永山則夫は19歳で4人を銃殺するという殺人事件を起こした犯人ですが、獄中結婚や小説家としての活動も話題です。
今回は永山則夫の生い立ちと家族(父親・母親・兄弟)、事件概要、獄中結婚、死刑執行と最期の言葉、現在を紹介します。
この記事の目次
永山則夫連続射殺事件とは
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永山則夫の事件について書かれた本
当時19歳だった永山則夫が4人の男性を次々に銃殺する事件が起きたのは1968年のこと。事件は「永山則夫連続射殺事件」と呼ばれることもあります。
少年が拳銃で次々に殺人事件を起こすという衝撃的なこの事件では、死刑を求刑する検察側と、情状酌量を求める弁護側との意見が真っ向から対立し、裁判も注目を集めました。
また、現在までに永山則夫の事件についてドキュメンタリー本が多数出版されています。
ここではまず、事件の概要から振り返ってみましょう。
そもそも、一般人がなぜ銃を持っていたのでしょうか。拳銃を所持していた理由についても紹介します。
永山則夫連続射殺事件の概要
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最初の事件現場となったのは東京プリンスホテルで、被害者は警備員をしていた中村公さん(当時27歳)です。
1968年10月11日、永山則夫は金銭強奪をしようと、裕福な人々が集まるイメージから東京プリンスホテルの敷地内を散策していました。
警備員の中村公さんは、庭園をふらつく永山則夫の姿を不審に思い、呼び止めています。
いくつかやりとりをするうちに、中村公さんは不信感を強め、話を聞くために永山則夫の襟首をつかんで無理やり連行しようとしました。
永山則夫は危機感のあまり、持っていた拳銃を中村公さんに向けて発砲、そのまま京都に逃亡しています。
そしてこの3日後の10月14日、永山則夫が八坂神社をうろついていたところ、第2の被害者となる警備員の勝見留次郎さんが怪しいと見て声を掛けたのです。
永山則夫はナイフで脅しましたが、勝見留次郎さんは冷静に「警察に行きましょう」と説得を始めたため、拳銃で撃ち殺しています。
その後、永山則夫は1度は東京に戻るものの、10月26日に北海道の函館に向かって逃亡。
この時点で所持金が底を尽いていたため、乗り込んだタクシーの運転手を射殺して8000円を強奪しています。
奪ったお金で名古屋に到着した永山則夫は、声をかけてきたタクシー運転手の車に乗り込み、しタイミングを見計らって射殺します。
そして売上金を奪い、自身が住む横浜市に戻った永山則夫は、市内の空き地に拳銃を埋めています。
その後、拠点を東京に移し、新宿区歌舞伎町にあるジャズ喫茶に就職し、目立たないように生活していたようです。
しばらく静かに暮らしていた永山則夫でしたが、東京都渋谷区にある専門学校に金品目的で侵入した際、警備員に見つかり、警察に通報されて逮捕されました。
取り調べを行うと、余罪が次々に見つかり、殺人罪、強盗罪、窃盗罪など合計6つの罪状で起訴されました。
永山則夫はなぜ銃を持っていたのか?
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拳銃による殺人事件の犯人として逮捕された永山則夫ですが、19歳の少年が拳銃をどのようなルートで入手したのかが気になりますよね。
永山則夫は1968年10月上旬に、在日アメリカ海軍・横須賀海軍施設に金品を目当てに侵入。
基地内の米軍海兵一等兵層の妻が管理していいた22口径の小型拳銃と実弾50発、そしてアメリカ合衆国製のジャックナイフを盗み出したのです。
逮捕後の捜査では、武器を手にした際に異様に気分が高まったことを永山則夫本人が以下のように述べています。
横須賀基地へ盗みに入って偶然拳銃を手に入れたことが自分を狂わせた。
子供のころから拳銃に憧れていたので、本物を手にしたときは握った感触がとても良かった。
拳銃を身に着けたことで『長い間求めていた本当の友達』にようやく出会ったような気がした。
引用:永山則夫連続射殺事件 – Wiki https://ja.wikipedia.org/
こういった異様とも思える言動については、永山則夫の複雑な家庭環境と幼少期からの壮絶な体験が関係していると言われています。
永山則夫の家族① 父親はギャンブラー
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永山則夫の父親は放蕩な人間であったことから、極貧生活を送っていたようです。
ここでは、父親について詳しく見ていきましょう。
嫁と子供を置いて蒸発
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永山則夫の父親は、北海道網走でリンゴ栽培技師を生業としていたようです。
妻との間に8人の子供をもうけており、永山則夫は8人中7番目に誕生します。
父親は博打が好きで、太平洋戦争が終わると朝から晩まで酒を飲み、博打のために家を出るという生活を送ってました。
父親は博打にのめり込み、家にはほとんどおらず、家にいれば泥酔して、気にくわないことがあると永山則夫と兄弟を殴るという典型的なDV父親だったようです。
いくら腕のよい栽培技師だったとしても、博打と酒にお金をつぎ込んでしまうので、家族は常に極貧状態でした。
さらに、父親が博打で家を空けて音信不通になったかと思えば、不意に帰宅して母親からなけなしの生活費を奪い取り、また戻らなくなるという負のスパイラルに陥っていました。
この生活に耐えられなくなった母親は、子供を連れて家を飛び出しています。
これにより、DV父親との縁が切れますが、母親に引き取られたことで、さらに辛い生活が待っていたのです。
永山則夫の家族② 母親に置き去りにされたことも
母親は殺意を堪える生活を送っていた
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当時、女性が家族を養うのは容易なことではありませんでしたが、放蕩な夫に代わり、永山家を支えていたのが母親でした。行商をして、旦那と子供8人の生活費を稼いでいました。
博打にのめり込み、明日の米さえも奪い取ろうとする旦那に、何度も殺意を抱いたそうです。
しかし、子供たちに犯罪者の家族のレッテルを貼られないよう、その都度思い留まってきました。
氷点下の中子供を置き去りにした
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永山則夫が4歳の時、母親は夫との生活に我慢しきれず、子供8人を連れて実家の青森へ行くために家を飛び出しました。
しかし、全員分の汽車賃が足りず、母親は子供4人を選んで汽車に乗り、永山則夫を含めた4人の子供は駅に取り残されました。
永山則夫と3人の兄弟は、氷点下30度の中に放り出され、網走港の小魚や街中のゴミ箱を漁りながら命を繋いでいたようです。
半年後、偶然民生委員の目に留まり、4人は母親が住む青森に送られました。
しかし、母親は働くことに精一杯で、永山則夫をはじめ子供達とコミュニケーションを取る時間もなかったといいます。
さらに、永山則夫が中学校2年生の夏、突然母親が姿を消しています。
実は約1ヶ月間、北海道に出稼ぎに出ていたのですが、事情が分からなかった幼少期の永山則夫はこういった母親の行動にいつしか「母親に捨てられた」と感じるようになったそうです。
永山則夫の家族③ 長姉は心労で入院
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兄弟の中で誰よりも、不幸な影響を受けたのは長姉「セツ」さんでした。生年月日や学歴、画像など詳しい情報は分かっていません。
両親共々、子育てを放棄していたようなものだったので、兄弟の面倒はセツさんが見ていました。
永山則夫が人生で、心を許せた数少ない人物と言われるセツさんについて見ていきましょう。
母親のような存在だった
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永山則夫の物心がついた時、長姉はすでに20歳をすぎており、家に帰らない父親の代わりに生活費を稼いだり、母親が家を出た時は弟と妹の面倒を見たりと親のようなポジションでした。
両親は親としての義務を放棄していましたし、永山則夫は次兄からは暴力を振るわれ、その他の兄弟からもいじめられていたので、長姉は唯一心を許せる家族だったのです。
セツさんが傍にいて面倒を見ていた時は、心の安寧があったのか毎日学校に通っていました。
破談や中絶で心を病んでしまった
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姉のセツさんは、近所に住む男性と交際していました。そして、その男性との子供を宿していることが判明し、婚約を交わしています。
しかし、どういう理由かは明かされていませんが、その後、男性と破局し、子供を堕胎することになってしまった長姉は、心身ともに傷つき、心を病んで入院してしまったのです。
そして、慕っていた姉が壊れていく様子を見ていくうちに、永山則夫も次第に精神的に不安定になっていき、不良の道を歩むことになるのです。
永山則夫の生い立ち① 家族との溝を感じ、荒んでいた
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ここからは、永山則夫の生い立ちについて見ていきましょう。
幼少期に家族から疎まれがちだった永山則夫は、思春期に入ると道を踏み外し、悪行を働いて少年鑑別所に入っています。
当時少年だった永山則夫が人生を踏み外した理由として考えられているのは、家族との心の溝です。
そして永山則夫は、いつしか家族に暴力を振るう少年になっていたのです。
ただその一方で、不良とは思えないような思慮深い一面もあったと言われています。
父親の死後、捨てられていた事実を知る
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中学校に入ると、永山則夫は新聞配達のアルバイトを始めて家計を支えています。
そしてある時、父親が死去したという連絡が入り、幼すぎて覚えていなかった幼少期の話を聞かされたようです。
父親が家で飲んだくれて博打にのめり込み、家に帰らなかったこと、母親が子供4人を氷点下30度の中で置き去りにされたことなどを知り、永山則夫はショックを受けたのです。
死にたいと考えたこともあったそうですが、次第に不良少年とつるみ、万引きなど悪事に手を染めていったことで、さらに母親から疎まれてしまうことになりました。
永山則夫はますます心が荒み、当時一緒に住んでいた妹や姪に暴力を振るうようになりました。
真面目な一面も
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学校はまともに通っていなかった永山則夫ですが、ドストエフスキーを愛読するなど真面目な一面もありました。
文学好きな一面は、後に刑務所の中で執筆活動をするのに大きな助けになっていますし、刑務所の図書館でかなりの数の本を読破する原動力になりました。
幼少期からきちんと勉強をさせてもらえる環境ではなかったので、成績はかなり酷いものだったようですが、永山則夫は本来知的好奇心が旺盛だったのかもしれません。
永山則夫の生い立ち② 就職するも半年で退職
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定時制高校に通いながら日中に働く会社に就職した永山則夫でしたが、すぐに辞め、会社を転々としています。
家にも自宅にも居場所のない永山則夫は、ますます周囲に心を閉ざし、人間との繋がりを自ら断つようになっていったのです。
過去がバレるのを恐れて退職
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1965年、渋谷にある高級果物店に就職した永山則夫は、身長が小柄で大きな目だったことから同僚から可愛がられたそうです。
その後、上司が就職セミナーの現場担当として青森に出張したところ、地元の人から永山則夫が過去に窃盗をしていたことを耳にしました。
上司から窃盗について問われた永山則夫は、「このままでは過去がバレて解雇されてしまう」と怯え、自ら退職の道を選びました。
その後も就職するものの、すぐに被害妄想にとりつかれて周囲から孤立しがちに。
家族から一線を引かれ、職場にも心を許せる仲間がおらず、孤独に苛まれて窃盗を繰り返すようになり、現場を見つかり逮捕されたこともあったようです。
長兄に騙されていた
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その後、長兄から「入院費用が必要だ」と持ち掛けられた永山則夫は、当時働いていた横浜港での給与の大半を長兄に渡す生活をしていたことがありました。
しかし、実際は長兄は病気だったわけではなく、詐欺を働いた末の逃亡資金として使われていたようです。
それからの永山則夫は体調不良が続き、退職に追いこまれ、最終的には路上で生活するという過酷な状況を極め、程なくして殺人事件を引き起こしています。
永山則夫の裁判と判決とは?
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永山則夫が逮捕されたのは、1969年4月8日のこと。当時の永山則夫の年齢が19歳だったことから、大いに世間から注目を集めました。
裁判の経緯について紹介します。
無期懲役からの死刑判決
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未成年の殺人事件ということで、裁判は二転三転し、第一審だけで10年の年月を要する長丁場の裁判になりました。10年の間に3回も裁判長が変わっています。
3年間に渡り裁判を担当した堀江一夫元裁判長は、「起訴状通りなら死刑もやむを得ない。しかし永山の言い分を聞きたいと考えた」と語っています。
第一審の判決は1979年7月10日で、やはり罪のない人間を殺めた罪が重いとして死刑判決が言い渡されました。
その後、弁護団が東京最高裁へ控訴し、情状酌量を求めています。この頃から永山則夫は、被告質問に素直に応じ、被害者遺族に対する気持ちを真摯に綴るなど、変化が見えていたのです。
1981年8月21日、罪一等を減ずる無期懲役の判決が下りました。
しかしこの判決に対して世論の反発は相当なもので、批判や否定的な意見が相次いで寄せられました。
これを受けた東京高等検察庁は、判例違反・量刑不当を理由として最高裁判所へ上告。1983年に、無期懲役判決を棄却し、再度審議をすることが決まったのです。
その後、1987年に第一審において死刑判決が再び下され、永山則夫はこれを不服として上告するも、1990年5月9日に死刑が確定しました。
永山則夫の刑務所での生活とは
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1969年に始まった裁判は、紆余曲折を経て1990年に永山則夫の死刑が完全に確定しました。
実は、死刑が執行されるまでの期間、永山則夫を見守り続けた刑務官がいました。
その元刑務官は、坂本敏夫さんです。現在はノンフィクション作家をしています。
著書の中で明かされた、永山則夫の変化について見ていきましょう。
第一声は「なんだお前」だった
初めて顔を合わせた永山則夫の態度は、とにかく酷いものでした。何しろ最初に放った言葉が「なんだお前!」だったそう。
コミュニケーション能力が恐ろしく乏しく、常識もモラルも無いという第一印象だったようです。
その後、裁判の判決謄本を読んでいくうちに永山則夫への印象が変わっていったといいます。
両親から愛された記憶がなく、心許せる姉は心を病み、学校にも居場所がない環境では、社会常識が身に着くはずがないと、坂本敏夫さんは考えたそうです。
刑務所でノートと鉛筆を使うことを許可された永山則夫は、がむしゃらに勉強を始めました。そして手記を綴りはじめ、後に著書「無知の涙」を書き上げています。
月日が流れる中で永山則夫は、少しずつ落ち着きを見せていったそうです。言葉使いこそ乱暴なままでしたが、永山則夫の態度は確実に柔らかくなっていきました。
決して進んで発言する方ではなかったのに、自ら言葉を組み立てて質問に答えたり、支援者の説得に応じて精神鑑定を受けるなど、公判でプラスになることも多かったようです。
印税を被害者へ渡していた
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刑務所の図書館で本を貪るように読み、ノートに物語を綴ったものが「無知の涙」として1971年に出版されると、たちまち飛ぶように売れていきベストセラーに。
そんな永山則夫は、入ってきた印税を遺族に渡すことで償いをしたいと申し出たのです。ただ、被害者4人の内、2人の遺族からは受け取りを拒否されています。
その後も作家として活動を続け、1973年に「人民をわすれたカナリアたち」、「愛か-無か」をたて続けに出版。1984年には、「木橋」が第19回日本新文学賞を受賞しています。
永山則夫の作家活動は世界からも注目を集め、「国際人権擁護団体」や「ドイツ作家同盟」など各国から日本政府に恩赦の要請が来ていたそうです。
永山則夫は獄中結婚・離婚をしていた
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永山則夫は実は、刑務所の面会室の中で結婚式を挙げるという特殊な経歴の持ち主です。さらに離婚もしています。
いわゆる獄中結婚ですが、気になるのは嫁となった女性の素姓と馴れ初め、離婚理由ではないでしょうか。
ここからは、永山則夫の獄中結婚について見ていきましょう。
嫁の名前は和美
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結婚相手の女性は、新垣和美さんといい、沖縄出身のフィリピン人と日本人のハーフです。結婚前は、アメリカで仕事をしていました。
ニックネームは「ミミ」であることが分かっていますが、顔写真や出身学校、身長など詳細な情報は明かされていません。
新垣和美さんはかつて無国籍だったこともあり、若い頃は荒んだ生活を送っていたそうですが、永山則夫の「無知の涙」を呼んで共感したのだとか。
馴れ初めは文通だった
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アメリカから新垣和美さんは「この遠き国より、永山さんのことを識るひとりの女人が在ることを永山さんのこころのスミに置いて欲しいのです」と手紙をしたためました。
そこから2人の間で文通が始まり、54通を数えるころ、和美さんは東京拘置所に足を運ぶようになって直接顔を合わせるようになっていました。そして、そのまま結婚式をしています。
和美さんは遺族の元も回っていたようです。
生きる希望を見出した永山則夫は、裁判で贖罪の気持ちを語るようになっていきました。
離婚の理由は再審だった?
2人の結婚生活は、無期懲役が確定後に世論に負ける形で再審が決まった後から、死刑確定後の間に離婚をしています。
一方的に永山則夫の方から離婚届を突きつけ、話し合いの場を持ったようですが、嫁が折れる形で離婚が成立しました。
離婚の理由については明かされていませんが、1度は生きて償うことに希望を持った永山則夫の気持ちが、再審が始まり再び荒んだからではないか、と言われています。
永山則夫の死刑執行の様子と最期の言葉とは
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1997年8月1日、永山則夫の死刑が執行されました。
生きて償うことを願っていた永山則夫が執行を迎えるまでの苦悩や、現在も語り継がれる最後の言葉について紹介します。
執行を予知しノートに心情を記載
死刑執行の命令が出たのは、1997年7月25日のこと。
永山則夫は、それ以前から死刑執行の時期が迫っていることを悟っていたようで、自身のノートには、以下のような言葉で迫りくる死を恐れる気持ちを残しています。
自分は(死刑執行の時に)徹底的に抵抗し、無残な遺体になるかもしれない。
東京拘置所は朝食に薬物を混入させ、摂取させることで身体のコントロールを聞かなくするかもしれない。
遺体は解剖して死因を突き止めてほしい
引用:永山則夫- Wikipedia https://ja.wikipedia.org/
かなり追い詰められた精神状態だったことが分かります。
刑務所側にノートの内容を塗りつぶされることを危惧していたようで、同様の内容を他のページに暗号を駆使して書き残しています。
最後の言葉とは?
死刑執行日の朝、永山則夫は看守に「面会だ」と言われて出房しています。
そして、周囲をぐるりと看守に囲まれた自分の状況から、死刑執行日だと分かると、激しく暴れました。
刑場に着いた時には、抵抗を刑務官達に制圧されたため、永山則夫の全身は擦り傷だらけで、顔は腫れて意識が無かったと言われています。
死刑執行時には、最後の言葉として「ウオーッ!俺を殺すと革命が起きるぞ」と叫んだという噂もありますが、真相は定かではありません。
そして10時39分に死亡が確認されています。享年48歳でした。
19歳で服役し、人生の半分以上を塀の中で過ごした一生でした。
永山則夫の事件は現在も影響を与え続けている
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永山則夫連続射殺事件が起きたのは1968年なので、2021年現在から数えて53年前ということになります。
未成年の銃器による連続殺人事件は例がなく、かなり裁判に時間がかかったことは今も語り継がれています。
永山基準とは?
1969年から死刑が確定した1990年まで、裁判が約20年にも渡ったのは、死刑を適用するには、どのような背景が適切かという点を議論する必要があったからと言われています。
その後、最高裁判所が「永山基準」と呼ばれる少年事件の死刑適用の要件となる基準を策定しましました。
基準は9つ存在しており、例えば犯行の罪質や動機、遺族の被害者への感情、犯人の年齢など様々な観点が存在しています。
まとめ
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永山則夫は、1968年に19歳の若さで盗んだ拳銃で4人の罪のない男性を次々に銃殺するという、連続殺人事件を起こした犯人です。
その生い立ちは壮絶で、父親は博打・酒に狂い、家族に暴力を振るうだけでなく、家が明日食べるためのお米まで賭け事の軍資金にしてしまったため、常に極貧の生活でした。
母親は夫の元を出ていく際、永山則夫を含めた子供4人を真冬の北海道に置き去りにしており、これを後年知った永山則夫はひどくショックを受けています。
そんな永山則夫は兄弟にも疎んじられ、いじめられていましたが、唯一長姉は優しかったようです。ただ、長姉が心を病んで入院してからは、永山則夫の生活は荒れていきました。
中学生になると不良の道に走り、家にも学校にも居場所がなく、窃盗を繰り返していたのです。
その後就職するも、過去の犯罪がバレることを危惧し、職を転々とする生活を送っていた永山則夫は、最初は強盗目的だったものの、銃殺事件を起こし、4人もの人を殺めました。
長い時間をかけて行われた裁判で、最終的には死刑が確定。
刑務所の中では、学生の時にできなかった勉強を貪るようにしていく中で、文才を発揮するようになり、著書「無知の涙」はベストセラーになりました。
この著作に共感した女性との文通を続けて、獄中結婚を果すも離婚しています。
1997年に死刑執行がされていますが、最後の言葉については明確に伝わっていません。少なくとも、死刑執行日を恐れていたことだけは確かなようです。
現在は永山則夫が起こした事件がきっかけで、未成年の犯罪で死刑を求刑するガイドラインとなる「永山基準」ができたことが知られています。
4人を銃殺した罪は決して許されるものではありませんが、永山則夫の生い立ちや境遇を知れば知るほど、人間は環境によって大きく人生が変わってしまうことを考えさせられます。
永山則夫がもっと違う生い立ちで育っていれば、この世に名作を多く生み出した作家だったかもしれないと思うと残念でなりません。