元アメリカンフットボールのスター選手、O・J・シンプソンが被疑者となった「O・J・シンプソン事件」が世界中の注目を集めました。
ここでは「O・J・シンプソン事件」の真実や、殺害された嫁や真犯人として疑われた子供、O・J・シンプソンのその後や死去についてなどをまとめています。
この記事の目次
O・J・シンプソンのプロフィール
O・J・シンプソンのプロフィール
本名 :Orenthal James Simpson
生年月日:1947年7月9日
出身地 :米国カリフォルニア州サンフランシスコ
身長 :約185.4cm(6フィート1インチ)
体重 :約96.2kg(212ポンド)
血液型 :不明
O・J・シンプソンは、1970年代に活躍したアメリカンフットボールのスター選手で、プロフットボール殿堂入りも果たした国民的スターです。
1979年の現役引退後は解説者や俳優として活躍して人気を集めましたが、1994年に元嫁・ニコール・ブラウンとその友人で俳優志望のロナルド・ゴールドマンの2人を殺害した容疑で逮捕されました。
今回はこの、O・J・シンプソンが逮捕された事件「O・J・シンプソン事件」に焦点を当てます。
O・J・シンプソンの元嫁・ニコール・ブラウン
「O・J・シンプソン事件」についてみて行く前に、事件の背景をわかりやすくするために殺害されたO・J・シンプソンの元嫁・ニコール・ブラウンについても紹介しておきます。
まず、O・J・シンプソンは2度の離婚を経験しています。最初の嫁は黒人女性・マルグリート・ウィットレイで、1967年結婚して1979年に離婚しています。その後出会い再婚したのが1985年に再婚した元嫁・ニコール・ブラウンです。1992年に離婚しています。
この元嫁・ニコール・ブラウンとの離婚理由については、O・J・シンプソンによるDVが原因だったと言われていますが、関係者や元嫁自身が後にそれを否定する発言をしており、事実ではないとする見方もあります。
O・J・シンプソンの子供は5人
O・J・シンプソンには5人の子供がおり、その内の2人が元嫁・ニコール・ブラウンとの子供で、残りの3人がその前の嫁・マルグリート・ウィットレイとの間にできた子供です。
O・J・シンプソンとニコール・ブラウンの子供は、1985年に生まれた娘のシドニー、1988年に生まれた息子のジャスティンの2人。
また、「O・J・シンプソン事件」にも関わりがあるのが1970年に生まれた前嫁・マルグリート・ウィットレイとの息子・ジェイソンです。これについては後述します。
なお、前嫁・マルグリート・ウィットレイとの間に生まれたO・J・シンプソンの後2人の子供は、1968年に生まれた娘のアーネルと、1977年に生まれた娘のアーレンです。
O・J・シンプソン事件とは
まずは「O・J・シンプソン事件」の概要を見ていきます。
「O・J・シンプソン事件」の発生
「O・J・シンプソン事件」は、1994年6月13日の午前0時10分頃、O・J・シンプソン(当時47歳)の元嫁・ニコール・ブラウン(当時35歳)と、その友人で俳優志望だったロナルド・ゴールドマン(当時25歳)の血だらけの遺体が発見された事によって始まりました。
2人の遺体が発見されたのは、アメリカ・カリフォルニア州ロサンゼルスのブレントウッドのニコール・ブラウンの自宅玄関の前で、すでに2人とも事切れていました。
O・J・シンプソンの元嫁・ニコール・ブラウンと一緒に殺害されていたロナルド・ゴールドマンは180cmの長身で、格闘技経験もあったため、犯人はかなり大柄かつ平均よりかなり強い腕力を持つ人間だと警察は推測。
ニコール・ブラウンは頸部を刃物で切断され、後頭部には鈍器によるものと見られる挫創。ロナルドゴールドマンは顔から体、左太ももにかけて合計で19ヶ所も刃物で刺されており、後頭部には深い挫創がありました。
現場に残された血の足跡がひとり分だったため単独犯によるものと見られ、また、現場には血の付着した左手の革手袋が落ちていました。
事件が起こる前から現地警察は、ニコール・ブラウンから、離婚後もO・J・シンプソンに執拗に付きまとわれ「他の男と一緒にいるところをみたら殺す」などと脅迫を受けている事などを相談されていました。そのため、警察は事件当初からO・J・シンプソンを容疑者として見ていました。
事件発生時、O・J・シンプソンはイリノイ州シカゴにいましたが、警察からの連絡を受けてすぐにロサンゼルスへと戻りました。警察は飛行機から降りた直後にO・J・シンプソンに手錠をはめて逮捕しようとしますが、O・J・シンプソンの顧問弁護士のハワード・ワイズマンが対処してすぐに釈放されています。
O・J・シンプソンが車で逃走しカーチェイスが全米中継される
その後、O・J・シンプソンの自宅から現場で発見されていた革手袋の右手側が発見される、殺害現場に残された足跡のサイズとO・J・シンプソンの靴のサイズが一致、現場に残された血痕とO・J・シンプソンのDNA型が一致するなどを証拠に、同年6月16日、第1級殺人罪でO・J・シンプソンの逮捕令状がおります。
しかしなんと、O・J・シンプソンは所有するフォード・ブロンコを友人に運転させて逃亡を企てました。フォード・ブロンコはパトカーによる追撃を受けますが高速道路に乗って逃走しカーチェイスを展開。この様子はヘリコプターによって撮影されて全米で生中継され、世界中の注目を集めました。
O・J・シンプソンはこのカーチェイスを逃げ切っていますが、同日午後9時、自宅に戻ったところを弁護士のロバート・シャピーロ立ち会いのもとで逮捕されています。どうやらこの逃走劇は腕利きの弁護士・ロバート・シャピーロを確保する為の時間稼ぎだったようです。
なお、逃走に使われたフォード・ブランコの中からはマグナムリボルバー(大型拳銃)、8000ドルの現金、パスポートなどが発見され、O・J・シンプソンが海外逃亡を企てていた事などもうかがわれました。
刑事裁判
その後殺人容疑で起訴されたO・J・シンプソンの裁判は、殺害されたのが白人で、被疑者のO・J・シンプソンが黒人であったことから、殺人を認定するか否かよりも人種差別の問題が優先して論じられるという異例の展開となりました。
これは当時の報道にも現れており、雑誌「タイム」は表紙を飾ったO・J・シンプソンのマグショット写真(逮捕後に撮影される顔写真)を意図的に黒く加工して掲載。一方で「ニューズウィーク」も同じマグショット写真を表紙に使ったものの、こちらはオリジナルの写真をそのまま使用しました。この2誌が書店に並ぶと、黒人社会から「タイム」への批判が強まる事態となりました。
O・J・シンプソンはこの裁判に、ロバート・シャピーロやジョニー・コクランらを筆頭とすな高名な弁護士を雇って挑みました。この弁護団は当時の報道で「ドリームチーム」とも評されました。一方の検察側は、敏腕として知られる女性検察官・マーシャ・クラークを主席検察官に据えています。
検察側が提示した証拠
この裁判では、O・J・シンプソンが真犯人だとする証拠が山ほど存在していました。以下に検察側が示した証拠から主なものを列挙します。
① 現場に落ちていた血のついた革手袋の片方がO・J・シンプソンの自宅から発見されたこと。
② 現場に残された靴跡とO・J・シンプソンの靴のサイズが一致した事。
③ O・J・シンプソンの手に、刃物で切ったとみられる傷跡がある事。
④ O・J・シンプソンが事件発生の約40日前にナイフを購入している事。
⑤ O・J・シンプソンの所有車「フォード・ブランコ」のドアと助手席コンソール上にシンプソンとニコール・ブラウンの血液が付着している事
⑥ 現場に残された血痕とO・J・シンプソンのDNAが一致した事(誤りである可能性は570億分の1だとされた)
弁護側の反論が認められ無罪判決
一方の弁護側は、まず、O・J・シンプソンには既に新たなガールフレンドがあり、ニコール・ブラウンを殺害する動機がない事や、凶器のナイフが発見されていない事、残された靴の足跡がO・J・シンプソンの靴だと証明できない事、手の傷はホテルのコップを割った際に怪我をした傷である事など、一つ一つ証拠に反論します。
その上で弁護側は、初動捜査に当たった刑事が極度の黒人差別主義者であると主張し、示された証拠の数々が黒人差別によって捏造された可能性が高いと主張。裁判の重点を人種差別問題へと転化させる事に成功します。
さらに弁護側からは「採取したO・J・シンプソンの血液を警察が現場に蒔いた可能性」など、事件後の警察の不審な行動などが多数示され、裁判は被告側有利に展開。1995年10月3日、陪審員は全員一致で「無罪」と評決し評決しそのまま判決となりました。
民事裁判では有罪判決
無罪が確定した、O・J・シンプソンでしたが、その後、ロナルド・ゴールドマンの父親が起こした民事裁判が行われ、こちらは敗訴しています。
この民事裁判ではO・J・シンプソンの責任が認められ、ゴールドマンの父親に722万5千ドル、母親に127万5千ドルの補償金を支払う事が命じられる判決が下されています。
しかし、O・J・シンプソンの収入源であるNFL選手年金は法的に保護されており、差し押さえにはあっていません。
O・J・シンプソン事件の真実は?
O・J・シンプソンの無罪が刑事裁判で確定しましたが、2006年にその真実についてO・J・シンプソン本人が語っていた事が話題になっています。
O・J・シンプソンはメディアのインタビューを受けてこの事件当日の事を語っているのですが、シンプソンは「仮にだが」という前置きをした上で多くの衝撃的な真実を語っています。
当日、O・J・シンプソンはある友人から「元妻の家で起きている事を知ったら驚くぞ」と連絡を受け、「その何かを止めるために手袋に帽子、ナイフを持ってニコールの家へと駆けつけた」と語りました。
そして、O・J・シンプソンがニコールの家の前にいるところへ、ロナルド・ゴールドマンが車で現れたそうです。ロナルド・ゴールドマンはニコールの母親がレストランに忘れたサングラスを届けに来たそうなのですが、なぜかO・J・シンプソンはゴールドマンを怒鳴りつけたようです。
そして、その怒鳴り声を聞いたニコールが家から出てきて「さっさとここから立ち去って」とO・J・シンプソンに要求したようなのですが、そこで何事かがあってニコールが転倒し負傷。
O・J・シンプソンは「すると、相手の男が空手みたいなことを始めやがった。」と語ります。シンプソンはそれに「俺のケツを蹴れると思ってんのか?」と言って「ナイフを手に取った」と説明。「その後のことは正直覚えてないね」と「仮定の話」と前置きしながら、かなり具体的に事件の真実を自ら語ったのです。
さらに、O・J・シンプソンは、現場の状況について聞かれ「あんな風に殺されたんだから、周囲にいる誰もが血まみれになる」と自分が現場にいた事を暗に認める発言をしています。
アメリカの憲法では、刑事裁判で無罪が確定したO・J・シンプソンは2度とこの件で起訴される事はありません。O・J・シンプソンが語った内容が真実だとしても、判決が覆る事はありません。
O・J・シンプソン事件の真犯人について
出典:https://www.thefamouspeople.com/
仮にO・J・シンプソンが犯人ではないとすると、事件の真犯人は誰なのか?と言う点も盛んに議論されています。
「O・J・シンプソン事件」の真犯人としては、怒りを抑えられなくなる精神疾患「ジキルとハイド病」を患っていたとされる、O・J・シンプソンと前嫁の長男であるジェイソンではないかとする説があります。
ジェイソンはこの疾患によって何度も傷害事件を起こしており、麻薬にも手を出していてナイフでの戦闘訓練を受けた経歴も持っていました。
ジェイソンはニコールとも交流があり、事件の当日にはジェイソンが働く料理店でニコールが家族と共に食事をする予約を取っていました。しかし、ニコールはなぜかこの予約をすっぽかして他のレストランで食事をしていました。
この事に腹を立てたジェイソンが、衝動的にニコールの家へと押しかけて殺害に及んだのが真実ではないかと噂されたのでした。
O・J・シンプソンの現在
強盗で懲役33年の実刑判決となるも9年で仮釈放
「O・J・シンプソン事件」後の2007年9月、O・J・シンプソンはラスベガスのホテルに武装して侵入し、自身のものも含む多数のスポーツ記念品を盗み出して逮捕され、2008年12月に懲役33年の実刑判決を受けています。
2017年10月に仮釈放が許可され、その後はネバダ州南部のある都市にある豪邸に住んでいたようです。
現地の人々の人気者だったようで、道を歩けば写真をせがまれ、飲食店に行けば彼を歓迎する近所の人々が集まるほどだったとか。
お金には困らず、彼を支持するセレブな人々から、住宅や車のレンタルも無償で受けていたそうです。
また、「O・J・シンプソン」事件については現在も注目度は高く、2016年にはドラマ「アメリカン・クライム・ストーリー O・J・シンプソン事件」が放送され、同作は「第68回プライムタイム・エミー賞」にて9部門を受賞しています。
がんのため76歳で死去
O・J・シンプソンが2024年4月10日に亡くなったことが、翌11日、家族のXへの投稿で明らかになりました。76歳でした。
プロフットボールの殿堂のジム・ポーター会長は、O・J・シンプソンが前立腺がんを患い、化学療法を受けていたことを明かしています。
波乱万丈な人生を生き世界中を大きく騒がせたO・J・シンプソンですが、最期は大勢の子供や孫に囲まれながら息を引き取ったとのことです。
O・J・シンプソンの訃報を受けて、事件の被害者であるロナルド・ゴールドマンの父親は「真の責任を求める望みは絶たれた」、妹は「世界にとって大きな損失ではない。」とのコメントを出しています。
まとめ
今回はアメリカンフットボールの元スター選手・O・J・シンプソンが1994年に起こして全世界に衝撃を与えた「O・J・シンプソン事件」についてまとめてみました。
「O・J・シンプソン事件」はO・J・シンプソンの元嫁のニコール・ブラウンとその友人男性が何者かに殺害された事件で、数々の証拠がO・J・シンプソンが犯人である事を示していましたが、人種差別問題に重点を置いた裁判の結果、O・J・シンプソンは無罪になっています。
無罪判決後、O・J・シンプソンは自ら、自分が真犯人である事を匂わせる発言などもしていましたが、アメリカの憲法上2度とこの件で裁かれる事はありませんでした。
その後、強盗事件を起こし実刑判決を受けましたが、仮釈放後はアメリカネバダ州でセレブな生活を送っていたようです。ただ、O・J・シンプソンはがんを患っていたようで、闘病の末に2024年に76歳で亡くなりました。
事件から30年が経ち被疑者であったO・J・シンプソンも死去しましたが、被害者遺族の心の傷は癒えることはないのかもしれません。