「サインはV」などのヒットドラマで知られる女優の范文雀さんが話題です。
この記事では范文雀さんの身長や若い頃の経歴や画像、元旦那の寺尾聰さんとの結婚や馴れ初め離婚原因、息子や娘の子供がいる噂、余貴美子さんとの関係や今現在、死因などについてまとめました。
この記事の目次
范文雀のプロフィール
范文雀のプロフィール
生年月日:1948年4月15日
没年月日:2002年11月5日
出生地 :東京都中野区
出身地 :広島県広島市
身長 :不明
血液型 :O型
范文雀(はんぶんじゃく)さんは、1970年代から1990年代を中心に活躍された人気女優です。両親が台湾人のため台湾国籍ですが、日本で生まれ育ち日本で女優として活躍されました。
范文雀さんは、どこか影があり哀愁を含んだエキゾチックな雰囲気と高身長でスタイル抜群なルックスを持つ美女で、ドラマや映画を中心にクールビューティーな役柄を多く演じて人気を博しました。
范文雀の身長は非公開
范文雀さんの身長は非公表で情報がありませんが、実はかなりの高身長で実寸で174cmあったとも言われています。
ただ、身長が176cmの寺尾聡さん(元夫)と並んだ写真を見ると、身長差は少なくとも10cm弱程度はあるように見え、身長は160cm後半くらいではないかという印象を受けます。
范文雀の若い頃① 台湾人の両親の元日本で生まれ育つ
范文雀さんの若い頃の生い立ちや経歴を見ていきます。
范文雀さんは、日本育ちの台湾人の両親のもとに1948年4月15日に東京都中野区に長女として生まれました。兄弟は兄が1人いました。父親は音楽家でしたが、范文雀さんが5歳の頃に妻子を残して台湾に帰国してしまい、范文雀さんは母と兄と共に広島県広島市の母方の祖母宅に身を寄せる事になりました。
范文雀さんの祖母は、愛人と2人で広島市広島駅前で中華料理店「胡蝶園」を営んでおり、范文雀さんを溺愛して彼女だけを自身の本宅へと住まわせ、范文雀さんの母や兄、3年後に戻ってきた父は、この中華料理店の従業員寮の1室で暮らしていたそうです。
その後、両親と兄は再び東京へと引っ越しますが、この祖母は半分弱さんを手放さずにそのまま広島市に住まわせています。范文雀さんはこの祖母の事をあまりよく思っていなかったそうで、15歳の頃に家出をして東京の両親の元へと戻っています。
范文雀さんは中学校は広島市のカトリック系の私立校「広島ノートルダム清心中学校」に通っていました。
范文雀の若い頃② 大学時代にデビューし「サインはV」などで人気女優に
祖母の元を家出し、東京の両親の下へ戻った范文雀さんは、高校卒業後に清泉女子大学英文別科に進学し、同大学在学中だった1968年に、テレビ朝日の長寿刑事ドラマだった「特別機動捜査隊」(同年11月27日放送の第370話)に端役として出演して女優デビューしています。
その後、范文雀さんは、1969年10月から1970年8月にかけてTBS系列で放送されたバレーボールをテーマにしたドラマ「サインはV」に、不幸な生い立ちを持つハーフのアタッカー、ジュン・サンダース役として10話から出演。これが范文雀さんの当たり役となり、奥の深いキャラクター設定と范文雀さんの持つ影のあるルックスが絶妙にマッチし、視聴者からの絶大な支持を集めました。
「サインはV」は、最高視聴率39.3パーセント、平均視聴率で32.3パーセントの大ヒットを記録し、その作品中でも特に人気の高かったジュン・サンダース役を演じた范文雀さんは一躍全国区の若手女優として名前を知られるようになりました。
さらに、范文雀さんは「サインはV」と同じTBSの日曜日19時半からの枠で、その次作として制作され、1970年8月から1971年3月まで放送されたドラマ「アテンションプリーズ」に準主役の田村早苗役で出演し、女優としての知名度と人気を不動のものとしています。
その後は、1971年放送のドラマ「おんな友だち」で主演したのをはじめとし、「2丁目3番地」や「打ち込め! 青春」、「女・おとこ」、「清水二郎長」、「忍法かげろう斬り」、「男と女と」(主演)など、多数のテレビドラマに主要なキャストとして出演しています。
また、范文雀さんはこの頃から映画にも多く出演しており、「野良猫ロック」シリーズでは主要キャストとして3作品(女番長 野良猫ロック、野良猫ロック ワイルド・ジャンボ、野良猫ロック マシンアニマル)に出演しています。
范文雀の若い頃③ 人気絶頂期に寺尾聰と結婚し電撃引退
若い頃から女優として絶大な人気を獲得した范文雀さんでしたが、人気絶頂となっていた1973年6月、ドラマ「女・おとこ」、「2丁目3番地」などで共演した俳優の寺尾聰さんとの結婚を発表し、電撃的に芸能界引退を発表しています。
当時、范文雀さんは25歳、寺尾聰さんは26歳でした。
范文雀さんは当時、「渡辺プロダクション」の主力女優の1人でしたが、そのドル箱女優を当時はまだそこまで売れているとは言えなかった若手俳優だった寺尾聰さんが奪い去ったという図式と受け取られ、芸能関係者の間では批判的な声も出ていたそうです。
インタビューでは「私はこれから専業主婦になります。今後は寺尾をよろしくお願いします」と謙虚な范に対し、寺尾は「そうね、あんまり話すことはないね」とそっけなかった。私は思わず「家庭に入るのは稼げる新婦ではなくて、新郎じゃないの?」との言葉を飲み込んだ。
引用:【裕次郎番記者だけが知る 寺尾聰ワンパク半生】ドル箱女優と隠密結婚も…寺尾聰はインタビューで「そうね、話すことないね」
范文雀さんと寺尾聰さんは極秘に結婚されたため、マスコミが情報を得たのは結婚から2ヶ月後の8月の事で、それを受けてようやく翌9月に、東京都品川区の教会で結婚式を挙げられています。2人の結婚の仲人は石原裕次郎さんと、その夫人のまき子さんが務められました。
范文雀と寺尾聰の馴れ初めは?
范文雀さんと寺尾聰さんの結婚のきっかけとなったのはドラマ「2丁目3番地」での共演だと言われていますが、2人はその当時、それぞれ別の恋人がいました。
范文雀さんは、歌手で俳優の萩原健一さんと付き合っていて半同棲状態だったものの萩原さんが別の女性に気移りして破局、一方の寺尾聰さんも、台湾出身の歌手のジュディ・オングさんと交際し、結婚も意識されていましたが寺尾聰さんが「結婚したら歌手を辞めて家庭に入って欲しいと強く望んだことや」、ジュディ・オングさんが「卵巣腫瘍」を患った事などがきっかけに破局しています。
范文雀さんと寺尾聰さんは、互いに恋人と破局して傷心だった頃にタイミングよく出会い、交際に発展しすぐに結婚に至ったという事です。
范文雀の若い頃④ 寺尾聰と1年半で離婚し芸能界に復帰
出典:https://i0.wp.com/koimousagi.com/
寺尾聰さんと電撃的に結婚して人気絶頂期に芸能界を引退した范文雀さんでしたが、わずか1年5ヶ月後の1974年11月に離婚を発表しています。
そして、それに伴って范文雀さんは芸能界に復帰され再び人気女優として活躍されています。
その後は1977年公開の映画「人間の証明」や、1975年に放送がスタートした大ヒット刑事ドラマシリーズ「Gメン’75」などの代表作があります。
范文雀と寺尾聰の離婚原因
1974年に寺尾聰さんとスピード離婚した范文雀さんですが、その離婚原因はなんだったのでしょうか。
寺尾聰さんと范文雀さんは別々に離婚会見を開いていて、それぞれに離婚の原因を説明されています。
離婚会見の場に最初に登場したのは寺尾聰さんで、仲人を務めた石原裕次郎さんの夫人のまき子さんが同席されています。
寺尾聰さんはスピード離婚に至った理由について、「石原夫妻を見て男としてああいう家庭を作りたいと思い、僕なりに一生懸命仕事をした」、「その結果、朝から晩まで家にいない状態になってしまった。」、「いい方向に進むつもりが、結果としてよくなかった」と説明されました。
その後、寺尾聰さんが退席した後に、范文雀さんが会見の場に現れ、時折笑顔を見せながら「性格の不一致というか、最初から相容れない部分があった」と離婚原因について説明されています。
2人の具体的な離婚原因は特に語られておらず、寺尾聰さんが仕事を入れすぎて夫婦のすれ違いが生じてしまった事や、最初から性格も合っていなかった事などから離婚につながってしまったとだけ説明されており、特にどちらかが浮気をしたということなどが原因ではないようです。
范文雀さんも寺尾聰さんもお互いに直前の恋に失恋したタイミングで出会い、傷を舐め合うように交際し、そのままの勢いで結婚してしまったため、うまくいかなったのではないかという見方もあるようです。
范文雀と寺尾聡の子供は息子と娘?
范文雀さんと寺尾聰さんの子供は息子と娘がいるという噂がありますが、これはデマ情報で2人の間には子供はいないようです。
元夫の寺尾聰さんはその後、元資生堂化粧品のモデルで元女優の星野真弓さんと結婚し、3人の子供(1人の息子と2人の娘)が生まれた事が知られているため、范文雀さんとの子供ではないかとする噂につながったようです。
范文雀さんはその後再婚されたという情報もないので、おそらく生涯を通じて子供はいないと思われます。
范文雀と女優の余貴美子は従姉妹同士
范文雀さんと女優の余貴美子さんは従姉妹同士の関係です。
范文雀さんの母親の弟が、余貴美子さんの父親にあたります。余貴美子さんは范文雀さんの8歳年下で、幼い頃から家族を通じて交流があったそうです。そして、余貴美子さんが学生時代に女優を目指したきっかけは、若い頃から女優として活躍していた范文雀さんに憧れた事だったそうです。
また、あるテレビ番組では、余貴美子さんの家族のルーツを探る企画が放送された際、余貴美子さんと范文雀さんのルーツは中華系でも独自の文化とアイデンティティーを持ち流浪の民として知られる「客家(はっか)」である事も判明しています。
今現在も余貴美子さんは人気女優として数々の話題作に重要な役で出演されており、2016年公開の映画「シン・ゴジラ」では、ゴジラの出現に動揺する内閣の中でただ1人芯の強い決断力を発揮する防衛大臣の役を好演し話題を呼びました。
范文雀の今現在は既に死去しており死因は心不全と発表
1990年代から2000年代はじめにかけても女優として活躍を続けていた范文雀さんでしたが、2002年11月5日に54歳という若さで亡くなっています。
范文雀さんの死因は「心不全」とだけ発表されていますが、范文雀さんは亡くなる約2年前の1998年頃に腋のリンパ節の悪性リンパ腫が発見され、約半年間の入院治療を受けており、一時は小康状態を得て仕事復帰されていましたが、2002年10月に体調を崩して入院されそのまま帰らぬ人となりました。以上から、范文雀さんの詳細な死因は、悪性リンパ腫による心不全という事になります。
まとめ
今回は、1970年代から2000年代はじめにかけて活躍された人気女優の范文雀さんについてまとめてみました。
范文雀さんは、どこか影のあるクールビューティーな雰囲気と高身長でスタイル抜群なルックスで若い頃から人気を博し、バレーボールドラマ「サインはV」や、スチュワーデス(CA)をテーマにしたドラマ「アテンションプリーズ」などに出演してブレイクし、その後も数々の映画やドラマに出演され活躍されました。
人気絶頂だった1973年6月に俳優でシンガーソングライターの寺尾聰さんとの結婚を発表され、電撃的に芸能界を引退しますが、その1年5ヶ月後の1974年11月にはやくも離婚となり、再び芸能界に復帰されています。2人の離婚原因については「生活のすれ違い」や「性格の不一致」と説明されており、どちらかが浮気をしたといった事はないようです。
なお、范文雀さんには、寺尾聰さんとの間に娘と息子がいるという噂がありますがこれはデマ情報で、范文雀さんには生涯通じて子供はいなかったようです。
そんな范文雀さんは今現在も女優として人気の高い余貴美子さんとは従姉妹同士の関係で、幼い頃から交流があり、余貴美子さんは范文雀さんに憧れて女優の道へと進まれたという事でした。
そんな范文雀さんですが、2002年11月5日に54歳という若さでこの世を去っています。死因は「悪性リンパ腫による心不全」でした。