1966年に発生した「マルヨ無線事件」では、犯人の尾田信夫が50年以上も放火殺人を冤罪だと訴えています。
今回は事件の経緯や場所、被害者、尾田信夫の生い立ちや経歴・結婚や家族情報、裁判や死刑判決、再審など現在を紹介します。
この記事の目次
マルヨ無線事件とは
マルヨ無線事件は、「マルヨ無線 川端店」店員2人が、強盗に襲われた後に放火されて1人が死亡したものの、冤罪として再審請求に発展した、日本弁護士連合会が支援する再審事件です。
「川端町事件」、「マルヨ無線強盗殺人放火事件」とも呼ばれています。
犯人が蹴り倒したとされる石油ストーブは蹴り倒せるような形状ではなく、仮に倒してもその瞬間に炎が消える仕組みだったため、火災にはなり得ないとして冤罪が訴えられてきました。
そのため、犯人には死刑判決が下りましたが、50年以上も死刑執行が止められています。
これは国内の死刑囚で、死刑執行待ちとしては最長です。
マルヨ無線事件の被害者は店員2人
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強盗放火の被害に遭ったのは、福岡県福岡市下川端町(現・福岡市博多区下川端町)にあった電器店「マルヨ無線 川端店」に務めていた店員2人で、当日は宿直担当でした。
店員1人(当時23歳)は自力で逃れて全治5か月の重傷、もう1人の店員(当時27歳)は、放火による火災で発生した一酸化炭素中毒で死亡しました。
マルヨ無線事件の犯人・尾田信夫の生い立ちや経歴
マルヨ無線事件の犯人は尾田信夫です。
尾田信夫は1946年9月19日生まれで、山口県宇部市の出身です。
マルヨ無線川端店でアルバイトをしながら日本電波専門学校に通い、同学校を卒業後に正社員として採用されました。
しかし尾田信夫はもともと手癖が悪く、店の商品であるラジオを盗んでは質屋に入れて換金するなどを繰り返しており、窃盗が会社にバレて解雇されました。
山口家庭裁判所において保護観察処分の決定が下され、尾田信夫は別の電気店に就職したものの、そこでも同様の犯行に及んで窃盗罪で検挙されました。
これにより、尾田信夫は中等少年院に2年間入ることになっています。
この少年院で仲良くなった当時15歳の少年に、尾田信夫はかつて勤務していたマルヨ無線川端店に強盗に入る計画を持ちかけました。
出所後すぐにスピード違反を犯してしまった尾田信夫は、罰則金7000円が支払えなかったため、強盗計画を実行に移す決意をしたのです。
マルヨ無線事件の犯人・尾田信夫の結婚歴・家族
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尾田信夫の実家の家族については、一切明かされていません。
また、尾田信夫は学校を卒業してすぐに就職し、さらに事件を起こして逮捕されています。
そのため、結婚歴はなく、現在までに獄中生活のため女性関係もないと見られます。
マルヨ無線事件の現場や経緯
尾田信夫と共犯の少年がマルヨ無線川端店に押し入る
1966年12月5日午後10時過ぎ頃、尾田信夫はかつて働いていた福岡市下川端町(現・福岡市博多区下川端)にある電気店「マルヨ無線 川端店」に、当時17歳の少年と一緒に押し入ります。
そして、宿直だった2人の店員をハンマーで殴って重傷を負わせ、事務所にあった集金鞄から22万1千円を奪い、さらに店員2人から腕時計なども強奪しました。
尾田信夫らは、社員らに支払われる予定のボーナスなどが入っていた金庫からもお金を盗もうとしましたが、ダイヤル式の鍵でとても強固だったことから諦めたようです。
尾田信夫は石油ストーブを蹴倒して放火した
事前に計画していた通りに、少年が店にあった商品カタログ等を撒き散らした後、尾田信夫が石油ストーブを蹴り倒して放火し、店は半焼しました。
当時23歳の店員は自力でお店から脱出して助かりましたが、当時27歳の店員は煙に巻かれて一酸化中毒により死亡しています。
助かった店員が入院中に供述した内容から、犯人は事件から3、4年前に店を辞めていた元店員に似ていることが判明。
その情報をもとに、福岡県警は尾田信夫の勤務先に向かうとその日は欠勤でしたが、調べたところ、給料日前なのにキャラレーで豪遊していたことがわかり、容疑がさらに濃厚になります。
そして、事件が発生してから5日後となる同年12月10日に全国に指名手配されました。
尾田信夫と共犯の少年が逮捕された
尾田信夫が指名手配された1966年12月10日、共犯の少年が福岡県警に自首して逮捕されました。
そして逃げ回っていた尾田信夫も、少年の逮捕から約3週間後となる12月27日に逮捕されています。
マルヨ無線事件の犯人・尾田信夫のその後① 死刑判決と再審請求
尾田信夫と少年は、強盗殺人罪・現住建造物等放火罪の容疑で逮捕され、福岡地方検察庁から福岡地方裁判所に起訴されました。
そして1968年12月14日に、尾田信夫は福岡地裁において死刑判決が言い渡されました。
福岡地裁は犯行動機について、尾田信夫は働いていたマルヨ無線川端店に対して、処遇への恨みや金銭欲があったとしました。
これに対して、尾田信夫は2016年12月に書いた文章の中で「確かにそのような一面もあったがなお説明不十分だ」と、福岡地裁の判断に反論しました。
ここから、尾田信夫側が放火殺人は冤罪だとして、7度にわたる再審請求をして裁判が長期化していくことになります。
尾田信夫の控訴審
1970年3月20日、福岡高等裁判所は、尾田信夫の死刑判決支持と控訴審棄却の判決を言い渡しました。
警察による取り調べでは、店が半焼した原因は尾田信夫が石油ストーブを蹴り倒したことによるものだとされていました。
尾田信夫はこれについて、現場写真を見せられて「石油ストーブを足で蹴って放火した」と強引に自白を迫られたと主張しました。
しかし1970年11月12日、最高裁判所で上告棄却の判決が言い渡されたことで死刑が確定しました。
なお、共犯の元少年は第一審判決で懲役13年を受けて控訴審により刑が確定しています。
尾田信夫の7度に渡る再審請求
尾田信夫は火災により亡くなった店員について謝罪の念を表明しているものの、冤罪である放火殺人については再審請求で無罪を求めることは相反しないと主張しました。
その後、度重なる再審請求と棄却を繰り返し、尾田信夫は獄中に50年以上いる中で実に7度の再審請求を行っています。
刑事訴訟法は死刑確定から6カ月以内の執行を定めるが、法務省によると、収容中の確定死刑囚110人の平均収容期間は約12年8カ月。市民団体「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90」によると、尾田死刑囚の収容期間は最も長い。再審請求中の死刑執行は避ける傾向があり、尾田死刑囚は放火の無罪を主張している。現在、7度目の再審請求が福岡地裁で審理中だ。
マルヨ無線事件の犯人・尾田信夫のその後② 一度脱走している
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尾田信夫は、第一審判決前に逃亡していたことがわかっています。
まもなく潜伏していた福岡市内で拘束されましたが、 その逃亡の詳細については以下のように語られています。
脱走したのは1968年8月13日夜。場所は福岡拘置支所ではなく、福岡市郊外にある精神科病院。尾田はこの1年前から「精神に異常を来した」として強制入院させられており、公判も停止中だった。同じ病院に入院中だったアルコール依存症患者2人を誘い、2階トイレの窓の鉄格子を調達した金ノコで切断、つなぎ合わせた毛布を伝って病棟から逃れたという。未遂に終わっているが、患者2人には「自動車強盗して大阪に逃れよう」と持ちかけていたらしい。
尾田は福岡市に逃走後、「働かせてくれ」と土木業者を訪ねたが、業者の家族が「脱走犯だ」と気付き通報。脱走から約24時間後の14日夕、作業員用宿舎でくつろいでいる時に身柄を拘束された。逃走劇があっけなく終わり、放心状態だったと当時の新聞は伝えている。
尾田信夫が逃亡してからひったくりや強盗などをしなかったことは幸いでしたが、 簡単に犯人を取り逃してしまう体制自体に問題があるでしょう。
また、脱走後の計画として自動車強盗を企んでいたことからも、尾田信夫は犯罪を犯すことへの抵抗感が薄い性格であることがわかります。
マルヨ無線事件の犯人・尾田信夫の死刑が50年も未執行の理由
尾田信夫は半世紀もの間、死刑囚として獄中につながれていますが、これは日本の犯罪史上でも他に類を見ない事例です。
死刑執行が引き伸ばされてきた理由について、尾田信夫の弁護人を40年以上務めてきた弁護士が以下のように語っています。
死刑未執行の理由について、再審請求の弁護人を約40年務める上田国広弁護士は「事件当時20歳だったことや、放火が無罪なら死刑ではない可能性が大きくなることが影響しているのではないか」と推し量る。法務省は「個々の死刑執行の判断に関わるため控える」としている。
尾田信夫が少年とともにマルヨ無線川端店に強盗に押し入った事実は決して許されるものではありませんが、放火がもし警察にでっち上げられたとすれば、罪の重さは変わってきます。
つまり、尾田信夫は殺人を犯していなかったことになり、今後もし判決が覆ったならば、歴史的な冤罪事件として語り継がれるようになるでしょう。
このため、尾田信夫の死刑執行が50年以上も引き延ばされてきた理由は、放火殺人が冤罪かどうか、現在までに明確な証拠がないからなのです。
マルヨ無線事件と犯人・尾田信夫の現在
尾田信夫の現在の心理状況について
尾田信夫は死刑囚として50年以上も獄中に繋がれ続けてきましたが、己の置かれた立場を悲観して俳句を読んだりしているようです。
「極月(ごくげつ)や 生かされ生きて 半世紀」。昨年12月12日に死刑確定から50年を迎えた尾田死刑囚。30ページに及ぶ手記の中で、その半生を俳句に詠んだ。「立場は身分的に非常に不安定」と、不安な心情ものぞかせる。
(中略)
手記で尾田死刑囚は、事件を「金銭欲と報復心が絡み合い凶行に及んだ」と振り返り、「次の世で被害者に会ったならば、平伏して謝罪したい」。社会復帰がかなえば、被害者や母の墓参りなど「巡礼の旅がしたい」と打ち明けている。
尾田信夫はこのまま獄中に繋がれたまま、死刑が執行されて辞世の句を読むことになるのか、はたまた無罪を勝ち取って歓喜の句を読むことになるのか、現在もまだわかりません。
尾田信夫の獄中での様子について
一般的な死刑囚が生活する部屋は、4畳程度のトイレ付きの個室で、運動や入浴以外の時間はこの個室に収容されており、他の収容者との交わりは一切ありません。
手紙のやりとりや面会も原則として家族親族や弁護士等に限られているため、非常に精神的に苦しい状況に置かれていると言えます。
また、死刑の執行は執行日の朝に本人に告げられるため、毎晩寝るのが恐ろしくて不眠症に陥る死刑囚も少なくないということです。
そうした過酷な環境の中で、尾田信夫は死刑執行が行われない年末について、「死刑囚ほっとす御用納めかな」と安堵の心を詠んでいます。
尾田死刑囚は平日、民間業者と契約を交わして請け負った内職に5時間半程度、取り組む。作業は紙袋作りだ。
「モーニング娘。やAKB48のコンサートがあると、その絵柄の材料が入荷することがあり、間接的にイベントに触れる楽しみがあります」。週2回は映画やバラエティー番組のDVDの視聴も許されている。
こうした内職のささやかな楽しみの他に、死刑囚にも新聞を読んだり読書をしたり、音楽鑑賞するなども許されています。
尾田信夫は、認知症予防のために新聞に掲載された大学入試センター試験の問題を解いたり、趣味の俳句などを楽しんだりしているということです。
まとめ
マルヨ無線川端店の元店員である尾田信夫が、強盗に入っただけのつもりが放火殺人をでっち上げられたと冤罪を主張している「マルヨ無線事件」についてまとめてきました。
事件現場となったマルヨ無線川端店は事件の影響で店を閉め、この店舗があった商店街は現在博多リバレインとなっています。
また、マルヨ無線は他にも店舗を構えていましたが、事件後に全て閉店し倒産しました。
亡くなった店員のご冥福を心よりお祈り申し上げます。