山口美江さんは女優やビートたけしさんの番組でタレントとして活躍しましたが、孤独死が話題です。
今回は山口美江さんの家族(父親)や若い頃の経歴、渡辺正行さんや山城新伍さんとの関係、結婚歴と旦那や子供、晩年や死因も紹介します。
この記事の目次
- 山口美江のプロフィール:1990年代にキャスター・司会として活躍
- 山口美江の家族① 父親はドイツ人ハーフ・母親は10代の頃に病死
- 山口美江の家族② アルツハイマーになった父親の介護生活
- 山口美江の若い頃の経歴① マーケティングや秘書を経て、キャスターに
- 山口美江の若い頃の経歴② タレントとしても活躍
- 山口美江の若い頃の経歴③ ビートたけしとの共演も多数
- 山口美江の若い頃の経歴④ 役者としてドラマ・映画にも出演
- 山口美江の若い頃の経歴⑤ 1996年に芸能界を一時引退、実業家に
- 山口美江の若い頃の経歴⑥ 父親の介護経験を生かして講演会に登壇
- 山口美江の若い頃の経歴⑦ タレントとして芸能界に復帰
- 山口美江は結婚しておらず生涯独身・旦那や子供はいない
- 山口美江と渡辺正行の関係は?熱愛が報道されるも渡辺正行の二股が発覚し破局
- 山口美江の晩年:2012年に孤独死・・・死因は心不全で享年51歳だった
- 山口美江は山城新伍を嫌っていた?噂と真相
- まとめ
山口美江のプロフィール:1990年代にキャスター・司会として活躍
生年月日:1960年9月20日
出身地:神奈川県
所属事務所:ソルトアース
山口美江さんはキャスターで、タレントや司会業、実業家としても活動していた女性です。
テレビを中心に活躍していましたが、1996年に芸能界を一時引退。
実業家となった2000年代には、講演会やメディアにもたびたび出演していました。
山口美江の家族① 父親はドイツ人ハーフ・母親は10代の頃に病死
山口美江さんの父親・マックスさんはドイツ人とのハーフで、山口美江さんはクォーターにあたります。
父親と兄のジョージさんは輸入業を営み、世界中で仕事をしていたのだとか。
山口美江さんの母親は、山口美江さんが16歳の時に亡くなっていますが、マックスさんは再婚せず、山口美江さんと2人で暮らしていたそうです。
山口美江の家族② アルツハイマーになった父親の介護生活
その後、父親・マックスさんは68歳で仕事を引退。2002年頃から、徐々にアルツハイマー型認知症の兆候が見られるようになったのだとか。
そして、2006年にある出来事が起こります。
平成16年9月の早朝、物音がしたので外に出ると、父がビシッとスーツを着て掃き掃除をしていました。「どうしたの」と尋ねると、「名古屋に船が入ったんで、出張しなきゃならないんだ」。目はうつろで、ろれつが回らず、よだれを垂らしていました。一度は父を家に入れましたが、電話でおじに相談していたら、「ガチャン」という音とともに、父はどこかに行ってしまいました。初めての徘徊(はいかい)でした。
山口美江さんは、明らかに様子のおかしい父親を専門病院へ連れて行き、検査入院させることに。
自宅に帰ってみると、冷蔵庫の野菜室には犬のふんが入っており、薬棚からは94錠もの薬が消えていたことで、父親がそれを飲んでうつろな状態になっていたことが判明しました。
数日後、主治医から初めて、「前頭葉がスカスカで、アルツハイマー病です」と告げられましたが、本人には伝えられませんでした。「5分前のことを忘れたり、いずれは人格も変わってしまいます」と言われても、半信半疑でした。何十年も一緒に暮らした歴史がありますし、私は「絶対大丈夫。この程度なら一生面倒をみられる」と思っていました。
マックスさんの症状は日に日に悪くなり、激しい物忘れと幻覚に悩まされていきました。
要介護認定は、わずか1ヵ月で要介護1から4にまでなってしまったといいます。
その後、味覚異常や深夜徘徊なども始まり、入院。2006年に腸捻転の悪化によりお亡くなりになりました。
父は昨年9月、腸捻転(ねんてん)が悪化して亡くなりました。私はできる限りのことをしたと思うし、世の中の仕組みに初めて直面し、達成感はありました。16歳で母を亡くし、「早く病院に連れて行けばよかった」とずっと思っていたので、母の分も父にしてあげられたのではないかと思っています。
山口美江の若い頃の経歴① マーケティングや秘書を経て、キャスターに
山口美江さんは小学校~高校時代にかけて、横浜にある「サンモール・インターナショナル・スクール」に通学。
上智大学の国語学部比較文化学科(現在の国際教養学部)へと進学し、卒業後は化粧品メーカー「エスティローダー」に就職してマーケティングを担当していました。
さらには、映画などを手掛ける「ワーナー・ブラザース」の社長秘書として勤務。
その後、通訳などを経て、1987年27歳の時にテレビ朝日系列のニュース番組「CNNヘッドライン」のニュースキャスターとして芸能界デビューを果たしています。
ちなみに当初、芸能界嫌いだった父親からは反対されていたそうです。
私は大学卒業後、OLをしたり、フリーの通訳をしていましたが、オーディションを受け、ニュースのキャスター(テレビ朝日系で深夜放送していた『CNNヘッドライン』)になりました。27歳でしたから、遅咲きだったと思います。父は芸能界が嫌いで、私がタレントになるのも嫌だと言っていました。ところが、テレビに出るようになると、どんな番組でも全部ビデオに録画していました。
山口美江の若い頃の経歴② タレントとしても活躍
フジッコのCM「漬物百選」に出演すると「しば漬け食べたい」のフレーズとともに、一躍ブレイク。
知名度を上げたのは、1987年に放送されたフジッコ・漬物百選のCM。知的なバイリンガルキャスターとして知られていた山口さんが「しば漬け食べたい」とつぶやくせりふが流行語となり、しば漬けもブームを呼ぶなど社会現象になった。知的美人タレントとして各局の情報番組、バラエティーやドラマにも相次いで出演。
以降、1990年に放送されていたフジテレビ系列のニュース番組「FNN NEWSCOM」や、毎日放系列で放送されていた「世界まるごと2001年」など多数の番組に出演するように。
インターナショナルスクール出身だけあって英語が堪能なこともあり、”元祖バイリンギャル“と呼ばれていました。
山口美江の若い頃の経歴③ ビートたけしとの共演も多数
山口美江さんは特に、タレント・ビートたけしさんとの共演が多かった芸能人です。
日本テレビ系列で放送されていたバラエティ番組「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」や、バラエティ番組「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」などに出演。
そのため、ビートたけしさんのファンにとっても、山口美江さんは馴染み深い人物となっています。
当のビートたけしさんは、山口美江さんとの共演を振り返り、以下のように語っていました。
80~90年代にフジテレビ系「たけしのここだけの話」や日本テレビ「元気が出るテレビ」などで共演し「間を読むのがうまい人。橋渡しがうまいというか、勘がいいのかな」と振り返った。「元祖バイリンギャル」としてキャスターも務め、「頭も良くて見た目も良い人が、お笑いをやったのが衝撃的で凄いなと思った」と話した。
山口美江の若い頃の経歴④ 役者としてドラマ・映画にも出演
山口美江さんはキャスター出身ながら、役者としても数多くのドラマ作品に出演しています。
1988年のTBS系列ドラマ「海岸物語 昔みたいに…」を始め、同年にフジテレビ系列で放送されていた「教師びんびん物語 SPびんびん物語」などの人気ドラマにも出演しました。
しかし、山口美江さん自身は演技の勉強をこれまでしていなかったことから、役者仕事を苦手としていたそう。
そんな山口美江さんが役者としてもブレイクしたきっかけとなった作品が、1988年にフジテレビ系列で放送されたドラマ「心はロンリー気持ちは「…」VII」です。
当時、「しば漬け食べたい」のフレーズでブレイクしていた山口美江さんを、同番組のプロデューサー・三宅恵介さんが気に入り、「ぜひマドンナ役に」とオファーし続けたのだそう。
山口美江さんは演技に自信がなかったことから、「演技は全くの素人ですが、それでもよろしいですか?」と念を押して、出演を承諾したといいます。
その後も役者として活躍した山口美江さんは、1989年のTBS系列ドラマ「おしえてあげたい!」、同年の日本テレビ系列ドラマ「ヴァージンロード」で主演。
- 以降も、TBS系列のドラマ「日本はどうなるシリーズ」や、1993年にABCで放送された「だまし愛」などに出演しています。
また、スクリーンデビューも果たしており、1989年公開の「あ・うん」では芸者・まり奴役を演じました。
山口美江の若い頃の経歴⑤ 1996年に芸能界を一時引退、実業家に
山口美江さんは人気を博していた1996年に、芸能界を一時引退しています。
そして横浜中華街に輸入雑貨店「グリーンハウス」を出店し、実業家としての道を歩み始めました。
出店に際して、父親もアドバイスをくれていたのだとか。
私がお店を始めたときも、父は一緒に店舗を探してくれ、「ビジネスに大事なのは、タイミングだよ」とアドバイスしてくれました。しかし、小売りの経験がなかったからか、たまに店に顔を出しても、アクセサリーを探す女性に「どれも同じだよ」と言ったり、修学旅行生に「金がないなら帰りなさい」と言うなど、“暴言”ばかりでしたね。
しかし、しばらくすると父親に異変を感じるようになったといいます。
そんな父の異変に気付いたのは、5年ほど前。父は68歳で一線を退き、70代になっていました。以前は5分もあればできた計算に、1時間以上かかったり、親しい業者の方が来ても、名前を思いだせなかったり…私は父を「計算の魔術師」と思っていましたので、とてもショックでした。「私なんか、最初から分からなかったんだから」と励ましましたが、もどかしさよりも、かわいそうという気持ちでいっぱいでした。
実業家になってから、父親の介護も同時に始まったようですね。
山口美江の若い頃の経歴⑥ 父親の介護経験を生かして講演会に登壇
山口美江さんは前述のとおり、芸能界引退後にアルツハイマー型認知症となった父親を介護していました。
その父親が2006年に亡くなると、介護生活で学んだ経験をもとに公演会やトークショーなどに出演。
さらに2008年には、著書『女ひとりで親を看取る』も出版しています。
父は再婚せず、私は結婚せず、ずっとふたりで暮らしてきた。アルツハイマーの父を介護するのは、私しかいない。いつか誰もが、親を看取るときが来る-その日の前に読んでおきたい一冊。
山口美江の若い頃の経歴⑦ タレントとして芸能界に復帰
出典:https://a19750601.exblog.jp/
メディアには2000年頃より復帰しており、日本テレビ系列のバラエティ特番「あの人は今⁉」や「踊るさんま御殿」に出演。
以降も、テレビ朝日系列の料理番組「上沼恵美子のおしゃべりクッキング」や、テレビ東京系列のバラエティ番組「出没!アド街ック天国」などに出演しています。
2006年以降は、バラエティ番組「太田光の私が総理大臣になったら…秘書田中。」、トーク番組「徹子の部屋」などで父親や介護生活についても語っていました。
山口美江は結婚しておらず生涯独身・旦那や子供はいない
山口美江さんは生涯独身で、子供もいなかったようです。
過去にはタレントの渡辺正行さん・布施博さんらとの熱愛も報じられていましたが、ゴールインには至りませんでした。
ちなみに、山口美江さんは結婚について問われた際にはいつも「ファザコンだから」と回答していたといいます。
山口美江と渡辺正行の関係は?熱愛が報道されるも渡辺正行の二股が発覚し破局
山口美江さんは1989年に、タレント・渡辺正行さんとの熱愛を女性週刊誌『女性セブン』にスクープされています。
渡辺正行さんは当時、お笑いトリオ「コント赤信号」のリーダーとして人気絶頂の時期。山口美江さんもブレイクしたばかりで、当時のワイドショーは連日2人の熱愛を報じていたのだとか。
しかしその後、渡辺正行さんの二股が発覚。ほどなくして2人は破局してしまったのです。
そんななか、渡辺と10年間つきあっているという恋人が現れ、そうこうしているうちに別の一般人女性と渡辺は電撃結婚してしまった。このころ山口さんは人前では変わらず明るくふるまって、「気にしてないわぁ」と笑っていたものの、楽屋など人目につかない場所では涙をぬぐう日々だったという。
そんな当時の修羅場は相当インパクトがあったようで、タレント・東野幸治さんは2021年にYouTubeに投稿した「吉本芸人生存確認テレフォンSeason 2」でエピソードを披露しました。
おそらく山口美江さんのことであろう内容に、視聴者からの注目度もアップ。
東野が渡辺について「独身時代、プレイボーイで女の子にモテて二股してた」と回想。二股がバレて3人で話し合いの場を持ったが、心の底から共同生活を希望したという。「3人で生活していこう。お前も俺は大好きや、お前のこともホンマに大好きやねん。3人で生活でけへんか?」と説得。相手の女性について「包丁みたいなんを持って、ブルブル震えていたそうです」と明かしていた。
渡辺正行のプロフィール
生年月日:1956年1月24日
出身地:千葉県
職業:タレント・司会者
所属事務所:なべや(ホリプロコムと業務提携)
渡辺正行さんはタレントで、お笑いトリオ「コント赤信号」のリーダーとして有名です。また、司会者としても活躍しています。
明治大学在学中に、劇団「テアトル・エコー」の養成所へ入所。タレントのラサール石井さん・役者の小宮孝泰さんと「コント赤信号」を結成しました。
1980年に関西テレビで放送されたバラエティ番組「花王名人劇場」でテレビ初出演を果たすと、すぐにブレイク。
1988年にクイズ番組「クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!」でサブMCを務めて以降、数多くの番組で同ポジションを務め”芸能界のスーパーサブ“と呼ばれるようになります。
プライベートでは、1999年に18歳年下という一般人女性と結婚。
また、若手芸人の発掘・輩出にも力を入れており、主宰する「ラ・ママ新人コント大会」は現在に至るまで、「ウッチャンナンチャン」「爆笑問題」といった名だたる面々が出演しています。
以降も、「NHK新人お笑い大賞」「M-1グランプリ」「R-1グランプリ」「THE MANZAI」といった賞レースで審査員を務め、”お笑い界の重鎮”的なポジションとなりつつある渡辺正行さん。
その一方で、2022年に放送されたTBS系列のバラエティ番組「ラビット」では、若手時代の持ちネタである”コーラ一気飲み”を66歳にして披露し、話題となりました。
山口美江の晩年:2012年に孤独死・・・死因は心不全で享年51歳だった
山口美江さんは2012年3月8日、自宅で亡くなっているところを親族に発見されています。享年51歳でした。
山口美江さんは当時1人暮らしで、連絡がとれないことを不審に思った親族が訪れて発覚。いわゆる孤独死のような状態だったようです。
死因ははっきりしていませんが、メディアは心不全であったと報道しています。
心臓は全身に血液を送り出すポンプとして一日中、休むことなく働いています。心不全とは、『心臓が悪いために、息切れやむくみが起こり、だんだん悪くなり、生命を縮める病気』と定義されています。一概に心不全と言っても、原因や自覚症状は人によって様々です。
引用:心不全
所属事務所によれば、前月頃より不調を訴えて通院していたそう。
発見時には、飼い犬が山口美江さんのまわりを心配そうにぐるぐるとまわっていたといいます。
2月から動悸(どうき)やめまいを訴え通院治療をしていたが、病状が急変。8日昼ごろ、近所に住む親戚の女性が自宅を訪ね、亡くなっているのを発見した。事件性はなく、病死とみられている。近所の住民は「つい2、3日前に犬を連れていて、あいさつしたばかりなのに」と驚いていた。山口さんは母親を16歳で亡くし、父親は06年9月に他界。一人っ子の独身で、愛犬のパグとポメラニアンと暮らしていた。
山口美江は山城新伍を嫌っていた?噂と真相
山口美江さんについて調べていると、山城新伍さんの名前がよく出てきます。
2人は1992年に放送されていたTBS系列のバラエティ番組「新伍のワガママ大百科」で共演しているものの、特に熱愛などは報じられていません。
どうやら、過去に山口美江さんが名前を明かさずに”裏表のある芸能人”を挙げた際に、「山城新伍さんではないか」と話題になったようです。
山口美江さんいわく、その人物から必死に口説かれた上、相手によって態度を変えるところが嫌だったのだとか。
実際に山城新伍さんのことを言ったのかは不明ですが、山城新伍さんは女性好きのイメージがあるので、あり得ない話ではなさそうです。
山城新伍のプロフィール
生年月日:1938年11月10日
出身地:京都府
職業:役者・タレント
所属事務所:オフィス・タッチ
山城新伍さんは役者で、タレントとしても活躍。また、映画評論家・映画監督としても活動していました。
高校を卒業後、父親と同じ医者になるべく医大を受験するも失敗。
その後、時代劇スターへと憧れるようになり、「東映ニューフェイス」第4期へと応募したことを機に1957年に「東映」へと入社しました。
翌年の1958年に映画「台風」でデビューすると、1989年放送の時代劇「風小僧」で初主演。
1960年放送の時代劇「白馬童子」で主演を務めたことでさらに人気を博すも、当時は役者陣がテレビドラマを映画より下に見る風潮があり、辛酸をなめる日々が続いたのだとか。
その後、任侠映画・ギャング映画などにも出演するようになり、東映ポルノ作品にも出演。
いわゆる二枚目俳優から個性派俳優へと転身し、映画「仁義なき戦いシリーズ」で再び注目を集めるようになります。
1970年代以降は、2時間ドラマで数多くの主演を務める一方、バラエティ番組でも活躍。
2005年以降は糖尿病を理由に徐々に番組出演を減らしていき、2008年には特別養護老人ホーム入居が週刊誌『週刊文春』で報じられました。
そして、2009年に老人ホームにて亡くなっています。嫁・娘はそれまでの女性問題から「関わりたくない」と生前は面会せず、葬儀にすら参列しなかったのだとか。
そのため、ホーム入居中ではありましたが、事実上の”孤独死”だったとも報じられています。
ただしお別れの会では、数多くの著名人が別れを偲んでいました。
まとめ
山口美江さんは元キャスターで、タレント・役者としても活躍していました。
27歳の時にニュースキャスターとしてデビューしたのち、出演したCMの「しば漬け食べたい」のフレーズとともにブレイク。
バラエティ番組・ドラマなどで活躍していましたが、1996年に一時芸能界を引退。実業家や父親の介護を経て、再び芸能界に復帰していました。
しかし、2012年に自宅で死去。死因は心不全とのことでした。
多くの人に愛されつつも、1人で暮らしていたため孤独死を迎えてしまった山口美江さん。きっと天国でご家族と楽しく暮らしていることでしょう。ご冥福をお祈りします。