原敬は何した人?東京駅襲撃事件と暗殺者・子孫やその後の影響まとめ

史上初の本格的政党内閣の生みの親で「平民宰相」の異名で知られる明治から大正にかけての政治家・原敬が話題です。

 

この記事では原敬が何した人かの経歴やエピソード、東京駅での暗殺やなぜ暗殺されたのかや暗殺者の素性、その後の日本に与えた影響、子孫などについてまとめました。

原敬のプロフィール

 

原敬のプロフィール

 

生年月日:1856年3月15日(安政3年2月9日)

没年月日:1921年11月4日(享年65歳)

出生地 :陸奥国岩手郡本宮村 (現在の岩手県盛岡市)

死没地 :東京府東京市麹町区(現在の東京都千代田区)

 

 

原敬(はら・たかし)は、明治時代から大正時代にかけて活躍した、外交官、政治家です。第19代内閣総理大臣(歴代10人目)で、史上初の華族身分ではない平民身分の総理大臣であった事から、「平民宰相(へいみんさいしょう)」と呼ばれました。

 

元々は盛岡藩の家老を務めた上級武家の出でしたが、次男であった原敬は分家をして実家の戸籍を離れて平民籍となる事を選びました。

 

原敬は若い頃から学業に熱心で、貧しい中でも東京へ出て苦学し、司法省学校にも入学し優秀な成績を収めています。

 

その後は新聞社記者を経て、外務省で外交官として活躍、陸奥宗光や伊藤博文に重用されて政治の世界へと入り、逓信大臣や内務大臣を歴任した後に、内閣総理大臣に就任しました。

 

本格的な政党政治の実現など、多大な功績を残しましたが、総理大臣就任3年目の1921年11月4日に東京駅で暗殺され65歳で死去しました。

 

ここでは、原敬は何した人かについてや、人物像がわかるエピソード、なぜ暗殺されたのかや暗殺者について、原敬の暗殺がその後の日本に与えた影響などを中心に書いていきます。

 

 

 

原敬は何した人か① 戊辰戦争後主家である盛岡藩が没落し困窮するも苦学

 

出典:http://harakeijiten.la.coocan.jp/

 

原敬は、安政3年2月9日(1856年3月15日)に、盛岡藩(現在の岩手県)の家老格だった武家、原家に父・原直治と母・リツの次男として生まれました。

 

原敬が4歳の頃に祖父の原直記が、9歳の時に父親の原直治が死去し、家督はまだ12歳だった兄の原平太郎が相続。それからわずか3年後には戊辰戦争が勃発し、盛岡藩は旧幕府側として戦って敗れたため賊軍(天皇の敵)とされてしまい没落、原家の家禄(主家から与えられる報酬)も10分の1にまで減らされて、苦しい生活を強いられました。

 

そんな中でも教育熱心だった盛岡藩の家風と、原敬自身の優秀さと勉学への熱意もあって、原敬は13歳の時に藩校である「作人館」に入り、その翌1871年12月、15歳の時に東京へと遊学し、那珂梧楼の私塾、南部氏(盛岡藩旧藩主)が運営する「共慣義塾」、旧会津藩士岸俊雄の私塾「苟新塾」などで学びました。この遊学費用は、母親のリツが菓子商いをして、苦しい生活の中から捻出しました。

 

ところが、盛岡の実家が盗みにあって、原敬への送金が止まってしまい、原敬は1872年7月に1度実家に戻る事を余儀なくされています。

 

原敬はなんとか勉学を続けようと再び上京し、1872年冬にフランス人宣教師が経営する食費と宿泊費が無料(布教と宣教師育成が目的だったため無料だった)のカトリック系の新学校へと入りました。翌1873年、17歳の時に原敬は洗礼を受けて「ダビデ」という洗礼名も授かっています。

 

この時、原敬はキリスト教の教えに感銘を受けて、一時は本気で宣教師を目指した事もあったようです。程なくして、原敬は横浜で布教活動をしていたフェリクス・エヴラール神父の元へと移ってフランス語やキリスト教を学び、その翌年の新潟伝道にも随行し布教活動に加わりました。

 

1875年頃、原家は家禄を奉還して一時金を得て、それを元手に養蚕業を営み、経済的な余裕が生まれていました。再び実家の支援を受けられるようになった原敬は、再び上京して箕作秋坪の英学塾「三叉学舎」を経て、1876年20歳の時に司法省法学校を受験し合格し、約2年半にわたってフランス語での授業を受け、101人中10位という優秀な成績を収めました。

 

しかし、その3年目の1879年に原敬は、学友が処罰を受けた事に抗議をして校長と対立したのが原因となって司法省法学校を放校処分となっています。

 

 

原敬は何した人か② 「郵便報知新聞」、「大東日報」で記者として活躍

 

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司法省法学校を放校となったその後、原敬は自由民権運動の指導者の中江兆民の仏学塾でフランス語を学びながら、民権派の新聞に寄稿をする民権記者として生計を立てるようになりました。

 

そして1879年11月、23歳の時に原敬は工部省権大書記官だった中井弘の斡旋により、フランス語力を買われて「郵便報知新聞社」に入社し、1880年からは記者として活躍するようになりました。

 

1881年5月、原敬は外務官僚だった渡辺洪基の全国周遊旅行に随行し、133日間に渡って周遊して地方の政治・産業の実態を知り、それを新聞に連載しました。この経験は原敬のその後の政治思想にも大きく影響したようです。

 

しかしその後、大隈重信派によって郵便報知新聞社が買収された事で、原敬は社内に居場所を失い、1882年1月26日に退社しています。

 

当時、外務卿であった元老・井上馨は、退社となった原敬に目をつけ、1882年4月に大阪で新たに創刊した立憲帝政党の機関紙「大東日報」の主筆に抜擢しています。原敬はこれによって政府御用新聞記者の立場となり、財界とも太いパイプを築きました。

 

しかし、同年10月には路線をめぐって対立し、原敬は大東日報を離れています。

 

 

原敬は何した人か③ 外務官僚となってフランス語を活かして活躍

 

出典:https://www.ndl.go.jp/

 

大東日報を離れ、東京へと戻った原敬でしたが、フランス語が堪能な貴重な人材を欲した外務省に声をかけられ官界へと入りました。

 

1883年11月、27歳だった原敬は、フランスと清国の関係悪化を受けて、情報収集のために天津総領事として清国(中国)へと派遣されました。

 

清国での原敬は、1884年に起こった清仏戦争に関する情報収集や、1885年の甲申政変の影響で悪化した日清関係修復のための天津条約締結の交渉などで、情報収集・分析などで活躍し、初代内閣総理大臣就任直前の元老・伊藤博文からの信頼を得ました。

 

1886年1月13日、29歳だった原敬は、フランス・パリ公使館の書記官に任命され渡仏しました。これは、伊藤博文らに見込まれた原敬を新政府の幹部候補生としての育成する事を目的としたヨーロッパ留学の側面もあったようです。

 

原敬は約3年間パリ公使館に勤務し、多忙を極める仕事の合間を縫って勉学に励みフランス語にさらに磨きをかけるとともに、パリ政治学院の科目履修生となり、現地の大学教授に師事して国際法や欧州の国際政治や文化を学びました。

 

 

原敬は何した人か④ 井上馨や陸奥宗光に重用される

 

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原敬は、1889年4月に日本に帰国しましたが、外務省には戻らずに農商務省参事官に任命されています。これは当時の外務大臣・大隈重信が原敬を嫌っており、農商務大臣だった井上馨が原敬の能力を高く評価していたためでした。

 

1890年5月、藩閥(薩摩藩、長州藩、土佐藩、肥前藩)外の和歌山藩出身の陸奥宗光が新たに農商務大臣に就任すると、原敬は大臣秘書官兼参事官に任命されて重用され、狩猟規則の制定や富岡製糸場の払い下げなどに関わりました。

 

1892年、原敬は、陸奥宗光の農商務大臣の辞任に従う形で退官し、同年7月に第2次伊藤博文内閣の成立によって陸奥宗光が外務大臣に任命されると、原敬も外務省に復帰。領事裁判権撤廃や外務省機構改革、外交官試験導入などの外務省の改革に従事しました。

 

1895年には外務省ナンバー2である外務次官に任命され、病気がちで療養生活を余儀なくされていた陸奥宗光に代わって事実上の外務大臣として活躍しました。

 

1896年に陸奥宗光が外相を辞したのに伴って原敬は駐朝鮮公使に任命されますが、同年10月に第2次松方内閣が成立し、自身と方針が相反する大隈重信が外務大臣に就任したのを受けて辞職を決意して帰国し、1897年2月23日に正式に辞任し外務省を離れています。

 

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外務省を離れた原敬は、陸奥宗光の勧めもあって、大阪毎日新聞社の編集総理(編集長)に年俸5000円(現代の価値に換算して約2000万円)という破格の条件で招聘され、翌1898年9月には社長に就任しました。

 

当時の日清戦争後の列強による中国大陸への勢力拡大の動きに対しても、原敬は大手新聞社の経営者の立場から、列強国間の勢力均衡による平和を主張する報道姿勢を貫き通しました。

 

 

原敬は何した人か⑤ 伊藤博文の立憲政友会に参加し政界へ進出

 

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原敬が大阪毎日新聞の社長に就任する3ヶ月前の1898年6月、伊藤博文は第三次伊藤内閣の総辞職によって首相を辞任し、政党内閣制の確立を企図し、自身の政権与党となる政党の結成に向けての準備を進めていました。

 

この頃、原敬は伊藤博文とは疎遠になっていましたが、伊藤博文の盟友である井上馨は、官界と財界に太いパイプを持ち、高い事務能力も持つ原敬を重視しており、伊藤博文は原

敬に新党結成に向けての事務の一切を担当して欲しいと依頼しました。

 

原敬はこれに応じ、1900年5月の「立憲政友会」の結成に参加しました。その後、同年10月には第4次伊藤博文内閣が成立し、原敬は同年12月19日に大阪毎日新聞社社長を辞任して、立憲政友会総務委員兼幹事長に就任しています。

 

そして、同年12月21日、原敬は逓信大臣(交通、通信、電気を管轄する逓信省のトップ)に任命され鉄道敷設法の改正に取り組みましたが、これは貴族院の反対にあって頓挫しています。

 

また、渡辺国武大蔵大臣が「公債に依存した事業の全停止」を提案。鉄道建設は鉄道公債の発行によって賄う事が鉄道敷設法によって定められていたため、この提案は新規の鉄道敷設事業全ての停止を求めている事に等しく、地方への鉄道線の延長が地方の振興に繋がるという考えを持っていた原敬はこれに激怒。

 

渡辺国武大蔵大臣と対立する事になり、これが原因となって1901年5月に伊藤博文首相と渡辺蔵相が辞職し、第4次伊藤内閣は瓦解する事となりました。

 

ただ、大物政治家である渡辺国武と真正面から対立した事は原敬の政治家としての名声を高める事につながっています。

 

 

 

原敬は何した人か⑥ 西園寺公望内閣で内務大臣を務め改革を断行

 

第4次伊藤内閣の崩壊後、1901年6月に第1次桂太朗内閣が成立して立憲政友会は野に降りました。

 

原敬は1902年8月の第7回衆議院議員総選挙に地元の盛岡市から出馬し初当選を果たしています。翌1903年3月の第8回衆議院選挙では、盛岡市が一致して原敬を支援する方針が決まり、以降、原敬は総選挙7回にわたってほぼ無投票での連続当選を続けました。

 

立憲政友会は、伊藤博文の後継として元老の西園寺公望が総裁の座に付き、1906年1月に第1次西園寺内閣が成立し原敬は内務大臣に任じられました。

 

原敬は内務大臣としては、警視総監を内務大臣直轄にするなどの警察改革や、古参の藩閥派勢力の大規模な更迭(知事6名を含む地方官75名にも及ぶ大更迭)を行い、有能な若手を登用する内務省内や地方の改革を断行しました。その後、第1次西園寺内閣の解散とともに原敬も内務大臣を辞任。

 

その後、第2次桂太郎内閣を経て、1911年8月30日に第2次西園寺内閣が成立すると、原敬は再び内務大臣に任命され、鉄道院総裁も兼任しました。

 

インフラ整備のために政府支出を拡大すべきと考える原敬や他大臣と、緊縮財政を主張する山本達雄大蔵大臣とが対立。西園寺公望首相の調停で各省の予算要求が停止されますが、原敬は鉄道敷設予算を復活させなければ辞任すると迫って西園寺首相とも対立しました。

 

明治天皇が山本達雄大蔵大臣の行政改革を支持している事を後ろ盾とした、原敬に行政改革のために各省の調整を行う役割を求めました。原敬は不満はあったものの、内閣の崩壊を回避するためにこれに従いました。

 

結果として、翌1912年5月の第11回衆議院議員総選挙で立憲政友会は大勝し、行政改革に大きな役割を果たした原敬の存在感は増して、メディアでも大きく取り上げられ、西園寺内閣は事実上の原敬内閣であるとまで呼ばれるようになりました。

 

しかし、陸軍が増強を求める「二個師団増設問題」が持ち上がり、日露戦争後の財政難と世論の反対もある事から、西園寺内閣はこれを拒否。結果、上原勇作陸軍大臣は辞任し、陸軍が後継の陸相を出さなかった事から1912年12月に第2次西園寺内閣は総辞職に至りました。(陸軍大臣と海軍大臣の就任資格を現役の大将か中将に限定する軍部大臣現役武官制のため)

 

 

 

原敬は何した人か⑦ 巧みな工作で立憲政友会を絶対多数党に育て総裁に

 

その後、後継として第3次桂内閣が発足するも、「藩閥妥当運動」が大きくなって2013年2月に桂内閣も崩壊。後継として立憲政友会の内閣成立は難しい状況となり、西園寺公望と薩摩閥は、薩摩藩出身の海軍大将・山本権兵衛を推しました。

 

藩閥・軍閥の巨頭であった山縣有朋もこれを了承。山本権兵衛は原敬と松田正久(政友会幹部)を入閣させる条件で政友会の支持を得ようとしますが、原敬はこれに加え、首相、外相、陸海相以外の閣僚を政友会に入党するという条件を提示。これによって第1次山本内閣が成立しました。原敬は内務大臣として入閣しています。

 

1914年6月、原敬は西園寺公望の後継として第3代立憲政友会総裁に就任しています。

 

 

 

原敬は何した人か⑧ 平民初の首相となり本格的な政党内閣を成立させる

 

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立憲政友会の総裁となった後の原敬は、1914年4月成立の第2次大隈内閣、1916年10月成立の寺内正毅内閣を経て、1918年9月27日についに内閣総理大臣に任命されました。

 

原敬は、衆議院であり、爵位を持っておらず、藩閥の出身でもない史上初めての内閣総理大臣でした。また、原内閣は、陸軍大臣、海軍大臣、外務大臣(外務官僚時代の原敬の同僚だった内田康哉)以外の全ての閣僚が立憲政友会の党員で組閣されました。この事から、原内閣は史上初めての「本格的な政党内閣」とされています。

 

原敬内閣は、全国各地での鉄道敷設や港湾整備などによる地方の経済発展や高等教育機関の充実などによる教育改革を推し進め成果を上げました。外交においては、それまでの強行路線から、軍部の拡張を極力抑え、世界的な潮流であった国際協調路線へと舵を切って特にアメリカとの関係を重視しました。

 

原敬が内閣総理大臣であったのは、1921年11月4日に東京駅で暗殺されるまでの約3年の期間だけでしたが、そのアメリカを重視した国際協調路線は、戦後の日本の外交の基盤となったとも言われています。

 

また、原敬は、明治維新以降長らく続いた藩閥政治から政党政治への脱却を果たした最大の功労者としても高く評価されています。

 

 

 

原敬のエピソード① 大阪毎日新聞を庶民的なものに変え売り上げを3倍に

 

原敬の印象的なエピソードについても見ていきます。

 

1895年8月、39歳の時に外務省を離職した原敬は大阪毎日新聞に年俸5000円(現在の価値に換算して約2000万円)の待遇で編集長として招聘され、次いで社長を努めました。

 

この大阪毎日新聞時代、原敬は新聞をより庶民的なものにする事を目指し、文体をそれまでの文語体から読みやすい口語体に変え、漢字を極力減らしふりがなも振るなどし、一般庶民でも読みやすいものへと変えました。

 

また、記事の内容自体も速報性よりも正確性を優先させた他、家庭欄や文芸欄、相撲取りや芸能人の人気投票企画を実施するなどエンタメ性も加えて、新聞の売り上げを瞬く間に3倍に増やしました。

 

 

原敬のエピソード② 藩閥体制への反骨精神を表す俳号や落款印を用いた

 

原敬は晩年、「一山(いちざん)」という俳号や、「一山百文(ひとやまひゃくもん)」と彫った落款印(日本画や書道などの作品に捺す四角いはんこ)を愛用しました。

 

これは、戊辰戦争の時に、新政府軍が旧幕府軍側に回った東北の地を「白河以北一山百文」(白河の関の北は山一つが100文の価値しかない)と蔑んだとする逸話に因んだものです。(100文は現在の価値にしてせいぜい数千円程度)

 

原敬は、その東北の地である陸奥国岩手郡本宮村 (現在の岩手県盛岡市)の生まれで、実家は旧幕府軍に属して戦い、敗戦により賊軍とされた盛岡藩の武士の家でした。

 

原敬は、長じて新聞記者となって、その後、官界、政界で活躍した生涯を通じて、長州薩摩閥による藩閥政治に対して批判的な立場を貫き通し、本格的な政党政治を実現しました。

 

原敬はこの「一山」の俳号や、「一山百文」の落款印を藩閥政治への反骨精神の証としてあえて使用したようです。また、これによって東北出身者としての誇りも表現していたのだと思われます。

 

 

原敬のエピソード③ 生涯質素な生活を貫き私財もほとんど遺さなかった

 

原敬は、生涯を質素な生活を貫いた清廉潔白な人物であったと評価されています。

 

原敬は、40代前に外務省を辞めた時に支払われた退職金で家を購入しましたが、生涯その家に住み続け、その後どれだけ出世をしても豪華な邸宅を構えようとはしませんでした。原敬が生涯住んだこの家は、立憲政友会内部でも貧弱すぎると問題になるほど質素なものでした。

 

また、原敬は生前に3度、爵位を受ける話が持ちかけられましたが、それを全て固辞しています。また、勲章授与の話も全ても断っています。原敬の死後に、伯爵を授与するという話が持ち上がりましたが、これも妻の浅が断っています。

 

原敬は、自身が爵位を持たない「平民」である事が、自身の政治生命を支える要である事を理解していたため、叙爵を断り続けたとされています。

 

また、原敬は自分の死後に財産を全て立憲政友会に返すようにと家族に遺言していたという事です。

 

 

 

原敬の最期は東京駅での暗殺事件

 

出典:https://www.asahicom.jp/

 

本格的な政党政治の実現の最大の功労者と評される原敬ですが、1921年11月4日に東京駅で突如襲撃され暗殺されました。これは、現役の首相が暗殺された初の事例でした。

 

その日の19時10分頃、原敬は翌日に京都で予定されていた立憲政友会近畿大会に出席するため東京駅に到着しました。

 

東京駅駅長室に立ち寄った後、原敬は見送り人に囲まれながら改札口へと歩いて向かっていました。19時25分頃、周囲を取り囲む群衆をかき分けて突進してきた男に、原敬は短刀で右胸を刺されました。

 

暗殺者の男は中岡艮一(なかおか・こんいち)という当時18歳の男で、山手線大塚駅で転轍手を務めていた鉄道員でした。暗殺者の中岡艮一はその場で取り押さえられ逮捕されています。

 

原敬は駅長室に運び込まれて応急処置を受け、連絡を受けた妻の浅が19時40分頃に東京駅へと駆け付け、20時10分頃に自動車で自宅へと運んで医師の診察と治療が施されましたが、傷は右肺から心臓にまで達しており、原敬はほぼ即死の状態でした。

 

 

 

原敬の暗殺者は鉄道員の中岡艮一

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

原敬の暗殺者は中岡艮一(なかおか・こんいち)という男で、1903年10月12日に栃木県で生まれています。父親は足尾銅山の技師でした。

 

中岡艮一は高等小学校を中退後、印刷工場の見習い工員となりますがすぐに辞め、1919年11月から山手線大塚駅で駅夫見習いとして働き、犯行時には大塚駅転轍手を務めていました。

 

原敬を暗殺して逮捕された後は、無期懲役の判決(死刑求刑)を受けていますが、どういうわけか一連の裁判は異例の速さで進められ、調書などの記録もほとんど残されていません。

 

そして、中岡艮一は恩赦による3度の減刑を受けて1934年に釈放されています。その後は政治活動はせずに、満州で陸軍第四軍管区司令部で勤務していた記録が残っています。その後、第二次大戦終結後に帰国し、1980年に77歳で死亡しています。

 

 

 

原敬はなぜ中岡艮一に暗殺されたのか

 

原敬の暗殺事件については謎が多く、なぜ暗殺されたのかははっきりとはわかっていません。

 

暗殺者の中岡艮一は、以前から原敬に対して批判的な意見を持っており、原敬が平民の首相を謳いながら、実質的に政商や財閥中心の政治を行ったと考えた事、野党が出した普通選挙法に反対する姿勢を崩さなかった事、ロシアで赤軍パルチザンによる、日本人居留民731人も犠牲になった大規模な住民虐殺事件「尼港事件」が起こった事、原内閣の閣僚3人が政商と結託しての株の不正売買などの数々の疑獄事件に憤りを覚えた事などによって、原敬の暗殺を決意したとされています。

 

また、大塚駅の上司の橋本栄五郎という人物が反政権的な意見を持っており、その影響を受けたのが暗殺の動機につながったとの見方もあります。

 

さらに、中岡艮一の裁判は、現役の首相の暗殺者という重大な犯罪人であるにもかかわらず、裁判は異例とも言えるスピードで進みました。取り調べの調書も何故かほとんど残されておらず、裁判の審理も謎が多い状態で、中岡艮一のの犯行動機についてもはっきりとした事はわかっていません。

 

なぜ原敬が暗殺されたのかについては、背後に反対勢力がおり中岡艮一はその実行犯だったに過ぎないという見方もあります。そのため、何らかの政治的な力が働き、中岡艮一は無期懲役の判決が下されながら、3度もの恩赦でわずか13年で出所したのではないかとも言われています。

 

さらに、中岡艮一は、出所後は満州に渡って陸軍で勤務していますが、戦争中も通じて前線に送られる事はなく、比較的安全な後方の司令部に勤務して、終戦後には帰国して1980年まで安穏とした人生を送りました。

 

こうした事も、原敬の暗殺に関して何らかの政治的な力が働いていた事を示しているのでないかとの見方も出ています。

 

 

 

原敬暗殺事件のその後…軍部に対する抑止力がなくなり日本は戦争の道へ

 

原敬暗殺事件のその後、軍部に対する政治的な抑止力が無くなり、満州事変や5.15事件などを経て、原敬内閣の礎を築いた国際協調路線を崩壊。日本は中国大陸進出への動きを強め、国際的に孤立していきました。その後、日米開戦によって悲惨な戦争と敗戦への道を進んでいく事になります。

 

この流れから、もし原敬が暗殺されていなければ、その後の軍部の暴走は阻止され、日米開戦を回避できたのではないかとする見方もあります。

 

 

 

原敬の子孫

 

出典:https://upload.wikimedia.org/

 

原敬は生涯に2度結婚しています。

 

1人目の結婚相手は中井貞子という女性で、中井弘の娘で井上馨の養女でした。この最初の妻の貞子との結婚生活はうまくいかずに、1896年から別居し1905年に離婚しています。2人目の妻は浅という女性で、再婚後は生涯連れ添っています

 

しかし、原敬はこの2人の妻との間には子供には恵まれなかったため、原敬には直系の子孫はいません。

 

ただ、原敬は姪のエイの次男の貢を養子に迎えています。原敬の養子の貢は、原奎一郎の名前でも知られ、慶應義塾大学予科、英国留学を経て、同盟通信記者として活躍。戦争後は著作家として活躍されました。

 

また、この原敬の養子の貢の娘はスタイリストの原由美子さんです。

 

 

 

まとめ

 

今回は、日本初の本格的政党内閣の生みの親で、「平民宰相」の異名でも知られる明治から大正にかけての政治家・原敬についてまとめてみました。

 

原敬が何した人かについては、元は東北の盛岡藩の家老格の武家の生まれですが、戊辰戦争を経て没落。若い頃から苦学して新聞記者を経て外務官僚となり、井上馨や陸奥宗光、伊藤博文らの信頼を得て政治の道へと入り、巧みな政治手腕によって、伊藤博文から継承した立憲政友会を大政党に育て上げて、内閣総理大臣まで上り詰めたという人物です。

 

原敬のエピソードとしては、当時は文語体だった新聞を現在のような口語体に変えて庶民にも親しみやすい物とした事や、藩閥政治への反骨精神の現れとして「一山」の俳号、「一山百文」の落款印を使った事、生涯質素な生活を貫き、爵位の授与の話も全て固辞した事などがよく知られています。

 

最期は、内閣総理大臣就任3年目の1921年11月4日に東京駅で暗殺され、65歳で死去しています。

 

暗殺者は当時18歳の鉄道員の中岡艮一という男でしたが、この男は裁判で無期懲役の判決を受けたにも関わらず、どういうわけか3度もの恩赦を受けて13年で出所しその後は陸軍司令部で勤務して戦争後に帰国し1980年まで生きています。

 

こうした不可解な事もあり、原敬がなぜ暗殺されたのかについては多くの謎が残り、背後に何らかの政治的な勢力があったと疑う向きもあります。

 

原敬暗殺のその後、日本では軍部の暴走がはじまり、太平洋戦争へと突入して敗戦への道を進んで行く事になりました。

 

原敬の子孫については、子供がいないため直系の子孫はいないものの、養子の子孫が現代まで存続しています。

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