ジャッキー佐藤はマキ上田とのタッグ「ビューティ・ペア」で活躍したプロレスラーです。
今回はジャッキー佐藤の身長や性格、戦績、結婚歴や引退後の晩年、ナンシー久美や神取忍との関係、死因の胃がんの闘病と死因、葬儀を紹介します。
この記事の目次
- ジャッキー佐藤のプロフィール:ビューティ・ペアで活躍・身長は173cm
- ジャッキー佐藤の生い立ち:中学校時代はバスケットボール部で活躍
- ジャッキー佐藤の経歴① マキ上田との「ビューティ・ペア」が大人気に
- ジャッキー佐藤の経歴② ビューティ・ペアが人気になった理由
- ジャッキー佐藤の経歴③ ビューティ・ペアがリングで歌った理由
- ジャッキー佐藤の経歴④ マキ上田の引退でビューティ・ペアが解散に
- ジャッキー佐藤の経歴⑤ 2度の引退を経たのち、体操教室を運営
- ジャッキー佐藤とマキ上田の関係:実は性格が合わなかった?
- ジャッキー佐藤はビューティ・ペア解散の本当の理由を知らされていなかった
- ジャッキー佐藤の戦績は?伝説となった神取忍とのセメントマッチ
- ジャッキー佐藤の結婚歴:仕事に注力しており生涯独身だった
- ジャッキー佐藤の晩年:死因は胃がん・葬儀は横浜で執り行われた
- ジャッキー佐藤の闘病を支えた後輩・ナンシー久美との絆
- ジャッキー佐藤とタッグを組んでいたマキ上田の現在:釜飯屋の女将に
- まとめ
ジャッキー佐藤のプロフィール:ビューティ・ペアで活躍・身長は173cm
生年月日:1957年10月30日
出身地:神奈川県
所属:全日本女子プロレス→ジャパン女子プロレス
ジャッキー佐藤さんは女子プロレスラーで、本名は「佐藤尚子」です。
身長は173cmと高く、マキ上田さんとのタッグ「ビューティ・ペア」で一世を風靡。
歌手としてもデビューしました。
ジャッキー佐藤の生い立ち:中学校時代はバスケットボール部で活躍
ジャッキー佐藤さんは小学校の頃から身長が高く、中学校ではバスケットボール部に所属して活躍していました。
その後、神奈川県立商工高等学校へ進学するも、女子プロレス団体「全日本女子プロレス」へと入門したため、2年生の時に中退しました。
ジャッキー佐藤の経歴① マキ上田との「ビューティ・ペア」が大人気に
ジャッキー佐藤さんは入門した翌月の1975年4月に、マキ上田さんとの試合でデビューを果たしました。
さらに翌年には、そのマキ上田さんとタッグ「ビューティ・ペア」を結成。すぐに「WWWA世界タッグ王座」を獲得するなど、活躍を見せます。
また、同年にはビューティ・ペアとして「かけめぐる青春」で歌手としてもデビュー。同曲は80万枚を越える売り上げとなりました。
また、同曲以降も、「真赤な青春」「青春にバラはいらない」などがヒット。
ジャッキー佐藤さん個人においても「美しい決意」「ポケット一杯の涙」「もしも旅立ちなら」といった曲を発売しています。
ビューティ・ペアは試合前のリングで歌う、というスタイルが女子中高生を中心にウケて人気となり、その人気ぶりは”女子プロレス界のアイドル“と称されたほど。
当時人気絶頂にあったアイドルデュオ「ピンク・レディー」とは、音楽番組で一緒になることも多かったそうです。
日本武道館での試合を成功させたほか、テレビ出演やグッズ販売なども行い、”キワモノ”扱いされていた女子プロレスをショービス化させた功労者でもあります。
女子プロレスはそれまで中年の男性客が中心で、ある種のお色気目当てなところがあったが、ビューティ・ペアのスポーティでアクティヴな試合がテレビ中継されることで、彼女たちに憧れるティーンの女子が会場に殺到したのだ。
引用:本日8/9は伝説の女子プロレス・タッグ”ビューティ・ペア”ジャッキー佐藤の命日【大人のMusic Calendar】
ジャッキー佐藤の経歴② ビューティ・ペアが人気になった理由
出典:https://www.toudoukan.com/
実は、ビューティ・ペアがデビュー当時から大人気だったわけではありません。
実は歌手デビュー直後の時期は売上も悪く、試合の観客もまばらだったのだとか。
一時は所属する全日本女子プロレスの経営もままならない状態でしたが、徐々に若い女の子のファンがつくようになり、試合会場が観客で埋まるようなブームへと繋がっていったようです。
若い女の子から人気が出た理由には、当時大人気だった漫画「ベルサイユのばら」や宝塚歌劇団といった「男装の麗人」ブームが背景にあったのではないかとも言われています。
歌う際の衣装といい、両手を広げたポーズといい、彼女たちのルックスや人気のあり方は宝塚的でもあり、この時期に絶大な人気を博した池田理代子の漫画「ベルサイユのばら」に通じるものがあった。女子が女子に熱狂する姿がテレビ(のプロレス中継)を通してお茶の間に初めて伝わったのである。
引用:本日8/9は伝説の女子プロレス・タッグ”ビューティ・ペア”ジャッキー佐藤の命日【大人のMusic Calendar】
ジャッキー佐藤の経歴③ ビューティ・ペアがリングで歌った理由
ジャッキー佐藤さん・マキ上田さんのタッグ「ビューティ・ペア」は試合前にリングで歌唱するというスタイルでした。
実はそのスタイルとなった背景には、プロレスラー・マッハ文朱さんの存在があります。
当時、ビューティ・ペアが所属していた女子プロレス団体「全日本女子プロレス」の試合はテレビ中継されていましたが、「スポーツ部」ではなく「芸能部」が制作していたのだそう。
そのため、試合中継の契約において「必ず歌を入れること」という条件が課せられていたといいます。
というのも、ビューティ・ペア以前に活躍していたマッハ文朱さんは美人でタレント性もあり、さらに元々歌手志望だったため「試合前にリングで歌唱する」というスタイルで人気を獲得。
その後、マッハ文朱さんが突然引退したことにより、全日本女子プロレスはテレビ中継打ち切りの危機に瀕してしまいます。
そこで、ビューティ・ペアに白羽の矢が立ち、急遽歌手としてもデビューすることになったのです。
ただし、訳も分からず歌手デビューしてしまった2人と、元々歌手志望で「スター誕生!」の決勝戦まで出場した実力を持つマッハ文朱さんとのパフォーマンスの差は歴然でした。
そのため、デビュー当初はかなり酷評されていたようです。
しかし、愛嬌をふりまかず無骨さすら漂う2人のパフォーマンスに、前述のように「宝塚歌劇団」「ベルサイユのばら」ブームが後押しとなり、若い女性の心を徐々につかんでいきました。
ジャッキー佐藤の経歴④ マキ上田の引退でビューティ・ペアが解散に
ジャッキー佐藤さん・マキ上田さんからなるビューティ・ペアの人気は凄まじく、1977年には主演映画「ビューティ・ペア 真っ赤な青春」が公開。2人は同作で本人役を演じました。
同年、ジャッキー佐藤さんが「WWWA世界シングル王座」に挑戦し、マキ上田さんと対決。大きな注目を集めましたが時間切れとなり、判定によりジャッキー佐藤さんが勝利しました。
その後、1979年にマキ上田さんと再戦。突如、「敗けた方が引退する」というルール掲げられるも、ジャッキー佐藤さんは見事に勝利。
結果としてマキ上田さんが引退することになり、それに伴ってビューティ・ペアも解散となりました。
ビューティ・ペア解散後もジャッキー佐藤さんはプロレスラーとして活躍し続けましたが、1981年に対戦したジャガー横田さんに敗け、「WWWA世界シングル王座」を奪われています。
ジャッキー佐藤の経歴⑤ 2度の引退を経たのち、体操教室を運営
ジャッキー佐藤さんは、ジャガー横田さんに「WWWA世界シングル王座」を奪われたことを機に1981年に一度引退。
それからしばらくして、女子プロレス団体「ジャパン女子プロレス」に参加し、1986年に行われた同団体の旗揚げ試合で現役へと復帰しました。
しかし、その試合の対戦相手でもあった神取忍さんとの確執が取り沙汰され、1987年に一騎打ちでの試合がセッティングされます。
壮絶な試合となった結果、ジャッキー佐藤さんは神取忍さんに破れ、1988年に出場した試合を最後にプロレスから引退しています。
その後、プロレスを引退した直後に、体操教室を運営する会社「ジャムナ」を設立。
スポーツプログラマーやヘルスケア・トレーナーの資格を取得し、自らが考案した「ジャムナ体操」の指導などを行っていました。
ジャッキー佐藤とマキ上田の関係:実は性格が合わなかった?
ジャッキー佐藤さんはマキ上田さんとのタッグ「ビューティ・ペア」で一世を風靡しましたが、マキ上田さんいわく、2人の仲はそこまで良くなかったそう。
社交的なマキ上田さんに対し、一匹狼のような気質のジャッキー佐藤さんは性格が合わず、試合後に会話はほとんどなかったのだとか。
また、プライベートで遊んだことも1度もなかったといいます。
ジャッキーは言いたいこともズバズバ言う選手でした。会社側がテレビ局の要請を受けて「かけめぐる青春」の歌を出すと決めたときも、嫌で嫌で、泣いて会社に抗議していました。ショーマンシップが苦手で、最初は観客もおじさん世代が中心だったので「下手くそ」なんてヤジを浴びて、泣きながら歌っていました。レコードが大ヒットして若い女の子たちが殺到しても、歌には最後までなじめなかったようです。
性格も一本気で、プロレスは本格志向でした。前向きで妥協ができないから、相手が強いと、すさまじい試合をしていました。いつのどの試合だったかは忘れましたが、ジャッキーは血まみれになってもギブアップしないんです。控室に戻ったら、ドアのすきまから血が流れたほど。動脈が切れていたんです。救急車を呼びましたが、5分遅れていたら出血多量で死んでいたと聞かされました。
また、ビューティ・ペアを解散することになったのも、2人の性格の不一致が原因だったそう。
マキ上田さんは2人の相性の悪さからタッグとして活動することに限界を感じ、社長に直談判。
すると、社長から「2人で試合をして負けたほうが引退しろ」と提案され、それを承諾したのだといいます。
ジャッキー佐藤はビューティ・ペア解散の本当の理由を知らされていなかった
出典:https://fishfor.official.ec/
一方、ジャッキー佐藤さんは、マキ上田さんと社長とのやり取りを知らなかったようで、いつの間にかプロレス引退をかけた試合が決まっていたのだそう。
そのため、当日の試合でも「なぜ今回に限って引退を懸けての勝負なのかは、よくわからない」とコメントしています。
結果として、試合はマキ上田さんが破れ、ビューティ・ペア解散とマキ上田さんの引退が決定。
そんな中でも、試合後にお互いの控室を訪れたり、声をかけたりといったことはなかったそうです。
その後も、テレビ番組の企画などで顔を合わせる程度だった2人。
しかしそんなある日、マキ上田さんがジャッキー佐藤さんに連絡したことを機に、2人きりで温泉旅行に出かけたといいます。
ほとんど話さなかったという現役時代からは想像できないほど楽しく過ごせたそうで、「また出かける機会を作ろう」と話していたというのだから意外です。
ジャッキー佐藤の戦績は?伝説となった神取忍とのセメントマッチ
ジャッキー佐藤さんの戦績については、調べてもその勝利数や各試合の詳細を知ることができませんでした。
しかし、そんなジャッキー佐藤さんの試合を語る上でどうしても外せないのが、引退前に行われた神取忍さんとのセメントマッチです。
ちなみに、プロレスにはブックと呼ばれる事前打ち合わせがあり、それに基づいて試合が進行します。
しかし、時には選手間の不和やそのほかの事情から、そのブックを無視して試合が進行することがあり、そのような試合はセメントマッチ・ガチンコ・シュートなどと呼ばれています。
そして、女子プロレス史上で最大の”伝説の試合”とも言われている神取忍さんとのセメントマッチなんです。
実は、ジャッキー佐藤さんと神取忍さんは、一度引退したジャッキー佐藤さんがプロレス復帰するきっかけとなったプロレス団体「ジャパン女子プロレス」の旗揚げ試合で戦っています。
神取忍さんは当時、「女子柔道全日本選手権」3連覇の実績を手に、鳴り物入りでプロレス界入り。後楽園ホールで行われた同試合がデビュー戦だったそうです。
神取忍さんはそんなジャッキー佐藤さんとのデビュー戦について、以下のように振り返っています。
「今だかつてない名勝負」なんて評価をしてもらったけど、それは華やかなものだけじゃなく、格闘技として、”闘い”として見せることができたからじゃないかな。それまでの女子プロレスは、より派手に見せるのが当たり前だったけど、私とジャッキーさんがやったのは、お互いスキを見せない闘いだった。それが新しかったんじゃないかな。肉体的なアスリートとしての完成度、パワーも女子のレベルを超えてたと思うよ。
引用:ザ・インタビュー
神取忍さんはスリーパーでジャッキー佐藤さんを追いつめますが、ジャッキー佐藤さんがバックドロップからのエビ固めでフォール勝ちしています。
しかしその後の試合で、神取忍さんは場外でジャッキー佐藤さんから不意打ちラリアットを食らい、その際に右目周辺を負傷。
さらに別の試合で、その負傷していた右目をジャッキー佐藤さんが狙ったことで、神取忍さんはブチ切れ、ジャッキー佐藤さんに一騎打ちを申し込みます。
神取忍さんが「やられたからやり返すってこと。仕掛けてきたのは向こうだから」と怒りマックスで臨んだ試合が、前述した”伝説級のセメントマッチ”となったのです。
復讐は右のパンチから始まった。1発、2発と面白いようにジャッキーの顔面をとらえた。戦意喪失のジャッキーは一時的に場外エスケープ。リングに戻って、パンチを放っていくが空を切る。神取のアキレス腱固め、逆片エビ固めに「決まってないぞ。入ってないぞ」と言ったのが唯一の抵抗だった。
引用:神取しのぶがジャッキー佐藤と“公開ケンカ”…顔面をボコボコにして「最初からこういう形になるのはわかってた」【週刊プロレス】
当時はアメリカの総合格闘技団体「UFC」の映像も入ってきておらず、総合格闘技「PRIDE」も登場していないどころか、リングドクターすら配置されていなかった時代。
これまでのプロレスでは見たことのないような流血を伴うガチンコ勝負に、プロレスファンはおろかその場に居合わせたレスラー・関係者・レフェリーですら茫然としていたといいます。
ジャッキー佐藤の結婚歴:仕事に注力しており生涯独身だった
ジャッキー佐藤さんは結婚しておらず、生涯独身でした。
プロレスを引退後は自身の立ち上げた会社に注力しており、仕事に没頭していたといいます。
佐藤さんは87年にプロレス界を離れた後、神奈川県内を中心にスポーツインストラクターとして独自に考案した「ボディートーク体操」を指導。ほとんど表舞台に出ることはなくなった。体操の指導や講演などで忙しく「恋愛や結婚どころではない」と独身のまま仕事に没頭。「ジャッキー佐藤」の名前は次第に世間から遠ざかった。
ジャッキー佐藤の晩年:死因は胃がん・葬儀は横浜で執り行われた
ジャッキー佐藤さんは引退後の1988年にがんを告知され、同年に手術を受けています。
その後、選手として試合にも出ていましたが、再入院した1999年に41歳という若さで亡くなりました。
死因は胃がんで、闘病期間中には姉や弟のほか、後輩のナンシー久美さんが看護していたそうです。
佐藤さんの死は、あまりにも寂しかった。胃がんのため入院していた川崎市内の病院で、ジャパン女子時代の後輩ナンシー久美さんらにみとられながら静かにこの世を去った。ナンシー久美さんは「私が家族の方と付き添うことになった1週間前、まだ意識がしっかりしていた。私に何度も『ありがとう』と話してくれた。夕べはスヤスヤと眠っていたのに……」と信じられない様子。最後は苦しまずに逝った。
葬儀は、横浜の總持寺で執り行われました。
ジャッキー佐藤の闘病を支えた後輩・ナンシー久美との絆
ジャッキー佐藤さんの最後を看取った後輩のナンシー久美さん。
ナンシー久美さんもかつて卵巣がんを患っており、その治療生活を精神的に支えていたのが、ジャッキー佐藤さんだったそうです。
プロレス引退後、飲食店で働いていたナンシー久美氏は、卵巣がんを患った。手術は成功するも、抗がん剤治療に怯える彼女を励ましたのが、雲の上の存在でもある先輩レスラー・ジャッキー佐藤氏だった。白い百合の花を持参し、見舞いにきたスター選手に「大好きだった。カッコよかった」というナンシー久美氏は「早く治さなきゃって思いました。早く元気になってご飯にでも行きたいなとかって」と回想。
また、ジャッキー佐藤さんはかつてタッグを組んでいたマキ上田さんには病気を伝えていなかったそう。
死後、ジャッキー佐藤さんが病気だったことを知ったマキ上田さんは当時、取材陣に対し以下のようにコメントしていました。
昼すぎに聞きましたが、今でもジャッキーが亡くなったなんて信じられない。あすの朝1番で東京に向かいますが、顔を見るまで、私の頭の中の映像は元気なころのジャッキーしかいません。思い出はいろいろありますが、去年の8月、私の店の10周年パーティーに来てくれて一緒に温泉につかり、飲んだり食べたりしたことがとてもうれしかった。いずれOB同士で集まって井戸端会議をやろうなんて話していた矢先に……。
ジャッキー佐藤とタッグを組んでいたマキ上田の現在:釜飯屋の女将に
ジャッキー佐藤さんとタッグ「ビューティ・ペア」で活躍していたマキ上田さんは現在、東京の浅草で釜飯屋「田毎(たごと)」の女将として働いています。
プロレスを引退した直後は芸能活動もしており、1979年放送のテレビ朝日系列の特撮ドラマ「バトルフィーバーJ」では役者として出演。
また、ソロで「インベーダーWALK」という曲も発売しています。
その後は、地元・鳥取県でスナックを経営していましたが、東京を訪れていた際に出会った11歳年上の男性と48歳で結婚。
それが、現在女将を務めている「田毎」の2代目主人だったそうです。
まとめ
ジャッキー佐藤さんさんはプロレス団体「全日本女子プロレス」に入門後、すぐにマキ上田さんとの試合でデビュー。
そして、マキ上田さんとの組んだ「ビューティ・ペア」が大ブレイクしました。
映画が製作されるなど、アイドル的人気を誇ったビューティ・ペアですが、その一方で2人は性格が合わず、交流がなかったそう。
その関係に耐えかねたマキ上田さんの行動がきっかけで引退を懸けた試合が行われ、結果としてマキ上田さんが破れて引退。ビューティ・ペアは解散してしまいました。
2人はジャッキー佐藤さんが現役引退後に再会しており、その際は意気投合して盛り上がったといいます。
もしも現役時代に打ち解けていたなら、もっと長くビューティ・ペアとしての活躍が見られていたかもしれませんね。
ジャッキー佐藤さんはその後、胃がんを患って闘病していましたが、後輩・ナンシー久美さんに看取られて41歳という若すぎる死を迎えました。
ジャッキー佐藤さんの活躍を再び目にすることはできませんが、ビューティ・ペアとしての活躍や伝説とまで称されている神取忍さんとのセメントマッチなど、エピソードには事欠きません。
これからもジャッキー佐藤さんの功績は、プロレスファンによって語り継がれていくことでしょう。