準暴力団組織にも指定される半グレ集団「怒羅権(ドラゴン)」の創設メンバーの1人とされるワン・ナン(汪楠)が話題です。
ここではワン・ナンの本名や年齢、生い立ち、若い頃、伝説や犯罪歴、怒羅権の初代リーダー・佐々木秀夫氏からの嘘ばかりとの批判や結婚や現在などについてまとめました。
この記事の目次
- ワン・ナン(汪楠)のプロフィール
- ワン・ナン(汪楠)は本名
- ワン・ナン(汪楠)の年齢
- ワン・ナン(汪楠)の生い立ち① 中国のインテリ一族に生まれる
- ワン・ナン(汪楠)の生い立ち② 小学校時代
- ワン・ナン(汪楠)の生い立ち③ 14歳で父親に呼ばれて日本へ渡る
- ワン・ナン(汪楠)の若い頃① 中学生で「怒羅権(どらごん)」メンバーに
- ワン・ナン(汪楠)の若い頃② 17歳で暴力団員に
- ワン・ナン(汪楠)の犯罪歴① 同僚の暴力団員の腕を切り落とし逮捕
- ワン・ナン(汪楠)の犯罪歴② 窃盗や詐欺、拉致監禁、脅迫など
- ワン・ナン(汪楠)の犯罪歴③ 詐欺罪などで懲役13年
- ワン・ナン(汪楠)は怒羅権創設メンバーとして伝説的に語られていた
- ワン・ナン(汪楠)は怒羅権初代リーダーの佐々木秀夫に嘘ばかりと批判されている
- ワン・ナン(汪楠)の結婚
- ワン・ナン(汪楠)の現在…NPO「ほんにかえるプロジェクト」を設立
- まとめ
ワン・ナン(汪楠)のプロフィール
ワン・ナンのプロフィール
本名 :汪楠(ワン・ナン)
生年月日:1972年4月14日
出身地 :中華人民共和国吉林省長春市
ワン・ナンは、相手を殺害することも厭わない凶悪な半グレ集団、準暴力団組織として悪名を轟かせる「怒羅権(どらごん)」の創設メンバーの1人だと言われている人物です。
現在は犯罪行為からは足を洗い、NPO法人を立ち上げて慈善事業に取り組み、話題を集めています。
2021年1月には自伝「怒羅権と私」を発表しましたが、その著作の内容や、発表に伴うワン・ナンの発言に対しては、「怒羅権」の初代リーダーである佐々木秀夫さんや、その関係者達からは批判的な声も出ています。
今回は、このワン・ナンについてまとめていきます。
ワン・ナン(汪楠)は本名
ワン・ナン(汪楠)というのは本名です。
ワン・ナンの両親は中国人であり、中国残留孤児ではないため日本名は名乗っていません。
中国残留孤児ではないワン・ナンが、日本に来る事になった経緯については、この後の生い立ちの見出しで紹介します。
ワン・ナン(汪楠)の年齢
ワン・ナンの自伝「怒羅権と私」によれば、生年月日は1972年4月14日という事なので、現在のワン・ナンの年齢は「49歳」です。
ワン・ナン(汪楠)の生い立ち① 中国のインテリ一族に生まれる
ワン・ナンの生い立ちについてみていきます。
ワン・ナンは1972年4月14日に中国北東部の吉林省長春市(旧満州国)で生まれました。
祖父は大地主の子として生まれ、満州国時代に大学を卒業して、満州鉄道で警察官を務め、中華人民共和国の建国後は役人をしていたようです。その祖父の次男がワン・ナンの父親で、この方は外科医だそうです。
ワン・ナンの家族は当時の中国でも屈指のエリート家系だったようで、ワン・ナンの父親の兄弟達は、長男が心臓の専門医、三男は大学教授、四男は外科医で病院院長、長女の旦那は政治家、次女は建築設計士、三女は裁判官と、全員が大学を出ていて、典型的なインテリ一族だったという事です。
ワン・ナンは外科医の父親と日本語の歌が好きな母親の間に生まれています。兄弟は3歳年上の姉が1人いるという事ですが、姉は祖父母の家に預けられていたため幼少期に一緒に暮らした記憶はないそうです。
ワン・ナン(汪楠)の生い立ち② 小学校時代
ワン・ナンは7歳で小学校に入学(7歳での小学校入学は当時の中国では早い方だった)しますが、父親の仕事の都合で10回以上転校することになり、その影響で精神的に不安定になり過食症になった事もあるようです。
また、ワン・ナンが小学生の頃に両親が離婚しています。離婚原因はよくわからないそうなのですが、父親が母親に対して暴力を振るっている記憶があるとワン・ナンは自伝の中で書いています。
ワン・ナンの両親は親日家であったため、文化大革命の抗争に巻き込まれて、自宅で謎の集団の襲撃を受け、幼い日のワン・ナンと母親が抵抗するという騒動が起きています。そしてその後、何故か被害者であるはずのワン・ナンの父親は当局に拘束され投獄されています。(文化大革命の影響と思われる)
ワン・ナンはこの事件の後から同年代の子供らと激しく喧嘩をするようになり、執拗な暴力を振るって相手に脳震盪になるほどの怪我を負わせることもあったようです。小学校4年生になる頃にはガキ大将のようになり、医者の息子の優等生から学校一の問題児と見做されるようになったという事でした。
ワン・ナン(汪楠)の生い立ち③ 14歳で父親に呼ばれて日本へ渡る
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ワン・ナンは1986年4月14日、14歳の誕生日に父親に呼ばれて初めて日本に渡りました。
父親は離婚後、中国残留孤児1世の女性と再婚し、その女性の帰国に同行する形で日本へと渡っていたのです。ワン・ナンはこの父親に「船遊びをしよう」と騙されて連れ出され、上海港からそのまま日本へと連れてこられています。
ワン・ナンは東京都江戸川区の古い木造アパートへ連れて行かれ、そこで父親と継母、当時17歳になっていた姉、継母の19歳の連れ子の5人で暮らす事になりました。
日本に来たワン・ナンは、江戸川区立葛西中学校に入学し日本語教育を受けています。当時14歳でしたが中学1年生からの編入でした。当時葛西中学には中国残留孤児2世60人がいたそうですが、彼らに対する差別的ないじめが行われていたようです。ワン・ナンはこの頃に強い疎外感を抱き、日本社会への怒りを募らせたと言います。
ワン・ナン(汪楠)の若い頃① 中学生で「怒羅権(どらごん)」メンバーに
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続けて、ワン・ナンが、日本に来てから犯罪集団「怒羅権」のメンバーになり、その後、暴力団員となって凶悪犯罪に手を染めていくまでの若い頃について見ていきます。
日本に来て強い疎外感を抱く生活を送るうちに、ワン・ナンは、中国残留孤児2世や3世の少年少女達が集まるコミュニティとの結びつきを深めていきました。
ワン・ナンら中国残留孤児2世、3世の少年少女らは、地下鉄西葛西駅のすぐ近くにある通称「恐竜公園」や、残留孤児の受け入れ施設であった「常盤寮」などに集まるようになったようです。
当時、中国残留孤児の少年少女らは学校などで激しいいじめを受けており、それに抵抗する者が現れ始めました。ワン・ナンもそうしたいじめ行為に抵抗した1人で、徹底的に抗戦した為に次第に争いは大きくなり、当時全盛であった暴走族からの攻撃も受けるようになったとの事。
そのため、中国残留孤児らは自衛のために集まるようになり、次第に自分たちも過激な不良化への道を辿ったという事でした。その流れの中で1986年頃にグループ化され、その集団は1988年に「怒羅権」として成立しています。ワン・ナンもその最初期のメンバーの1人だったようです。
ワン・ナンの著作によれば、最初のメンバーは8人で、その8人は年齢が17歳から18歳の少年たちで、初代リーダーの佐々木秀夫さん(本名はジャン・ロンシン)もこの中に含まれるようです。ただし、佐々木秀夫さんは当初のメンバーは7人であったとしてワン・ナンの著作の内容は嘘だと否定されています。
ワン・ナンはその初期中心メンバーの8人には含まれず、その下についていた4人の中学1年生のうちの1人だったと著作で書いています。
怒羅権は、最初は自衛のためのグループであったものが、報復のために喧嘩を繰り返すうちに次第に暴走族化し、犯罪集団化したという事です。
若い頃のワン・ナンもこの怒羅権で、喧嘩に明け暮れるようになり、ドライバーで抗争相手を刺したのを皮切りに、喧嘩では大型の刃物を使うようになり、カツアゲ、強盗や車上荒らしなどの犯罪にも手を染めています。
ワン・ナン(汪楠)の若い頃② 17歳で暴力団員に
ワン・ナンは17歳の頃に暴力団に出入りするようになります。ワン・ナンが所属したのは住吉会系の三次団体だったようですが、現在はこの組は上部団体(2次団体)も含めて存在していないようです。
ワン・ナンは最初は部屋住みとして暴力団組織に入り、若い頃は電話番や暴力沙汰になった時に出ていく末端の兵隊の役割を与えられていたようですが、次第に犯罪行為(シノギと呼ばれる資金獲得活動)にも関わるようになり、パチンコ店に夜忍び込んで裏ロムを仕込んだり、偽造テレフォンカード販売などでかなり稼いだようです。
ワン・ナンの暴力団員時代の犯罪歴などについてはこの後詳しく紹介します。
ワン・ナン(汪楠)の犯罪歴① 同僚の暴力団員の腕を切り落とし逮捕
ワン・ナンは若い頃から犯罪行為に手を染めていますが、そうした犯罪歴についても見ていきます。
1990年、18歳だったワン・ナンは、当時所属していた暴力団組織の後輩の腕を日本刀で切り落とし、さらには首を切断しようとして、首の後ろを斬りつけるという騒動を起こしました。
この事件が起こる前、この後輩が同僚の暴力団員の財布を盗んで逃亡した挙句、反省したふりをして帰ってきて「お詫びに酒を奢る」と言い出したため、某暴力団が経営する飲食店に行ったところ、会計の際に、実は金が無いのでツケにしろなどと言い出したので、仕方がなくワン・ナンと他の暴力団員らで立て替えるという事件があったようです。
ワン・ナンは、組の幹部から「許してやれ」と命令されて、最初は我慢していたそうなのですが、その後輩が「暴走族上がりのヤンキーが調子に乗るな」などと悪態をつき始めたため、堪えきれずにブチギレてしまい、木刀でボコボコに殴った後、日本刀を持ち出して瀕死の重症を負わせたという経緯だったようです。
この後輩は病院に担ぎ込まれ一命を取り留めましたが、この後輩が警察に暴力団に金を返せなかったので殺されそうになったなどと話してしまったため、それを口実に組み事務所がガサ入れを食らう事になり組関係者に大勢の逮捕者が出て、ワン・ナンも責任を取る形で警察署に出頭し逮捕されています。
完全に殺人未遂ですが、当時、ワン・ナンは18歳の少年だったため、新潟の少年院に13ヶ月入れられるだけで済んだそうです。
ワン・ナン(汪楠)の犯罪歴② 窃盗や詐欺、拉致監禁、脅迫など
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20歳で少年院を出たワン・ナンは、1〜2年建築関係の仕事をしてカタギの社会に戻ろうとしたようですが、ちょうどバブルが崩壊した頃で不況になりつつあり、すぐに生活が破綻して再び暴力団の世界に戻っています。当時は違法なポーカー屋の経営管理を任されていたようです。
ただ、当時、ワン・ナンは暴力団組織に所属する一方で「怒羅権」に所属しての活動も続けており、そちらでも多くの犯罪行為に手を染めています。こちらでも会社事務所などに侵入しての窃盗(事務所破りと呼んでいた)、風俗店経営、詐欺などで資金を得ていたようです。
また、この事務所破りのために、鍵屋を誘拐拉致して脅迫してピッキングの技術を教えさせる、風俗店経営者を拐って、店舗や従業員、ノウハウごと奪うなどの極悪非道な行為も行なっています。
ワン・ナンはこうした犯罪を繰り返して、わずか数年の間に10億円近くを稼いだと自伝「怒羅権と私」に書いています。
ワン・ナン(汪楠)の犯罪歴③ 詐欺罪などで懲役13年
ワン・ナンは2000年、ちょうど沖縄サミットが開催されていた沖縄に、事務所破りや拳銃の密売のために滞在していました。
この時、ワン・ナンは入念に準備をした上で目的の事務所破りや拳銃の密売ビジネスなどを行いましたが、いくつかの計算外のトラブルが重なって逮捕されています。
まず、その時の沖縄はサミットの開催で各国の首脳が集まっていた事もあって、厳重な警戒体制が敷かれており、ワン・ナンらのグループは公安警察にマークされて、沖縄から帰される事になり、警察が用意した航空券を使って大分へと移動する事になりました。
さらに、拳銃の密売についても、購入を持ちかけてきた相手がそれを突然キャンセルしてきたため、代金は支払わせたものの、売るつもりであった拳銃が手元に残ってしまいました。
ワン・ナンは拳銃を東京に持ち帰るのはリスクが高いと考え、海に捨てる事にしますが、海岸で気まぐれを起こして持っていたセットで販売するつもりで用意していた弾丸20発を全て海に向かって発砲しています。
そして、大分から東京へ帰る予定日の前日、ワン・ナンの仲間らは、出る前に予定通り事務所破りをして稼いでから帰ろうと言い始めたため、現地の企業に押し入って数千万円を盗み出しています。
ワン・ナンはこの時点で東京へ引き上げる事を決めますが、グループの何人かが、まだ通帳に残っている2億円ほども引き出したいと言い始めたため、別行動をする事になります。
実はこの時、警察はすでにワン・ナンらの犯行に気がついていました。ワン・ナンが大分の海岸で拳銃を発砲した際、ワン・ナンは無人だと思っていたましたが、実はその堤防の下に夜釣りをしている一般人がおり彼らが警察に通報しており、さらに、大金を盗み出された企業もすぐに被害に気が付き通報していました。
加えて、沖縄サミットの影響で九州にも厳戒態勢が敷かれていた事もあって、ワン・ナンらのグループの半数ほどがすぐに逮捕されています。
ワン・ナンと残された仲間らは、大分市内に残された仲間を救出しようと動きますが、何重にも検問が敷かれ、鉄道や空港、国道や高速道路など、全てが止められており、ワン・ナンらは最後に残された大分空港へと逃げ込みました。
ところが、大分空港にも厳重な警戒体制が敷かれ、自動小銃で武装した自衛官まで警備についていました。ワン・ナンらは、手元に持っていた盗んだ数千万円をATMで送金しようとしますが、電源が止められており、仕方がなく空港のトイレのゴミ箱にその現金を隠し、タクシーに乗って一般客を装って検問を突破しようと試みています。
しかし、当然ながら警察はワン・ナンらの動きを把握しており、検問で停車させられて拘束され、最終的に詐欺罪など10件の容疑で起訴されています。検察が最終的に起訴まで持ち込めたのは被害額にして2億円ほどでした。
ワン・ナンはこの裁判で懲役13年の実刑判決を受け、岐阜刑務所に収監されました。
ワン・ナン(汪楠)は怒羅権創設メンバーとして伝説的に語られていた
ワン・ナンは2014年の岐阜刑務所からの出所後は、反社会的な世界からは足を洗っており、メディアの取材なども積極的に受けるようになりました。ワン・ナンはメディアに自分は怒羅権の創設メンバーの1人で、そのグループの一つである府中怒羅権は自分が作ったとも話しており、「怒羅権」の創設者として伝説的に語られるようになりました。
ネット上では、怒羅権自体が関東連合などと並ぶ伝説的な半グレ集団として語られていたため、その創設メンバーの1人だというワン・ナンも伝説的存在に祭り上げられ、ある事ない事語られるようになり、18歳の頃に敵対暴力団の事務所に乗り込み、日本刀で敵の首を切り落として懲役13年をくらったといったデマ情報が伝説として拡散されるなどしました。
ワン・ナン(汪楠)は怒羅権初代リーダーの佐々木秀夫に嘘ばかりと批判されている
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「怒羅権」の正真正銘の初代メンバーでありリーダー格であったのが佐々木秀夫という人物です。
この佐々木秀夫氏は中国残留孤児2世であり、本名を「ジャン・ロンシン」といい、この方も伝説的に語られるアウトローの1人です。ワン・ナンにとってはこの佐々木秀夫氏は年齢が2つ上の中学の先輩に当たります。
この佐々木秀夫という人物も過去に犯罪歴があり、何度も逮捕されていますが、現在は犯罪行為から足を洗われており、大工として働きながら、YouTubeチャンネル「正統版 怒羅権列伝初代佐々木秀夫公式チャンネル」を開設し話題を集めている存在でもあります。
この佐々木秀夫氏が、ワン・ナンの自伝である「怒羅権と私」の内容や、メディアへの怒羅権に関する発言、有名な不良である「所沢のタイソン」のYouTubeチャンネルへのコラボ出演などに対して不快感を表し、また、その発言にも嘘が多いと自身のYouTubeチャンネルで批判して注目されています。
佐々木秀夫氏は、ワン・ナンを葛西中学の2学年下である事は認めているものの、「怒羅権と私」に書かれている怒羅権に関する記述のほとんどを否定していて、「怒羅権に存在しない人間が、怒羅権を勝手に語っている」、「要は奴は嘘を言ってるだけ」とかなり痛烈な言葉で批判されています。
佐々木秀夫氏が怒羅権の初代のリーダー格であった事はほぼ全ての当時の関係者が認めており、その佐々木秀夫氏が批判した事からネット上ではワン・ナンが怒羅権を騙りデタラメな嘘をついているのではとの見方も出てきています。
ワン・ナン(汪楠)の結婚
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ワン・ナンはスナックを経営する中国人女性のリュウ・チンチュウさんと結婚されています。ワン・ナンの結婚した嫁のリュウ・チンチュウさんの年齢は2019年の時点で46歳なので、ワン・ナンとはほぼ同世代です。
2人の出会いのきっかけは、ワン・ナンが嫁のリュウ・チンチュウさんを電車の中で偶然見かけて一目惚れした事だったそうです。
結婚を持ちかけたのは、嫁のリュウ・チンチュウさんの方からだったそうで、ワン・ナンが贖罪の想いから取り組む慈善活動に理解を示し、その資金として50万円を支援されています。
若い頃から数々の凶悪犯罪に手を染めたワン・ナンが完全に更生する事ができたのは、この嫁の愛情深さも大きかったのではないかと思います。
ワン・ナン(汪楠)の現在…NPO「ほんにかえるプロジェクト」を設立
ワン・ナンは懲役13年の刑に服し、2014年に出所した後、1年も経たない2015年9月に、受刑者の更生の助けになればと本を送る活動に取り組むNPO団体「ほんにかえるプロジェクト」を立ち上げ、現在もその活動に取り組まれています。
ワン・ナンはこの活動で、これまでに希望する受刑者数百人に、延数千冊の本を送ってきたそうです。また、受刑者から手紙が届けば、必ず手書きで返事を書くのだそうです。これは、受刑者に人との繋がりがあると感じさせる事で、希望を抱いて欲しい(それが再犯防止につながるとの信念を持たれている)との想いからの活動のようです。
また、出所しても行く当てのない元受刑者を住む場所が見つかるまでの間、自宅で受け入れるなどの支援活動も行われています。
まとめ
今回は、怒羅権の創設メンバーの1人とも言われ、自伝「怒羅権と私」の出版や、現在の慈善活動でも話題になっているワン・ナンという人物についてまとめてみました。
ワン・ナンというのは本名で漢字では「汪楠」と書きます。年齢は現在で49歳です。
生い立ちについては、中国の吉林省長春市で1972年に生まれ、14歳までそこで育っています。中国ではエリート家系に生まれましたが、文化大革命の影響を受けて父親が当局に投獄されるなどし、その後、共産党から逃れる目的もあって日本に渡った父親に呼ばれる形で日本へと移住しました。
自分の意思に反して日本へと渡ったワン・ナンは、日本で差別で迫害を受けた事などから非行少年になり、中学生の頃から半グレ集団「怒羅権」に所属し、17歳で住吉会系の暴力団に入っています。
その時代には数々の犯罪歴があり、窃盗や詐欺、拉致監禁、脅迫、違法風俗店経営など数々の罪状でこれまでに4度逮捕されています。
2000年に懲役13年の実刑判決を受け、出所後には更生し、スナックなどを経営する中国人女性と結婚、その嫁の支援なども受けて、現在は受刑者に本を送るNPO法人「ほんにかえるプロジェクト」を立ち上げ、贖罪の想いからの慈善活動に取り組まれています。