1953年に起きた栃木雑貨商一家殺害事件では4人が殺害されましたが、犯人の菊池正は死刑判決後、拘置所から脱獄しました。
今回は栃木雑貨商一家殺人事件の経緯や被害者など詳細、犯人の菊池正の動機や脱獄、死刑判決をまとめました。
この記事の目次
栃木雑貨商一家殺害事件とは4人殺害&犯人が脱獄した事件
栃木雑貨商一家殺害事件
発生日時:1953年3月17日
発生場所:栃木県芳賀郡市羽村
被害者:4人死亡
犯人:菊池正
罪状:強姦強盗殺人(4人殺害)
判決:死刑
栃木雑貨商一家殺害事件とは、1953年に栃木県南東部にある芳賀郡市羽村(市貝町)上赤羽で起こった強姦強盗殺人事件です。
菊池正は雑貨商一家の3人+使用人1人を殺害し、事件から2か月後に逮捕されました。
裁判では死刑判決が言い渡されましたが、上告中に脱獄します。
脱獄から11日後に身柄を拘束され、その後は異例の速さで裁判が進み、脱獄からわずか4か月後に死刑が執行されました。
栃木雑貨商一家殺害事件の詳細
雑貨商一家と使用人が殺害
1953年3月17日、栃木県芳賀郡市羽村の雑貨商の家で、一家3人と使用人1人が絞殺されているのが発見されました。
・母親(71歳)
・長男(21歳)
・使用人の女性(18歳)
遺体には抵抗した様子はなく、手足が縛られた状態でした。また、女主人と使用人の女性からは精液が検出され、殺害後に強姦されたと見られています。
この女主人と使用人から見つかった精液は、同一人物のものではなく、それぞれ違う人物のものだったことがわかっています。
室内はかなり荒らされた形跡があり、金品が盗まれていたため、複数犯による強盗殺人と見て捜査が開始されました。
腕時計から菊地正が逮捕される
警察は、雑貨商の家から300m離れた隣の家である菊池正の家を捜査員の詰め所として捜査を進めました。
警察は「複数犯」と見て捜査をしていましたが、なかなか犯人を絞り込むことができず、捜査は難航します。
村の男性4人について取り調べが行われ、同時に念入りに聞き込みが行われた結果、事件から2か月後に菊池正(当時27歳)が逮捕されました。
逮捕の決め手になったのは腕時計です。雑貨商の家から盗まれた腕時計を東京にいる菊池正の妹が持っていたことが判明し、そこから菊池正の犯行であることが明らかになりました。
菊池正の単独犯だった
菊池正は事件前夜はアリバイ作りのために、夜11時まで自宅に友人を呼んで遊んでいました。
友人は夜10時すぎに帰ろうとしましたが、菊池正は自分のアリバイ作りのために友人をできるだけ引き止めています。
そして、菊池正は友人が帰った後、夜11時半ごろに自宅から300m離れた雑貨商に強盗に押し入るために、バールやロープなどを持ち、覆面をつけて家を出ました。
しかし、いざ押し入ろうとすると、なかなかその決心がつかず、雑貨商の家の周囲をウロウロして数時間が過ぎたようです。
そして、これ以上時間が過ぎると明るくなってしまうと思い、意を決して雑貨商の家に侵入しました。
家に侵入した後、被害者4人は怖がって布団から顔を出さなかったため、「金を出せ!」と大声を出しました。
しかし、大声を出した後に「声で俺の犯行だと気付かれたかも」と不安になり、4人全員を殺害することに決めます。
そして、4人の手足を縄で縛り、首を絞めて殺害します。殺害後に女主人と使用人を屍姦してから、現金2,150円と女性用の腕時計を盗んで現場を後にしました。
屍姦したのは、残忍な手口による犯行という印象を残すためであり、自分は村では真面目な青年で通っていましたので、残忍な手口にすれば、自分に疑いの目が向かないと考えたようです。
菊池正は「東京だからバレないだろう」という安易な考えで、東京に住む妹に盗んだ腕時計をあげましたが、警察の執念は菊池正の想像以上で、腕時計から犯人だとバレてしまったのです。
栃木雑貨商一家殺害事件の被害者は資産家だった
栃木雑貨商一家殺害事件の被害者は次の4人です。
・母親(71歳)
・長男(21歳)
・使用人の女性(18歳)
この雑貨商は近所ではかなりの資産家という噂がありましたが、近所の評判は悪かったようです。
栃木雑貨商一家殺害事件の犯人・菊池正の生い立ち
栃木雑貨商一家殺害事件の犯人は菊池正です。
菊池正の父親は酒乱で、菊池が2歳の時に両親は離婚して母親に引き取られました。そして、母親は菊池が5歳の時に再婚しています。
ただ、新しい父親は菊池正や母親にきつく当たっていて、親子関係・夫婦関係は悪かったようです。また、実家はかなり貧しく、菊池正も働いていましたが、給料は少なかったようです。
菊池正は母親思いだけでなく、異父妹にも優しくしていて、少ない給料の中から妹たちに化粧道具や着物などを買ってあげていました。
栃木雑貨商一家殺害事件の犯人・菊池正の動機とは
栃木雑貨商一家殺害事件の動機は、犯人の菊池正の母親への愛でした。
母親が白内障
菊池正は母親思いの真面目な青年でした。その母親は菊池正が22~23歳ごろに白内障を患います。
菊池正は母親を自転車に乗せて毎日眼科に通いますが、白内障の治療にはお金がかかりました。
父親にお金を工面してもらおうと相談しても取り合ってくれなかったため、母親に白内障の手術を受けさせるために治療費をなんとかしようと、雑貨商に強盗に押し入ることを決意します。
婚約はアリバイ?
菊池正は事件の前日に婚約しています。そのため、この栃木雑貨商一家殺害事件の動機には結婚費用の捻出もあると言われています。
しかし、この婚約すらも、アリバイ作りだったのではないか?と言われています。
前日に婚約をしたことで、「前の日に婚約したばかりの男が強盗をするはずない。屍姦するはずない」と思わせるためです。
もしかしたら、アリバイ作りのために婚約したわけではなかったけれど、婚約したタイミングで、「疑われにくい」と考えて強盗に入ったのかもしれません。
栃木雑貨商一家殺害事件の判決で犯人・菊池正は死刑
栃木雑貨商一家殺害事件では、事件から約2か月後に菊池正が逮捕されました。逮捕後、菊池正は犯行を認め、単独犯であると供述しています。
犯人が自供していることから、裁判の争点はほとんどなく、事件から約8か月後の1953年11月25日には第一審で死刑判決が出ました。
翌1954年9月29日の第二審でも、死刑判決が出ています。
強姦強盗殺人で4人を殺害していますので、死刑判決が出るのは疑いようもないことでした。
栃木雑貨商一家殺害事件の犯人・菊池正が脱獄した理由
菊池正は、第二審で死刑判決が出た後に上告しています。
上告している間は東京拘置所に拘置されていましたが、菊池正はこの東京拘置所から脱獄してしまうのです。
母親がいじめられているとの情報
東京拘置所に拘置されていた菊池正は、兄から「お前のおかげで母親がいじめられて、たいへん苦しんでいる」という手紙を受け取ります。
母親のことが心配になった菊池は脱獄して母親に会いに行くことを決意しました。
そして、兄に協力を要請し、背表紙に金切り鋸を隠した本を差し入れしてもらい、菊池正は鉄格子を少しずつ切って、脱獄の準備をします。
同時に脱獄後に必要となる食料や縄なども、ほかの囚人の協力を得ながら準備していました。
鉄格子を切断して脱獄
いよいよ脱獄決行の1955年5月11日。夜の自由時間に、布団に寝ているように見せかけるために、布団を膨らませてから、切込みを入れていた鉄格子を折り曲げて独房を抜け出します。
そして、窓から外に出た菊池正は屋根をつたい、有刺鉄線を金切り鋸で切って、東京拘置所からの脱獄に成功したのです。
その後、東北本線に無賃乗車して宇都宮までやってきた菊池正は、あらかじめ兄と打ち合わせていた宇都宮の総合グラウンドに向かいました。
この宇都宮総合グラウンドに着いたのは、脱獄した翌日の12日早朝でした。
脱獄が発覚したのは、5月12日の午前7時の定期巡回です。看守が菊池正がいないことに気づき、非常呼集がかけられました。
菊池正の独房には、「お詫びの申し上げようもありませんが暫日の命を許して下さい。」というメモが残されていました。
ただ、菊池正が母親思いであることは看守たちの間でも有名でしたので、行先はすぐに栃木県の実家であることが判明し、警察官が実家付近に召集されました。
山狩りで逃げ回る
宇都宮の総合グラウンドに兄が現れたのは、脱獄から4日後のことでした。
兄には暗号で「脱獄したというニュースが出たら、総合グラウンドに来てくれ」と伝えていたのです。
兄と合流した菊池正は実家に向かいます。実家近くで兄が「偵察に行ってくる」と言って、菊池正を待たせて実家方面に偵察に行きましたが、戻ってくることはありませんでした。
兄は実家で待ち伏せていた警察に逮捕されたのです。
その後すぐに、菊池正の大規模な捜索が開始され、山狩りが行われることになり、菊池正は実家目前で逃げ回ることになりました。
1分だけ母と面会
ほとんど飲まず食わずで逃げ回っていた菊池正は、身なりもボロボロで、さらに途中で足にケガを負ったため、杖を突かないと歩けない状態になっていました。
そして脱獄から11日目、逮捕覚悟で実家を目指すことを決め、5月22日深夜23時ごろ、実家前で警察に逮捕されます。
菊池正は警察官に「母親に一目でいいから会わせてほしい」と懇願し、警察と報道陣が見守る中、約1分間だけ菊池正は母親と妹と再会することができました。
母親は「正、正、お前生きていたのか…」と泣き、菊池正は「おかあやん・・・」としか言葉を発することができませんでした。
兄・妹2人も逮捕
この菊池正の脱獄によって、脱獄に協力した兄は逮捕されました。また、最高裁で死刑が確定した後も、兄弟は菊池正をまた脱獄させようとしていました。
当時19歳の妹は、金切り鋸を忍ばせた石鹼を差し入れしたという罪で逮捕されています。さらに、その後の家宅捜索で当時24歳の妹も逮捕されたのです。
この菊池正の脱獄をきっかけに、兄と妹2人が逮捕されました。菊池正は母親を思って4人を殺した。そして、兄と妹は菊池正を脱獄させようとして逮捕された。母親は悲劇ですよね。
失明状態になっても旦那からは優しくされず、自分のせいで子供4人が犯罪を犯し逮捕(うち1人は死刑)となる…、「息子の愛ゆえ」と理解しつつも、やりきれないものを感じます。
栃木雑貨商一家殺害事件の犯人・菊池正はスピード死刑
栃木雑貨商一家殺害事件では、異例ともいえるスピード死刑が執行されました。
仙台拘置所で死刑執行
栃木雑貨商一家殺害事件で犯人の菊池正が脱獄して逮捕されたのは、1955年5月22日のこと。
逮捕後、すぐに最高裁での審判が始まりました。そして、最高裁で死刑判決が出たのは、脱獄逮捕の約1か月後の1955年6月28日のことです。
当時の東京拘置所には死刑設備がなかったため、判決から約5か月後の1955年11月21日に仙台拘置所に移送され、その翌日1955年11月22日に死刑が執行されました。
脱獄してから1か月後に死刑が確定し、半年後には死刑が執行されたのです。死刑執行まで数十年かかることも少なくない中、異例のスピード死刑執行と言えるでしょう。
菊池正の最期の言葉
菊池正の最期の言葉とされているのは、2つあります。
・「おかあやん、おかあやん、助けてくれよ、おかあやん・・・」
「おかあやん、おかあやん、助けてくれよ、おかあやん・・・」という言葉は、絞首台でロープを首にかけられた時につぶやいたとされています。
菊池正は、本当に母親のことが大好きで、母親思いだったことがわかります。
ただ、本当に母親思いだったら、母親の手術代のために強盗殺人はしないとは思いますが…。
栃木雑貨商一家殺害事件は菊池正の単独犯だったのか?
栃木雑貨商一家殺害事件では、本当に菊池正の単独犯だったのかという疑問がささやかれています。
・もともと被害者一家は地元の評判は悪かった
・共犯者がいたのではないか?
・母に会いたいなら面会に来てもらえば良いだけでは?
被害者から検出された精液は、血液型が違う2種類が検出されています。
のちの鑑定で「血液型が同じ」という判定がされたようですが、精液は2種類で別人のものという結果が出ていたのに、菊池正単独犯としたのは疑問が残ります。
また、実は兄と共犯で、事件の決着をつけるために脱獄したのでは?とも言われています。そうでないと、わざわざ兄が脱獄に協力するのか?という疑問が残ります。
さらに、母親に会いたくて脱獄したとされていますが、母親に会いたいなら面会に来てもらえば良かっただけのことです。
宇都宮まで東北本線が通っていたのですから、目が見えなくても誰かに付き添ってもらえば、巣鴨の東京拘置所に来ることは不可能ではありません。
本当に菊池正単独犯だったのか、栃木雑貨商一家殺害事件には疑問点がいくつかありますが、菊池正がすでに死亡していますので、真相は闇の中ですね。
栃木雑貨商一家殺害事件のまとめ
栃木雑貨商一家殺害事件の詳細や被害者について、犯人の菊池正の生い立ちや動機、判決と脱獄した理由、死刑執行などをまとめました。
菊池正の脱獄能力・運動能力を別のものに活かすことができたら、もっと違う人生になっていたはずです。