元農水省事務次官・熊沢英昭が、実の息子である熊沢英一郎を殺害した事件は社会に衝撃を与えましたが、事件の詳細が報じられるにつれ被害者・熊沢英一郎の異常性にも注目が集まっています。
今回は熊沢英一郎の生い立ちや高校や大学などの学歴、父親や母親、自殺した妹などの家族、事件のその後などについてまとめました。
この記事の目次
- 熊沢英一郎は元高級官僚(元農水次官)の父親に惨殺された被害者
- 熊沢英一郎が農水次官で実の父・熊沢英昭に殺害された事件の概要
- 熊沢英一郎の生い立ちや学歴① 幼少期から英才教育を受け名門・駒場東邦へ
- 熊沢英一郎の生い立ちや学歴② 駒場東邦高校を経て日本大学理工学部へ進学も休学
- 熊沢英一郎の生い立ちや学歴③ 代々木アニメーション学院〜流通経済大学
- 熊沢英一郎の生い立ちや学歴④ 就職に失敗しパン学校や親族の医療施設で働く
- 熊沢英一郎の生い立ちや学歴⑤ 一人暮らしをしながら引きこもり生活へ
- 熊沢英一郎の家族① 父親・熊沢英昭(事件の犯人)
- 熊沢英一郎の家族② 母親は熊沢英一郎の暴力が原因でうつ病に
- 熊沢英一郎の家族③ 妹は兄・熊沢英一郎のせいで縁談を破談にされ自殺
- 熊沢英一郎殺害事件のその後の裁判など
- まとめ
熊沢英一郎は元高級官僚(元農水次官)の父親に惨殺された被害者
2019年6月1日、元農林水産事務官・熊沢英昭(当時76歳)が、東京都練馬区の自宅で、実の息子・熊沢英一郎(当時44歳)を包丁で滅多刺しにして殺害する事件が発生しました。
元高級官僚の起こした子殺し事件という事で世間は騒然となりましたが、その後の報道によって、犯人・熊沢英昭と被害者・熊沢英一郎の異様な父子関係や、事件に至るまでの熊沢英一郎の異常な生い立ちなど、事件の背景が詳細に露わになるにつれ、その注目度はさらに増しています。
今回は元農水次官で実の父・熊沢英昭に殺害された被害者・熊沢英一郎に焦点を当てます。
熊沢英一郎が農水次官で実の父・熊沢英昭に殺害された事件の概要
まずは、熊沢英一郎が、元農水次官の父・熊沢英昭に殺害された事件の概要からみてみましょう。
2019年5月25日、熊沢英一郎が実家へ戻る
2019年5月25日、熊沢英一郎は一人暮らしをしてた目白の高級住宅街の一軒家(母親所有)から、東京都練馬区の高級住宅街に建つ実家へと戻りました。熊沢英一郎は、約3年ほど、その目白の住宅で一人暮らしをしてましたが、1週間ほど前に父親に電話で「実家へ戻りたい」と伝え、それを受けて実家へ戻る運びとなったようです。
同年5月26日、突然号泣した熊沢英一郎が、父・熊沢英昭に暴行
そして、その翌5月26日、熊沢英一郎は「お父さんはいいよね。東大を出てなんでも自由になって」と発言し、「(自分の)44年の人生はなんだったんだ」と言って机に突っ伏して号泣し始めたそうです。
その直後、熊沢英昭が「(一人暮らしをしていた一軒家の)ゴミを片付けなきゃな」と声をかけると、熊沢英一郎は「お前らエリートは俺をバカにしている!」と叫び、突如として激昂。「殺してやる!」といって、熊沢英昭に対して殴る蹴るした上、髪の毛を鷲掴みにして頭をサイドテーブつに打ち付けるなどの暴行を働きます。
熊沢英昭は、必死に玄関まで逃げますが、熊沢英一郎はなおも追いかけ、さらに英昭を殴る蹴るし、玄関ドアやコンクリート製の三和土(たたき)に叩きつけられるなどの暴行を続けます。
たまらず熊沢英昭は玄関から庭に逃げ出しますが、熊沢英一郎はさらに執拗に追いかけ、庭でも殴る蹴るの暴行を加え、鉄製の物置に英昭の頭を打ち付けるなどしたようです。
同年5月28日、川崎市登戸通り魔事件が発生し、熊沢英昭が息子の様子を危惧
同年5月28日、神奈川県川崎市多摩区の登別駅付近で、当時51歳の引きこもり男性が、刃物を振り回して暴れ小学6年生女児と39歳の男性を殺害し、それ以外にも小学生ら18名を負傷させた上、犯人自身も自殺するという「川崎登別通り魔事件」が発生しました。
この事件を見た、父親・熊沢英昭は「犯人と息子の境遇が似ている」と危惧したと供述しています。
同年6月1日、熊沢英昭が、息子・熊沢英一郎を殺害
同年6月1日、熊沢英一郎は、実家隣の小学校の運動会の音に苛立ち「殺してやる!」などと叫び続けていたようです。
この時、熊沢英昭は妻と共に自宅2階にいたそうですが、午後3時過ぎ頃に1階に降りたところ、熊沢英一郎がファイティングポーズを取るようにし、暴行を働いた時のような表情を浮かべ、英昭に「殺すぞ」などと言ってきたそうです。
熊沢英昭は数日前に激しい暴行を受けていた恐怖心から「本当に殺される!」と強い恐怖を抱き、慌てて(ほぼ無意識状態で)台所に包丁を取りに行き、そのまま英一郎の方へ走り寄り、胸のあたりを刺し、その後ももみ合いになる中で何度も刺して殺害しています。
殺害後の午後3時40分頃、熊沢英昭は自ら「息子を包丁で刺した」110番通報し、駆けつけた警察官によって逮捕されました。
その後の調べでは、熊沢英一郎の刺し傷は約30箇所に達しており、死因は首を切られた事による失血死だった事などが判明しています。
何故、高級官僚の父が実の息子をこのような凄惨な形で殺害するに至ったのか、その真相に近づくため、次の見出しからは熊沢英一郎の生い立ちを見ていきたいと思います。
熊沢英一郎の生い立ちや学歴① 幼少期から英才教育を受け名門・駒場東邦へ
出典:https://friday.kodansha.co.jp/
熊沢英一郎は1975年3月20日、東京都で、農林水産省のキャリア官僚・熊沢英昭と、名家の令嬢だった母親の長男として誕生しました。
1978年、熊沢英一郎は3歳の頃、父の熊沢英昭が在米日本大使館一等書記官に任命されたのについて家族でアメリカへと渡っています。その後1981年、6歳で日本に帰国し、新宿区の国家公務員官舎に住まいながら小学校へ、当時の父の同僚は、官舎の廊下を楽しそうに走り回る当時の英一郎の姿を何度も見ているそうです。
幼少期の熊沢英一郎は、教育熱心だった母親からの英才教育を施されています。帰国から3年後の1984年、9歳下の妹が生まれた頃から、英一郎は受験勉強に励み偏差値は優に70を超え、1987年4月には、東大合格者を多数輩出する都内随一の名門で、中高一貫校「駒場東邦中学」に見事合格しています。
しかし、中学に入学した熊沢英一郎はいじめを受け、中学2年から不登校に、それから母親に対して家庭内暴力を振るうようになったとされます。
この頃について、熊沢英一郎が気になるツイートをしているので紹介します。
私の両親は私の教育を間違えてたな。テストで悪い点取ると玩具やプラモを壊す。これが間違い。私は玩具を壊されない為だけに勉強した。喧嘩で両親に勝てる高1までこの恐怖は続いた。そして性格が螺旋階段のようにねじくれ曲がった私が完成した。
— ドラクエ10ステラ神DQX(熊澤英一郎) (@hiromi_kanzaki) February 2, 2017
どうやら、熊沢英一郎の両親は、英一郎の成績が悪化すると玩具やプラモデルなどを壊すという罰則を与えていたようです。駒場東邦に合格しているという事実から、子供時代の駒沢英一郎がかなり勉強をしていたのは間違い無いでしょうが、プラモや玩具を壊すという教育方針によって、次第に両親への反発を強め、家庭内暴力を振るうようになったのかもしれません。
また、熊沢英一郎はTwitterにて、母親の事を「愚母」と呼び、「殺人許可証とかもらったら真っ先に愚母を殺す」などとツイートするなど、強い憎悪を抱いていた事は間違いないようです。
熊沢英一郎の生い立ちや学歴② 駒場東邦高校を経て日本大学理工学部へ進学も休学
中学でいじめに遭い、不登校になった熊沢英一郎でしたが、中高一貫校という事で、駒場東邦高等学校に無事に進学していますが、当時の担任の教師によれば、高校時代もいじめられており、部活には入らず、テレビゲームに熱中していたという事でした。
また、いじめや母親との折り合いの悪さからくるストレスからか、熊沢英一郎は18歳の頃に「統合失調症」の診断を受けたようです。
高校卒業後、熊沢英一郎は日本大学理工学部土木工学科へと進学したとされますが、父の熊沢英昭の供述によれば「製図の授業が嫌いで拒否感があった。」という事で休学。その後、「日大に通うよりアニメ関係の勉強がしたい」と自分の意思を示したため、代々木アニメーション学院に進学させたそうです。
ただし、高校時代の担任の教師からは大学受験に失敗して1年か2年浪人している」との証言が出ており、高校卒業後の経歴についてははっきりしません。
この頃、熊沢英一郎は親元を離れ、アパートでの一人暮らしを開始したとされています。
熊沢英一郎の生い立ちや学歴③ 代々木アニメーション学院〜流通経済大学
出典:http://www.atelieratelier.sakura.ne.jp/
熊沢英一郎は生前「聖殻の神殿」というウェブサイトを運営しており、そのプロフィールページでは、代々木アニメーション学院の「アニメーター科」と「キャラクターデザイン科」を卒業したと書いています。また、どういった時系列かは不明ですが「HAL東京」にも通っていたと書いており、これは中退しているという事です。
代々木アニメーション学院を卒業した後、熊沢英一郎は休学していた日本大学を中退し、流通経済大学に編入で入学。この進学先は、父の熊沢英昭が複数の大学の総務課に相談して探してきたとの事です。
その後、熊沢英一郎はこの流通経済大学の大学院へと進み、コンピューターグラフィックスについて学んで、2001年に修士課程を修了しています。
熊沢英一郎の生い立ちや学歴④ 就職に失敗しパン学校や親族の医療施設で働く
経済流通経済大学の大学院を修了した熊沢英一郎は、就職活動に入り、アニメーション制作会社を希望するものの不採用になります。父親の熊沢英昭が、なんとか就職先をと探し回るものの、それも失敗したため、「何かの役にたつかも」という理由で英一郎をパン学校へと通わせています。このパン学校がどこかは不明ですが、この時に英一郎は「パン製造技能士二級」の資格を取得しているようです。
その後、最終的に熊沢英一郎は、父親・熊沢英昭の奔走もあり、母親の弟の医師が務める病院に就職する事になったようですが、勤務態度は極めて悪く、上司の悪口をブログなどに書き連ねていたそうです。これを知った父親の熊沢英昭は、当時の赴任先のチェコ(2005年からチェコ大使を務めていた)から、メールや国際電話で「上司の言うことをよく聞きなさい」と度々注意していたようです。
しかし、熊沢英一郎の勤務態度は一向に改まらなかったため、チェコから帰国した熊沢英昭は、勤務先に退職を申し入れました。その直後、熊沢英昭のもとに英一郎の勤務先から「英一郎が上司を包丁で刺すと言っている」と連絡がきます。英昭は慌てて英一郎のアパートへ行き説得すると、英一郎はおもむろにバックの中から包丁を取り出し、黙ってキッチンに戻したのだそうです。
熊沢英昭は「本当に刺すつもりだったのか」と驚愕し、何か目的を持たせた方が良いと思い、再び代々木アニメーション学院へと入学させたり、「コミケに何か出品してみてはどうか」と提案したりしたということです。
熊沢英一郎の生い立ちや学歴⑤ 一人暮らしをしながら引きこもり生活へ
どういった経緯かは不明ですが、熊沢英一郎は2010年頃から約6年間、埼玉県さいたま市のアパートで1人暮らしをしていたようです。このアパートのオーナーの証言によれば、家賃は5万円ちょっとで滞納などはなく、トラブルなどはなかったそうです。
ただ、このアパートのある住人が近所の小学校に「運動会がうるさい」と度々苦情を入れていたそうで、事件後に近隣では、それが熊沢英一郎だったのではないか?と噂されているようです。
2015年頃、熊沢英一郎は新たに「アスペルガー症候群」との診断を受けています。
そして、熊沢英一郎は2016年6月頃に、母親の所有する不動産物件である、目白区の高級住宅街にたつ2階建ての一軒家に引っ越しています。この一軒家が建つ母親が所有する土地は330平米の広大な土地で、敷地内には月額3万円の月極駐車場が8台分あり、高級外車が並んで常に満車状態でした。
さらに、英一郎の住む一軒家の傍らには、もう一軒木造住宅が建っており、これも月家賃25万円ほどで貸し出していたようです。
そして、この一軒家に住んでいた頃の熊沢英一郎は、これらの家賃収入で何不自由のない生活を送っていたと見られています。熊沢英一郎はTwitterで「地主だから、毎日が日曜日だぜ?w」などとツイートしています。
この頃の熊沢英一郎は、働くこともなく自宅でオンラインゲーム(ドラゴンクエスト10のヘビーユーザーだった)にふけり、自宅内はまるでゴミ屋敷のようになっていたそうです。
また、近隣住人の証言によれば、髪は伸び放題で脂ぎり、シャツは黄ばんで異臭を放ち、体つきは不健康にぶくぶくと太っていたそうです。
熊沢英一郎は、この目白の家で3年ほどを過ごし、2019年5月下旬、父親に自ら電話を入れて実家に戻りたいと懇願し、東京都練馬区の実家へと戻り、それからわずか1週間後の6月1日に父親・熊沢英昭の手によって殺害される事になるのです。
熊沢英一郎の家族① 父親・熊沢英昭(事件の犯人)
ここからは、熊沢英一郎の家族についても触れていきたいと思います。まず最初に、熊沢英一郎を殺害した犯人、父親の熊沢英昭について見ていきましょう。
熊沢英一郎の父親の熊沢英昭は、1943年に岐阜県の可児市で2男3女の長男として生まれました。父親は歯学博士で、1953年に一家を連れて上京して台東区に歯科医院を開業しています。
熊沢英昭は若い頃から文武両道の優秀な人物だったようで、剣道を嗜み2段を取得するほどの実力だったと当時を知る人物が語っています。都立上野高校から東大法学部に進学し、1967年に卒業すると旧農林省へと入省。
また、熊沢英昭の兄弟たちの経歴も輝かしく、弟は東京大学に勤務するエリート医師で、長妹は千葉大学を卒業後に、千葉県内の大病院へと嫁いでいます。また双子だというその下の2人の妹は2人とも上智大学の大学院まで進み、それぞれ医療関係の夫と結婚しているという事です。
こうした輝かしい一族の長兄としてキャリア官僚の道へと進んだ熊沢英昭は、すぐに頭角を現し、1978年にはその英語力を買われて、在米日本大使館一等書記官に任命されて渡米、帰国後も順調に出世コースを歩み、2001年には農水省の事務方のトップである「事務次官」に就任します。
2002年に事務次官を辞し、農林水産省を退官した後は、2ヶ所の天下り先を経て、2005年から2008年まではチェコ駐在大使を務めました。
その後は、現役からは引退していますが、問題行動を繰り返す、息子・熊沢英一郎の世話や後始末に掛り切りになっていたようです。その後の顛末については、ここまでに紹介した通りです。
熊沢英一郎の家族② 母親は熊沢英一郎の暴力が原因でうつ病に
熊沢英一郎の母親は、埼玉県秩父市の名家に長女して生まれました。下に弟と妹が1人ずついるようです。
熊沢英一郎の母親の実家は、国の伝統工芸品に指定されている織物「秩父銘仙」を商いして巨額の財を築いたという資産家の家で、戦後、織物産業が縮小すると株取引や不動産投資でさらに財産を増やしたそうです。
1999年に熊沢英一郎の母の父(熊沢英一郎の母方の祖父)が死去すると、熊沢英一郎の母親は莫大な財産を相続し、練馬区、中野区、豊島区などに点在する、2500平米にも及ぶ土地で不動産ビジネスを展開し、賃貸物件や駐車場からの家賃収入は月額で80万円はくだらないとも言われています。
また、熊沢英一郎の母親は、父・熊沢英昭の官僚時代の同僚の間で「熊沢の奥さんは教育ママ」と噂されるほど、教育熱心だったようで、長男の熊沢英一郎に期待をかけて幼少期から英才教育を施しました。
ただ、ここまででも紹介したように、成績が悪化すると息子の玩具を破壊するようなその厳しい教育方針によって英一郎との関係は悪化し、英一郎が中学2年生になる頃から大学時代の約7年にわたって英一郎からの壮絶な家庭内暴力を受けていたとされます。
この息子からの暴力が原因で、熊沢英一郎の母親は、事件の29年ほど前(1990年頃か)から現在までうつ病を患っているされ、2018年12月には自殺未遂騒動も起こしています。そのため、熊沢英昭は、息子と母親を近くにいさせない方が良いと判断し、英一郎が大学に進学すると同時に実家から出して一人暮らしをさせていたとされます。
熊沢英一郎の家族③ 妹は兄・熊沢英一郎のせいで縁談を破談にされ自殺
熊沢英一郎には9歳下の妹がいましたが、事件の数年前に自殺しています。熊沢英一郎の妹の自殺の原因は、兄・熊沢英一郎による嫌がらせによって、婚約者との縁談が全て破談にされたからだと言われています。
ワイドショーの報道によれば、熊沢英一郎は、妹の婚約者宅に無言電話をかける、金の無心をする、現実世界やネット上で相手宅の誹謗中傷行為を繰り返す、などの嫌がらせ行為を続け、挙げ句の果てには、挨拶に来た妹の婚約者と暴力事件も起こしたのだそうです。
これによって、熊沢英一郎の妹のこれまでにあった縁談は全て破談になり、これを苦にした妹は自ら命を絶ったという事のようです。
熊沢英一郎殺害事件のその後の裁判など
熊沢英一郎殺害事件のその後の裁判についても見ていきます。
息子の熊沢英一郎を殺害した犯人・熊沢英昭の裁判員裁判の初公判は、2019年12月11日に東京地方裁判所で開かれました。
熊沢英一郎の妻や、農水省時代の関係者らが証人として立ち、被告の情状酌量を求めています。また、世間でも被告への同情の意見が圧倒的に有力となっており、中には執行猶予付きの判決や無罪でも良いのではないか?とする声もあるようです。
2019年12月16日、判決公判が開かれ、東京地裁は被告に対して「懲役6年」の実刑判決を下しています。
この判決に対して、熊沢英昭本人は罪を償う意向を示したものの、最終的には弁護人の説得に応じて判決を不服として控訴しており、引き続き控訴審が争われる事になります。
また、熊沢英昭は、再犯の恐れがないとして、500万円の保釈金を納付して保釈されており、実刑判決を受けた殺人犯が保釈されるという極めて異例な展開を見せている事からも熊沢英昭を擁護する声が多い事を物語っています。
ただ一方で、情状酌量の余地はあるにしても、人1人を殺害した事を事実であり、熊沢英一郎の精神が病むほどに追い詰めた元々の原因はこの両親の教育であるという意見もあり、懲役6年の判決では軽すぎるという声も出ています。
まとめ
今回は、元高級官僚の父親・熊沢英昭によって殺害された熊沢英一郎についてまとめてみました。
熊沢英一郎は、中学生の頃から家庭内暴力を繰り返し、大学院を卒業後も親のすねをかじって好き放題の生活を送っていました。また、18歳と20歳の時に「統合失調症」2015年には「アスペルガー症候群」と診断されており、精神を病んで問題行動を繰り返していました。
父親の熊沢英昭は、こうした息子をなんとか真っ当な道に戻そうと、様々なサポートを続けてきましたが、44歳になった息子が実家に舞い戻り、その上「殺す」などと叫んで激しい暴力を振るうなどしたため、「このままでは息子は人を殺すかもしれない」と思いつめ、ついに息子をさ殺害するに至りました。
熊沢英昭の裁判では、「懲役6年」の一審判決が下されましたが、弁護側はこれを不服として控訴しています。世間の声は、被告を擁護する声が有力になっていますが、一方で、人を殺しておいて懲役6年は軽すぎるという声も出ており、控訴審の行方にも注目が集まっています。