1932年に起きた「首なし娘事件」は、被害者である吉田ます江が惨殺され、犯人・増淵倉吉も自殺しています。
今回は「首なし娘事件」の経緯、被害者と犯人の関係、遺体の状況や犯人の自殺の状況など詳細、その後をまとめました。
この記事の目次
「首なし娘事件」とは
「首なし娘事件」が発生した1932年は、満州国の建国や515事件などが発生する歴史的な年でした。
戦前の殺人事件の中でも人々の記憶に強く残った「首なし娘事件」は、犯人・増淵倉吉の性欲に対する異常な執着心から「陰獣事件」、「陰獣倉吉事件」とも呼ばれました。
江戸川乱歩の中編ミステリー小説に『陰獣』という作品があり、この小説の内容が「首なし娘事件」が酷似していたことから、「陰獣事件」と呼ばれるようになったようです。
「首なし娘事件」の犯人は増淵倉吉
「陰獣事件」の犯人である増淵倉吉は、群馬県で生まれ育っています。
若い頃から非常に信心深い性格だったようで、神仏を尊び、死後の世界があることを信じて疑いませんでした。
増淵倉吉は和菓子職人として東京の浅草で和菓子店を営んでおり、妻子にも恵まれて普通の幸せを享受していましたが、その運命を変えたのが1923年に東京を襲った関東大震災でした。
大地震により増淵倉吉の店は倒壊し、絶望した増淵倉吉は妻子を捨てて大阪へ出奔しました。
大阪で仕事を探しましたが、土地の水に体が合わなかったようで、ほどなくして名古屋へ渡りました。
増淵倉吉は道中で知り合った女性と名古屋で再婚し、和菓子店を営んでいた経験を生かして現地の饅頭工場の工場長を務めていました。
生活は決して裕福ではなかったものの、増淵倉吉は自宅の近所に裁縫教室を開いて生活の足しにしていました。
夫婦で協力して稼ぐことで生活は次第に安定しましたが、裁縫教室をオープンした6年後、体が弱かった妻は他界したようです。
「首なし娘事件」の犯人・増淵倉吉は真面目な人物だった
2度目の絶望を味わった増淵倉吉は、何もかもが嫌になってしまい、饅頭工場を辞めてしまいました。
しかし、増淵倉吉は友人に今後どうするのかを聞かれると、また菓子店を出店したいと話しており、希望は持っていたようです。
増淵倉吉は真面目に働き神仏を尊ぶという、一見すると人格的に問題なさそうな印象です。
増淵倉吉を知る友人らも「首なし娘事件」 が発生した後に、事件の犯人が増淵倉吉であることをとても信じられない様子だったようです。
2度にわたる絶望が増淵倉吉の精神を激しく蝕んでしまった結果、「首なし娘事件」が起きたと思われます。
「首なし娘事件」の被害者は吉田ます江
「首なし娘事件」の被害者・吉田ます江は、名古屋市内で製菓業を営んでいた両親の間に次女として生まれました。
とてもおとなしい性格をしていた吉田ます江は、高等小学校を卒業した後、事件の約1年前から花嫁修行の一環として、増淵倉吉の妻が講師を務める裁縫教室に通い始めました。
ほどなくして増淵倉吉の妻は体調を壊して入院しましたが、吉田ます江は献身的に見舞いに訪れていたことから、増淵倉吉とも自然と親しくなっていきました。
当時、増淵倉吉は44歳、吉田ます江は19歳で、親子ほども年が離れていましたが、2人は年齢の垣根を越えて愛し合う仲となっていきました。
1931年秋に増淵倉吉の妻が他界し、同年末に増淵倉吉は仕事を探しに東京に戻るための荷造りを始めましたが、傍らには荷造りを手伝う吉田ます江の姿が近隣住民に目撃されています。
吉田ます江は増淵倉吉に無理心中された
増淵倉吉は再び東京で仕事を探し始めましたが、ようやくありつけた仕事でも内向的な性格が災いして長くは続きませんでした。
もはや生きてはいけないと絶望した増淵倉吉は、1932年1月14日に再び名古屋に戻り、吉田ます江を旅館に呼び出して、それから数日間昼夜問わず情事にふけりました。
そして増淵倉吉は吉田ます江の首を絞めて殺害し、遺体を損壊しています。
増淵倉吉は最期に愛した女性である吉田ます江と一体化したいと考えて、吉田ます江の頭皮や下着をまとって首吊り自殺を図りました。
このあまりにも猟奇的すぎる「首なし娘事件」について、次章で詳細に紹介していきたいと思います。
「首なし娘事件」の詳細① 事件現場
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1932年2月8日の17時頃に、愛知県名古屋市西区の川沿いで農業を営んでいた山田何某(仮名)が所有している鶏糞小屋で「首なし娘事件」は発生しています。
この辺りは「名楽園」という名古屋の有名な遊郭「中村遊郭」があり、人の行き来が非常に多い土地柄でした。
ただ、この鶏糞小屋は「中村遊郭」から少し離れた畑の中にあり、ここまで来ると「中村遊郭」の喧騒は届かず、静まり返った場所だったようです。
この対比もまた、増淵倉吉と社会との距離を感じさせる悲壮感が漂っているようです。
「首なし娘事件」の詳細② 被害者・吉田ます江の遺体は激しく損壊していた
事件が発覚した8日の夕方頃、山田何某の長男は約1週間ぶりに鶏糞小屋を訪れました。
この鶏糞小屋は6畳ほどの小さなものでしたが、長男は用を足すために外に出ようとしたところ、小屋の隅の方にむしろがかけられた大きな物体があることに気づきました。
長男は何か大きな物を置いたかと勘ぐりながらむしろを剥いで調べたところ、当時の女性がよく着ていた毛織物のメリンスを羽織った女性の遺体を発見しました。
長男は慌てふためいて鶏糞小屋を飛び出し、近くの警察署へ駆け込みました。
事情を聞いた警察官は現場の鶏糞小屋を訪れて女性の死体を調べようとしましたが、遺体はあまりにも凄惨な損壊具合で、まともに見ることができないほどだったようです。
吉田ます江の遺体は損傷が酷かった
その遺体はまさしく吉田ます江のものでしたが、首は鋭利な刃物で切り裂かれて頭部がなく、持ち去られていました。
上半身は内臓が無残に飛び出すほど切り刻まれ、両乳房が切り取られ、下腹部も原型を留めないほどにズタズタに切り裂かれていました。
吉田ます江の遺体の近くには、犯人である増淵倉吉が遺体を損壊するために使った出刃包丁が落ちており、その出刃包丁には数珠が巻かれていました。
事件発生3日後、吉田ます江の頭が発見される
事件の発生から3日後となる2月11日、遺体が発見された鶏糞小屋から約22km離れた愛知県犬山市にて、事件は新たな展開を見せました。
同市内を流れている木曽川のとある岩場の水たまりで、女性の生首が落ちているのが発見されたのです。
この生首は、頭蓋骨や歯がむき出しになって性別も分からないほどズタズタに切り裂かれており、頭皮の皮は髪の毛ごと剥がされていました。
警察による詳しい調査の末、この生首は先日見つかった首なし遺体の頭部であり、吉田ます江のものだと明らかになりました。
「首なし娘事件」の詳細③ 犯人・増淵倉吉が逮捕されるきっかけとは
警察は当初、近くに「中村遊郭」があることから、金銭や男女の情事のもつれなどから発生した事件だと見ていました。
しかし、「中村遊郭」で聞き込みをしても女性の身元は明らかにならず、遊郭とは関係のない女性だということが分かりました。
遺体の女性の身元が判明するきっかけになったのは、遺体の近くに落ちていた増淵倉吉に宛てた恋文でした。
増淵倉吉は警察に追われ、新聞でも報じられた
遺体の身元が吉田ます江であることを突き止めた警察は、犯人が増淵倉吉だと断定して指名手配しました。
遺体発見の翌日9日には、愛知県の地元新聞である「新愛知」で初めて事件が報じられました。
2月9日に発行された愛知県の地元紙「新愛知」では、「両乳を抉(えぐり)とられた女の首なし死骸 斬りさいなまれた無残な有様 中村廓付近の怪事件」と大々的に報じた。着物を着たます江の写真、遺体の発見された鶏ふん小屋の写真などが掲載されているほか、容疑者である増淵の行方を追っている旨の記事が掲載された。
同時に全国紙でも本事件は取り上げられたが、扱いはあまり大きくなく、朝日新聞では「首なし女の死骸発見」(昭和7年2月9日朝刊)という短い記事のみ掲載されている。
常軌を逸した増淵倉吉の遺体の損壊具合に、 当時の世間の人々は心からおののいたことでしょう。
「首なし娘事件」の詳細④ 増淵倉吉の首吊り死体が発見される
吉田ます江の生首が発見されてから約2週間後となる3月5日午前3時頃に、建物の中で誰かが首を吊って死んでいると、船乗り業を営む男性から犬山署に通報が入りました。
この建物は生首が発見された場所から数百メートルしか離れておらず、事件との関連性を強く感じた警察官は現場に急行しました。
風呂敷で首を吊っていた男性の様子は異様で、黒い服にコートを羽織っていましたが、中には女性用の赤い毛布製のシャツを着ていて、薄茶色の手袋、ゴムの長靴を履いていました。
そして、男性の頭からは黒くて長い髪の毛が垂れ下がっていましたが、これは男性のものではなく、生首から頭皮ごと剥ぎ取られたものでした。
この死体を検死した結果、遺体の身元は増淵倉吉だと明らかになりました。
増淵倉吉の隠れ家から吉田ます江の遺体の一部が発見される
この建物は、増淵倉吉が名古屋から犬山に潜伏する際に利用していたものでした。
建物内部には、被害者の遺体から切り分けた乳房や局部、血がついた男用の下着が風呂敷に巻かれた状態で見つかったほか、冷蔵庫には飲食店組合の札の上に貼られた局部が入っていました。
そして、その近くには増淵倉吉が遺体の切り分けに使ったと思われる大型ナイフや、洋式の剃刀が置いてありました。
また、増淵倉吉のコートのポケットからは、血がついた吉田ます江の耳や、お守り袋に入れられた、水分が抜け切って乾燥した眼球などが発見されました。
「首なし娘事件」増淵倉吉のポケットに手紙が入っていた
さらに、増淵倉吉のコートのポケットからは、吉田ます江の両親に宛てたと思われる手紙が入っており、その内容は「娘さんと一緒に(群馬県の)高崎へ駆け落ちします」というものでした。
高崎は増淵倉吉の親戚が住んでいた故郷に近い場所でした。
仕事のために進出した東京や名古屋などではなく、落ち着ける故郷で吉田ます江と一緒に一から出直そうと考えていた矢先の事件だったとみられています。
「首なし娘事件」のその後
被害者・吉田ます江の母親がインタビューに答えた
「首なし娘事件」が起きた当時は、親子ほども年が離れた男女が交際するというのは一般的ではなく、ましてや援助交際に当てはまるような関係は稀でした。
そのため、44歳の増淵倉吉と19歳の吉田ます江が不倫の末に愛し合う関係だったことは、当時では異常なことであり、世間はかなり驚いたようです。
事件後に、吉田ます江の母親が「増淵と娘は男女の関係では無かったはず」「性行為を迫った増淵が逆上し、娘を殺したのではないか」とインタビューに答えています。
そして、2人が愛し合う関係であったことを決して認めようとはしなかったようです。
犯人・増淵倉吉は御嶽山を信仰していた
「首なし娘事件」から時間が経っても、しばらくは地元新聞で増淵倉吉に関する記事が掲載され続けました。
その後、増淵倉吉は和菓子職人になる以前に製革業に携わっていたことから、動物の皮を剥ぐ作業に慣れていたことが判明しました。
そのため、吉田ます江の遺体の解体はやすやすと行うことができたと見られています。
また増淵倉吉は、山や川など神秘的な場所に対しての信仰がとても厚かったようで、長野県と岐阜県にまたがる御嶽山に頻繁に訪れ、現地で売られていたお守りや財布を愛用していたそう。
吉田ます江の生首が発見された木曽川は、御嶽山から流れている川です。
増淵倉吉は吉田ます江の生首を抱えて御嶽山を目指し、名古屋から20km以上離れた犬山で自殺を決意したと推察されています。
まとめ
戦前の1932年に起きた、増淵倉吉が愛人・吉田ます江を猟奇的な方法で殺害した「首なし娘事件」について詳しくまとめてきました。
増淵倉吉は2度の絶望の中で精神をすり減らし、次第に善良な判断ができなくなっていった結果、このようなむごたらしい事件起こしてしまったのかもしれません。
また、20歳以上も年が離れた吉田ます江が、本当に自分を愛してくれているのかという自信の無さも関係していたのでしょう。
愛人を殺害して自らも吉田ます江の遺体をかぶって死ぬことで、永遠に一緒にいられると考えたのかもしれません。
しかしあまりにも身勝手で、猟奇的な殺人事件だと言えるでしょう。