1984年に発生した「城丸君事件」は、犯人と明白の工藤加寿子が無罪になったことで話題になりました。
今回は城丸君事件の概要や真相、犯人の工藤加寿子の生い立ちや無罪になった経緯、事件のその後や犯人の現在をまとめました。
城丸君事件とは
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城丸君事件(じょうまるくんじけん)とは、1984年1月10日に札幌市豊平区で発生した男児失踪・死亡事件です。
当時9歳の男児・城丸君が行方不明となり、当時29歳のホステス・工藤加寿子の自宅で人骨となって発見されました。
城丸君の家が資産家だったことから身代金目的の誘拐の可能性も考えられましたが、身代金を要求する電話はなく、警察は公開捜査に踏み切りました。
しかし、犯人と思われた工藤加寿子が無罪になり、黙秘権について話題になった事件としても知られています。
この事件で最も焦点が当たったのは、状況証拠から見て犯人が明らかにもかかわらず、黙秘権を行使したことで無罪となり、さらに警察を相手取って損害賠償まで勝ち取った点です。
日本の犯罪史上屈指の後味の悪い事件であり、日本の法律の在り方を考えさせられる事件でもありました。
城丸君事件の概要と真相
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1984年1月10日の事件当日、城丸君は家にかかってきた電話で誰かと話した後、家族に「ワタナベのところに行く」と言い残して家を出ました。
不審に思った母が長男に、「弟のあとをつけて」と頼むものの、交差点を曲がった後に姿が見えなくなり、兄は城丸君を見失ってしまいます。
後に、当時29歳のホステス・工藤加寿子のアパートの階段を上がっていく城丸君を見たという目撃証言があったことから、警察は工藤加寿子を重要参考人として事情聴取しました。
しかし、有力な情報は得られず、事件は進展しないまま時間が経ちます。
1986年12月30日、工藤加寿子が結婚して移り住んだ新十津川町の自宅が火事になり、工藤加寿子の夫が死亡しました。
工藤加寿子の夫には1億円程の保険金がかけられており、保険金目当てではないかという疑念が夫の親族から掛けられます。
その後、夫の弟が焼けた家を整理していると、自宅から焼けた人間の骨が発見されました。
その骨を警察に届けたものの、当時のDNA型鑑定では焼けた人骨から身元は確認できなかったのです。
警察が工藤加寿子を事情聴取すると、大罪を犯したことを匂わせる発言をするなど怪しい点は多々ありました。
しかし、人骨の身元が確認できていなかったこともあり、これ以上の追及はできませんでした。
その後、1998年に短鎖式DNA型鑑定の結果、その人骨が城丸君のものであることが判明。とうとう工藤加寿子を殺人罪で起訴する時が来ました。
殺人罪の公訴時効成立の1ヶ月前というギリギリの逮捕でしたが、この時点で傷害致死・死体遺棄・死体損壊罪の公訴時効は成立していました。
検察は工藤加寿子が借金を抱えていたことから、資産家の息子である城丸君を身代金目的で誘拐して殺害したとしています。
しかし、焼けた骨からは死因を特定することができず、殺害方法は不詳として立件することになりました。
城丸君事件の犯人・工藤加寿子の裁判と無罪になった理由とは
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2001年5月、札幌地裁で工藤加寿子の裁判が開始されました。
検察側は工藤加寿子が電話で城丸君を呼び出し、なんらかの致死行為により死亡させたとして、殺人罪を主張。
しかし工藤加寿子は、「起訴状にあるような事実はない」と無罪を主張し、被告人質問で検察官から聞かれたおよそ400の質問に対して全て「答えることはない」と黙秘しました。
弁護人と工藤加寿子は、裁判前から黙秘権を行使する意向だったようです。
身代金目的の誘拐とされていた事件ですが、弁護側は工藤加寿子は経済的に困っている事実はなく、身代金目的の誘拐を企てる理由が無いとし、無罪を主張しました。
工藤加寿子は捜査中に事件への関与をほのめかす供述をしていた他、遺体を長期間保管したり、火事で焼けた骨を隠したりと、状況証拠は揃っていました。
検察側はこれらの状況証拠を突き付けて、工藤加寿子に殺人罪で無期懲役を求刑。
しかし、捜査では殺害に及ぶ理由を見出すことができず、工藤加寿子の家から見つかった骨が城丸君のものではあるものの、殺意があったかどうかは疑いが残るとされました。
殺人罪は、〝殺意を持って〟人を殺したかどうかが重視されます。殺意があって殺したと認められた場合のみに殺人罪が適用されるのです。
殺意がない場合は傷害致死罪となりますが、傷害致死罪の時効はすでに成立していたため、傷害致死罪を適用することはできませんでした。
結果、工藤加寿子に対し殺人罪について「殺意があったとは認められない」という理由で無罪判決が下ります。
傷害致死の他にも、死体遺棄・死体損壊罪は公訴時効が成立していたため、これらの罪でも有罪にすることはできませんでした。
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限りなく犯人であり、何らかの犯罪行為があったことは裁判でも認められていますが、決定的な証拠や自供がない状態では無罪になってしまうのです。
裁判では質問に一切答えず黙秘権を行使し、無罪を勝ち取った工藤加寿子。当然、黙秘権の行使に批判が集まりました。
黙秘権は基本的人権で認められており、取り調べに対して被疑者の不利益になるような供述を強要されない権利です。
もちろん検察側は控訴しますが、2002年3月に札幌高裁が控訴を棄却しました。
検察側は最高裁への上告を諦め、これにより工藤加寿子の無罪が確定したのです。
城丸君事件の犯人・工藤加寿子の半生とは
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工藤加寿子は昭和30年、北海道浦河郡浦河町で生まれました。
中学卒業後から登別温泉のホテルで販売店員として働き始めますが、19歳頃から熱海・神戸・横浜・東京を転々としながら、夜の世界に足を踏み入れ、ホステスとして働いていました。
昭和57年に結婚しましたが1年で離婚することになり、長女を連れて札幌に移り住みました。
札幌・ススキノでもホステスとして働いていましたが、事件当時は借金が1000万円以上あり、生活保護を受けていたようです。
ホステスだった工藤加寿子はその後、お見合いで出会った農家を営む「和歌寿美雄」という男と昭和61年に結婚しました。
水商売の世界にいた工藤加寿子と農家の夫では生活や価値観が違いすぎるという理由で、結婚当初から親族には大反対されていました。
反対を押し切る形で結婚し、農家の手伝いもしなくていいという条件で工藤加寿子を嫁に迎えた夫ですが、親族の想定通り、結婚生活は散々だったようです。
農作業を手伝わないのは当たり前、それどころか毎日の食事の用意すらもせず、ギャンブル通いに精を出し、遊びに行って1週間以上家を空けることもあったようです。
もちろん専業主婦になった工藤加寿子は夫の稼ぎをアテにしていたため、遊ぶ金も夫に出させていました。
そればかりか、夫が家を建てるために貯金していた2000万円をいつの間にか使い込み、寝室も別々で夫婦の営みはほとんど無かったようです。
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結婚後しばらくして、夫は体調不良と「殺されるかもしれない」という相談を自身の義理の兄にしていました。
そして、結婚して1年が経った昭和62年12月30日、午前3時頃に突然家から出火し、瞬く間に家中に火が燃え広がりました。
そして、明け方に火が収まると、焼け跡からは夫の焼死体が発見されました。
出火時、深夜午前3時でしたが、工藤加寿子と娘は外出着とブーツに身を包んで髪もセット済みなど身なりが整い、預金通帳や生命保険証書なども持ち出しているという不自然な状態でした。
さらに、隣ではなく約300メートル離れた家まで助けを求めに行っており、切迫した状況にもかかわらず、呼び鈴を鳴らして待つという余裕さえ感じさせる行動にも違和感もあったようです。
夫から相談を受けていた義理の兄は、火事の知らせを受けた瞬間に工藤加寿子が事故に見せかけて殺したことを直感しました。
夫の死後、1億9000万円もの保険金がかけられていたことで保険金殺人が疑われ、警察も事件性があるとみて捜査を開始します。
しかし、放火の証拠は見つからず、立件さえすることができませんでした。
ただ、この保険金は保険会社が支払いを拒否し、工藤加寿子は裁判を起こしますが後に訴訟を取り下げ、その町から姿を消しました。
焼けた家から城丸君の骨を発見
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工藤加寿子の夫が死んでから約半年後、義理の兄が焼け残った納屋を整理していたところ、棚にビニール袋が置かれているのを発見しました。
義理の兄は工藤加寿子の殺人を疑っていたため、すでに茶色く変色していたものの骨のように見えるそれを見て、他にも殺人を犯していたのではないかと感じて警察に届けました。
鑑定の結果、人骨と判明し、血液型や歯から見て4年前に行方不明になった城丸君の遺体ではないかとみられました。
城丸君失踪当時、工藤加寿子のアパートで目撃証言があったことから事件の重要参考人として事情聴取を行なったものの、有力な情報は得られませんでした。
そこから4年間進展がなかった失踪事件ですが、城丸君の骨が見つかったことで再び捜査が動き始めました。
改めて捜査した結果、城丸君失踪事件当時の工藤加寿子に多額の借金があったことが判明しました。
城丸君の家が地元で有名な資産家だったことから誘拐したものの、警察の捜査の手が伸びるのが早く、身代金の要求を諦めてそのまま殺害したのではないかと言われています。
また捜査の結果、城丸君が行方不明になった日の夕方に工藤加寿子が自宅から大きなダンボールを運び出して親族の家に移動させていたことも明らかになりました。
そのダンボールは、農家の夫との結婚後に嫁ぎ先で燃やされ、異臭が漂っていたことが近隣住民から証言されました。
しかし、警察は工藤加寿子を逮捕して事情聴取したものの、前述の通り黙秘権を行使して一切喋らず、裁判では無罪となり、結局法で裁くことができずに釈放されることとなったのです。
城丸君事件の犯人・工藤加寿子のその後と現在
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技術の進歩によって犯人の逮捕まで進展したものの、殺人罪以外の罪は時効が成立してしまい、肝心の殺人罪も殺意が認められないことから無罪となった城丸君事件。
無罪が確定した工藤加寿子は、裁判が終わると逆に札幌地裁を相手取って裁判を起こしました。
札幌地裁に対し、刑事補償1160万円を請求したのです。
刑事補償とは、刑事裁判で身柄を拘束されたのちに無罪判決が下った場合に支給される補償金のことです。
拘束された日数928日分の補償金1万円に加え、裁判にかかった費用も請求した工藤加寿子に、世間からは当然のように非難が沸き出します。
しかし法律上では工藤加寿子の補償金請求は全く正当なもので、結果的に札幌地裁は工藤加寿子に対して刑事補償930万円を支払うことが決定しました。
殺人に関わったことが明白であるにもかかわらず、無罪放免となり補償金も手に入れた工藤加寿子。
犯人の完全勝利という、なんとも後味の悪い結果となって城丸君事件は収束したのです。
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工藤加寿子は農家の夫と火事で死別した後、別の町に引っ越して3度目の結婚をしたことが分かっています。
その夫とも現在は離婚しているようですが、裁判が終わってからの消息は掴めていません。
城丸君事件当時から娘がいたため、現在も娘と暮らしているか、娘が結婚して1人でいるか、4度目の結婚をしているか、どの可能性も考えられる状況です。
城丸君事件の犯人として逮捕されたものの、法律の穴により無罪で釈放された工藤加寿子。
無罪となった以上、この先彼女は普通に一般人として暮らしていくことでしょう。
決定的な証拠が見つけられず後味の悪い結果になった城丸君事件ですが、現在は技術が進歩したことで焼けた骨からでも身元を判別することができるようになりました。
今後このような悲劇が起きないことを祈るばかりです。
まとめ
犯人であることが分かっているのに罪に問うことができず、犯人が刑事補償で多額の補償金まで手にする最悪の結果となった城丸君事件について紹介しました。
現在もどこかで暮らしていると思われる工藤加寿子。
二度とこのような事件が起きないことを祈ります。