1948年1月に起きた嬰児埋め込み事件「寿産院事件」ですが、犯人の石川ミユキ夫婦の動機やその後が話題です。
今回は「寿産院事件」の場所や被害者数、事件発覚の経緯や犯行の詳細、石川ミユキ夫婦の判決や動機、跡地などその後や現在を紹介します。
この記事の目次
「寿産院事件」とは?事件が起きた場所と被害者数も紹介
第二次世界大戦の終結を迎えて間もない戦後の混迷期である1948年1月、「寿産院事件」は発覚しました。
事件が起きた場所は、東京都新宿区柳町(当時は旧東京市牛込区牛込柳町)23番地です。
事件の主犯格は寿産院で助産師を務めていた石川ミユキ、そして夫の石川猛でした。
2人は大金を得るために配給品を横流ししたり、養育料の横領をするなどする中で、大勢の嬰児を殺害していました。
この事件は社会に多大な衝撃を与え、産児制限を重視する声が高まったほか、優生保護法が制定されるきっかけとなりました。
また、多くの職能団体の解体や分裂を招きました。
「寿産院事件」の被害者数とは?
「寿産院事件」は、1944年4月から1948年1月15日までにかけて犯行が行われ、殺害人数は103人説が有力です。
寿産院では、里子として預かった200人以上の乳幼児のうち、85~169名が凍死、餓死、窒息死していました。
「寿産院事件」の犯人は石川ミユキと夫の石川猛
「寿産院事件」の主犯格は、寿産院で助産師をしていた石川ミユキ(当時52歳)です。
石川ミユキは1897年(明治30年)2月5日生まれで、宮崎県東諸県郡本庄村の出身でした。
18歳で県立職業学校を卒業すると上京し、東京帝国大学医科大学附属産婆講習所に進学します。
この講習所は、内務省令指定規則により卒業者は無試験で産婆資格を取得でき、石川ミユキは修了後、日本橋や牛込などで約30年間にわたり産院を経営していました。
そして、夫となった石川猛(当時58歳)も石川ミユキの犯行に加担していました。
「寿産院事件」が発覚した経緯
不審な男を警官が取り調べて赤ちゃんの遺体を発見
1948年(昭和23年)1月12日の朝、早稲田署の警察官2人が東京都新宿区榎町15番地付近をパトロールしていました。
そこへ、葬儀屋・長崎竜太郎(当時54歳)が大きい木箱を4箱も持っているのを見かけ、不審に思った警察官は事情聴取をします。
警察官2人が木箱を調べてみると、中には5人の赤ちゃんの遺体が入っていました。
長崎竜太郎に問いただすと、新宿区柳町にある寿産院から頼まれたもので、これから火葬場に持っていくところだと答えました。
警察官2人は長崎竜太郎を任意同行して詳しく事情を聞いてみると 、これまでに30件ほど同様の依頼を受けており、1件当たり500円で引き受けて埋葬していたことを白状しました。
第2次世界大戦後間もない1948(昭和23)年1月、まだ敗戦後の虚脱感が残っていた。東京都新宿区の路上で、大きな木箱を持って運ぶ不審な男がいた。男は葬儀屋で、箱の中には乳児の死体5体が入っていた。男が言うには、死体は産院から預かったもので、これまで数十の遺体を預かったという。
食糧事情がよくなく医薬品も少ない時代とはいえ、あまりにも多い数の子どもが死亡している。異様さを察知した警察がすぐにその寿産院を調べると、4年前の開院当時から100人以上の乳幼児が亡くなっていることが判明した。
この長崎竜太郎の供述により、石川ミユキと石川猛に疑いがかかります。
石川みゆきと夫・石川猛が逮捕された
押収した5人の赤ちゃんの遺体を国立第一病院で検死したところ、3人は栄養失調と肺炎が死因であり、もう2人は凍死でした。
さらに慶応病院で解剖をした結果、5人の赤ちゃんの胃袋には何も食べ物が入っていませんでした。
1948年1月15日、石川ミユキと石川猛は逮捕されました。
石川みゆきと石川猛は闇ビジネスをしていたことが判明
寿産院は決して設備が整っている産院ではありませんでした。
にもかかわらず、石川ミユキは戦時中から新聞の三行広告を使い、赤ちゃんの子育てに困っている譲り手ともらい手の両方を募っていました。
譲り手からは赤ちゃん1人につき2000円から1万円を養育費として受け取り、もらい手からは謝礼金として顔の良し悪しにより300円から500円を受け取っていたのです。
この当時の100円は現在の価値に置き換えると約2万円程度でしたので、石川ミユキ夫婦は大金を受け取っていたことになります。
石川ミユキらの客となった譲り手は、 戦争や戦災で夫を亡くした未亡人や、水商売や娼婦など女性1人では子育てができない人々が大半でした。
また、終戦によって多くの男性が戻ってきたためベビーブームとなり、寿産院ではあっという間に預かった赤ちゃんで溢れかえったといいます。
石川ミユキは気分で赤ちゃんを殺害していた
寿産院では、譲り手に対してもらい手が圧倒的に少なく、赤ちゃんの世話が追いつかなくなります。
石川ミユキらは預かった嬰児に通常の半分しかミルクを与えず、おむつを替えないばかりかお風呂にも入れてないという劣悪な環境に置いていました。
さらに、衰弱死する寸前まで医者にも見せなかったといいます。
当然、多くの赤ちゃんが泣き叫ぶため、そのうるささにイライラを募らせた石川ミユキは、布団で包んで窒息死させたり、放置して餓死させるなどしていました。
もらい手がなかなかつかなかった赤ちゃんのほとんどが栄養失調により亡くなっており、その他の赤ちゃんも冬場に凍死したそうです。
事件が発覚したときの5人の乳児は、2人が凍死、3人は栄養失調だった。解剖すると、胃には食べ物の痕跡が何もなかったという。他の死因も、凍死や餓死、窒息死が多かったという。自然死なのか他殺なのか、それは不明な点が多くまちまちだが、少なくとも消極的な殺人であったことは間違いない
「寿産院事件」で犯人・石川ミユキ夫婦だけでなく行政にも批判が集まった
「寿産院事件」が発覚すると、当然世間は石川夫婦に猛烈な批判の声を浴びせました。
そして、頻繁に提出される赤ちゃんの死亡届を何の疑いもなく受理していた新宿区役所の対応にも批判が集まりました。
当時の区長は、死亡届は全て実親の名前になっていたため分からなかったとしています。
また、埋葬用に特別に配給されるお酒の切符を発行する経済課と、埋葬許可証を発行していた衛生課は「書類が揃っているから出した」 と批判をかわしました。
1948年2月24日には、寿産院の近くにある宗圓寺において、葬儀屋で押収された乳幼児35人分の遺骨と、「寿産院事件」で犠牲となった85人分の遺骨も合同で慰霊祭が行われました。
「寿産院事件」の犯人・石川ミユキの裁判と判決
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1948年(昭和23年)10月11日、東京地裁は石川ミユキに懲役8年、夫の猛に懲役5年の有罪判決を言い渡しました。
また、偽りの死亡診断書を発行するなど犯行に加担していた医師の中山四郎に禁固4年、犯行には加わらなかった元助手の貴志正子に無罪を言い渡しています。
葬儀屋の長崎竜太郎は不起訴処分となりました。
これに対して石川夫婦は控訴し、1952年(昭和27年)4月28日における控訴審判決で、東京地裁は石川ミユキに懲役4年、猛に懲役2年と刑を半分に減刑しました。
この異常に軽い判決に、世間の批判が殺到したのは言うまでもありません。
ちなみに、1949年(昭和24年)4月に、「寿産院事件」を受けて避妊薬の使用が公認され、6月には経済的理由による妊娠中絶が認可されました。
「寿産院事件」の犯人・石川ミユキの犯行動機とは
石川ミユキと猛は、1943年頃から主に未婚の夫婦の間に生まれた育てられない赤ちゃんを預かり、産院で養育しながら子供が欲しいもらい手に斡旋する事業を始めていました。
初期の頃は赤ちゃんを殺害するつもりはなかったと見られますが、ベビーブームにより預かる赤ちゃんが急激に増えたため、手に負えなくなり犯行に及びました。
ベビーブームでもあった当時、手許での子育てが困難な親から子どもを預かっていた院長夫婦。あるいは、養子に出したい子を引き取ることもあった。そこには養育費や養子斡旋料が発生する。院長夫婦はそこに目をつけたのだ。
さらに、石川夫婦の犯行動機は言わずもがな金銭のためですが、日本犯罪史上でも例を見ない悪鬼のごとき所業でした。
時代背景も影響していた
石川ミユキらは強欲になり過ぎるあまりに多くの赤ちゃんを殺害し逮捕されましたが、当時の時代背景からこうした産院は少なからずあったとみられ、氷山の一角だと言われています。
預けた親たちは、戦争未亡人や、生活に窮し仕方なく夜の務めに出る女性などがほとんどだったという。当時、東京だけでも年間に産院が100軒以上も増加していたというから、この事件は氷山の一角かもしれない。まさに、そんな時代に生まれてきてしまった乳児たちの悲劇。食糧を与えられない幼い命たちは泣く力もなく、無言の抗議すらできなかった。筆舌に尽くせぬとは、こうしたことをいうのであろう。短い生を終えた薄命の子らは、骨になった後、産院の押入れや米びつの中に無造作に入れられていた。残酷というほかはない。
厚生省の調査では、事件当時である1949年1月の未亡人数は約187万7000人、このうち2~3割が戦争未亡人だと言われています。
俗に「60万戦争未亡人」と言われたようですが、終戦により多くの男性が戻ってきたため、これらの未亡人と結婚や再婚するなどのケースも見られ、ベビーブームを後押ししたようです。
まさに時代が生んだ闇の深い事件だと言えるでしょう。
「寿産院事件」のその後:同様の手口の事件も発覚している
「寿産院事件」が氷山の一角だったことを示す報道が出ていました。
1948年2月10日に発刊された朝日新聞では、「死児六十一 第二の壽産院を取調べ」の見出しで寿産院と同様の手口を働いていた産院が報じられていました。
この産院の名前は明かされませんでしたが、寿産院と同様の手口で犯行が行われ、産院の責任者が任意出頭の形で連日の取り調べを受けているという報道でした。
なお、この産院で殺害された赤ちゃんの数は不明となっていますが、61人の死亡診断書がこの産院から出ているとされていました。
「寿産院事件」の現在① 跡地は空き地になっている
事件発覚当時、寿産院は牛込柳町23番地にありましたが、現在は27番地となっているようで、跡地は空き地になっています。
「寿産院事件」の跡地はオカルトスポットに?
前代未聞の多くの赤ちゃんの殺害現場となった寿産院の跡地は、現在ではオカルトネタとして心霊スポットにされているようです。
この跡地付近には大学者・斎藤勇が殺害された斎藤家もあり、寿産院跡地には浮かばれない赤ちゃんの霊が怪現象を引き起こしていると言われています。
「寿産院事件」の現在② 現在でも子供の虐待死は多い
現代ではさすがに赤ちゃんの大量殺人事件は発生していませんが、裏社会では赤ちゃんの人身売買は横行しています。
また、子供への虐待が社会問題となっており、「寿産院事件」の当時とは比べ物にならないほど生活が豊かになっていながら、人の心は豊かになっていないと言えるかもしれません。
厚生労働省の2003~13年度の調査によれば、無理心中以外の虐待などの理由で亡くなった18歳未満の子供は計582人、そのうち0歳児が256人と実に半数近くを占めています。
さらに、そのうち生後24時間以内に殺害された人数は98人で、加害者の9割は実母でした。
主な死因は絞殺以外の窒息が37.8%、出産後の放置が15.3%、絞殺が6.1%となっています。
大人の身勝手な都合で無力な赤ちゃんが殺害される社会は、いつになったら終焉を迎えるのでしょうか。
「寿産院事件」の現在③ 犯人・石川ミユキのその後
石川ミユキのその後が注目されていますが、1897年2月5日生まれということなので、すでに死亡していると思われます。
まとめ
1948年1月に発覚した「寿産院事件」は、100人以上もの赤ちゃんが金銭目的で殺害された痛ましい事件です。
これだけ非道な犯罪を犯したにもかかわらず、懲役4年という極めて軽い刑で済んでしまった石川ミユキへの批判はもとより、司法や当時の社会構造にも問題があったと言わざるを得ません。
ただ、人の心を持たない悪鬼のような所業は現在もなくなっていません。
これ以上、抵抗するすべのない子供達への虐待が起こらないことを祈るばかりです。また、亡くなった赤ちゃん達のご冥福を心よりお祈り申し上げます。