松鶴家千とせさんは若い頃「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ」でブレイクした漫談家ですが、病気で苦しんだ過去もあります。
今回は松鶴家千とせさんの経歴と代表ネタ、弟子、結婚した嫁や子供、自宅や死因、現在を紹介します。
この記事の目次
松鶴家千とせのプロフィール
松鶴家千とせ(しょかくや ちとせ)さんは漫談家で、歌手・司会者としても活躍した人物です。
本名は「小谷津英雄」といい、漫談千とせ流の家元でもあります。また、過去には東京演芸協会の常任理事や南相馬市のふるさと親善大使も務めていました。
アフロヘア―がトレードマークで、1970年代には「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ」というフレーズが大ブームとなっています。
松鶴家千とせの若い頃の経歴① ジャズシンガーを夢見ていたはずが漫談家に
松鶴家千とせさんは満州で誕生します。
父親は水道設計技師として働いていましたが、1945年にソ連軍の捕虜となってしまいました。
松鶴家千とせさんは母親と満州を脱出し、日本に帰還。父親も6年間の抑留を経て日本へと戻ってきています。
その後、松鶴家千とせさんは福島県立原町高等学校に進学するも、中退。
1953年にジャズシンガーを夢見て上京したのち、紆余曲折を経て、夫婦漫才コンビ「鶴家千代若・千代菊」に弟子入りしました。
元々はジャズ歌手志望。家出して上京し、新橋の歌謡教室で出会ったのが、師匠となった松鶴家千代若のお嬢さん。その日から住み込みのカバン持ちとなり、漫談家の道を歩んだ。
また、理容学校と歌謡学校に通い、1958年に国際理容師の免許を取得した努力家でもあります。
松鶴家千とせの若い頃の経歴② 「松鶴家千とせ・宮田羊かん」時代
漫談家・歌手として知られている松鶴家千とせさんですが、漫才師として期待されていた時期がありました。
1960年、お笑いコンビ「西秀一・秀二」として活動を開始。関東近郊の公会堂などで、漫談・漫才を披露し始めます。
その一方で1967年に漫談家として、千とせ流家元三代目「松鶴家千とせ」を襲名。
翌年の1968年には、漫談家で後に会員制スナックのオーナーとなる宮田羊かんさんとお笑いコンビ「松鶴家千とせ・宮田羊かん」を結成しました。
同コンビは結成後すぐに活躍を見せ、1969年~1971年の「NHK漫才コンクール」で本選に出場します。
しかし、宮田羊かんさんが引退を決めたたため、コンビを解散しました。
宮田羊かんのプロフィール
出典:https://www.timeout.jp/tokyo/
生年月日:1939年12月25日
出身地:宮城県仙台市
職業:漫才師→スナック経営
所属:不明
松鶴家千とせさんとお笑いコンビを組み、漫才を披露していた宮田羊かんさんですが、1971年に出場した漫才大会を最後に芸能界を引退。
その後、鶯谷に会員&紹介制スナック「よーかんちゃん」を開店し、一部では”鶯谷のレジェンド”と称される存在となっています。
今年79歳になったよーかんちゃんは、1953年にバックバンドをつけた「音漫才」で知られる宮田洋容(みやたようよう)に弟子入り。その後、松鶴家千とせとコンビを組み、漫才師として活動していた。40歳になった時、表舞台からは遠ざかり、鴬谷に現在のスナックを開いた。「漫才師を辞めたのは、ある意味逃げたんだね。もっと自由にお客さんを楽しませたくなってね」と当時を振り返る。
宮田羊かんさんが経営するスナック「よーかんちゃん」はサイケデリックな内装が特徴的で、2019年7月には女性ファッション誌「VOGUE」にも登場しました。
また、歌舞伎役者・中村勘三郎さんがひいきにしていた店としても知られています。
松鶴家千とせの若い頃の経歴③ 漫談家としてブレイク・歌手デビューも
松鶴家千とせさんは、宮田羊かんさんとのコンビを解散すると、漫談家として本格的な活動を開始。
1974年頃から、テレビ・ラジオといったメディアで活躍し、アフロとあごヒゲというキャッチーな見た目も相まって、すぐに人気を博しました。
アフロとあごヒゲというヴィジュアルを選んだ理由には、かつてジャズシンガーを志していたことが関係しているそうです。
あくまでジャズにこだわりたかったし、67年に千とせを襲名したあたりから、アメリカンな漫談で差別化を図ったのが、アフロヘアとサングラス姿でした。
そんな松鶴家千とせさんのネタの中でも「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ〜」というフレーズはブームとなります。
さらに、1975年にはシングル「わかんねェだろうナ(夕やけこやけ)」を発売。
また、翌年公開の映画「トラック野郎・望郷一番星」にもトラック運転手・ニヒル役で出演するなど、マルチに活躍しました。
本業の漫談においても、1976年には漫談部門において「放送演芸大賞」を受賞しています。
以降も、浅草東洋館をはじめとする東京の寄席で歌手や司会者として活躍し続けるかたわら、老人ホーム・福祉施設などでは定期的にネタを披露していました。
松鶴家千とせのネタ:わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ〜
松鶴家千とせさんは漫談家として、時代劇のネタや、ジャズシンガーを志していたなごりからジャジーなスキャットと民謡や童謡などを掛け合わせた“和風メルヘン”ネタを披露していました。
また、ネタに「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ〜」というフレーズを用いており、このフレーズが当時、大ブームを巻き起こしています。
1974年以降は「シャバダバダディ〜!イェーイ!俺が昔夕焼けだった頃に、弟は小焼け、父さんは胸やけ、母さんは霜やけだった」というギャグが大ウケ。
童謡「夕焼け小焼け」の替え歌を披露する漫談も話題となりました。
松鶴家千とせの弟子はビートきよし・ビートたけしとは兄弟弟子の関係
松鶴家千とせさんには数多くの弟子がおり、その中にはお笑いコンビ「ツービート」のビートきよしさんがいたそうです。
ビートきよし・ビートたけしとの関係
松鶴家千とせさんは、漫談千とせ流の家元として精力的に弟子を迎え入れ、その育成に取り組んできました。
また、かつては自身のホームページでも弟子を募集していたこともあったようです。
そのため、弟子は200人以上いて、その中にはのちにお笑いコンビ「ツービート」として一世を風靡するビートきよしさんもいました。
また、松鶴家千とせさんの兄弟弟子にはお笑いコンビ「東京二・京太」がいたほか、ビートたけしさんもいたといいます。
お笑いコンビ「ツービート」のプロフィール
ツッコミ:ビートきよし(写真左)
ボケ:ビートたけし(写真右)
結成年:1972年
所属事務所:オフィス北野(ビートきよし)、T.Nゴン(ビートたけし)
お笑いコンビ「ツービート」は、1972年に結成。
ツービートを名乗る前、当時お笑いコンビ「西秀一・秀二」として活動していた松鶴家千とせさんに弟子入りしたとされていますが、ビートたけしさん自身はそれを否定しています。
この人は俺の師匠になっちゃってんだけど、きよしさんの師匠なんだよ。ツービートで俺が売れたら松鶴家千とせさんが名付け親になっちゃってて、困ったことあったんだよ。
その後、1970年代後半頃より落語家・立川談志などから評価されるようになり、徐々にテレビにも出演。
フジテレビ系ネタ番組「THE MANZAI」などに出演し、漫才ブームを巻き起こしました。
1980年代に入ると、コント番組「俺たちひょうきん族」やバラエティ番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」などが人気を博し、ビートたけし単独での活躍ぶりが目立つように。
現在もメディアに数多く出演するビートたけしさんに対し、ビートきよしさんがメディアに出演する機会は少ないものの、コンビは今も解散はしていません。
また、2014年にはツービートとして舞台で漫才を披露したように、時折コンビとしても活動しています。
松鶴家千とせが結婚した嫁は千枝子さん
松鶴家千とせさんは、1960年に嫁・千枝子さんと結婚。その後、50年以上連れ添っています。
そんな2人の結婚生活について調べました。
嫁・千枝子さんが松鶴家千とせの対人恐怖症を支えた
松鶴家千とせさんさんは結婚後、1974年の大ブレイクから時が経って仕事がある程度落ち着いた頃に、アメリカやブラジルなど海外に度々夫婦で出かけるようになったといいます。
その後、再び日本で舞台に立ち始めますが、ブランクが影響して調子が戻らず、焦りから体調を崩すように。
それでも何とか舞台に立つも、「目の前でしゃべっている人が自分の悪口を言っている」と思い込むようになり、冷や汗・脂汗がにじみ、上手くネタを進められなくなっていったといいます。
しばらくしても体調も戻らず、ついには「対人恐怖症」と診断される結果に。
社交不安障害/社交不安症(対人恐怖症)の症状は?
社交不安障害は他者に否定的な評価されることが恐怖である疾患です。従来から対人恐怖症と言われてきたものとほぼ一致します。恐怖、不安のために手が振るえる、心臓がドキドキするなど体の症状が出る人もいますし、不眠や気分の落ち込みや引きこもりなど心の症状に出る人もいます。
対人恐怖症には”人前で発表する際に強い恐怖を感じる”という「パフォーマンス限局型社交不安障害」があり、松鶴家千とせさんもこれに当てはまっていたと考えられます。
松鶴家千とせさんは嫁・千枝子さんの勧めもあり、仕事をすべてキャンセル。
そして、通院しながら一緒に競馬場・競艇場といった人の多い場所に行くようにして、人に溶け込む練習をしていたといいます。
数年間にわたってそのような生活を送ったところ、徐々に症状は改善。芸人として再び舞台に上がることができるようになったのです。
嫁・千枝子さんも病を患い、車椅子生活に
松鶴家千とせさんは対人恐怖症を患うも、嫁・千枝子さんの支えもあって表舞台に復帰しました。
しかし、今度は千枝子さんが病を患い、車椅子生活となってしまいます。
松鶴家千とせさんは仕事と介護を両立させるべく奮闘。大変な介護生活の渦中でありながら、2013年に受けたインタビューでは、以下の様に語りました。
結婚して50年。下積み時代の頃から支えてくれた女房には頭があがりません。どんな時でも二人三脚で歩んでいけることに感謝しています。
松鶴家千とせの子供はフリーランスの写真家・小谷津英之
松鶴家千とせさんには、小谷津英之さんという子供がいます。
2022年2月7日付けのデイリースポーツさんに、入院中の父、松鶴家千とせの掲載してます。正直もう無理らしいんですけどね。新型コロナウイルスの影響ですかね。陰性でしたけど。最後の記事ですかね。 pic.twitter.com/wMFU1kPQAm
— 小谷津 英之 (@H_Koyatsu) February 7, 2022
フリーランスの写真家で、松鶴家千とせさんの個人事務所「千とせプロダクション」で代表も務めていました。しかし、実際に業務に携わることはほとんどなかったそうです。
もともと、父がタレントで、母が死んじゃったんで、私が社長に就任してたんですけどね。まぁ、なにもしてなかったんですけどね。新しくホームページ作り直さないと。SNSどうしようか迷ってます。消すに消せませんし。さすがに困っちゃった。という近況です。https://t.co/frL4r8gGRV
— 小谷津 英之 (@H_Koyatsu) March 1, 2022
また、小谷津英之さんは松鶴家千とせさんが亡くなった際に「母親に続き父親が亡くなったため私一人になった」という旨を発言しているため、他に兄弟はいないものとみられます。
松鶴家千とせの自宅は「松鶴家千とせ」の表札がかかっている
松鶴家千とせさんは、自宅の表札に本名と「松鶴家千とせ」を掲げていたことで知られています。
2018年には、その表札がきっかけで、テレビ東京系バラエティ番組「モヤモヤさまぁ~ず2」のロケが行われたことも。
お笑いコンビ「さまぁ~ず」の2人が足立区と葛飾区に挟まれた綾瀬エリアを散策していた際、「松鶴家千とせ」の表札を目にして、そのまま自宅を訪問。
番組内ではMCのお笑いコンビ「さまぁ~ず」とのやり取りだけではなく、ネタも披露されています。
このあいだ、モヤモヤさまぁ~ず2の自宅にて収録しました。今度の日曜日に放送するかもしれません。よければ、ご視聴していただけるとうれしいものです。地上波ひさしぶりですね。https://t.co/ouV1KlN1eb
— 故・松鶴家千とせ (@c_shokakuya) May 12, 2018
サブタイトルも松鶴家千とせにちなんで「~分っかねぇんだろうな的ナイスキャラ祭り~」とされました。
松鶴家千とせの晩年:メディアやライブで精力的に活動
松鶴家千とせさんは晩年まで漫談家として活動しており、メディアやライブなどに多数出演。
また、歌手としても新たなユニットを結成し、CDも発売していました。
漫談家・歌手として最後まで全力だった
松鶴家千とせさんは、2012年には芸能生活60周年を記念したシングル「これからサンバ」、「千六百五十日もあるからね」を発売しています。
2018年には、大喜利番組「笑点」に出演したほか、同年から2021年にかけてクイズ番組「クイズ!脳ベルSHOW」に度々出演するなど、テレビ出演を続けていました。
また、東京やその近郊の演芸会場などでライブも行っており、体調を崩す直前である2022年1月16日にもライブを主宰していました。
同月26日には、弟子の演歌歌手・恵中瞳さんと結成したユニット「千とせ&ひとみん」の新曲「CH列車で行こう!」「キャンユーアンダースタンド?」を発売しています。
2人は2021年9月に師弟関係になったといい、恵中瞳さんはその際のことをインタビューで以下のように語っています。
松鶴家一門の定例公演に出演した際、『今日から君を弟子にする!』と。師匠にはそんな感じで決めたお弟子さんが200名以上いるそうで、基本的には“松鶴家”の名字をいただくんですね。でも私の場合『松鶴家瞳はなんかおかしいし、もうその名前で売れているから、瞳ちゃんは“恵中瞳”のまんまでいいや』と。
松鶴家千とせさんは、「もう一度ブレイクしたい」「瞳ちゃんの方が売れているから、僕が瞳ちゃんについてく」とも語っていたそうです。
恵中瞳のプロフィール
生年月日:1988年生まれ(自称)
出身地:不明
職業:歌手・モデル
所属事務所:南雲堂
恵中瞳さんは歌手・モデルとして活動しています。
2013年にデビューし、2015年にシングル「おとこはアリャリャ」で歌手デビューしました。
また、2021年にフジテレビ系バラエティ番組「アウト×デラックス」に出演すると、”謎の地下アイドル“として一躍話題に。
本人は2021年現在で”33歳”と公言していますが、その見た目や言動から、ネット上では「実際にはもっと歳を重ねているのではないか」と実年齢の推測で盛り上がっていました。
松鶴家千とせの現在:2022年1月に死去・死因は心不全
プライベートではボランティア活動にも精力的に取り組んでいたほか、IT技術にも長けており、ホームページを自作していたほどアクティブに活動していた松鶴家千とせさん。
しかし、2022年2月17日に都内の病院で死去しています。死因は心不全で享年84歳でした。
松鶴家千とせさんは亡くなる前月、自宅で体調不良を訴えて病院にいったところ、医師から「心筋梗塞を起こしており、危険な状態」と診断され即入院し、治療に専念していたそうです。
入院後は悪化と回復を繰り替し、バイパス手術を受けるための検査を控えていたそうですが、容体が急変して亡くなったたといいます。
また、コロナ禍のため、長男の小谷津英之さんは入院中に父親を見舞うことができなかったそうです。
葬儀・告別式は家族による密葬で執り行われ、後日ファンも参列できるお別れの会が執り行われました。
晩年の松鶴家千とせさんはそこまで裕福ではなかったようで、葬儀全般を取り仕切った長男の小谷津英之さんは、葬儀費用の捻出が大変だった旨をつぶやいています。
#ギターを自慢しよう
— 小谷津 英之 (@H_Koyatsu) April 29, 2022
Seen松下工房さんのディマジオのピックアップ搭載のカスタムオーダーメイドギターです。
親(父)が亡くなる前にスーパーアダマス売っちゃって、メインギターになってます。売ったお金で医療費約8万円払ったんですけどね。かなり、貧乏です。葬式代も大変でした。
(´;ω;`)。 pic.twitter.com/AGDk0Rg0aP
まとめ
松鶴家千とせさんは若い頃、漫談家として「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ〜」のネタでブレイク。
1970年代に活躍しましたが、その後は対人恐怖症を患って舞台から遠ざかるなど、辛い思いも経験していたようです。
また、対人恐怖症克服後は長らく支えてくれた妻を看護しつつ、亡くなる直前まで漫談家・歌手として舞台に立ち続けました。
残念ながら2022年2月17日に心不全で亡くなっていますが、代表ネタである「わかるかなぁ、わかんねぇだろうなぁ〜」というフレーズはいつまでも語り継がれることでしょう。
ご冥福をお祈りいたします。