2014年に発生したロシアによるクリミア侵攻と2022年のウクライナ侵攻は深く関係しています。
この記事ではロシアのクリミア侵攻についていつどのくらいの期間起こったか、理由や死者数、為替や株価への影響、日本やアメリカの制裁内容、海外の反応などについてわかりやすくまとめました。
この記事の目次
クリミア侵攻をわかりやすく解説① ロシアのクリミア半島への軍事行動
出典:http://america.aljazeera.com/
「クリミア侵攻」とは、ロシアによるウクライナの自治領であったクリミア半島(クリミア自治共和国およびセヴァストポリ特別市)に対する軍事行動の名称です。
2022年3月の現在、ロシア軍によるウクライナへの軍事侵攻が続いていますが、この現在の状況は2014年から始まった「クリミア侵攻」とは一連の出来事として深く関係しています。
この記事では、このロシアによる2014年の「クリミア侵攻」について、できる限りわかりやすくまとめていきます。
クリミア侵攻をわかりやすく解説② いつからどれほどの期間続いているのか時系列など
「クリミア侵攻」が、実質的にいつ始まったのかについては諸説ありますが、西側のメディアからは、ロシア軍が2014年2月20日にクリミアでの軍事作戦を開始していたという証拠が示されています。
また、クリミア侵攻の期間については、ウクライナ政府側から見れば、ロシアによる実効支配が現在も続いているため、現在もクリミア侵攻は継続中であるといえます。
いつ始まったのかやどれほどの期間行われているのかについてわかりやすくするため、ロシアによるクリミア侵攻を時系列順に見ていきます。
ロシアによるクリミア侵攻開始は2014年2月20日
ロシアによるクリミア侵攻がいつ始まったかについて、現在までに示されている最も早い日付は2014年2月20日です。この日にはすでにロシア軍と見られる武装集団がクリミア半島に侵入しクリミア半島を奪取するための軍事作戦を開始していたと見られています。
これについては、ロシア国防省も否定しておらず、同国防省が発行した「クリミアへの帰還のために」というメダルの裏側(下の画像)に作戦が行われた期間として「2014年2月20日から3月18日」と記載されている事が証拠として示されています。
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この翌日の2014年2月21日に当時のウクライナの大統領で、親ロシア派であったヴィクトル・ヤヌコーヴィチがキエフ(キーウ)を脱出(22日とする情報も)脱出し、その後ロシアへと亡命しています。22日には、ウクライナ国会でヤヌコーヴィチ大統領の解任と新たな大統領を決める選挙の早期実施が採択されています。
なお、この動きの背景には、親露政策を取る当時の政権に反対する「ユーロマイダン」と呼ばれる市民運動が2013年頃から盛り上がっていた事がありますが、この記事内で説明するには文字数が足りないので省略します。
2月23日、シンフェロポリで新政府派、セヴァストポリで親露派が決起
2014年2月23日、キエフでの動きに呼応し、クリミアの首都であるシンフェロポリで、「ユーロマイダン」を支援する5000人から1万5000人の市民が、ウクライナの新政権樹立を支持する集会を開いています。
一方、クリミア半島南西部に位置するウクライナの特別市であり、租借という形でロシア海軍の基地も置かれている港湾都市・セヴァストポリでは親露派の住民が決起。数千の親露派住民はロシアの愛国主義者として知られるバイカー集団「夜の狼(Night Wolves)」の支援を受けて自警団を結成し「キエフからの如何なる指示にも従わない」事を宣言しています。
2月24日、セヴァストポリの親露派住民によりロシア人が同市市長に選出される
2014年2月24日、クリミア自治共和国首相(当時)のアナトリイ・モヒリオフは、本国であるウクライナ議会の決定に従うと宣言。
一方、セヴァストポリでは、親露派住民の群衆が行政府に集まり、ロシア市民を新たな市長にする事を要求し、市庁舎は占拠されロシア国旗が掲げ、さらに独自の市長としてロシア人のアレクセイ・チャリを選出しました。
2月25日〜28日にかけてクリミアの議会や空港などがロシア軍に占拠される
2014年2月25日、親ロシア派の住民、数百人がシンフェロポリのクリミア議会を占拠。26日には、サヴァストポリで、ウクライナ新政府を支持するタタール人の数千人の勢力と親ロシア派の数千人の勢力が衝突。同日、ロシア軍はウクライナ東部の国境沿いで15万人を動員しての軍事演習を行なっています。
2月27日、ロシア特殊作戦軍所属と見られる重武装の60人の兵士が、クリミア最高会議(議会)とクリミア首相府を占拠、新政府派議員が締め出された状況下で、親ロシア派のセルゲイ・アクショーノフ(親ロシア派政党の党首)がクリミア自治共和国新首相に任命されました。
2月28日、腕章を外して所属不明となった武装部隊が、「シンフェロポリ国際空港」、「セヴァストポリ国際空港」などを占拠。また、同日には、クリム国営テレビ局が同様に占拠され、クリミア半島にあったウクライナ国営の電話とインターネットのプロバイダー業者「Ukrtelecom」へのサイバー攻撃があり外部との通信が遮断されました。数日後には、クリミア各地の「Ukrtelecom」社の施設が武装集団に占拠され、インターネット回線が物理的に切断されています。
2014年3月、ロシア系住民保護の名目でロシア軍が正式に投入される
2014年3月1日、親ロシア派によって擁立された新首相のセルゲイ・アクショーノフは、直接、プーチン大統領にクリミアでの平和維持活動を要請しました。
これを受けたプーチン大統領は、クリミアへのロシア軍投入をロシア連邦院上院に求め、上院はこれを全会一致で承認。これによって、ロシア軍が表立ってクリミアに投入される事になりました。その後、クリミア半島に駐屯していたウクライナ軍部隊は3月5日までの間にほとんどが投降し、多くの兵士が親ロシア派側へと寝返っています。
3月16日、ロシア編入の是非を問う住民投票で95%以上がロシア編入に賛成
3月6日、クリミア最高会議はウクライナから離脱してロシアの一部になる事を可決し、3月11日にはクリミア・セヴァストポリ独立宣言を表決と段階を経て、3月16日にロシア編入の是非を問う住民投票がクリミア自治共和国とセヴァストポリで実施されました。
物理的な封鎖とサイバー封鎖による情報遮断を行った上で行われた住民投票では、クリミア自治共和国で96.8%、セヴァストポリ特別市で95.6%の住民が、クリミア地域のロシアへの編入に賛成するという圧倒的な結果に終わりました。
3月17日〜21日、クリミア自治共和国とセヴァストポリがロシアに併合される
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住民投票の結果を受けて、3月17日、クリミア自治共和国最高会議は、クリミア自治共和国とセヴァストポリ特別市を包括して「クリミア共和国」として、ウクライナからの独立を宣言し、ロシアへの編入を承認しました。
3月18日、ロシア・プーチン大統領はクリミア共和国を独立国家として認める大統領令に署名しました。3月20日には、クリミア地域をロシアに編入する条約をロシア連邦院下院が1人を除く443人の賛成によって批准、同21日、上院も全会一致で批准し、クリミア地域はロシアへと併合されました。
以上が、ロシアによるクリミア侵攻で起こった大まかな出来事です。現在もロシアによるクリミア地域の実効支配が続いているため、ウクライナ側から見れば、現在もクリミア侵攻は続いているといえます。
クリミア侵攻をわかりやすく解説③ なぜロシアは軍事行動を起こしたのか?4つの理由
続けて、ロシアがなぜ「クリミア侵攻」を起こしたのかの理由についてもわかりやすく見ていきます。
ロシアのクリミア侵攻の理由① 歴史的背景
ロシアはクリミア半島はロシアの固有の領土だと主張しており、それもクリミア侵攻(クリミア併合)の理由の1つとなっています。
ロシアがクリミア半島を固有の領土とする理由としては、9世紀から13世紀にかけて現在のウクライナやベラルーシ、ロシア西部にかけて存在した「キエフ大公国」(ロシア、ウクライナ、ベラルーシの共通の起源だとされている)が関係しています。
西暦988年に「キエフ大公国」の君主であったウラジーミル1世は、現在のセヴァストポリあたりにあった東ローマ帝国の都市「ケルソネス」を占領し、この場所でウラジーミル1世はキリスト教(ギリシア正教)を国教として受け入れイデオロギー的な基盤を築き繁栄させたとされています。
ロシア側はこの出来事が、現在のロシアやウクライナという国家のルーツになっているとし、さらにプーチン大統領はこうした歴史的な背景からロシアとウクライナは共通の民族であると主張しています。
また、1954年、クリミア半島はロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の支配下にありましたが、当時のソ連の最高指導者であったフルシチョフが同じくソ連構成国であったウクライナ共和国に、友好の証として割譲されたという経緯がありました。
1991年のソ連崩壊後のウクライナ独立時に、クリミア半島はそのままウクライナ所属となりましたが、ロシア系のクリミア住民の多くはウクライナへの帰属に反対し分離独立を求める声も多く上がっていました。
ロシアのクリミア侵攻の理由② NATOの東方への勢力拡大への危機感
ロシアのクリミア侵攻には、NATO(北大西洋条約機構)の東方(ロシア方面)への勢力拡大も大きな理由の1つとなっています。
1991年のソ連の崩壊後、東欧の旧東側諸国が次々とNATOに加盟し東方へと勢力圏を拡大しました。ロシアにとってウクライナは西側諸国(NATOやEU)との緩衝地帯にあたるため、ウクライナに加盟すれば、西側の勢力圏と直接国境を接する事になってしまいます。
プーチン大統領はこれを強く警戒していましたが、「ユーロマイダン」によってロシア寄りの政権が倒された事でその危機感が大きくなり、クリミア侵攻を決断させたとの見方があります。
ロシアのクリミア侵攻の理由③ 独立後の親欧米派と親露派の対立
1991年にウクライナがソ連から独立してから、クリミア半島では親欧米派と親ロシア派の対立が続いており、2004年の大統領選挙では親欧米派のヴィクトル・ユシチェンコが政権を握り、2010年には親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチが政権を握るなど、政局が不安定な状態が続いていました。
クリミア侵攻が起こるきっかけとなったのは、この親ロシア派のヤヌコーヴィチ政権が倒された事でした。ウクライナの中でも親ロシア派の住人が多いクリミア半島では親欧米派の新政権に反対する声が上がり、ロシアはこの地域に住むロシア系住民の保護を理由に軍事介入しました。
ロシアのクリミア侵攻の理由④ クリミア半島は軍事的に極めて重要な地域
クリミア半島は地中海へとつながる軍事的に極めて重要な地域です。ロシアはセヴァストポリ に黒海艦隊の基地を置いていましたが、ウクライナがNATOに加盟すれば、ロシア海軍はこの港を使えなくなり、地中海から大西洋に抜ける事ができなくなり、逆にロシア本土がNATOの脅威に晒される事になります。
そうした事態を回避するためにロシアはウクライナに親欧米の政権が誕生するや否や、なりふり構わずクリミア半島の奪取に動いたと見られています。
クリミア侵攻で確認された死者は民間人2〜3人と双方の兵士が1人ずつ
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2022年3月の現在、ロシア軍のウクライナ侵攻による死者は、ロシア軍、ウクライナ軍の双方とウクライナの民間人を合わせて数千人から1万人以上に上ると推測されていますが、2014年のロシアによるクリミア侵攻では軍同士の大規模な戦闘は発生しなかったため、このように膨大な数の死者は発生しませんでした。
クリミア侵攻による死者については、クリミア侵攻が開始されてから2014年2月27日までの間に2〜3人の民間人の死者が出ていることが一部のメディアによって報じられていました。
その後、クリミアがウクライナからの独立を宣言しロシアに併合された後も、クリミアに残留していたウクライナ軍と親ロシア側の武装勢力との間で小規模な戦闘が続いていました。2014年3月18日に、クリミア侵攻でのウクライナ軍と親ロシア派の武装勢力との銃撃戦があり、双方に1人ずつ、初めての死者が出た事が報じられています。
ロシアが編入を決めたウクライナ南部・クリミア半島で軍事的緊張が一層高まっている。地元メディアによると18日には主要都市シンフェロポリ周辺での銃撃戦で親ロシアの武装勢力とウクライナ軍双方に初めて死亡者が発生した。
クリミア侵攻の株価への影響はほとんどなかった
クリミア侵攻は日経平均株価に対しては特に大きな影響を与えていません、2014年2月から5月にかけては1万4000円前後を底値にして三角持ち合いが続き、5月後半から上昇に転じて年末には1万8000円をつけています。
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アメリカのNYダウについても同様で、クリミア侵攻のあった2月に底値をつけ、上昇トレンドに転じています。
その他の世界の株価もクリミア侵攻にはほとんど反応を示しませんでした。
クリミア侵攻時の為替への影響も出なかった
クリミア侵攻時では為替への影響も出ませんでした。ロシアのクリミア侵攻が起きて1週間ほどはリスク回避の円買いがあったもののすぐに収束し、ドル円は2014年2月から8月まで101円台から102円台で推移していました。9月以降は日銀の金融緩和策の影響で円安となり、年末には119円台をつけています。
クリミア侵攻でのアメリカ、EU、日本による経済制裁の内容
クリミア侵攻に対し、アメリカとEUと日本はロシアに対する経済制裁を行なっています。
アメリカとEU諸国は、ロシア要人の資産凍結や渡航制限、防衛関連品輸出禁止、金融規制、北極海の石油開発に利用する物品および技術の輸出禁止などの制裁を実施しました。
日本もアメリカと欧州に足並みを揃える形で、ロシア要人の資産凍結や渡航制限を実施した他、ロシアの大手5金融機関に対して日本国内での証券発行の規制(資金調達の事実上禁止)、武器屋軍事転用可能な物品の輸出制限を行いました。ただし、北方領土問題への悪影響に配慮し、エネルギー関連の制裁にはアメリカや欧州各国には追従せず行いませんでした。
クリミア侵攻時の海外の反応
クリミア侵攻当時のネット上での海外の反応を引用して紹介します。
剣を構えろ。兄弟たち!
ウクライナを分割するぞ。
行け、ロシアの兄弟たちよ!
俺たちは西側から攻める。
ついに1918年の残念な間違いを消し去れるのだ!
上の海外の反応はポーランド人のものですが、1918年のウクライナ・ポーランド戦争とそれに続く1919年のポーランド・ソビエト戦争に絡めた発言です。この結果ポーランドは現在のウクライナとベラルーシの西部を獲得していますが、第二次大戦ではポーランドはナチスドイツとソ連に挟撃されて領土を失い、終戦後にポーランドはソ連に組み込まれています。そうした経緯を皮肉った書き込みでしょう。
↑貧乏なウクライナ人が国境を越えてくるとか勘弁
上の書き込みもポーランド人によるもので、1つ上の書き込みへの返信で、国境の相次ぐ改変で人口の大移動が起き混乱が生じた当時の状況を皮肉っています。
プーチンは「アメリカは侵略するな」みたいな感じだったのに自分がクリミアを侵略してるんだな。
上の海外の反応はイギリス人によるもので、ロシアのプーチン大統領が2003年のアメリカのイラクへの軍事作戦を批判していた事を絡めての発言です。
ただの訓練だって。
上はロシア人による書き込みです。これに対して、アメリカ人とイギリス人が下のように反応していました。
↑信じるよwww
↑他国の空港を占領するのは危険な訓練だけどな!
↑どうでもいい。どうせみんな核の訓練で死ぬんだ。
クリミア侵攻当時のネット上では、ロシアを批判するEU諸国の人々の海外の反応と、それに反論するロシアの人々のやりとりも多く見られました。アメリカ人やイギリス人がそれを外側から見て皮肉を言うような流れもありました。
フランス人:プーチンが何のゲームをしてるのか知らないけど危険で馬鹿なことだ。
ロシア人:↑そんなことを言う前にウクライナなんて国は最初から存在しないことを知れ。
東はロシア、西はポーランドだった。
ウクライナは20年しか存在してない。
千年存在した2つの国に挟まれて独立国で居られるわけがない
だから黙ってろ。カエル
上の流れに、ウクライナ人が「へーチマン国家」のWikipediaの記事を引用して反論しますが、ロシア人は、ウクライナの固有の領土は、現在のウクライナのごく一部であり、ほとんどは帝政ロシア時代とソ連時代にロシア側から譲られたものだと図付きで反論していました。
出典:http://blog-imgs-66.fc2.com/
>黄色 = ロシア皇帝からの贈り物
>緑色 = スターリンからの贈り物
>青色 = レーニンからの贈り物
>紫色 = フルシチョフの贈り物
>赤色 = ウクライナ固有の領土
これを見たポーランド人が下のように皮肉り、それにロシア人も軽口で返していました。
ポーランド人:↑ロシアは気前がよすぎるな。
ロシア人:↑ロシア人は世界一優しくてフレンドリーだからね。
このようにクリミア侵攻時の海外の反応については、危機感を持ったり、ロシアの行動を批判したりといった書き込みはあまり見られませんでした。これについては、クリミア半島がソ連時代にフルシチョフによってウクライナに割譲されたという経緯や、NATOの拡大に危機感を抱くロシア側の立場にも理解を示す人が多かった事も理由になっていると思われます。
一方、現在のロシアによるウクライナへの軍事侵攻に対してはクリミア侵攻の時とは全く状況が違い、明確に侵略行為であるため、海外の反応も圧倒的にロシアに対して批判的な声が多く上がっています。
まとめ
今回は、2014年に発生したロシアによるクリミア侵攻についてまとめてみました。
クリミア侵攻がいつ発生したのかについては諸説ありますが、2014年2月20日にロシアの軍事作戦が開始されたとする説が証拠も示されており信憑性が高いです。期間については、現在もクリミア半島をロシアが実効支配している事実から現在も続いているといえます。
なぜ、クリミア侵攻が起こったのかについては、歴史的な背景、NATOの東方への拡大に対するロシア側の危機感、元々クリミアには親ロシア派と独立派との対立の構図が存在していた事、クリミア半島が軍事的に重要な地域である事などが理由として挙げられます。
クリミア侵攻での死者数については、確認されているのは民間人2〜3人と、親ロシア派の兵士1名、ウクライナ軍の兵士1名です。クリミア侵攻時には軍同士の大規模な戦闘は発生していないため、大きな数の死者は出ていません。
また、クリミア侵攻では為替や株価への影響はほとんどありませんでした。
アメリカと欧州各国、日本はクリミア侵攻の時にはロシアに対する制裁を行なっていますが、現在のロシア軍のウクライナ侵攻に対しての制裁に比べると軽い内容でした。