星野道夫さんはアラスカを拠点に活動した写真家で、若くしてヒグマ襲撃事件により死去しました。
今回は星野道夫さんがどんな人だったのか、その人生や結婚した嫁と子供(息子)、事件の経緯と死因、最後の写真や映像と名言を紹介します。
この記事の目次
- 星野道夫はどんな人?そのプロフィール
- 星野道夫の経歴① 生い立ち
- 星野道夫の経歴② 高校生で単独アメリカ横断
- 星野道夫の人生③ アラスカとの出会いと学び
- 星野道夫の人生④ 慶応大学卒業後にアラスカ大学へ
- 星野道夫の人生⑤ アラスカ写真家として活動を開始
- 星野道夫の人生⑥ エッセイストとしても評価が高い
- 星野道夫が結婚した嫁は星野直子
- 星野道夫は結婚前に嫁をアラスカに招待していた
- 星野道夫と嫁の結婚生活
- 星野道夫のヒグマ襲撃事件① 番組の撮影でロシアへ
- 星野道夫のヒグマ襲撃事件② ヒグマがテント近くに現れる
- 星野道夫のヒグマ襲撃事件③ その後も被害が続くもののテントは移動させず
- 星野道夫のヒグマ襲撃事件④ 死因はヒグマに噛み殺されたことによる失血死
- 星野道夫のヒグマ襲撃事件⑤ 最後の写真が残っている
- 星野道夫の死去のその後① 報告書が公開された
- 星野道夫の死去のその後② 星野道夫の作品が映像化されている
- 星野道夫の子供は一人息子の星野翔馬
- 星野道夫の息子・星野翔馬がドキュメンタリー番組に出演
- 星野道夫の人生観がわかる名言
- まとめ
星野道夫はどんな人?そのプロフィール
星野道夫のプロフィール
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星野 道夫(ほしの みちお)
生年月日: 1952年9月27日
没年月日: 1996年8月8日
出身地: 千葉県市川市
星野道夫さんは、1970年代前半から1990年代半ばまでアラスカで活動してきた写真家で、野生動物や自然、現地に住む人々の暮らしを撮影してきた人物です。
また、エッセイストとして『アラスカ 光と風』、『旅をする木』、『長い旅の途上』などのエッセイ本を6冊出版しています。
長年アラスカで過ごし、野生動物について知識を持っていたましたが、1996年8月8日に仕事で訪れたロシアのカムチャツカ地方で死去。享年43歳という若さでした。
生前に撮影された7万点を超える星野道夫さんの迫力のある写真は、遺族により定期的に写真展が開催されており、出版したエッセイ集は多くの人々の胸を打ち、現在も愛されています。
星野道夫の経歴① 生い立ち
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ここでは、43歳の若さで命を落とした星野道夫さんの生い立ちや経歴といった人生を振り返ります。
どのような理由から、写真家として、厳しい気候として知られるアラスカで野生の動物と命がけで向き合ったのでしょうか。
冒険家を夢見る少年だった
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星野道夫さんは1952年に千葉県市川市で誕生しました。
父親はセイコーでエンジニアとして勤務する優秀な人物であったことから、第2次世界大戦でも命を落とさずに済んだようです。
理系で真面目な父親の背中を見て育った星野道夫さんは、成績優秀な少年で、『シートン動物記』といった動物系の冒険物や探検記を好んで読んで育ったそうです。
中でも、1960年代の日本で流行していた堀江謙一さんの『太平洋ひとりぼっち』を読んだ星野道夫さんは、将来はヨットで世界一周をすることを夢見ていました。
そして、中学生になった星野道夫さんはこの夢を叶えるために、具体的にプランを練り始めていたそうです。
星野道夫の経歴② 高校生で単独アメリカ横断
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1968年に慶応義塾高校に入学すると迷わずヨット部に入部した星野道夫さんは、旅行資金を貯めるためにアルバイトを開始しました。
そして、高校2年生になった1969年7月3日、横浜港から出港する移民船に乗り込み、アメリカ西海岸に旅立ちました。西海岸に到着するとバスに乗り、東へ向けて出発。
今でこそ学生でも単独海外旅行は珍しいことではありませんが、この当時の日本は海外旅行のツアーでさえ気軽にできる時代ではなく、アメリカに行くだけでも冒険でした。
40日間に渡り旅を続けた星野道夫さんは、隣国のメキシコにも立ち寄りながら無事に帰国。
高校を卒業すると、そのままエスカレーター式に慶応義塾大学に進み探検部に入部。
大学時代には、気球に乗った冒険などに参加した記録が残されています。
星野道夫の人生③ アラスカとの出会いと学び
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星野道夫さんが生涯情熱を傾け続けたアラスカとの出会い、大学時代のアラスカ滞在エピソードを紹介します。
きっかけは1冊の写真集
星野道夫さんのアラスカとの出会いは19歳の頃に遡ります。神田の古本屋街で偶然見つけた写真集『Alaska』がきっかけでした。
この写真集はナショナル・ジオグラフィック社出版で、広大な自然、最北の地に住むエスキモーの人々を見て星野道夫さんは、すっかりアラスカの虜になってしまいます。
そして、写真集に写っていた村が「シシュマレフ」であることを知ると、すぐに村に向けて「滞在させてほしい」と手紙を出しました。
今と違ってネットも普及していませんので、村長の名前が分からず宛名は村宛てにしたそうです。また、その付近の村々に対しても同様の手紙を出したそうです。
大半は戻ってくるか、返事がないままでしたが、21歳だった1973年の春、シシュマレフ村の村長から「夏に来るのであれば、私の家に泊めてあげましょう」という嬉しい返事が来ました。
こうして、星野道夫さんは1973年夏に、シシュマレフ村を目指しアラスカへと旅立ちました。
シシュマレフ村に3ヶ月の滞在
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アラスカのシシュマレフ村の集落
シシュマレフ村に着いた星野道夫さんは、クリフォード・ウェイオワナ村長の自宅で暮らすことになったのですが、それは驚きの連続だったといいます。
食事は毎日アザラシの肉中心で、ほぼワンパターン。村長の自宅といっても、星野道夫さん用の部屋もなければベッドもなく、まるでキャンプのような生活だったんだとか。
村民と共にアザラシ狩りをしたり、保存食も作ったりしたそうです。ちなみに、アザラシが発する臭いは強烈で、普通の人であれば耐えられないと言われています。
そんな過酷な生活を体験した星野道夫さんでしたが、極北シシュマレフ村での生活が気に入ってしまい、本来2週間の滞在の予定だったのが、気が付くと3ヶ月が過ぎていました。
なお、大学にはアラスカでのレポートを提出して、どうにか卒業単位を確保できたそうです。
星野道夫の人生④ 慶応大学卒業後にアラスカ大学へ
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慶応義塾大学を卒業した星野道夫さんは、進路について悩みました。写真家や冒険家として生きていくのは経済的に厳しいことは自身でも理解していたからです。
そんな迷いを吹っ切れないままモヤモヤした日々を送っていたある日、友人が山で遭難して死去しました。
星野道夫さんは友人の死に直面したことで、短い人生を悔いなく生きるためには自分がやりたいことをするべき、という結論に辿り着き、アラスカに本拠地を構えて動物写真家になると決断。
そして、尊敬する写真家の田中光常さんの弟子にしてもらい、連日通い詰めて写真の技術を磨くことに。
さらに、野生動物の生態を学ぶために1978年にアラスカ大学を受験しました。しかし英語の点数が足りずに不合格。
不合格通知を受け取った星野道夫さんは、学部長の部屋へと押しかけて直談判し、特別に入学させてもらうことに成功します。
そして1978年、アラスカ大学フェアバンクス校野生動物管理学部に入学し、野生動物学概論、野生動物管理学の指針、森林とツンドラにおける野生動物の管理など専門分野を学びました。
星野道夫の人生⑤ アラスカ写真家として活動を開始
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アラスカに渡った星野道夫さんは、現地で写真を撮影して回ります。
そして、鮭が川を遡上する写真が1981年に平凡社の自然をメインとした雑誌『マニア』の2月号の表紙に採用されました。
3月号では、星野道夫さんが追いかけたトナカイの一種カリブーの写真が「極地のカリブー1000キロの旅」として特集され、本格的に写真家デビューを果たします。28歳のことでした。
1984年に写真集『グリズリー GRIZZLY アラスカの王者』を出版。この写真集は「マニア賞」を受賞しています。
そして1987年には、ずっと憧れを抱いていた『ナショナル・ジオグラフィック』に、星野道夫さんが撮影したムースの写真が掲載され、徐々に海外にも名前が知られるようになりました。
星野道夫の人生⑥ エッセイストとしても評価が高い
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星野道夫さんは生前、アラスカに関する写真集とエッセイが合体したフォトエッセイ、アラスカで生活するようになった経緯や現地での体験を書き綴ったエッセイのみの本も出版しています。
これまでに星野道夫さんの作品を見たことがない方であれば、『新装版 Alaska 風のような物語』がおすすめです。
アラスカの雄大な自然と、生き生きとした野生動物の写真、そして動物やアラスカ先住民への思いを星野道夫さんが穏やかに語っており、高い評価を得ています。
『新装版 Alaska 風のような物語』を読了している方であれば、次のステップとしてエッセイ『旅をする木』を選んでみてはいかがでしょうか。
この『旅をする木』の多くの読者は、心が揺さぶられるような気持ちになった人が少なくありません。
Amazonのレビューには「心の洗浄のような本」、「優しい文体でほっとする」「この感覚は何?とても感動する」、「何度も繰り返し読みたい」と絶賛コメントが多数寄せられています。
星野道夫が結婚した嫁は星野直子
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星野道夫の嫁の星野直子
嫁の直子さんと結婚したのは1993年のこと。嫁はどのような女性なのでしょうか。
ここからは2人の馴れ初めや、結婚までのエピソードについて紹介します。
出会いはお見合いだった
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嫁の直子さんは一般人女性で、詳細な生年月日、出身地、血液型、身長といったプロフィール情報は公表されていません。
ただし、星野道夫さんより17歳年下であること、女子聖学院短期大学国文科を卒業していることがわかっています。
2016年に直子さんは、糸井重里さんが運営するメディア「ほぼ日刊イトイ新聞」で、星野道夫さんの当時の編集者だった松家仁之さんと対談し、結婚の経緯や結婚生活を語りました。
記事によると、2人はお見合いで出会ったそうです。
直子さんは幼少期から家族ぐるみでクリスチャンで、毎週日曜日に教会に通っていましたが、その教会の牧師の妻が星野道夫さんの姉でした。
ある日、星野道夫さんの姉から「弟と会ってみませんか?」とお見合いの誘いがあったそう。
この時、直子さんは写真家・星野道夫についてまだ知らず、星野道夫さんの姉から「弟はこういった仕事をしているのよ」と作品を見せてもらいました。
写真を見た直子さんは「うわあ、こんな写真を撮っている人がいるんだ。アラスカってどんなところなんだろう」と思ったそうです。
星野道夫さんとは年齢が17歳離れていましたが、直子さんは不思議とジェネレーションギャップを感じなかったといいます。
星野道夫は結婚前に嫁をアラスカに招待していた
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星野道夫さんは直子さんと出会う前からアラスカに自身の家を構えていたため、結婚するとなると直子さんは日本を離れることになります。
ただし、直子さんはアラスカどころか、これまで1度も海外に行った経験がありませんでした。
いきなりアラスカに嫁ぐことになる直子さんを気の毒に思ったのか、星野道夫さんは「一度アラスカに遊びにおいで」と、直子さんと母親、星野道夫さんの姉の3人を誘ったそうです。
結婚前にアラスカに旅をしたことで、直子さんの気持ちにどのような変化が起こったのかはわかりませんが、ほどなくして星野道夫さんと直子さんは1993年に千葉で結婚式を挙げています。
挙式を終えて晴れて夫婦になった2人は、アラスカに旅立ちました。
星野道夫と嫁の結婚生活
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星野道夫さんと直子さんの結婚生活はわずか3年間という短いものでした。
しかし嫁の直子さんは「かなり濃い夫婦の時間を持てた」と対談で明かしています。
思わずホッコリしてしまう、2人の結婚生活について紹介します。
アラスカ到着後のホームパーティー
アラスカに到着すると、星野道夫さんは直子さんを紹介するためにホームパーティーを開き、近隣に住む友人を自宅に招きました。
直子さんは当時英語が話せなかったものの、やって来た星野道夫さんの友人達はゆっくりと話しかけてくれ、受け入れてくれようとする気持ちが伝わってきて温かい気持ちになったそうです。
見ず知らずの土地に嫁いだ直子さんでしたが、「不思議なことに、私は見も知らぬ世界に来てしまった、という感覚がなかった」といいます。
おそらく、星野道夫さんが近所の人達と良い人間関係を作れるように、さりげなくサポートをしてくれたことが大きかったのではないでしょうか。
夫婦で撮影旅行
アラスカで新婚生活が始まってすぐに、星野道夫さんと直子さんはカリブー(トナカイの一種)撮影のために旅を開始しました。
撮影は大自然の中で行われるため、何日もキャンプ生活になります。直子さんは、これまでアウトドアとは無縁だったので、何もかもが初めてのことばかり。
テントの組み立て方から火の起こし方まで、何から何まで星野道夫さんから教わりました。
そして星野道夫さんがカリブの肉を焼いてご馳走してくれた時には、寒い時期だったのに、身体の芯からポカポカと暖かくなっていったそうです。
直子さんはこの夫婦2人の撮影の旅について「初めてのことばかりだったけれど楽しかった」と語っています。
星野道夫さんの撮影スケジュールは、1日の大半を野生動物を待つ時間に使われます。
直子さんによると、身じろぎもせず気配を隠して動物を待つ星野道夫さんは、あまりにも集中しすぎて呼吸をしていないのではないかと心配してしまうことも多かったそうです。
直子さんは星野道夫さんの後ろから、その様子をずっと眺めているだけだったのですが、撮影以外の時は2人で色々な話をしました。
周囲からは、朝から晩まで夫婦で一緒にいて喧嘩にならないのかと質問されたこともあったようですが、星野道夫さんが穏やかな人物なので争い事に発展することがなかったんだとか。
死去後分かった星野道夫の優しさ
松家仁之さんとの対談で、直子さんは星野道夫さんが死去して20年以上経過してから、改めて感じた優しさについて語っています。
遺品整理の際、新婚当時の写真を時系列に並べて見たところ、最初の年は花の写真が多く、花が大好きな直子さんを気遣ってくれていたことに気がつきました。
星野道夫さんは決して「花が好きな直子さんのためにここに来たんだよ」とアピールするタイプではなかったので、直子さんは一緒にいる時は気がつくことができなかったといいます。
また、新婚当時を思い返してみると、初めのころの撮影旅行は女性が歩きやすいような現場が多かったそうです。
さらに、松家仁之さんは新婚ホヤホヤの時に星野道夫さんから聞いた話を以下のように明かしました。
松家:「結婚した人が、とっても花が好きな人なので、今まで あまり目に入ってこなかったんだけど」って。
「彼女と結婚してからは、ちいさな花が目に入るようになってきて、それを撮るのが、いま、すごく嬉しいんですよ」って。
引用:なんでもない日の星野道夫さんのこと – ほぼ日刊イトイ新聞 https://www.1101.com/
星野道夫さんは直子さんと結婚したことを心から喜び、星野道夫さん自身もそれまでとは見える景色が変わっていたようですね。
星野道夫のヒグマ襲撃事件① 番組の撮影でロシアへ
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星野道夫さんが死去した原因となったのが、1996年のヒグマ襲撃事件です。
この事件は、TBSの動物をテーマにしたバラエティ番組「動物奇想天外」の企画中に起こりました。
なおこの企画は、星野道夫さん自身が「鮭とヒグマ」というアイディアを持ち込み、採用されて現地に向かったことが発端でした。
撮影場所は、ヒグマの高密度地帯と呼ばれる、ロシアのカムチャッカ半島にあるクリル湖畔のグラシー・ケープ。
1996年7月25日には、星野道夫さんとTBSのスタッフ3名、ロシア人ガイド2人が現地入りし、2階建てのロッジが一行の拠点となりました。
実は事件前、彼らは不穏な兆候を発見しています。ロッジの食糧庫を開けたところ、保管していた食材がヒグマに食い荒らされた跡があったのです。
しかし、星野道夫さんは「少しでも近くで撮影したいから」と、ロッジから数メートル離れた場所にテントを張って寝泊りすることになりました。
星野道夫のヒグマ襲撃事件② ヒグマがテント近くに現れる
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1996年7月27日、少し遅れてアメリカ人のカメラマンが到着し、星野道夫さんのテントの近くにテントを設営しています。
この日の夜、アメリカ人カメラマンが物音で目を覚ますと、ロッジの食糧庫にヒグマがよじ登っているのを発見。ヒグマは体長約2メートルで、額に大きな傷跡があったそうです。
アメリカ人カメラマンが追い払うために手を叩くと、ヒグマは素早く星野道夫さんのテントの裏側に回りました。
物音と気配で目を覚ました星野道夫さんがテントから顔を出すと、アメリカ人カメラマンは「あなたのテントの後ろにヒグマがいる!ガイドを呼んでこようか」と声を掛けました。
星野道夫さんが「うん!呼んで」と依頼すると、アメリカ人カメラマンはすぐにロシア人のガイドを連れて戻ってきました。
このエリアでは銃が禁止されているので、催涙スプレーだけが武器という状態。
皆で連携して大声を出したり、鍋を叩いたりしてヒグマを牽制しようとしますが、一向にヒグマは立ち去ろうとしなかったといいます。
ロシア人のガイドは7~8メートル離れた場所からスプレーを噴射しましたが、距離が遠すぎたようで、ヒグマのダメージはゼロだったようです。
その後30分に渡り、ヒグマに襲われない距離を保ちながら牽制を続けて、やっとヒグマが立ち去りました。
ロシア人ガイドは「ロッジで寝泊りするように」と頼んだものの、星野道夫さんは「この時期はサケが川を上って食べ物が豊富だからヒグマは襲ってこない」とテントに戻ったそう。
一方、アメリカ人カメラマンは身の危険を感じたためテントを撤去し、500メートル離れた鮭観察タワーに移動しています。
星野道夫のヒグマ襲撃事件③ その後も被害が続くもののテントは移動させず
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7月27日は結局、何事もなかったものの、その日以降も近辺では人的被害まで行かなくても、建物に対する被害が何件も報告されていました。
7月29日には、ロシア地方テレビ局の取材ヘリがヒグマに襲われて窓を破られています。
8月1日には、星野道夫さん一行の近くにテントを張ったロシア環境保護団体グループが、ヒグマに靴を持ち去られていました。
同日、環境保護団体の一行は鮭観察タワーに移動し、ここで宿泊しますが、ヒグマが一晩中タワーによじ登ろうとして柱に体をこすりつけ、暴れていたので全く眠れなかったそうです。
8月6日になると、再び星野道夫さんのテント近くでヒグマが出ます。
その時は、ロシア人ガイドが催涙スプレーを使ってどうにか追い払い、再び「ロッジへ移動するように」と説得を試みます。
しかし、ここでも星野道夫さんは「大丈夫だから」と断っていたようです。
そして、2日後の8月8日にとうとう悲劇が起こりました。
星野道夫のヒグマ襲撃事件④ 死因はヒグマに噛み殺されたことによる失血死
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1996年8月8日の午前4時、星野道夫さんの悲鳴が響き渡りました。
ロシア人ガイドとTBSのスタッフがテントに向かうと、星野道夫さんが「テント!ベアー!ベアー!」と絶叫し、助けを求めていたのです。
ロシア人ガイドは当時を振り返り、「外は真っ暗で、懐中電灯で付近を照らすと、テントは壊されていた。それから10メートルほどの草むらの中にクマの背中が見えた」と証言しています。
ロシア人ガイドは、慌ててシャベルをガンガン叩いてヒグマの注意を逸らせようとしましたが、ヒグマは少し頭を上げただけだったそうです。
ヒグマは既に動かなくなっていたた星野道夫さんの身体を口で咥えながら引きずって林に入り、ある場所で星野道夫さんを食べ始めました。
ロシア人ガイドは、星野道夫さんはもう絶命していると考え、他の日本人の安全を守るために、これ以上深追いをせず無線で救援を求めることにします。
やがて、ヘリコプターでやってきたハンターが捜索を行い、該当のヒグマを発見し射殺。
星野道夫さんは、ヒグマに食い散らかされた無残な状態で発見されました。
このため、星野道夫さんの死因はヒグマに噛まれたことで急激に大量出血し、ショック状態に陥った乏血性ショックのようです。
星野道夫のヒグマ襲撃事件⑤ 最後の写真が残っている
星野道夫さんが死去する直前に撮影した「最後の写真」と言われる画像が、ネットで出回っています。
その画像がこちら。
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ネットで出回った最後写真
テントの入り口からヒグマが顔を覗かせて、今にも噛みついてきそうなアングルです。
星野道夫さんが命をかけて最後の写真を撮ったと見られていたのですが、後にフェイク画像であることがわかりました。
画像は日中に撮影されたと思われる明るさですが、星野道夫さんが襲われたのは午前4時であり、まだ周囲は薄暗かったという証言があります。
また、ヒグマはテントを徹底的に破壊していたので、画像のように綺麗な状態ではなかったと考えられます。
星野道夫の死去のその後① 報告書が公開された
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星野道夫さんの悲報は、日本でもテレビや新聞で取り上げられ、ファンは悲しみに暮れました。
星野道夫さんの友人達は、「野生動物に詳しいはずなのに、どうしてヒグマに食い殺されてしまったのだろうか」と疑問に思っていた人が多く、TBSに詳しい説明を求めています。
TBSはこの依頼を受け、事件の経緯を報告書としてまとめて公表。
その報告書によると、星野道夫さんを殺害したヒグマは、地元のテレビ局の社長が餌付けをしていたとのことで、人間が与える食料の味を知っている個体だったようです。
また、この年は例年に比べると鮭の遡上が遅れ気味で、ヒグマは飢餓状態だったことも判明しました。
星野道夫さんがどうして最後までテントで過ごすことにこだわり、ロッジでの宿泊を断り続けたのかは、本人が死亡しているため真偽は定かではありません。
実は、TBSが発表した報告書と、ロシア人ガイド及びアメリカ人カメラマンとの間で微妙に証言が異なっていて、友人達はTBSの報告書は信ぴょう性が低いとコメントしているのも事実です。
これに対し、TBSは報告書の記載に誤りがあることを認めたものの、事故を未然に防ぐことはできなかった、という見解を発表しました。
星野道夫の死去のその後② 星野道夫の作品が映像化されている
2016年に、星野道夫さんの没後20年を記念し開催された回顧展において、生前の映像が残っていることが判明しました。
NHKで放送された「生きもの地球紀行」に、星野道夫さんが協力した1992年当時の取材テープが見つかったのです。
テープには、NHKのクルーと一緒にカリブーの大群にシャッターを切っている様子や、星野道夫さんがインタビューを受けている場面などが写っていたそうです。
2018年にNHKエンタープライズが、この取材テープをもとに「DVD 星野道夫のいた風景」を販売しました。
YouTubeでは、1分25秒のPVを視聴することが可能です。
星野道夫の子供は一人息子の星野翔馬
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星野道夫の息子の星野翔馬(左)
星野道夫さんと直子さんの間には、子供が1人誕生しています。
息子の翔馬さんはどんな人物なのでしょうか。
1人息子の星野翔馬
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23歳頃の星野翔馬
息子の翔馬さんが誕生したのは1994年のこと。残念ながら誕生日には分かっていませんが、2023年現在の年齢は28歳~29歳くらいになります。
星野道夫さんが死去したのは翔馬さんがまだ2歳で、父親の記憶は殆ど残っていないそうです。
翔馬さんのは立教新座高校を卒業後、星野道夫さんと同じ慶応義塾大学に進みました。
また、海外に興味があるようで、アメリカのミシシッピ大学に留学した経験もあるそうです。
大学卒業後の就職先については、残念ながら判明していません。
星野道夫の息子・星野翔馬がドキュメンタリー番組に出演
出典:https://ameblo.jp/
翔馬さんは23歳の時、2018年4月に放送された「BS1スペシャル 父と子のアラスカ~星野道夫 生命の旅~」に出演しています。
番組はドキュメンタリー形式で進み、翔馬さんがこれまで父親である星野道夫さんが書いた本を読もうとしなかった理由など、過去の紹介から始まりました。
母親の直子さんは、本を読んでもっと父親のことを知って欲しいと考えていたものの、無理強いもできず悩んでいたといいます。
そんなある日、翔馬さんはフラリと入った星野道夫さんの写真展で、父親の写真と言葉に強く惹かれたことをきっかけに、アラスカを見てみたいと考えるように。
その後、かつて父親が辿った道のりを追いかけるように、翔馬さんはアラスカに旅立ちました。
星野道夫の足取りを追った
星野翔馬さんが最初に訪れた場所は、シシュマレフ。かつて星野道夫さんが初めてアラスカに足を踏み入れ、魅了された土地です。
当時、星野道夫さんを受け入れてくれたクリフォード・ワイオワナさんは存命で、「おー、ミチオの息子かあ!」と顔をクシャクシャにして翔馬さんを歓迎する様子が放映されました。
クリフォード・ワイオワナさんの息子のアザラシ漁に同行したり、解体作業を手伝ったりして、村に溶け込んでいった翔馬さん。
数日後の朝、村人に見送られて向かった先は、星野道夫さんの親友が住んでいたシトカという街でした。存命だった頃の父親の思い出話を聞くことが目的です。
シトカは、星野道夫さんが著書で「最も美しい街」と書いていた通りで、翔馬さんもその光景に感動したようで、大学生になってから始めたカメラのシャッターを夢中で切っていました。
旅を通して翔馬さんは「写真家としてではなく、1人の人間としての父を見れて良かった」と振り返っています。
そして帰りの飛行機の中で、「いつか父のように心惹かれるものを見つけたい」と決意を語りました。
翔馬さんがアラスカ旅行をしてから、約5年の年月が経過しようとしていますが、現在どのような人生を送っているのか足取りはつかめていません。
しかし、アラスカに行ったことで、今まで避けていた父親を身近に感じることができ、何か行動を起こしているかもしれませんね。
星野道夫の人生観がわかる名言
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星野道夫さんが死去してから25年以上の年月が経過していますが、現在も作品が電子書籍化されていて、沢山の名言がファンを勇気づけています。
最後に、おすすめの名言をピックアップしてみました。
「僕らの人生というのはやはり限られた時間しかない。本当に好きなことを思いきりするというのは、すごく素晴らしいことだと思います」
星野道夫さんは、まるで自身が短命で終わるのを覚悟していたかのように、時間を大事に考えていた人物です。
あっという間に過ぎていく人生を後悔することなく、好きなことにフォーカスした星野道夫さんの人生そのものを表現しているようですね。
「バスを一台乗り遅れることで、全く違う体験が待っているということ。人生とは、人の出会いとはつきつめればそういうことなのだろうが、旅はその姿をはっきりと見せてくれた」
本当に望んでいた結果ではなかったり、トラブルが起きたりした時は落ち込むこともありますが、実は新たな出会いや、思いもよらぬ人生の転機になることがあります。
人生のトラブルや低迷を「バスを一台乗り遅れる」という、旅に例えている点が星野道夫さんらしいのではないでしょうか。
長く厳しい冬があるというのはいいことだ。もし冬がなければ、春の訪れや、太陽の沈まぬ夏、そして美しい極北の秋にこれほど感謝することはできないだろう。もし一年中花が咲いているなら、人々はこれほど強い花に対する想いをもてないだろう。
極寒のアラスカで生活していた星野道夫さんだからこそ、季節の移ろいをとても大切に、そしていとおしく感じていたことでしょう。
何でもない日常がありがたく感じることができた星野道夫さんの人生は、とても豊かだったと思われます。
まとめ
出典:https://www.amazon.co.jp/
星野道夫さんがどんな人なのか、短いながらも精一杯生きた人生がわかる名言、ヒグマ襲撃事件の経緯と死因、死去のその後、結婚した嫁や子供についてもまとめました。
2023年8月には、星野道夫さんが痛ましい事故で死去してから27年を迎えます。
1人息子の翔馬さんは、現在28~29歳になっているはずです。
何をしているのかは不明ですが、2018年にBS1のドキュメンタリー番組で「夢中になれる何かを探したい」と言っていたので、夢に向かって進んでいるのではないでしょうか。
星野道夫さんの写真集やエッセイ、映像は現在も多くのファンに愛されています。興味のある方は1度作品を手に取ってみてはいかがでしょうか。