」の東京支局長、リチャード・ロイド・ベリーの著作「黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実」によれば、織原城二は16歳で慶應義塾大学高校へ進学したときに名前(通名)を「星山聖鐘(星山聖二との説も)」と変え、整形手術を受けて目元の印象を大きく変えて、日本人として振る舞うようになったといいます。
その後、21歳の時に帰化し「織原城二」という名前を名乗るようになったという事です。
織原城二の実家は大阪の高級住宅街である帝塚山・北畠だと言われている
資産家の在日コリアンの家族に生まれたという織原城二ですが、その実家は大阪屈指の高級住宅街として知られる、大阪市阿倍野区の帝塚山・北畠にあると言われています。
織原城二の実家の具体的な場所についても、住友銀行の旧社宅の前で府立住吉高校の側にあるといった情報が出ています。実家はかなりの豪邸であり、表札に「金」と書かれた家が2軒並んで建っていて、そのどちらかが織原城二の実家であるとの事でした。(うち一軒は親族の家と言われている)
インターネット上の書き込みでは、「ルーシー・ブラックマン事件」が報じられた当時、この実家にマスコミが大挙として訪れていたとの目撃情報も書き込まれており、一定の信憑性があると見られています。
織原城二は慶應義塾高校入学時に父親に田園調布にプール付き豪邸を買い与えられた
裕福な資産家の在日家族に生まれた織原城二は、地元大阪府の中学を卒業後、「慶應義塾高校」に進学しています。
織原城二はこの高校進学で上京するにあたって、父親から東京田園調布に敷地330坪のプール付きの豪邸を買い与えられています。この田園調布の豪邸には家政婦もつけられていたそうです。
この織原城二の田園調布の豪邸の正確な位置や、「ルーシー・ブラックマン事件」後にどうなったのかなどは不明です。
織原城二は16歳にしてこの田園調布の豪邸で一人暮らしを始めますが、それからすぐ、17歳の頃にアルコールやクロロホルム、睡眠薬などを使って女性を昏睡させてのレイプなどの犯行に手を染めていったと言われています。織原城二は、この頃から1995年頃までにかけて、209人もの女性への性的暴行の記録をノートや映像に残していました。
織原城二は、高校卒業後は慶應義塾大学への推薦進学を辞退し、駒沢大学へ進学して3年間アメリカやスウェーデンに留学しています。織原城二はこの留学で高い英語力を身につけ、それが後の白人女性をターゲットにした性犯罪に利用されたと見られています。
織原城二は1974年頃に留学から帰国し、改めて慶應義塾大学法学部へと進学し、法律学科と政治学科を卒業しています。
織原城二は17歳の時に父親が香港で不可解な状況で死亡し莫大な資産を相続
織原城二の在日コリアンの父親は、織原城二が17歳の時に、香港で死亡しています。
前述の「黒い迷宮 ルーシー・ブラックマン事件15年目の真実」によれば、織原城二の父親の死には暴力団がらみの不可解な状況が垣間見えるものの、詳しい事はわからないということでした。
この父親の死により、織原城二は2人の兄弟とともに、その莫大な遺産を相続しています。この相続で一躍資産家となった織原城二は、金を湯水の如く使って豪遊するようになり、全国20ヶ所以上にリゾートマンションと別荘を保有し、「フェラーリ」、「ロールスロイス」、「ポルシェ」などの高級外車を複数台所有して乗り回していたと報じられています。
また、「ルーシー・ブラックマン事件」の当時、織原城二は、駐車場経営や、不動産管理会社を経営し、銀座の一等地に飲食店や貸しビルなどを所有していたことなども明らかにされています。30代の頃には総資産が40億ほどにも達していたと言われています。
織原城二は、こうした莫大な資産を武器にして、主に都内のクラブやスナックで働く外国人をターゲットにして性犯罪を繰り返していたと見られています。
織原城二はルーシー・ブラックマン事件当時は事業失敗で多額の借金を背負っていた
資産家の父親から莫大な資産を相続し、金を湯水の如く使って豪遊していたとされる織原城二でしたが、バブル崩壊の頃に事業に失敗して、総資産額を大きく超える莫大な借金を背負っていたようです。
借金を背負ったことが関連しているかは不明ですが、1998年には和歌山県白浜海岸の女子トイレで盗撮事件を起こして逮捕され、それ以前にも性犯罪によって逮捕されており、この頃から織原城二は杜撰な犯行が目立つようになったようです。
織原城二は「ルーシー・ブラックマン事件」の前年の1999年の時点で一時自宅を差し押さえられ、それから逮捕されるまでの18ヶ月の間にも複数の所有物件が差し押さえられています。
そして、「ルーシー・ブラックマン事件」の裁判が争われていた2004年、織原城二は238億円という巨額の負債を抱えて破産しています。ただ、裁判費用については家族が負担しており、この事からも織原城二の家族は現在も相当な資産家である可能性が高いと言われています。
織原城二は金にものを言わせて裁判を戦った
出典:https://star.ap.teacup.com/
織原城二は「ルーシー・ブラックマン事件」の裁判の時には既に多額の負債を抱えている状況でしたが、その家族は依然として資産家であり、その資金力にものを言わせてこの裁判を戦いました。
「ルーシー・ブラックマン事件」は多数のメディアがセンセーショナルに報じましたが、織原城二は、その中の複数メディアを名誉毀損などで次々と訴え、一部では勝訴しています。このようにして複数の裁判を戦うだけの資金力が織原城二とその家族にはあった事が窺えます。
また、織原城二は死亡した2名の被害者(ルーシー・ブラックマンさんとカリタ・シモン・リッジウェイさん)の遺族に、それぞれ数千万円の「お見舞金」を提示し、カリタ・シモン・リッジウェイさんの遺族には実際に1億円程を支払った事が明らかになっています。
また、他の8人の被害者女性に対しても、それぞれ数百万円の慰謝料支払い、そのうちの7人がそれを受け取ったことなども当時の報道で暴露されていました。
織原城二の現在① 無期懲役判決で服役中
織原城二は2021年5月の現在、68歳になっているはずです。現在も仮出所はしておらず、「無期懲役」の刑罰を受けて刑務所に服役中です。
織原城二が現在、どこの刑務所に服役しているのかや、どのような様子で刑務所で過ごしているのかなどの情報は出ていません。
織原城二の現在② 犯行現場とみられるマンションは税金滞納で差し押さえ
織原城二がルーシー・ブラックマンさんを誘い込み、違法な薬物を投与して死に至らせた現場と見られている死体遺棄現場近くにある、織原城二の所有していたリゾートマンションは、「ルーシー・ブラックマン事件」発覚後も数年の間、織原城二の所有のままで「開かずの間」のようになって放置されていたようです。
しかし、2011年に税金滞納で市に差し押さえられたとの事です。
マンションの住民が語ってくれた。
「マンションが事件現場だと報道されてから、資産価値はガタ落ちしました。彼が持っていた部屋はずっと『開かずの間』でしたが、8年前に市が税金滞納で差押さえをしました。市もすぐに売るなりしてほしいですね。そうしないと私たちは事件にケリをつけられません」
税金滞納状態で差し押さえられたという事ですが、織原城二み家族を通じてこのマンションを売却するなどの対応をしなかったという事なのでしょうか。
「ルーシ・ブラックマン事件」後、このリゾートマンションの資産価値は現在はガタ落ちになっているとのマンション住人の証言も書かれています。
織原城二が当時保有していた莫大な資産が現在どうなっているのかや、今も資産家だと見られている家族の現在などについても気になるところですが、上で紹介した記事以外にはそれが分かる情報は特に明らかにされていません。
まとめ
今回は、2000年7月に発生した「ルーシーブラックマン事件」の被疑者として逮捕され、現在は無期懲役刑で服役している織原城二についてまとめてみました。
織原城二は、1952年8月10日に、資産家の在日韓国人の家族のもとに大阪で生まれました。資産家だとされる織原城二の実家は大阪府でも屈指の高級住宅街である大阪市阿倍野区の帝塚山・北畠にあると噂されています。
織原城二の出生名は「金聖鐘(キム・スンジョン)」でしたが、21歳の時に帰化して「織原城二」を名乗り始めています。
また、織原城二は16歳で「慶應義塾高校」に進学して上京した際に、父親から東京田園調布に敷地330坪、プールと家政婦つきの豪邸を買い与えられています。織原城二はこの一人暮らしを始めた頃から、クロロホルムなどの薬物を使用して女性を昏倒させ性的暴行を繰り返していたと言われています。
17歳の時には資産家の父親が香港で不審な死を遂げ、織原城二はその莫大な遺産を相続し、その後は金を湯水の如く使って豪遊しながら都内のスナックやクラブで働く外国人ホステスを主なターゲットとして、薬物を使って昏倒させてのレイプ犯罪を繰り返していました。
そして、その犯罪行為の日々の中で2001年にルーシー・ブラックマンさんが死亡するに至り、織原城二は逮捕されました。
裁判では「無期懲役」の判決が下され、現在も織原城二は刑務所に服役中です。