「拷問王」の異名で知られ、戦後に数々の冤罪生み出した悪徳刑事・紅林麻雄が話題です。
この記事では紅林麻雄の経歴や関わった冤罪事件の一覧、引退後に部下が関わった事件、因縁めいた最期や死因、息子など家族や子孫、墓の場所、関連する映画などについてまとめました。
この記事の目次
- 紅林麻雄は数々の冤罪を生み出し「拷問王」と蔑称された戦後の時代の刑事
- 紅林麻雄の経歴① 1941年〜1942年の浜松連続殺人事件の捜査に参加
- 紅林麻雄の経歴② 浜松署刑事部長から県警本部の刑事課への栄転
- 紅林麻雄の経歴③ 終戦後に警部補に昇進し県警本部強力班主任に
- 紅林麻雄の経歴④ 警部に昇進し御殿場警察署次席の役職を得る
- 紅林麻雄の関わった冤罪事件一覧① 幸浦事件(1948年)
- 紅林麻雄の関わった冤罪事件一覧② 二俣事件(1950年)
- 紅林麻雄の関わった冤罪事件一覧③ 小島事件(1950年)
- 紅林麻雄の関わった冤罪事件一覧④ 島田事件(1954年)
- 紅林麻雄の部下達の「袴田事件」での強引な取り調べも問題に
- 紅林麻雄の因縁めいた最期
- 紅林麻雄の死因は「脳出血」
- 紅林麻雄の墓の場所
- 紅林麻雄の息子など家族や子孫
- 紅林麻雄に関連する映画
- まとめ
紅林麻雄は数々の冤罪を生み出し「拷問王」と蔑称された戦後の時代の刑事
紅林麻雄のプロフィール
生年 :1908年
没年月:1963年9月(享年55歳)
出身地:静岡県藤枝市
紅林麻雄(くればやし・あさお)は静岡県警察(戦後の時代の正式な名称は国家地方警察静岡県本部)に所属していた元警察官で、証拠の捏造や拷問などを用いた強引な取調べ手法によって無実の人を犯人に仕立て上げ、多数の冤罪被害を作り出しました。現在も「拷問王」という蔑称で知られています。
戦後、静岡県では冤罪事件が続発する。幸浦事件、島田事件、小島事件、二俣事件。その事件捜査全てに関与したのが紅林刑事だという。佐藤友之「冤罪の戦後史」は「拷問王」と呼び、証拠の捏造を繰り返したと非難。
引用:「私はろう者ですから、許してくれるかも」なぜ、19歳の青年は“狂気の連続殺人犯”になってしまったのか【厳選再公開】
今回はこの紅林麻雄についてまとめていきます。
紅林麻雄の経歴① 1941年〜1942年の浜松連続殺人事件の捜査に参加
紅林麻雄が警察官になるまでの経歴など若い頃については戦前の古い時代という事もあり記録が残っておらず詳しい事はよくわかりません。
少なくとも紅林麻雄は、戦時中に1941年に発生した「浜松連続殺人事件」の当時は、出身地である静岡県の警察部(戦前の内務省管轄の組織)の磐田警察署所属の巡査部長で、この事件に応援部隊の1人として参加しました。
紅林麻雄はこの事件で、全8班のうちの第6班の班長として4人の部下を率い周囲の聞き込みなどの任務を行なっていますが、第三の事件現場で真犯人と最初に接触していながら、ぱっと見の周囲の状況などから犯人ではないと性急な判断を下して捜査対象から外して犯人を野放しにし、その後の第四の事件を引き起こす原因を作るという失態を犯しています。
にも関わらず、浜松連続殺人事件の解決後に、紅林麻雄は検事総長から捜査功労賞を授与され、長きにわたって犯人が挙げられなかった難事件を解決に導いた名刑事として新聞などでも取り上げられ時の人となりました。(警察に目立った功労者がいなかったため、警察の活躍を宣伝する目的で祭り上げられた)
これにより、紅林麻雄は「強力犯捜査」の権威者として静岡県の警察組織に長きにわたって君臨する事になり、これこそが、その後次々と冤罪事件を生み出す根本原因になったと見られています。
紅林麻雄の経歴② 浜松署刑事部長から県警本部の刑事課への栄転
紅林麻雄は上述の浜松連続殺人事件の捜査中に、浜松署の刑事部長に任命されていましたが、事件解決後の1944年3月18日に、静岡県警本部(当時は内務省管轄の静岡県警察部)の刑事課へと栄転しています。
紅林麻雄はこの時期、強力犯係(知能犯以外の事件を担当する部署)の係員として、強引な取り調べ手法によって次々と犯人を検挙し、わずか2年あまりの間に25回の表彰を受けています。
紅林麻雄の経歴③ 終戦後に警部補に昇進し県警本部強力班主任に
記録によると、紅林麻雄は、1945年12月に1度、本部から静岡署へ再び転出していますが、1946年6月7日に昇進試験に合格して警部補に任命され、その翌日には静岡署の司法刑事係捜査主任に任命されています。
その1年後の1947年2月21日に再び、県警本部(静岡県警察部)の刑事課に配属され、おそらく同日付で強力犯係主任に任命されています。
その後、紅林麻雄はこの立場で、数々の凶悪事件犯人を検挙して名刑事としての称賛を集めましたが、その功績のほとんどは激しい拷問を伴う取り調べや、証拠(秘密の暴露)の捏造によって強引に作り出されたものでした。
紅林麻雄の経歴④ 警部に昇進し御殿場警察署次席の役職を得る
出典:https://upload.wikimedia.org/
紅林麻雄は強引な捜査、取り調べ手法により手柄を積み上げ、1953年11月に警部に昇進し、1955年8月には御殿場警察署次席警部の地位にまで上り詰めています。
しかし、この頃に紅林麻雄の拷問を伴う強引な取り調べなどが明るみに出て世間からの批判が強まり、1956年3月に吉原警察署駅前派出所の所長に左遷されています。待遇は交通巡視員で、警部の階級のままで交通整理をやらされるという実質2階級の降格処分といえるものでした。
もっとも、紅林麻雄はその1年後の1957年3月には松崎警察署の次席に返り咲いているのですが、紅林の関わった冤罪事件が次々と発覚して世間からの批判は強まり続け、気力が尽きたとして、1963年に55歳で警察を引退しています。
紅林麻雄の関わった冤罪事件は次の見出しから順番に見ていきます。
紅林麻雄の関わった冤罪事件一覧① 幸浦事件(1948年)
紅林麻雄が関わり、犯人に死刑などの思い判決が下され、その後冤罪だったと分かった重大事件を順番に紹介します。
1948年11月29日に、静岡県磐田郡幸浦村(現在の袋井市)で発生した「幸浦事件」は、自営業を営む萩原さん一家4人(夫34歳、妻28歳、長男5歳、次男1歳)が、何者かに殺害され遺体が埋められていた事件です。
紅林麻雄が率いる静岡県警察捜査班は、1949年2月12日に、近藤勝太郎さん(当時23歳)、小島敏雄さん(当時19歳)の2人を別件の窃盗容疑で逮捕し、この幸浦事件について追及して自白させました。2月14日、近藤勝太郎さんが示した場所から一家4人の遺体が発見されます。
その後、強盗殺人の共犯として近藤糸平さん(当時45歳)と、被害者の家から盗み出された当品を買い取った吉野信尾さん (当時38歳)も逮捕され、この4人が裁判を受けることになりました。
裁判ではこの4人は容疑を全面的に否認し、警察の取り調べで、「焼火箸を手や耳に押しつけれた」などの拷問を受けたため無理やり自白をさせられたり、刑事が一方的に書いた自白の供述書に無理やり承諾させられたと主張。
しかし、静岡地裁はこうした訴えを退け、近藤勝太郎さん、小島さん、近藤糸平さんの3人に死刑判決を、吉野信尾さんに「懲役1年および罰金千円」の判決を下しました。
東京高裁が控訴を棄却したため、4人は最高裁に上告。最高裁は重大な事実誤認の疑いがあるとして、判決を高裁に差し戻し、差戻審で全員無罪の判決が下され、1963年に検察側の上告が棄却されて無罪判決が確定しています。
この事件で最初死刑判決が確定したのは、犯人しか知り得ない遺棄現場を、近藤勝太郎さんが知っていた事(秘密の暴露)が証拠とされたためでしたが、元々警察は遺体が埋められていた場所を知っていて目印をつけており、あたかも近藤勝太郎さんの供述によって遺体が発見されたかのように偽装していた疑いが強まった事で逆転無罪となりました。
その幸浦事件の裁判はかなり長引いたのですが、この裁判の最中で偽装工作や拷問を駆使した取り調べを部下に指示していたのが紅林麻雄だった疑惑が濃厚となった事で、世間の強い批判の声が紅林麻雄に向けられる事になりました。
紅林麻雄の関わった冤罪事件一覧② 二俣事件(1950年)
1950年1月6日に静岡県磐田郡の二俣町(現在の浜松市天竜区二俣町)で発生した「二俣事件」は、自宅で寝ていた夫(当時46歳)、妻(当時33歳)、長女(当時2歳)、次女(当時生後11か月)の家族4人が何者かに殺害された事件です。
紅林麻雄率いる捜査班は、同年2月23日に、近所に住む当時18歳の少年を、所在が不明という曖昧な理由だけで犯人と目星をつけ別件逮捕しています。
例の如く紅林麻雄は部下に拷問を行わせて、少年の自白を強要し、被害者4人を殺害した事を認める虚偽の供述調書を作成します。
さらに、紅林麻雄と部下らは、殺害現場の柱時計は23時に止まっていて、この時間が犯行時間と推測されたが、少年にその時間アリバイがある事をうけ、少年がミステリ映画「パレットナイフの殺人」を観ており、その映画内でのトリックを真似て時計の針を偽装したなどとしてアリバイを否定するなどの工作を行っています。
紅林麻雄と部下らによって捏造された自白や証拠を信じた検察は少年を強盗殺人の罪で起訴してしまいました。
しかし、この事件の捜査に関わっていた二俣署の山崎兵八巡査(刑事)は、この少年は明らかに犯人ではないとして義憤に駆られ、読売新聞に告発。
山崎兵八巡査は、紅林麻雄が、激しい拷問を駆使した取り調べや、自白の強要、供述調書の捏造などを常習的に行っている事を証言し、裁判にも出廷して確実な証拠を複数挙げて少年の無実を訴えました。
しかし、法廷に証人として出廷した二俣署長は、山崎兵八巡査の主張を尽く否定したばかりか、「勤務態度が悪い」、「お茶にフケを入れて出す」、「トイレの扉を開けたまま用を足すので女性職員に嫌われている」、「『今日は強盗殺人が起きないかなぁ』などと祈る」などと、ありもしない事を並び立てて、山崎兵八巡査の人格を否定するなどの印象操作まで行いました。
結局少年には死刑判決が下され、その判決の日に、県警は山崎兵八巡査を偽証罪で逮捕。
ところが、県警は山崎兵八巡査の取り調べなど全くしないまま33日間拘置所に入れた挙句、精神鑑定を受けさせて「妄想性痴呆症」の症状が出たとして不起訴処分にして釈放し、そのまま警察を懲戒免職処分にしてしまいます。
死刑判決受けた少年は判決不服として控訴しますが、高裁はこれを棄却し、少年は最高裁へと上告。この時に、大物弁護士として知られていた清瀬一郎氏が弁護人になります。
裁判では、「犯人のものと思われる指紋と少年の指紋が一致しない事」、「少年の着衣や所持している衣服、所持品から被害者の血痕が全く検出されない事」、「現場に残された犯人の足跡と少年の靴のサイズが一致しない事(3cmもの違いがあった)」、「凶器の刃物を少年が入手した証明が無い事」、「司法解剖による被害者4人の死亡推定時刻は23時前後だが、その時間少年にはアリバイがある事」など、少年が犯人でないとする証拠が多数示されました。
そして、1953年11月に最高裁はこれまでの判決を破棄して差し戻し、1956年に静岡地裁で無罪判決が、1957年の控訴審でも無罪判決が下され、検察は上告を断念し無罪判決が確定しています。
なお、紅林麻雄の拷問や証拠捏造などを告発した山崎兵八元巡査はその後、事件の真相を全て曝け出した「現場刑事の告発 二俣事件の真相」を自費出版しています。その中で、二俣事件の真犯人と思しき人物が実名で暴露されており、この真犯人と思しき人物から紅林麻雄が賄賂を受け取っていたという衝撃的な事実も暴露されています。
紅林麻雄の関わった冤罪事件一覧③ 小島事件(1950年)
1950年5月10日に静岡県庵原郡小島村(現在の静岡市清水区)で発生した「小島事件」も、紅林麻雄が関わった冤罪事件です。
その日の深夜、飴製造業者の一家の住む家屋に何者かが押し入り、当時32歳の妻が薪割り斧で撲殺される事件が起こりました。夫は所用で不在で、現場に居合わせた夫妻の子供は坊主頭でカーキ色の服の男が逃走するのを目撃しています。
その後の調べで、現場から現金2500円が盗まれているのも判明しています。
事件翌朝に紅林麻雄率いる捜査班が派遣され捜査が開始されましたが、手がかりは見つからず、村全体が縁者である事などから捜査は難航しました。
事件発生からおよそ1ヶ月後の6月19日、別件の窃盗容疑で村に住む当時27歳の男が逮捕されます。この男は被害者の一家から約5千円の借金があり、子供が目撃した犯人の風貌とも一致、事件以来顔色が悪くなったとも噂され容疑者として浮上していました。
この男はその後、自白して強盗殺人で起訴される事になるのですが、例の如くこの自白は紅林麻雄の指示の下、部下らが激しい拷問を加えて強要したものだった事が裁判で判明します。
また、この事件でも紅林麻雄の十八番である「秘密の暴露」の捏造が行われていた事が発覚。
一時は無期懲役判決が下されますが、紅林麻雄への疑惑が世間で強まった事も影響して審理は差し戻され、1959年に無罪判決が確定しています。
紅林麻雄の関わった冤罪事件一覧④ 島田事件(1954年)
1954年3月10日に静岡県島田市で発生した「島田事件」も、紅林麻雄の関わった冤罪事件です。
この事件は、静岡県島田市の快林寺の境内の幼稚園で行われていた卒園記念行事の最中に当時6歳の女児が行方不明になり、3月13日に大井川南側の山林で遺体となって発見された事件です。
5月24日、紅林麻雄の指示を受けた静岡県警捜査員は、重要参考人としてマークしていた当時25歳の赤堀政夫さんを職務質問し、正当な理由なく島田警察署に連行。
赤堀政夫さんは窃盗の被疑事実で別件逮捕され、尋問室の中で激しい拷問を受けて犯行を自白(虚偽)させられます。
赤堀政夫さんは無罪を主張し最高裁まで争いましたが、1960年12月に死刑判決が確定します。
その後、赤堀政夫さんは再審請求を行いますが、それも何度も棄却され、4度目の再審請求により死刑確定から27年後の1987年にようやく再審開始が決定。1989年に逆転無罪が確定しています。
これも、紅林麻雄が部下に指示して行わせた拷問により自白を強要させた事や、被告人を犯人でないとする証拠が多く存在していたにもかかわらず、警察がそれを全て無視して起訴に持ち込んだ事実が裁判で証明された事による無罪判決でした。
紅林麻雄はこれだけの凶悪犯罪で冤罪を生み出しただけなく、結果として真犯人を取り逃しています。その責任は極めて重大だと言わざるを得ません。
紅林麻雄の部下達の「袴田事件」での強引な取り調べも問題に
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1966年に静岡県清水市(現在の静岡市清水区)で発生した「袴田事件」は、冤罪が疑われ現在も審理が続いている事件ですが、この事件の犯人の取り調べに紅林麻雄の部下達が関わっていた事が知られています。
袴田事件は、「株式会社王こがね味噌」の専務だった男性の家が何者かに放火され、一家4人が殺害された事件です。
当時、株式会社王こがね味噌の従業員で元プロボクサーの袴田巌さんが犯人として逮捕され、裁判で死刑判決が確定していますが、その後再審請求がされ、2021年の現在も審理が続けられています。
この事件では、紅林麻雄の薫陶を受けた元部下が袴田巌さんの取り調べを行っており、炎天下での平均12時間、最長17時間にも及ぶ取り調べ。取調室に便器を持ち込み、その場で排便させる。大声で騒ぐ泥酔者の隣の部屋にわざと収容して安眠させないようにするなどの違法な取り調べを続け、自白を強要した事などが裁判で明らかになっています。
紅林麻雄は拷問や証拠の捏造などが批判されて警察を辞めましたが、その部下たちはこの男が去った後も独自でそのやり方を続けていたという事になります。
この袴田事件の取り調べに関わった紅林麻雄の元部下らは、インターネット上で実名も明らかにされています。
【再審未開始】袴田事件(昭和41年6月30日発生)
— 成澤孝幸 (@narisawa_taka) March 28, 2017
捜査担当:静岡県警清水署
松本久次郎警部(捜査班長)◎(後の蒲原署長)
岩本広夫警部補
住吉親警部補◎
松本義男巡査部長◎
森田政司巡査部長
※袴田巌さん(81)を拷問にかけ、虚偽の自白を強要した
◎:後年の叙勲者 pic.twitter.com/76ikzd102L
紅林麻雄の因縁めいた最期
紅林麻雄は、拷問を用いた取り調べや、証拠の捏造などの非道な行為が世間から批判され、1963年7月に幸浦事件の無罪判決が確定した直後に警察を辞めていますが、それからわずか2ヶ月後の9月に突然死亡しています。
紅林麻雄のこうした因縁めいた最期には「天罰」といった声も上がりました。
また、一部からはこの奇妙とも言えるタイミングでの最期に、何者かに口封じのために消されたのではないかとする陰謀論なども出ているようです。
紅林麻雄の死因は「脳出血」
その最期には因縁や陰謀なども噂される紅林麻雄ですが、死因は「脳出血」とだけ発表されています。
紅林麻雄の死去は警察に上申書で報告されていますが、それによると紅林は警察を辞めてからは何の職にもつかず、その最期の直前まで「自宅で自適していた」と記されていました。
またこの上申書に添付されていた死亡診断書によると紅林麻雄の死因は2年前から高血圧症があって自宅で倒れ、その日のうちに脳出血で亡くなったと記されています。
紅林麻雄の墓の場所
紅林麻雄の墓の場所は明かされていません。
どういう理由か、ネット上には紅林麻雄の墓の場所が知りたいという人が一定数いるようですが、全く情報がなく不明です。
紅林麻雄の息子など家族や子孫
紅林麻雄の息子など家族や子孫についても知りたいという声も多いようです。
紅林麻雄の息子など家族や子孫についても一切情報がなく、当時の記録や報道などの資料にも息子など家族や子孫に関する記載は見つかりません。
「紅林」という名字はかなり珍しく、一部ネット上では、特定の紅林姓の有名人を指して紅林麻雄の子孫や家族ではないかと疑うような書き込みもありますが、静岡県を中心にこの苗字を持った人は全国に数千人単位でおり、根拠の示されていない書き込みは全てデマです。
紅林麻雄に関連する映画
出典:https://m.media-amazon.com/
「拷問王」の異名を取り、怪人、怪物といった印象も受ける紅林麻雄をテーマに映画を作れば面白そうですが、現在のところこの男をテーマに取り上げた映画は作られていません。
ちなみに、2010年に公開された映画、「BOX 袴田事件 命とは」は、紅林麻雄の部下が取り調べを行ったとされる「袴田事件」をテーマにしたドキュメンタリー映画です。
まとめ
今回は、「拷問王」の異名をとる元刑事・紅林麻雄についてまとめてみました。
紅林麻雄は戦後の初期、次々と凶悪事件を解決に導いた華麗な経歴をもち、名刑事として賞賛されていましたが、その後、拷問を駆使した強引な取り調べによる自白の強要と、証拠の捏造を常習的に繰り返していた事が発覚し、世間からの猛烈な批判を浴びました。
紅林麻雄の関わった冤罪事件の一覧としては「幸浦事件」、「二俣事件」、「小島事件」、「島田事件」などが挙げられます。また、現在も冤罪が疑われている「袴田事件」の容疑者の取り調べには紅林麻雄の元部下達が関わり違法な取り調べによって自白を強要していた事が知られています。
紅林麻雄は批判を浴びながらも警察組織にしがみつきましたが、自身の関わった事件に次々と逆転無罪判決が出される事についに気力が失われ、警察を退職し、それからわずか2ヶ月後に因縁めいた死を遂げています。死因は「脳出血」と発表されています。享年は55歳でした。
批判が集まる事をを考慮してか、家族や子孫、墓の場所などの情報は一切公開されていません。