近江屋事件の犯人や黒幕説をわかりやすく解説!場所と寺田屋事件/池田屋事件との違いも総まとめ【坂本龍馬の暗殺】

1867年に発生した近江屋事件では、坂本龍馬を始めとする歴史的偉人が暗殺され、黒幕には複数の説が存在しています。

 

今回は近江屋事件について、場所や犯人、寺田屋事件や池田屋事件との違い、黒幕をわかりやすく解説します。 

近江屋事件とは 【発生場所も紹介】

 

「近江屋事件」とは、慶応3年11月15日(1867年12月10日)の江戸時代末期、京都河原町通蛸薬師下ルにあった醤油商・近江屋井口新助邸で発生しました。

 

近江屋でかくまわれていた坂本龍馬を始め、中岡慎太郎及び龍馬の家来であった山田藤吉の3人が、刺客により殺害されています。

 

この刺客や黒幕について、現在までに様々な仮説が流れています。

 

京都守護職配下の治安維持組織だった新撰組説や紀州藩士説、外国勢力説などがある中、江戸幕府傘下の組織である京都見廻組説が最も有力視されています。 

 

近江屋事件で暗殺された人物① 元土佐藩士・坂本龍馬

 

坂本龍馬は、天保6年11月15日(グレゴリオ暦1836年1月3日)に生まれました。慶応3年11月15日(1867年12月10日)没。享年33歳でした。

 

土佐藩出身の志士であり、本名の他に変名として才谷梅太郎(さいたに うめたろう、さいだに うめたろう)と名乗っていたこともありました。

 

暗殺の死後につけられた諱(いみな)は、直陰(なおかげ)で、のちに直柔(なおなり)とされ、幕末勤王の志士1,356柱の1人として京都霊山護国神社に祀られています。

 

坂本龍馬という人物について

 

江戸時代末期の幕末と呼ばれた時代には、江戸幕府を倒幕して天皇中心の世の中へと変えようとした幕末志士が活躍していました。

坂本龍馬は土佐藩を脱藩した浪士でありながら、倒幕の要となる薩摩や長州の間をまとめて薩長同盟を成し、15代将軍・徳川慶喜による大政奉還を実現させた立役者として知られています。

 

多くの人に愛された一方で、敵対していた佐幕派を始めとした多くの恨みも買っていたのも事実です。

 

その結果、慶応3年11月15日に近江屋の母屋2階にて、刺客により暗殺されて命を落としています。

 

 

近江屋事件で暗殺された人物② 中岡慎太郎

 

中岡慎太郎(なかおか しんたろう)は、天保9年4月13日(グレゴリオ暦1838年5月6日)に生まれました。慶応3年11月17日(1867年12月12日)没。享年30歳

 

土佐藩を脱藩した幕末志士であり、 陸援隊隊長を務めました。

 

変名は石川清之助(誠之助)で、贈位は正四位、竜馬同様に幕末勤王の志士1,356柱の1人として京都霊山護国神社に祀られています。

 

中岡慎太郎という人物について

中岡慎太郎は龍馬より2歳年下であり、尊王攘夷のために土佐藩を脱藩し、「土佐勤皇党」のメンバーとして頭角を現す中で、陸援隊隊長の座に就いています。

 

内戦回避を掲げていた坂本龍馬に対して、中岡慎太郎は武力による倒幕を目指していました。

 

倒幕方法について根本から違っていたものの、脅威となりつつあった外国勢力に対抗するために強い国を作るという志は同じであり、両者は議論を交わすことをとても好んでいたのです。

 

 

近江屋事件で暗殺された人物③ 山田藤吉

出典:https://pixabay.com/

 

山田藤吉(やまだ とうきち)は嘉永元年(1848年)に生まれました。慶応3年11月17日(1867年12月11日)没。享年20歳

 

元力士であり、四股名は雲井龍、坂本龍馬の用心棒として家来を務めていました。

 

 

近江屋事件の犯人

 

近江屋事件発生当時、真っ先に犯人として見当をつけられたのは新撰組で、新撰組から脱退して対立していた御陵衛士の証言もそれを裏付けていました。 

 

また、「いろは丸事件」などで坂本龍馬に深い恨みを持っていた、紀州藩士の犯行とも考えられていました。

 

その後の大正元年、見廻組隊士だった今井信郎の供述をもとに執筆された『維新土佐勤王史』に龍馬暗殺の経緯が記されていたことから、京都見廻組の犯行とする見方が最有力です。

 

さらに大正15年には、今井信郎の口上書が『坂本龍馬関係文書』に収録されたことも、この説を補強する結果となりました。

 

ただ、刺客の襲撃を受けた本人である中岡慎太郎は死の間際に、「之はとうしても人を散々斬つて居る新選組の者だろう」と推測していたようで、新撰組説も廃れたわけではありません。

 

土佐藩重役だった寺村左膳も事件当日の日記に「多分、新撰組等の業なるべしとの報知也」と記したことから、本当の犯人は確定していないと言えます。 

 

 

近江屋事件と池田屋事件・寺田屋事件との違い

出典:https://pixabay.com/

 

近江屋事件と並んで幕末の有名な襲撃事件として、「池田屋事件」と「寺田屋事件」もあります。

 

池田屋事件は、元治元年6月5日(1864年7月8日)、京都三条木屋町の旅籠・池田屋に潜伏していた長州藩、土佐藩などの尊王攘夷派志士を、新選組が襲撃した事件です。

 

また、寺田屋事件は、幕末の山城国紀伊郡伏見の旅館・寺田屋で発生した事件であり、以下の2つの事件を総称しています。

 

・文久2年(1862年)に発生した、薩摩藩による尊皇派志士の鎮撫事件

・慶応2年(1866年)に発生した、伏見奉行による坂本龍馬襲撃事件

 

坂本龍馬は寺田屋事件でも命を狙われており、妻のお龍の機転によって九死に一生を得たエピソードは有名ですよね。

 

また、近江屋事件とは違い、池田屋事件と寺田屋事件は襲撃側が誰だったかが明らかになっています。

 

 

 

近江屋事件をわかりやすく解説

 

ここからは、近代日本を切り開いた英雄として人気が高い坂本龍馬と中岡慎太郎たちが襲撃された経緯を、わかりやすく解説します。

 

坂本龍馬らは近江屋にかくまわれていた

 

坂本龍馬の暗殺の舞台となった近江屋は、京都の河原町通にあった醬油商です。

 

この近江屋を経営していたのは、現在の四条河原町一帯の土地を所有していた豪商の井口家であり、当時の当主である井口新介が土佐藩の御用達でした。

 

そのため、坂本龍馬とは同郷のよしみであり、土佐藩出身の三菱財閥の創業者・岩崎弥太郎と繋がりが深かったことから、佐幕派に追われる身であった坂本龍馬をかくまっていました。 

 

坂本龍馬らが近江屋に隠れた理由

 

当時、元新撰組隊士で御陵衛士だった伊藤甲子太郎や藤堂平助が近江屋を訪れて、新撰組や京都見廻組などが命を狙っていると、坂本龍馬に忠告していました。

 

また、薩摩藩の吉井幸輔も、土佐藩邸か薩摩藩邸にかくまってもらうように助言をしていました。

 

しかし坂本龍馬は、土佐を脱藩した身で土佐藩邸に世話になるのには抵抗があり、また薩摩藩邸に入ると土佐藩に礼を欠くことになるとして拒否しました。 

 

また、近江屋の位置は河原町通を挟んで土佐藩邸の真向かいにあったことから、わざわざ確執を押してまで土佐藩邸の世話になる必要はないと考えていました。

 

坂本龍馬ら暗殺前の状況

 

慶応3年11月15日七つ半(午後5時)頃、中岡慎太郎は菊屋という書店を訪れ、主人の息子・鹿野峰吉に手紙を託し、錦小路の薩摩屋に持参して返事は近江屋に持ってくるよう告げました。 

 

六ツ半(午後7時)頃、薩摩屋からの返書を受け取った鹿野峰吉は、中岡慎太郎に言われた通り近江屋に持参しました。

 

この時すでに中岡慎太郎は近江屋の2階で坂本龍馬と話し合いをしていましたが、鹿野峰吉から返書を受け取った直後に、土佐藩士の岡本健三郎が入室しています。 

 

龍馬が「軍鶏鍋を食べたい」と言ったので、鹿野峰吉は四条小路の鳥新に軍鶏を買いに行き、戻ったのは五ツ半(午後9時)頃でした。

 

山田藤吉が刺客に斬られた

 

その夜、坂本龍馬暗殺のために近江屋を訪れた刺客らは、その応対をした山田藤吉に十津川郷士と名乗り、龍馬に面会したいと申し出ました

 

刺客らから偽の名刺を受け取った山田藤吉が、坂本龍馬のいる2階への階段を上がり始めると、刺客と確信を得て山田藤吉を背後から斬りました。 

 

山田藤吉が倒れたことで大きな音が響くと、坂本龍馬は山田藤吉が騒いでいると勘違いして、土佐弁で「騒ぐな」という意味の「ほえたな!」と叫んだと伝えられています。

 

これにより、刺客は奥の8畳間に坂本龍馬らがいることを確認し、部屋になだれ込んで斬りかかりました。

 

坂本龍馬と中岡慎太郎が斬られた

 

不意をつかれた坂本龍馬は、刺客の一刀目で前頭部を割られてしまいました。

 

それでも応戦しようと、龍馬は床の間に置いていた刀を取ろうと振り返りましたが、そこに二刀目の斬撃が右の肩先から左の背中にかけて入りました。

 

龍馬は抜刀できないまま三刀目を鞘で受けたものの、太刀が鞘を削りながら流れて前頭部に致命傷を負っています。

 

同様に中岡慎太郎も抜刀できずに鞘で応戦しましたが、刺客の一刀目で後頭部を深く切られており、思うように動けないまま両手両足と臀部を斬られて倒れこみました。

 

この時の詳しい様子を以下に抜粋させていただきます。 

 

その少し後、数名の武士が龍馬を訪ねて来ます。階下で取り次いだ藤吉が階段を上がると、背後からいきなり斬られて転倒。その物音に、藤吉と峰吉が遊んでいると勘違いした龍馬は「ほたえな(騒ぐな)」と叱りました。直後、二人の武士が龍馬と中岡のいる座敷に殺到。火鉢を挟んで座っていた龍馬と中岡に斬りつけ、龍馬は額を割られます。それでも龍馬は背後の床の間にある刀を取ろうとしますが、背を袈裟(けさ)斬りにされ、さらに三太刀目を鞘のまま刀で受けますが、敵の刀が再び頭部を斬り、昏倒。中岡も後頭部に重傷を負いました。刺客たちは二人が動かなくなるのを見届け、立ち去ります。ほんの一瞬の出来事でした。

 

引用:幕末最大の謎、龍馬暗殺事件。近江屋で何が起きたのか?黒幕はいたのか?徹底調査

 

中岡慎太郎はこの時まだ絶命しておらず、死んだふりをしていると、刺客が「もうよい、もうよい」と叫んで引き上げていきました。

 

刺客たちが去ると、龍馬は意識を取り戻し、「残念、残念」「慎太、手は利(き)くか」と中岡を気遣い、階下の店の者に「医者を呼べ」と声をかけ、「わしゃあ脳をやられた。もういかん」と言って絶命したといいます。この日は龍馬33歳の誕生日でした。なお藤吉は翌日、中岡は翌々日に死去します。中岡享年30、藤吉享年20。龍馬と中岡らが殺害された近江屋跡は現在、河原町通の繁華街で、石碑のみが事件を伝えています。

 

引用:幕末最大の謎、龍馬暗殺事件。近江屋で何が起きたのか?黒幕はいたのか?徹底調査

 

坂本龍馬は誕生日に暗殺された

 

坂本龍馬らが襲撃を受けていた時、近江屋の主人・井口新助は1階の奥の間に居ましたが、状況を察知すると、急いで向かいにある土佐藩邸に知らせに向かいました。

 

しかし敵の見張りがいたため、井口新助は土佐藩邸の裏口側に回って、ようやく土佐藩士らに状況を伝えることができました。

 

土佐藩士らは急いで近江屋に向かいましたが、刺客らはとうに逃げ去った後で坂本龍馬はすでに死亡していました。

 

中岡慎太郎と山田藤吉はまだ息がありましたが、山田藤吉は翌日夕刻に、中岡慎太郎は翌々日の夕刻に吐き気をもよおした後に亡くなりました。

 

刺客の襲撃を受けた11月15日(12月10日)は、奇しくも坂本龍馬の誕生日でした。

 

その後の詳しい状況を以下に抜粋致します。

 

事件の報せは、すぐに土佐藩をはじめ、各方面に伝わりました。龍馬らが襲われたことを、近江屋の主人・新助や峰吉らが近所の土佐藩邸や白川の陸援隊(中岡が組織した武力討幕のための浪士隊)屯所(現、京都大学農学部付近)に急報し、駆けつけた土佐藩関係者が、まだ息のあった中岡から事件の様子を聞くことができたからです。事件当日に報せを受けた土佐藩側用役・寺村左膳(てらむらさぜん)は、その日の日記に次のように記しています。

 

「子細は坂本良(龍)馬、当時変名才谷楳太郎(さいだにうめたろう)、ならびに石川清之助(いしかわせいのすけ、中岡の変名)、今夜五ツごろ(20時頃)、両人四条河原町の下宿に罷(まか)りあり候(そうろう)ところ、三、四人の者参り、(中略)やにわに抜刀にて才谷、石川両人へ切りかけ候ところ、不意のことゆえ、両人とも抜き合い候間もこれなく、そのまま倒れ候よし。下男もともに切られたり。賊は散々に逃げ去り候よし。才谷は即死せり。石川は少々息は通い候に付き、療養に取り掛かりたりという。多分、新撰組等の業(わざ)なるべしとの報知なり」(『寺村左膳道成日記』)。

 

引用:幕末最大の謎、龍馬暗殺事件。近江屋で何が起きたのか?黒幕はいたのか?徹底調査

 

 

坂本龍馬らの暗殺に倒幕派は衝撃を受けた

坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されたという知らせは、討幕派に多大な衝撃を与えました。

 

維新の十傑の1人である岩倉具視は「何物の凶豎ぞ、我が両腕を奪い去る」とその損失の大きさを悲嘆したといいます。

 

同じく討幕派の中心人物だった三条実美は寝食を忘れるほど慟哭し、12月20日には両名のために祭壇を作って霊を祀りました。

 

 

近江屋事件の真相① 新撰組が黒幕説

 

 

近江屋事件は、「本能寺の変」と並んで日本の歴史上解明されていない謎の1つとして語り継がれてきました。

 

坂本龍馬は現在でも英雄として語り継がれるように、多くの人から愛されてきた男でしたが、その反面、たくさんの恨みを買った男でした。

 

そのため、暗殺を企む組織が当時多くあったことからより特定が困難となってきました。 

 

その中でも、似たような襲撃事件である「池田屋事件」は新撰組が起こした事件であり、「近江屋事件」も新撰組ではないかとする説が根強く残ってます。

 

そのもっともな理由として、死ぬ間際で中岡慎太郎が「刺客の中に伊予弁を使っている者がいた」と語っていたからです。

 

新撰組十番隊組長の原田左之助は伊予の出身です。

 

さらに、元新撰組隊士で御陵衛士になっていた篠原泰之進や内海次郎らが、現場に落ちていた鞘が原田左之助のものだと証言していることから、新撰組説を強く裏付けています。

 

土佐藩はこうした証言をもとに幕府に新撰組を告発しましたが、新撰組は幕府からの取り調べを受けたものの、局長である近藤勇が関与を拒否

 

翌年から「戊辰戦争」はじまり、取り調べどころではなくなったことから、この一件での新選組の関与は闇へと葬られました。

 

 

近江屋事件の真相② 紀州藩士が黒幕説

出典:https://www.touken-world.jp/edo-domain100/kishuu/

 

近江屋事件を起こした犯人は、紀州藩士だとする説もあります。

 

1867年(慶応3年)4月に海援隊と紀州藩の船が衝突した 「いろは丸事件」が起きています。

 

紀州藩の代表である三浦休太郎は、坂本龍馬といろは事件の賠償問題について協議したところ、坂本龍馬が国際法を持ち出し、紀州藩は8万3000両という多額の賠償金を支払っています。

 

これにより、紀州藩は坂本龍馬に深い恨みを抱いたことから、報復行為として暗殺を企て、近江屋事件を起こしたとされています。

 

この説を裏付ける証拠として、新撰組説と同様に現場に落ちていた鞘が挙げられていますが、この鞘は特別なものではなく、紀州藩士もよく使っていたタイプのものでした。 

 

近江屋事件がいろは事件の報復だったと見た海援隊はその後、陸援隊と協力して、三浦休太郎が滞在していた天満屋を襲撃し、「天満屋事件」が発生しました。

 

 

近江屋事件の真相③ 京都見廻組が黒幕説

 

坂本龍馬暗殺の最も有力な説として語り継がれる京都見廻組説は、戊辰戦争が終結した後に浮上した説です。

 

きっかけは、戊辰戦争の終盤に発生した函館戦争で捕らえられた京都見廻組の今井信郎が、坂本龍馬暗殺を自供したためでした。

 

今井信郎の証言によれば、 近江屋事件当日、京都見廻組は7人の刺客を現場に向かわせ、そのうち4人が襲撃班、3人を見張りとして待機させていました。

 

この証言により、坂本龍馬暗殺事件の犯人が京都見廻組で決定かと思われました。

 

ただ、今井信郎が証言した内容の中に、実際の近江屋の間取りと違いがある点や、暗殺の際に坂本龍馬らに負わせた傷の場所が食い違っているなど、信憑性に欠けるとも言われています。

 

 

近江屋事件の真相④ その他の勢力が黒幕説

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

 

京都見廻組説や紀州藩士説、新撰組説などが中心ではあるものの、坂本龍馬とは違い、武力での倒幕を目指していた薩摩藩の西郷隆盛や大久保利通などが企てたとする説もあります。

 

また、その他の武力倒幕派として活動していた土佐藩士や、刺客が山田藤吉に名乗った十津川郷士は偽りではなかったとする説などがあります。

 

さらに、十津川郷士が多く所属していた武力倒幕派の陸援隊説、坂本龍馬が誕生日に殺害されたことから近しい者による殺害説、刺客の狙いは中岡慎太郎だったとする説もあります。

 

また、作家の大浦章郎は大久保利通を黒幕とする伊東甲子太郎犯行説を唱えています。

 

 

近江屋事件の真相⑤ 幕府が黒幕説

出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/

 

当時の時勢から、坂本龍馬を最も目の敵にしていた幕府説も存在します。

 

幕府が、 倒幕の急先鋒である坂本龍馬を何としてでも消したいと考えていたことは想像に難くありません。

 

そのため、幕府傘下の組織である京都見廻組や新撰組などに坂本龍馬暗殺を命じた可能性もあります。

 

ただ、その暗殺命令を誰がいつ下したのか、何も証拠は残っていません。

 

可能性として、新撰組の上役であり京都守護職で会津藩主の松平容保、その弟で京都所司代の桑名藩主の松平定敬、京都見廻役だった旗本の小笠原長遠などの名が挙がっています。

 

近江屋事件の真相⑥ 外国勢力が黒幕説

 

幕府ではなく、武力倒幕派が黒幕だとした場合に、薩摩藩や長州藩、土佐藩などの裏で暗躍していた存在として外国勢力の存在があります。

 

その筆頭格が、日本との交易のために来日していた武器商人のトーマス・ブレーク・グラバーです。

 

坂本龍馬が知力で幕府側を出し抜けたのも、グラバーのような外国勢力の後ろ盾があったことも大きく影響しています。

 

グラバーは武力倒幕派に武器を売って儲けていましたが、敵対勢力の佐幕派にも同様に武器を撃って戦争の火種を大きくし、内戦により利益を得ていた人物です。

 

しかし、坂本龍馬はもともと内戦回避による倒幕を目指していたことから、薩長同盟が実現するとグラバーを裏切る形で大政奉還の実現に奔走しました。 

 

ちなみに、グラバーは明治維新後、坂本龍馬の同郷の友人だった土佐藩出身の岩崎弥太郎とともに、キリンビールの創業に関わり、麒麟のロゴデザインを提案したと言われています。

 

この麒麟は「龍」と「馬」を合わせたような霊獣で、グラバーが坂本龍馬への敬意を表してこのデザインにしたと言われますが、一方では贖罪の意識により採用したとも言われています。

 

さらに、最大の黒幕はグラバーのようなグローバリストの総本山フリーメイソンとも言われ、日本だけではなく、世界の数々の代表的な戦争において裏で暗躍していたと言われています。 

 

前述のように坂本龍馬は内戦回避派で、戦争を激しくさせて儲けたかったフリーメイソンにとって坂本龍馬は邪魔な存在だったことから暗殺したという見方もあります。

 

ここまで、近江屋事件の黒幕説を紹介してきましたが、京都見廻組の今井信郎の証言には多少食い違いがあるものの、やはり現時点では京都見廻組説が最も有力視されています。 

 

なお、今井信郎は京都見廻組の仲間に被害が及ぶのを恐れ、後に証言を覆しているようで、この行動からも犯人説が濃厚だと指摘する声もあります。

 

 

まとめ

 

近代日本を切り開いた明治維新の立役者の1人、坂本龍馬が暗殺された「近江屋事件」について詳しくまとめてきました。

 

坂本龍馬は有名ながら謎の多い人物であり、近江屋事件も現在までに犯人や黒幕が解明されていない事件です。

 

今後新たな文献や資料などが発見され、龍馬暗殺の決定的な証拠がみつかる可能性もゼロではありません。

 

その時を期待して待ちたいと思います。 

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