三里塚闘争と現在!タブーの一軒家・死者/殉職者と犯人・映画と漫画も総まとめ【成田空港の建設反対闘争】

日本の空の玄関口である成田空港ですが、建設にまつわる激しい闘争の歴史があり、最近でも機動隊との衝突が勃発し話題です。

 

今回は三里塚闘争の動画や詳細、死者数や犯人、殉職者、一軒家のタブー、映画や漫画をわかりやすく紹介します。

三里塚闘争とは成田空港建設反対闘争

出典:ok.ru


三里塚闘争(さんりづかとうそう)とは、成田空港の建設・存続に反対する勢力の闘争で、成田闘争とも呼ばれています。

 

千葉県成田市の三里塚周辺に国際空港の建設が決まった1966年から、空港建設反対派の運動が地元住民らを中心に起こり、そこに左翼勢力が加わりました。

 

そのため、長期にわたり過激な反対運動が繰り広げられ、反対派・警察共に死者・殉職者を出しています。

 

1978年に成田空港が開港した後も、成田空港存続反対の活動は続いていて、三里塚闘争は現在でも終結していません。

 

 

三里塚闘争をわかりやすく解説

出典:doro-chiba.org

 

三里塚闘争をわかりやすく、簡潔に解説していきます。

 

1.都心から近く、アジアのハブ空港を建設する場所を政府は探していた

2.千葉県成田市の農村部・三里塚周辺に新東京国際空港(成田空港)の建設決定

3.地元住民の中に建設反対派がいた

4.地元反対派の支援に新左翼が加入

5.新左翼が加入したことで反対活動はより暴力的&過激になる

6.反対闘争が過激化し、機動隊と衝突を繰り返す

7.第一次行政代執行が行われる

8.第二次行政代執行で激しく衝突+ゲリラ部隊襲撃で警官3人殉職(東峰十字路事件)

9.その後も泥沼化で空港開港延期

10.1978年5月20日にようやく新東京国際空港が開港

11.その後も武装闘争やテロ行為が続く

12.円卓会議で和解に近づく

13.現在もまだ一部の過激派による三里塚闘争は続く

 

これが三里塚闘争のわかりやすい流れです。

 

成田空港建設で地元住民の反対派に、左翼・新左翼が加わって過激になり、空港・行政・警察と衝突を繰り返し、死者まで出てしまいました。


この三里塚闘争で成田新幹線建設は中止となり、さらに基本計画が完遂できず規模が縮小することに。

 

そのため、成田空港はアジアのハブ空港になることができず、その地位は韓国の仁川空港などに奪われています。

 

 

三里塚闘争の過激な動画を紹介

三里塚闘争がどのようなものだったのかを動画で見てみましょう。

 

こちらの動画を見ると、当時の三里塚闘争の激しさがよくわかると思います。

 

 

 

火炎瓶を投げつけ、人が燃えている様子は現代の感覚ではちょっと考えられないほど過激ですよね。

 

こちらも三里塚闘争(成田闘争)の第二次行政代執行の時の動画です。反対派と警察(機動隊)の衝突が激しい様子がわかります。

 

 

 

こちらは、成田空港開港前に起こった管制塔占領事件です。

 

 

 

管制塔から紙吹雪のようなものが舞うシーンは、不謹慎な表現かもしれませんが、まるで映画のワンシーンのようです。

 

そのくらい、現代の日常では考えられないような出来事・シーンだと思います。

 

 

 

三里塚闘争が過激になった過程① 新東京国際空港が三里塚に決定

出典:zenshin.org

 

三里塚闘争を詳しく説明していきます。まずは、三里塚闘争があれほど過激になっていく過程を順を追って見ていきます。

 

1960年代に入ると、日本は高度経済成長期を迎え、航空需要は急激に増大。また、世界的にジェット化による大量輸送時代が到来していました。

 

当時の日本の国際空港は羽田空港(東京国際空港)しかなかったため、新たな国際空港建設が急務となり、政府は東京近郊で新たな国際空港建設地を探していました。

 

千葉県内の複数の候補地から、すったもんだがあった末に、1966年6月22日、千葉県成田市の三里塚周辺が空港建設地として決定しました。

 

 

三里塚闘争が過激になった過程② 三里塚芝山連合空港反対同盟が結成

出典:okinawatimes.co.jp

 

成田市三里塚に新空港が建設されることが決まりましたが、この決定前に千葉県の行政とは調整があったものの、地元住民への聞き取り調査などは行われていませんでした。

 

そのため、住民は報道で空港建設地になったことを知ったため、まさに「寝耳に水」状態でした。

 

この三里塚は御料牧場があり、地元住民の中では御料牧場は物心両面で重要な場所でした。

 

さらに、三里塚は第二次世界大戦後に満州や沖縄から引き揚げてきた人たちに払い下げられた入植地で、身一つで開墾を始めたという歴史があります。

 

身一つでの開墾は過酷であり、新空港建設が決まった頃はようやく開墾を終え、生活が成り立ってきた状態だったと言われています。

 

そのため、地元住民にとってはその土地への思い入れは非常に強く、それなのにいきなり「空港を建設します!」と報道で知らされたことで猛反発し、抗議活動をするようになります。

 

一方、政府は戦後の開墾者がメインの住民だから、その土地への思い入れは少なく、「お金を詰めば、簡単に土地を買収できるだろう」と考えていたようです。

 

地元住民の考えを政府が読み誤ったことが、三里塚闘争がここまでこじれた1つの要因と言えるかもしれません。

 

三里塚に空港を作ることが発表された3日後の1966年6月25日、住民向けに「新空港説明会」が開催されました。

 

しかし、この時点では空港建設反対派がほとんどで、同年6月28日には「三里塚空港反対同盟」が結成され、そこから1~2ヶ月後には「三里塚芝山空港反対同盟」が作られました。

 

その後の1966年7月4日には、政府は土地を相場の5倍程度で買い取り、家の建て替え費用の保証、離農する農家には廃止補償を出すなどの手厚い補償案を提示。

 

すると、地元住民たちの8割程度は「絶対反対ではなく、条件を出して話し合う」という条件賛成派に転じ、1968年4月には、空港公団は空港予定地の89%の買収に成功しています。

 

しかし、残りの10%は買収に応じず、「三里塚芝山空港反対同盟」として活動していくことになります。

 

 

三里塚闘争が過激になった過程③ 地元反対派を左翼政党が支持

出典:asahi.com

 

「三里塚芝山連合空港反対同盟」の活動を支持したのが、左翼政党である日本共産党と日本社会党でした。

 

日本共産党と日本社会党が支持したこともあり、反対派の運動は大きな広がりを見せます。

 

そのような中、条件賛成派と反対派の住民同士での対立が激しくなっていきました。多数を占めた条件賛成派は反対派から恨まれるようになり、嫌がらせが行われるようになりました。

 

 

三里塚闘争が過激になった過程④ 新左翼が参加して過激になる

出典:news-postseven.com

 

三里塚闘争の初期は日本共産党や日本社会党が支持していましたが、そこに「新左翼」が加わるようになります。

 

新左翼とは、日本共産党や日本社会党などの既成左翼よりも、より革新的で暴力的な左翼のことです。警察白書では極左暴力集団と記述されています。

 

当時の日本ではこの新左翼の活動が活発化しており、三里塚芝山連合空港反対同盟は1967年8月に、「あらゆる民主勢力との共闘」として新左翼の受け入れを表明します。

 

反対派の指導者は、羽田事件で機動隊と衝突した経験を持つ新左翼の行動力・経験に期待しました。

 

また、新左翼は日本政府・佐藤内閣を相手に反対運動を続けている反対派を「反国家権力闘争の象徴」になると期待したため、両者の思惑が一致した形になり、協力体制が作られたのです。

 

暴力的で過激な新左翼が三里塚芝山連合空港反対同盟に加わったことで、三里塚闘争は過激になり、武闘闘争路線になっていきます。

 

・成田デモ事件(空港公団分室への突入を図った学生と機動隊の衝突)
・空港公団の調査器具の損壊
・投石
・バリケード構築空港関係者へ嫌がらせ
・機動隊や空港公団職員に角材を振るう
・条件賛成派の家屋や畑の破壊
・調査時に屎尿やクロルピクリンの投擲(とうてき)・投石・鎌・竹槍等で抵抗

 

ここからさらに三里塚闘争は過激になっていきます。

 

 

三里塚闘争が過激になった過程⑤ 2度の行政代執行で負傷者続出・死亡者も

1971年に三里塚闘争はその過激さのピークを迎えます。1971年には2回の代執行が行われました。

 

行政代執行とは、行政が強制的にその土地を利用できるようにする行使です。

 

引用:土地収用法による代行及び代執行とは – 埼玉県


明渡裁決による明渡義務が履行されず、起業者が収用した土地等を利用できない時、それを可能にするのが、代行及び代執行です。

 

成田空港予定地は、1971年1月31日を明け渡し期限とする明渡裁決がありましたので、1971年2月1日からは行政代執行が可能な状態でした。

 

そして、1971年2月から行政代執行が行われ、大きな犠牲を生むことになりました。

 

 

第一次行政代執行

出典:ok.ru

 

1971年1月31日に明け渡し期限を迎え、千葉県知事は明け渡しがないなら代執行を行う戒告書を対象地の地権者たち(反対派)に送付しました。

 

しかし、それでも明け渡しがないために、1971年2月22日から第1次代執行が開始されます。

 

反対派は、1月から地下壕を掘ったり団結砦を作ったりと代執行に向けて準備をしていたこともあり、2月22日の代執行開始日には反対派とその支援者3,000人と機動隊が衝突しました。

 

反対派は火炎瓶や人糞を袋に詰めた「黄金爆弾」を作業員や機動隊に投げつけ、さらに暴行を加えるなど抵抗したため、公団の作業員はほぼ作業できず、1日目は1時間半で撤収に。


2日目はたった4分で引き上げることになります。

 

3日目の2月24日は子供たちが結成した少年行動隊と公団職員が衝突、25日からは機動隊が前面に出て主力となり、反対派の人たちの排除を開始しました。

 

2月25日だけで負傷者は253人、逮捕者は141人にも上っています。

 

このような状況下で、千葉県知事は2月27日~3月1日までの代執行の中止を発表し、3月2日には機動隊を2,300人に増やして代執行を再開しました。

 

3月3日には機動隊が3,000人にまで増員され、3月5日には3,500人に増員。

 

連日逮捕者・負傷者を出しながら、反対派の拠点などを高圧放水車で制圧し、3月6日に第一次代執行終了を宣言しました。

 

この第一次代執行は反対派の火炎瓶や投石・竹槍などによる抵抗・攻撃で、多くの負傷者・逮捕者を出しました。

 

・警察・職員、作業員の負傷者:1,171人
・逮捕者:487人

 

ただ、これだけの犠牲を出しながら、第一次代執行の成果はほとんどありませんでした


この第一次代執行では、反対派と機動隊の衝突の混乱に乗じて、野次馬たちも投石を行うこともありました。

 

なお、条件付き賛成派の人たちは、ガードマンとして現地に派遣されていたそうです。

 

そして、今まで執拗に反対派から嫌がらせを受けていた条件付き賛成派は、日頃の恨みから奪った竹槍で反対派を攻撃したりと、本当に地獄のようなぶつかり合いがありました。

 

 

第二次行政代執行

出典:ok.ru

 

そして、1971年6月、政府は残りの空港予定地を収容するために、9月16日から第二次行政代執行を行うことを決定しました。

 

この決定により、反対派は火炎瓶やの制作や砦の補強を急ぐようになります。また、機動隊による地下壕や砦の撤去が始まり、そこで多数の負傷者・逮捕者が出ました。

 

また、反対派により、警察署長官舎や踏切などに爆案が仕掛けられるなどテロ行為・ゲリラ活動も活発になっていきました。

 

そして、9月16日、第二次代執行が開始となります。

 

機動隊は全国から6,400人が集められましたが、代執行を行う各地で後方警備の機動隊が襲撃を受けるなど、地獄絵図のような状態となりました。

 

9月20日に泉(大木)よねの自宅を機動隊1,000人と執行班が収容し、第二次代執行が終了しました。

 

 

東峰十字路事件

出典:chibanippo.co.jp

 

三里塚闘争の第二次行政代執行では、機動隊3人が殉職する東峰十字路事件が発生しました。

 

第二次代執行初日の9月16日午前7時頃、神奈川県警の福島小隊30人は、東峰十字路で武装したゲリラ部隊200人以上に襲撃を受けます。

 

ほかの部隊から救援がない状態で孤立した福島小隊は、ゲリラ部隊に包囲され、火炎瓶や角材・丸太、投石などにより激しい攻撃を受けます。

 

後方に後退しながら防戦を試みるも、退却することになりました。しかし、その途中で3人が陰湿な暴行を受けて死亡するのです。

 

・福島誠一警部補(神奈川警察署外勤第一課係長、当時47歳)
・柏村信治巡査部長(神奈川警察署外勤第一課主任、当時35歳)
・森井信行巡査(神奈川警察署外勤第一課、当時23歳)

 

3人の遺体は半身が焼けただれ、顔が異常に膨れあがった状態だったとのことです。

 

また、福島警部補は頭がい骨亀裂骨折、脳内出血、12対(24本)の肋骨のうち17本が折れ、折れた骨は肺に刺さり、28ヶ所の打撲痕がありました。

 

柏村巡査部長は顔から左肩にかけて2度~3度の熱傷、頭がい骨亀裂骨折、2か所の肋骨骨折、頭部打撲、全身に打撲痕あり。

 

森井巡査は頭蓋底骨折、頭部打撲、顔や胸、肩に3度の熱傷、打撲痕などがあり、3人とも脳挫傷と脳内出血が死因でした。

 

この3人のほかにも、機動隊も以下のような襲撃を受けています。

 

・石や火炎瓶を投げつける
・裸にして手錠をかける
・抵抗できない状態にして鉄パイプや釘を打ち込んだ角材で滅多打ちにする
・土下座を強要される
・農業用フォークで胸を突かれる
・裸にされて手錠で木につながれリンチを加える

 

これにより80名以上が負傷し、全身やけどや失明、全身打撲などの重傷者が出たほか、顎を竹槍で刺し抜かれた機動隊員もいました。

 

 

三里塚闘争が過激になった過程⑥ 東峰十字路事件と強制収用でやや風向きは変わるが・・・

 

出典:chugoku-np.co.jp

 

マスコミはこの三里塚闘争が起こった当初から、反対派寄りの報道をしていました。

 

しかし、凄惨な東峰十字路事件で3人が殉職したことで、一気に政府寄りの報道をするようになり、世論も反対派批判に傾いていきました

 

また、第二次代執行で、空港公団(政府・行政)が強硬な手段で強制収用を行ったのを見て、今まで反対派だった地権者の中には、反対運動から離れる人も出てきました。

 

この時に反対運動から離れた人は、「脱落」という烙印を押され、以降は嫌がらせを受けたり、畑を荒らされたりしたそうです。

 

<反対派の農家の数>
・反対同盟結成時:320戸
・代執行前後:45戸
・1976年:23戸

 

そのため、この第二次代執行を機に、三里塚闘争は反対派はやや勢いを失います。

 

特に、1972年2月にはあさま山荘事件が起こり、山岳ベース事件も明らかになったことで、世論は新左翼への嫌悪が強くなり、新左翼は勢いも勢力も世論の支持も失うことになりました。

 

 

三里塚闘争が過激になった過程⑦ 泥沼化と襲撃で開港延期

出典:asahi.com

 

反対派と新左翼は勢いを失いますが、三里塚闘争が終わったわけではありません。むしろ、泥沼化していきました。

 

反対運動を離れた農民の代わりに、新左翼が運動のメインとなり活動を継続していったのです。

 

農家の人たちが少なくなり、新左翼がメインになった反対派は内ゲバ闘争(暴力を使用したグループ内闘争)などを行うようになり、政府側と膠着状態に陥ります。

 

そのような中、成田空港は少しずつ建設工事が進み、1978年3月30日に開港が決定しました。

 

しかし開港目前の3月26日、新左翼(第四インター、プロレタリア青年同盟、戦旗・共産主義者同盟)が空港を襲撃、さらに前日から地下に潜伏していた別動隊が成田空港管制塔を占拠

 

これによって、開港は延期となりました。

 

 

三里塚闘争が過激になった過程⑧ 開港後も闘争が継続

ようやく開港

出典:www2.nhk.or.jp

 

成田空港管制塔占拠事件が起こり、開港は延期となりました。

 

その後、京成スカイライナー放火事件や妨害用の気球の浮揚、古タイヤの燃焼などの妨害工作が行われましたが、1978年5月20日、ようやく成田空港が開港します。

 

 

開港後も闘争は続く

出典:bijutsutecho.com

 

成田空港は1978年5月20日に開港しましたが、その後も反対派による活動は続きました。

 

開港後は反対同盟はほぼ新左翼に乗っ取られる形になり、新左翼は内部分裂していくことになりました。

 

そして、最後の武装闘争である10.20成田現地闘争が1985年に発生します。

 

成田市の三里塚交差点付近で新左翼グループと警察が激しく衝突し、成田空港の管制塔に散弾が撃ち込まれました。この「10.20成田現地闘争」では241名の逮捕者が出ました。

 

その後は負傷者が出るような大規模な衝突・闘争は起こっていませんが、関係者を標的としたテロ行為や移転した農家への放火などの嫌がらせが相次いでいます。

 

 

三里塚闘争は円卓会議で和解へ

出典:mlit.go.jp

 

1990年に入ると、この三里塚闘争を取り巻く状況が一気に変化していきます。

 

・政府が今までの対応のまずさを認識した
・冷戦が終結した
・反対派の世代交代が進んだ

 

これらの理由で反対派の穏健派が、政府との円卓会議に参加し、国からの公式謝罪を勝ち取り、さらに成田空港問題は今後は話し合いによって解決していくという言質を取りました。

 

そして、運輸大臣と反対同盟が握手を交わしています。

 

この円卓会議で政府側と反対派は雪解けとなり、土地の収用に応じる農家も出てきました。

 

また、成田空港のおかげで町が発展し、家族や親類の就職先を確保できたことなどから、反対運動から離れる人も増えていったのです。

 

 

三里塚闘争の死者数

出典:facebook.com

 

三里塚闘争では合計で12人の死者が出ています。

 

<警察官4人>
・1971年:東峰十字路事件=3人
・1977年:芝山町長宅前臨時派出所襲撃事件=1人

 

<工事作業員2人>
・1983年:東鉄工業作業員宿舎放火殺人事件=2人

 

<収用委員会会長1人>
・1988年:千葉県収用委員会会長襲撃事件による後遺症を苦にした自殺
※自殺は2003年

 

<航空機メーカー役員の家族1人>
・1990年:日本飛行機専務宅放火殺人事件

 

<反対派活動家3人>
・1977年:東山事件=1人
・1978年:成田空港管制塔占拠事件=2人
※うち1人は拘禁反応で精神疾患を発症して自殺

 

<反対派農民1人>
・1971年:第二次代執行後に自殺

 

この政府側(警察官や空港関係者)の死者を見るとわかりますが、政府側に死者が出た原因は「ゲリラ活動」や「殺人」であることがわかります。

 

 

三里塚闘争が泥沼化した犯人は新左翼?

出典:diamond.jp

 

三里塚闘争は12人の死者を出して泥沼化している紛争・闘争ですが、こんなにも泥沼化させた最大の犯人・原因は、新左翼と言われています。

 

三里塚闘争では、確かに政府の対応はお世辞にも良いとは言えず、地元住民の神経を逆なでするような対応をしていました。

 

また、地元住民が反対する気持ちは十分に理解できますし、説明もなくいきなり発表されては空港建設に反対するのは当然です。

 

でも、条件賛成派に嫌がらせをしたり、自分たちの反対運動に日本共産党・日本社会党を招き入れ、さらに新左翼の合流を許可したことも、三里塚闘争が泥沼化した原因と見られています。

 

ただ、新左翼が三里塚闘争に関与するようになって、活動は過激に、暴力的になっていきました。


反対活動に参加する地元住民・農民が減っていくと、新左翼の活動家が組織を乗っ取って、テロ行為・ゲリラ活動を行い、さらに内ゲバで分裂していきました。

 

このように新左翼が暴力で解決しようとしたから、三里塚闘争は死者が出て、長期化して泥沼化していったと思われます。

 

また、新左翼は成田空港の建設問題を地元住民側に立って解決しようとしたのではなく、自分たちの主張・理想を通すために、三里塚闘争を利用していたと言えます。

 

実際、三里塚闘争に参加していた新左翼の活動家は千葉にゆかりのある人ではなく、関係ない地域から押し寄せて来たようです。

 

 

 

 

これらのツイートを見ると、やはり三里塚闘争が泥沼化させた犯人は新左翼の活動家であると言えるでしょう。

 

 

三里塚闘争で殉職者を出した東峰十字路事件の犯人は?

出典:mainichi.jp

 

三里塚闘争で警察の殉職者3人を出し、世論を大きく動かした東峰十字路事件。

 

この東峰十字路事件で警察の機動隊3人は本当にひどい暴行を受けており、死因は脳挫傷と脳内出血。さらに骨折が複数ヶ所、全身に打撲痕、上半身は2度~3度の熱傷を負っていました。

 

この3人の機動隊員を殺害した犯人は、実はきちんと逮捕されていません。殺人罪として逮捕された人はいないんです。


まず、東峰十字路事件は1971年9月16日午前7時頃に発生し、福島小隊がゲリラ部隊に襲われたという情報が入ります。

 

しかし、ほかの部隊も違うゲリラ部隊に襲撃されていたなどすぐに別の機動隊が助けに行くことができないほど、現場は混乱していました。

 

そのため、捜査陣はすぐに現場に臨場することはできず、機動隊に守られて、事件から6時間後にようやく現場に入り、現場検証を行うことができました。

 

しかし、現場は反対派の農家ばかりでしたので、捜査協力は得られず、目撃情報等も期待することはできませんでした。

 

その後も捜査は思うように進まず、誰が致命傷を与えたのか、犯人の特定は難航を極めました

 

特に、機動隊を襲っていたゲリラ部隊は事件後に犯人の特定や証言をできなくするために、相手の顔や口を集中的に攻撃していたそう。

 

だから、襲われた機動隊員も誰にやられたのかわからないというケースも多かったようです。

 

そのような状況下で、捜査当局は空港建設反対運動で逮捕歴がある空港反対同盟青年行動隊員らを中心に地元住民・常駐学生ら153人を逮捕し、55人を起訴しました。

 

ただ、殺人罪では起訴できませんでした。起訴された55人の罪状は次の通りです。

 

・凶器準備集合:12人
・凶器準備集合・公務執行妨害:11人
・凶準・公妨・傷害・傷害致死:32人

 

殺人ではなく傷害致死。罪の重さはかなり変わりますよね。しかも、この起訴された55人の中で、実刑判決を受けた人はいませんでした。

 

・無罪:3人
・有罪:52人
 

傷害致死は適用されず、公務執行妨害や凶器準備集合罪などだけが有罪となっています。

 

また、有罪になった52人も全員執行猶予付きの判決となっています。執行猶予付きの判決となった理由は、この裁判が長引いたことで、社会生活上の不利益が認められるからとのこと。

 

さらに、「新空港建設に反対する心情は理解できないわけではない」など犯人側に同情するような文言も盛り込まれていました。

 

警察官3人が死亡し、200人以上が負傷したこの東峰十字路事件では、誰も実刑判決を受けず、誰が殺したのかも明らかにならないまま、誰も刑務所に入らないという決着になりました。

 

殉職した警察官も、大けがを負った警察官も、その家族もやり切れないですよね。

 

 

三里塚闘争の現在① いまだに反対派の活動は続いている

 

出典:znn.jp

 

三里塚闘争は成田闘争とも呼ばれていて、成田空港建設に端を発した闘争・反対活動でした。しかし、1978年5月20日に新東京国際空港(成田空港)は開港しています。

 

それ以降、成田空港は特に大きな問題がないまま、現在も日本の空の玄関口として機能しています。

 

成田空港が開港して40年以上、三里塚闘争が始まってからもうすぐ50年が経とうとしているのであれば、さすがにもう三里塚闘争はもう終結しているのかと思うかもしれません。

 

ですが、実は現在でも三里塚闘争は終わっておらず、継続しているんです。

 

空港用地内にはまだ未買収地が残っています。合計で2.9ヘクタールが未買収地のままとなっていて、成田空港はまだ完成しているわけではありません。

 

反対同盟は分裂しているものの、現在でも500人規模の集会を開いていますし、成田空港周辺には「強制収用を許さない!」とか「強制収用実力阻止!」などの看板が立てられています。

 

また、現在は市東孝雄さんという方の農地を守ることに全力を挙げているようです。

 

11月13日、強制執行攻撃が差し迫る成田市天神峰で、三里塚芝山連合空港反対同盟が呼びかける緊急現地闘争が行われた。全国から180人の労働者、農民、学生、市民が結集し、市東孝雄さんの農地を実力で守り抜く決意を固めた。

 

引用:成田空港反対闘争 「諦めない」の信念固く 全国集会で市東さんが発言 未来への協働

 

三里塚闘争の現在② 反対派の活動には地元からの批判もある

出典:https://ja.wikipedia.org/

 

ただ、現在の三里塚闘争は新左翼の活動に対して批判の声が集まっています。

 

市東孝雄さんのように畑を明け渡すように言われたケースの反対運動というのは理解できますが、新左翼は今まで暴力的な活動を行ってきた歴史があります。

 

また、地元の農家の方たちは跡継ぎがいないという現実的な問題に直面中です。現在の反対派のデモや集会の画像を見ると、参加者の高齢化も目立ちます。

 

そして、成田空港は仁川空港や北京空港などと比べると規模が小さく、さらに夜間飛行禁止などの制限があるため、国際的な空港・ハブ空港としての地位が下がってきています。

 

成田空港が衰退すれば、地元の衰退に直結します。

 

このような事情があるため、成田空港開港前のような強い反対運動は地元は望んでいないという意見が多いんです。

 

そして、何より新左翼は「成田空港反対」ではなく、三里塚闘争を自分たちの主張のために使っていることが世間にバレています。

 

三里塚闘争のプラカードや横断幕には、「安倍政権打倒!」とか「菅政権打倒!」などの主張が書かれています。

 

つまり、新左翼は地元住民の意向を無視して、自分たちの主張のために地域を犠牲にしていると言えるでしょう。

 

 

三里塚闘争の現在③ 令和の時代でも機動隊との衝突が発生

 

2023年2月15日には、成田空港用地の市東孝雄さんと反対派が立てたやぐらの撤去が行われ、機動隊と活動家の衝突がありました。

 

 

 

 

https://twitter.com/yosshie34/status/1625816870422220800

 

このやぐらの撤去では、幸いにも重傷者・死者は出なかったようです。

 

それにしても、21世紀・令和の時代に、まだこのような闘争が行われているなんて、三里塚闘争は過去の出来事・歴史上の出来事ではなく、現在進行形であることがわかりますね。

 

 

三里塚闘争のタブーは空港内の一軒家

三里塚闘争にはタブーがあります。そのタブーとは成田空港内の一軒家です。

 

成田空港敷地内の滑走路近くには一軒家が建っており、一軒家と思われる場所は成田空港内に2ヶ所あります。

 

出典:google.com

 

赤丸の場所がタブーとされる一軒家です。メチャクチャ空港内にありますし、飛行機や滑走路のすぐ近くに位置していることがわかります。

 

実は、このタブーの一軒家は現在は人が住んでいるわけではなく、団結小屋があった場所です。木の根ペンションと横堀鉄塔ですね。

 

この成田空港内の一軒家は、2021年6月29日にフジテレビで放送された「パンドラTV」の中で特集されていました。このタブーに挑んだのは、お笑いコンビのぺこぱです。

 

出典:ok.ru

 

出典:ok.ru

 

ぺこぱの2人は横堀鉄塔の一軒家に向かいました。横堀鉄塔に向かう途中の一般道横には、監視台や「強制収用実力阻止」などの立て看板があり、物々しい雰囲気でした。

 

また、その一軒家に向かう途中からは、撮影するのは危険が伴う可能性があるということで、映像はなしで音声だけの撮影となっています。

 

そして、一軒家に向かうトンネルを歩いていると、後方(ぺこぱが来た方向)から警備会社の車が来て、「この先は行き止まりです」と言われたそうです。

 

「入ってはいけない」と直接的な表現では言われていないけれど、実質「入るな」と言っているようなものですよね。

 

このパンドラTVの特集で、成田空港内の一軒家は完全なタブーであることが知れ渡りました。

 

この一軒家は反対同盟の活動家が所有しているので、空港内で滑走路のすぐ近くとは言えども、あくまでも個人が所有しているものなので、簡単に立ち入ることはできません。

 

ぺこぱが近づいた時に来た警備会社は全日警のようですが、反対同盟と契約しているのか、成田空港と契約しているのか、はたまた成田市などの行政と契約しているのかは不明です。

 

もし、あなたがタブーの気分を味わいたいなら、東峰神社に行ってみるのも良いでしょう。

 

出典:ok.ru

 

出典:ok.ru

 

東峰神社は「一軒家」ではなく、成田空港敷地内にある神社です。敷地内と言っても、まだ買収が済んでいない場所なので、「一般共有地」になります。

 

一般道を通って車でアクセスすることができます。また、滑走路のすぐ近くにありますので、飛行機がすぐ頭上を通っていくので、飛行機マニアにはたまらない場所として知られています。

 

東峰神社は横堀鉄塔などの一軒家ほどのタブーはありませんが、それでも三里塚闘争の歴史を感じることができる場所ですし、飛行機を近くで眺めることができる場所です。

 

 

三里塚闘争の映画や漫画を紹介

出典:amazon.co.jp

 

三里塚闘争は映画化・漫画化されています。

 

<三里塚闘争の映画>

・小川プロダクション「三里塚シリーズ」
 ・日本解放戦線・三里塚の夏(1968年)
 ・日本解放戦線・三里塚(1970年)

 ・三里塚・第三次強制測量阻止闘争(1970年)

 ・三里塚・第二砦の人々(1971年)
 ・三里塚・岩山に鉄塔が出来た(1972年)
 ・三里塚・辺田部落(1973年)


・三里塚のイカロス(2017年):監督=代島治彦
・三里塚に生きる(2014年): 監督=大津幸四郎・代島治彦

 

また、漫画では、尾瀬あきら著『ぼくの村の話』(全7巻)があります。ぼくの村の話は、第二次行政代執行が完了するところまで描かれています。

 

これらの映画・漫画は反対派の農民の視点で描かれているのが特徴で、空港公団や活動家(新左翼)側からの視点で描かれた映画・漫画は、今のところまだないようです。

 

 

三里塚闘争のまとめ

三里塚闘争をわかりやすく解説してきましたが、いかがでしたか?

 

三里塚闘争は、地元住民の心情・生活を考えずに国が強引に成田空港建設を進めたことで起こった闘争です。

 

しかし、そこに新左翼が絡んできたことで、闘争は暴力的で過激になり、さらに問題が複雑になりました。

 

このような闘争を経て成田空港の今があると考えると、成田空港を使う時には厳かな気分になりますよね。

 

犠牲の上に成り立っている成田空港だからこそ、何とかもう一度アジアのハブ空港の覇権を取り戻すことはできないでしょうか?

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