1970年に発生した「よど号ハイジャック事件」は、新左翼党派の過激派「赤軍派」が起こした日本航空機「よど号」のハイジャック事件です。
今回は「よど号ハイジャック事件」の原因や経緯をわかりやすく解説し、犯人メンバーの顔画像付き紹介やその後や現在の様子についてもまとめました。
この記事の目次
- よど号ハイジャック事件とは
- よど号ハイジャック事件をわかりやすく解説① 事件を起こした赤軍派の目的
- よど号ハイジャック事件をわかりやすく解説② ハイジャック発生〜最初の人質解放
- よど号ハイジャック事件をわかりやすく解説③ 犯人グループを欺き韓国に着陸
- よど号ハイジャック事件をわかりやすく解説④ 日本政府が本格的な交渉を開始
- よど号ハイジャック事件をわかりやすく解説⑤ 北朝鮮へ到着。残りの人質も無事帰国へ
- よど号ハイジャック事件の犯人メンバー9名
- よど号ハイジャック事件・犯人のその後や現在① 計画は失敗し洗脳教育を受ける
- よど号ハイジャック事件・犯人のその後や現在② 現地の日本人と結婚
- よど号ハイジャック事件・犯人のその後や現在③ 5人が既に死亡し内3人は不審死
- よど号ハイジャック事件・犯人のその後や現在④ 残る4人は現在も北朝鮮に在住
- まとめ
よど号ハイジャック事件とは
「よど号ハイジャック事件」は、1970年3月31日に発生した日本で初めてのハイジャック事件です。
武装蜂起を強く主張する新左翼党派「共産党同盟赤軍派」のメンバー9人が、日本刀やピストル、爆弾(後に全ておもちゃだった事が判明)で武装し、乗客を装って乗り込んだ日本航空351便(愛称・よど号)を占拠し、乗客と乗務員を人質にとって共産主義国家である朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)へと向かうように要求しました。
「よど号」は、板付空港(現在の福岡空港)と韓国・金浦国際空港を経て、当時の運輸政務次官だった山村新治郎氏との人質交換によって乗務員(機長、副操縦士、航空機関士の3名)以外の人質を解放した後、同年4月3日に、北朝鮮の美林(みりむ)飛行場に着陸。
その後、山村新治郎氏と乗務員の3人も同年4月5日に無事帰国し、犯人グループの9人はそのまま北朝鮮に亡命しています。
以上が「よど号ハイジャック事件」の大まかな概要になります。今回はこの「よど号ハイジャック事件」をわかりやすく解説します。
よど号ハイジャック事件をわかりやすく解説① 事件を起こした赤軍派の目的
まずは、赤軍派の犯人グループ9人が、なぜ「よど号ハイジャック事件」を起こしたのかについて解説します。
当時、ベトナム戦争反対などを掲げ、世界的な高まりを見せていた大学生らを中心とした政治運動、いわゆる「学生運動」が日本国内でも盛んになっていました。そんな中で、国家の共産主義化を急進的、暴力的に押し進めようとする「新左翼」と呼ばれる政治集団が生まれます。
「よど号ハイジャック事件」を起こした「共産党同盟赤軍派」もこの新左翼グループの中の一つで、武力闘争によって革命(共産主義化)を勝ち取るという「革命戦争」を唱え、実際に警察署や交番を襲撃するなどし、首相官邸を襲撃する目的などの軍事訓練なども実施し、武装蜂起を画策していました。
しかし、大菩薩峠で実施された赤軍派の大規模軍事訓練は警察に察知され、警官隊の突入を受けて幹部を含む53名もの構成員が一切に検挙される事となり、赤軍派の組織は大幅に弱体化してしまいます。(大菩薩峠事件)
その結果新たに生まれた考えが、国外の小国の指導者を説得(オルグするという)して味方につけた上で、その国に活動拠点(ベース)を置き、そこから世界革命を実現していくという「国際根拠地論」という理論でした。
この「国際根拠地論」でベースを築く最初の目標として赤軍派のメンバーが目をつけた国家が朝鮮民主主義人民共和国であり、そこへ渡航する手段として実行されたのが「よど号ハイジャック事件」だったわけです。
よど号ハイジャック事件をわかりやすく解説② ハイジャック発生〜最初の人質解放
出典:https://webronza.asahi.com/
「国際根拠地論」に基づいて、赤軍派は北朝鮮に拠点を築く計画を立て、そのために送り込まれる9人の実行グループを編成し、1970年3月31日に「よど号ハイジャック事件」はついに実行に移されました。
「よど号」こと日本航空351便に客として搭乗した犯人グループらは、機が飛び立ったのを確認し午前7時33分頃に銃や日本刀などの武器を取り出して乗客(122名)をロープで縛るなどして拘束、操縦室にも侵入し、航空機関士の相原利夫氏を拘束し、機長の石田真二氏と副操縦士の江崎悌一氏を脅し、北朝鮮の首都であるピョンヤン(平壌)へと向かうよう要求します。
この時、よど号には給油なしでピョンヤンまで飛行できる燃料が搭載されていましたが、副操縦士の江崎悌一氏が機転を利かせ、「この機は福岡までの国内便であり、平壌まで飛ぶには燃料が不足している」と犯人グループを説得し、本来の目的地である板付空港(現在の福岡空港)に着陸する事に成功します。時刻は午前8時59分でした。
事態を受けた福岡県警は、人質を乗せたままの北朝鮮への渡航だけは阻止すべく、故障を装った自衛隊機を滑走路に塞ぐ、燃料給油を遅らせて時間稼ぎをするなどの妨害工作を行いますが、犯人グループはこの様子に焦りを見せ、すぐに離陸させようと機長らを急かしました。
ここで、機長の石田真二氏らは、このまま離陸を遅らせる事は犯人らを刺激し危険だと考え、女性や子供、高齢者や病人などの一部の人質を解放する事を条件に自衛隊機をどかさせすぐに離陸させるという取引を犯人グループに持ちかけ成功させます。
これにより、23人の人質が解放されましたが、「よど号」は13時59分に北朝鮮に向かうべく再び離陸する事になります。
よど号ハイジャック事件をわかりやすく解説③ 犯人グループを欺き韓国に着陸
離陸後、北朝鮮方面へと飛行を続ける「よど号」でしたが、14時40分ころ、突然国籍を隠した戦闘機が右隣に現れ、その戦闘機のパイロットは、「よど号」の操縦席に向けて親指を立てて地上方向を示し着陸を促すジェスチャーを見せました。
これを見た機長は、北朝鮮領空に入ったと考え、航空無線を使って呼びかけを行いました。するとしばらくして「こちら平壌進入管制」と英語で応答がありました。
実はこれは、北朝鮮からだと装った韓国からの通信で、犯人グループを欺き「よど号」を北朝鮮ではなく韓国の金浦国際空港へと着陸させようとする作戦でした。
機長らはここで、無線の内容などからこの作戦を察知し、北朝鮮からの通信だと装いつつ、進路を徐々に南方向へと向け、15時16分頃に金浦国際空港へと着陸させます。
韓国側は、犯人グループに悟られぬよう、金浦国際空港を平壌空港に偽装する工作を施していましたが、犯人グループは滑走路にアメリカの航空会社であるノースウエスト航空の機体がある事などを見てここが平壌でないと疑いはじめました。
犯人グループは、証拠として当時の北朝鮮の最高指導者だった金日成の写真を持ってくるように要求しますが、韓国当局がこれを用意できなかった事で、ここが平壌ではないと確信し、即座に機体を再離陸させるよう要求します。
しかし韓国当局が、エンジンを再始動させるためのスターターの貸与を拒否したため「よど号」の再離陸は不可能となり、犯人グループらと人質を機体に乗せたままこう着状態に陥ります。
よど号ハイジャック事件をわかりやすく解説④ 日本政府が本格的な交渉を開始
こう着状態に陥る中、韓国当局を通じての犯人グループとの交渉が開始されました。金浦国際空港の管制塔からは「人質を解放すれば離陸を許可する」との呼びかけが行われましたが、犯人グループはこれに強硬な姿勢をとり交渉は難航します。
翌4月1日の未明、日本から当時の運輸政務次官・山村新治郎氏を含む政府関係者が到着し、韓国政府と協力しながら犯人グループとの交渉が開始されました。
韓国政府からは特殊部隊を突入させて一気に事態の解決を図る方法も提案されますが、人質の安全を危惧した日本政府からの要望によりこの案は断念されています。
日本政府は、共産主義陣営の盟主たるソビエト連邦を通じて、仮に人質を乗せたまま「よど号」が北朝鮮へ到着した場合にその保護を北朝鮮政府に要請し、それに対し北朝鮮政府も「人道主義に基づき、乗員と乗客は直ちに送り返す」と返答していますが、この前年に大韓航空機が北朝鮮のスパイによってハイジャックされる事件が発生しており、「よど号ハイジャック事件」発生の段階で人質の解放がされていなかった事もあり、このまま一般市民を乗せたまま「よど号」を北朝鮮に渡航させる事だけ絶対に回避する必要がありました。
また、「よど号」にはアメリカ人が2名乗っており、アメリカ政府も人質解放を最優先にするよう韓国政府に強く要請しており、これを受けて韓国政府も人質を解放した場合、犯人グループの要求どおり北朝鮮への離陸を許可するという方針を固めます。
日本政府と犯人グループの交渉は数日にわたって続き、4月3日に、山村新治郎運輸政務次官が身代わりに人質になる事で乗客を解放するという事が合意されます。
これにより、機長と副操縦士、航空機関士を除く人質は全員が解放され、山村新治郎運輸政務次官が代わりに乗り込んだのちに「よど号」は離陸。今度こそ本当に北朝鮮へと向かう事になりました。
よど号ハイジャック事件をわかりやすく解説⑤ 北朝鮮へ到着。残りの人質も無事帰国へ
4月3日の19時21分、「よど号」は北朝鮮の美林(みりむ)飛行場に到着し、そこで犯人グループ9人と、機長、副操縦士、航空機関士、山村新治郎運輸政務次官の4人の人質は北朝鮮当局に身柄を確保されます。
北朝鮮はこれを交渉カードと捉えた形で、着陸後には態度を硬化させ「乗員や機体の早期返還は保証できない」と日本政府を非難するポーズを取りました。
犯人グループや人質らに対しては尋問も行われましたが、これについては表向きのパフォーマンスのようなもので、実際には人質らは丁重に扱われたようです。
その後、北朝鮮政府は犯人グループの9人の亡命を受け入れ、人質の4人も4月5日に無事帰国させています。当時の佐藤栄作首相も北朝鮮政府に謝意を示し、日本政府が北朝鮮政府に恩を売られる形で「よど号ハイジャック事件」は結末を迎えたのでした。
よど号ハイジャック事件の犯人メンバー9名
「よど号ハイジャック事件」の犯人メンバーはその後。「よど号グループ」と呼ばれるようになりました。この「よど号グループ」は以下の9人でした。
田宮高麿
1943年生まれ、当時27歳。大阪市立大学2部卒業。赤軍派軍事委員長で「よど号グループ」リーダー格。
小西隆裕
1944年生まれ、当時26歳。東京大学医学部中退。「よど号グループ」の副リーダー格。
岡本武
1945年生まれ、当時25歳。京都大学農学部中退。
田中義三
出典:https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/
1948年生まれ、当時22歳。明治大学出身。カンボジアで拘束され、2000年6月に日本政府に引き渡されました。
魚本(安部)公博
1948年生まれ、当時22歳。関西大学を除籍。「よど号ハイジャック事件」当時は安部姓でしたが、亡命後現地で日本人と結婚して魚本姓になっています。有本恵子さん拉致事件の犯人として現在も国際指名手配を受けています。
若林盛亮
1947年生まれ、当時23歳。同志社大学経済学部除籍。サッカーW杯の予選で、日本対北朝鮮戦を観戦しているところが目撃され話題になりました。「北朝鮮を応援しようと思ったが、みているとやはり日本を応援してしまう」とコメントしています。
赤木志郎
1947年生まれ、当時23歳。大阪市立大学除籍。1983年にこの赤城志郎の妹が北朝鮮に入国し、この妹は現地で1987年に入国した日本人男性と結婚して2人の子供をもうけています。
吉田金太郎
1950年生まれ、当時20歳。高校卒業後左翼活動家になります。犯人グループの中では唯一の労働者出身。北朝鮮亡命から数年後に不審な死を遂げたとも言われています。
柴田泰弘
1953年生まれ、当時17歳。神戸市立須磨高等学校在学中に赤軍派に入り「よど号ハイジャック事件」に参加。田宮高麿からの命令で、1985年に極秘帰国し、他人の戸籍を奪って活動していましたが、1988年に逮捕されています。1994年に刑期を終え出所し、2011年に大阪府で病死しています。
よど号ハイジャック事件・犯人のその後や現在① 計画は失敗し洗脳教育を受ける
「よど号ハイジャック事件」の犯人メンバー達は、北朝鮮に亡命後に「国際根拠地論」に基づき、「北朝鮮の赤軍化」を試みますが、当然のことながら即座に否定され、逆に「日本革命村」へと送られ、金日成体制を肯定する洗脳教育を受けたとされます。
よど号ハイジャック事件・犯人のその後や現在② 現地の日本人と結婚
「よど号ハイジャック事件」の犯人メンバーたちはその後、それぞれに現地の日本人を妻にして結婚しています。この「よど号グループ」の妻達はマスコミからは「よど号妻」などと呼称されています。
この「よど号妻」達は、元々北朝鮮の思想に共感する人々だったとみられていますが、1人、岡本武の妻となった福留貴美子さんだけは拉致被害者ではないかとの疑惑が浮上しており、1976年頃に拉致され、その後、岡本武と結婚させられたのではないかと言われています。
また、犯人メンバー達の多くはこの「よど号妻」達との間に子供を作っており、この子供らは現在全員が日本に帰国して日本人として生活しています。
よど号ハイジャック事件・犯人のその後や現在③ 5人が既に死亡し内3人は不審死
「よど号ハイジャック事件」の犯人メンバーのうち、9人中5人は現在既に死亡しているとされています。
まず、吉田金太郎は1985年に平壌で病死したとされます。これは、よど号メンバーから吉田の実家に手紙が届いたことで発覚しました。しかし、吉田金太郎は祖父が裕福な商人という出自が北朝鮮当局に問題視され、1977年以前に強制収容所に送られ死亡したという説も存在します。この根拠として吉田金太郎だけが日本人妻との結婚や亡命後の形跡が確認できない事などが挙げられています。
最年長で「よど号グループ」リーダーの田宮高麿は1995年11月30日に平壌で病死したと発表されています。死因は心臓麻痺とされますが、死の前日に元気な姿が確認されており、何者かに殺害された疑いも持たれています。
岡本武は、1988年に妻の福留貴美子と共に土砂崩れに巻き込まれて死亡したと発表されていますが、実際は妻とともに北朝鮮からの脱出を図るも失敗し、北朝鮮当局に拘束され、強制収容所で死亡したとの情報が出ています。
田中義三は前述の通り、カンボジアで拘束され、日本政府によって逮捕された後、2007年1月1日に病死しています。また、柴田泰弘も日本に帰国後に自宅で病死しています。
よど号ハイジャック事件・犯人のその後や現在④ 残る4人は現在も北朝鮮に在住
「よど号ハイジャック事件」の犯人グループのうち、死亡していない、小西隆裕、魚本公博、若林盛亮、赤木志の4人は現在も北朝鮮に在住しているとされます。
彼らは1990年代には北朝鮮内で商売を始め、日本から中古車を輸入して中国に転売するビジネスで随分と儲けたともされています。
また、彼らは日本への帰国を希望し、帰国して「よど号ハイジャック事件」については裁判を受け、刑に服する覚悟があるという事を表明しています。ただ、北朝鮮による日本人拉致の問題に彼らが関与しているとの疑惑が浮上しており、これについては犯人グループのメンバーは身に覚えがないと否定しているのです。
この拉致への関与疑惑が犯人グループ帰国の障害になっているとされていますが、その真相は現在も謎に包まれています。
まとめ
今回は、新左翼党派の過激派「赤軍派」の起こした「よど号ハイジャック事件」についてまとめてみました。
「よど号ハイジャック事件」は、1970年に発生した日本で初めてのハイジャック事件で、革命戦争を唱える過激派組織「赤軍派」によって起こされました。彼らは海外に革命のための拠点を築く「国際根拠地論」を提唱し、その根拠地候補地として北朝鮮を選び、渡航をも目的としてこの事件を起こしたのでした。
渡航計画は成功したものの、北朝鮮指導者・金日成を説得して赤軍派化するという計画は失敗に終わり、犯行グループメンバーらは逆に北朝鮮で洗脳教育を受け、北朝鮮に定住する結果になったとされています。
9人の犯人メンバー中、5人がすでに死亡していますが、残る4人は現在も北朝鮮で生活しています。彼らは日本への帰国を希望しているという事ですが、北朝鮮による日本人拉致問題への関与が疑われており、帰国の障害になっているようです。
拉致問題への関与の可能性もあるのであれば、拉致問題解決の糸口とするためにも帰国も含めて、「よど号ハイジャック事件」の犯人らの処遇について何らかの進展が起こることにも期待しましょう。