1978年に発生した「手首ラーメン事件」は、殺害されたバラバラにされた被害者の遺体がラーメンスープの出汁として煮込まれ実際に屋台で提供されていたとされる衝撃事件です。
この記事では、手首ラーメン事件の経緯や事件の場所、被害者や犯人、その真相や判決や判例などについてまとめました。
この記事の目次
手首ラーメン事件とは
「手首ラーメン事件」は、1978年に発覚したバラバラ殺人事件で、その後の捜査で殺害された被害者の手首が、犯人が経営していたラーメン屋台のスープの出汁として煮込まれていた事が判明したグロテスクな事件です。
今回はこの昭和を代表する衝撃的事件である「手首ラーメン事件」についてまとめます。
手首ラーメン事件の経緯
手首ラーメン事件を報じる昭和53年9月25日の読売新聞
1978年(昭和53年)9月25日の読売新聞夕刊が、「暴力団バラバラ殺人 手首は屋台のスープに」という衝撃的な見出しの記事を掲載しました。この記事に書かれているのが、今回紹介する「手首ラーメン事件」です。
「手首ラーメン事件」については、色々な風説が広がっていますが、今回は当時の一次資料であるこの読売新聞の記事をはじめとする当時の報道内容をもとにして書いていきます。
手首ラーメン事件の経緯
1978年7月5日、指定暴力団「住吉連合金子会」に所属する当時30歳の暴力団幹部(以下、被害者)が、東京都荒川区内の自宅マンションで殺害されました。
この事件の犯人は、当時組長代理の座をめぐって被害者と内部抗争を繰り広げていた同じく住吉連合会金子会に所属する当時29歳の暴力団幹部とその子分4人でした。
犯人らは、被害者が自宅マンションに戻ってきたところを襲撃し、登山ナイフで滅多刺しにして殺害し、犯人の暴力団幹部は、共犯の子分達に遺体の身元が割れないようにバラバラにして埋めてくるように指示しました。
子分達は、被害者の遺体が簡単に発見されないように、バラバラにした遺体を別々に、東京から遠く離れた岡山県和気郡と兵庫県赤穂郡の山中に埋めました。
しかし、手下達は片手首だけを東京に置き忘れてしまいます。(指紋による発覚を恐れて手首だけを持ち帰ったとの説があるが当時の報道ではこのように書かれている)
残された被害者の片手首の処理に困った犯人らは、自分たちがいわゆる「シノギ」として経営していたラーメン屋台のスープの鍋に、被害者の手首を入れて出汁を取る要領で煮込んでしまいました。
犯人らによって煮込まれた被害者の手首は40分ほどでトロトロに溶けてしまい、残った骨も金槌で叩いて粉々にできるほど柔らかくなっていました。犯人らは残された被害者の片手首の骨も金槌で粉々に砕いて出汁を取り終えた他の鶏ガラと一緒に捨てています。
警視庁捜査4課や所轄の警視庁赤坂署は、この住吉連合会金子組の内部抗争も当然マークしており、被害者の暴力団幹部が突然消えた事はすぐに警察の知るところになり内偵捜査が進められました。
そして、被害者が殺害されてから約2ヶ月半後の1978年9月24日、警視庁は、兵庫県警、岡山県警の協力を得て、兵庫県赤穂郡と岡山県和気郡の山中から被害者のバラバラにされた遺体を発見しました。
発見された遺体は腐乱していましたが、胴体背中部分に彫られていた天女の刺青からすぐに身元が特定されました。しかし、当然ながらラーメンスープと共に煮込まれた片手首だけはどうしても発見されなかったのです。
遺体発見から数日後、所轄の警視庁赤坂署は、被害者殺害の実行犯として、犯人の暴力団幹部とその子分4人を逮捕します。
そして、どうしても見つからない片手首の行方を追及したところ、子分の1人が「被害者の手首をラーメンのスープの出汁と一緒に煮込んだ」と供述。警察はこの供述をそのまま発表してしまったため、読売新聞をはじめとする全国紙がこの事件を大々的に報じる事になりました。
手首ラーメン事件の犯人と被害者について
「手首ラーメン事件」の犯人と被害者については、様々な情報が飛び交っています。
被害者は犯人の兄貴分だったとする説や、逆に被害者の方が弟分で、犯人は弟分のシノギが上手くいっている事を妬んで犯行に及んだとする説、さらに、犯人と被害者がラーメン屋台の縄張りを巡って争っており、それが犯行につなったとの説などもありますが、いずれも真偽がはっきりしない情報です。
また、犯人と被害者の身元についても実名などは伏せられており、2人が同じ暴力団組織に所属して幹部の座を狙って対立していた事と、当時29歳と30歳だった事以外の情報は何もわかりません。
手首ラーメン事件の犯行場所
手首ラーメン事件の犯行場所については、当時の報道によれば、被害者が殺害された場所は東京都荒川区内の被害者の自宅マンションです。
現在流れている一部の情報では、犯行場所は被害者の組事務所で、犯人らがそこを襲撃して殺害したとの説もありますが、この内容を報じた当時の記事は確認できませんでした。
また、被害者の遺体が発見された場所は、当時の報道では、岡山県和気郡と兵庫県赤穂郡の山中とされています。
さらに、被害者の手首を煮込んだラーメン屋台が歩いていた場所は次の見出しでも紹介しますが、犯人の1人の供述から「国鉄(現JR)尾久駅〜荒川土手〜国鉄西日暮里駅付近」だと発表されています。
以上がこれまでに判明している「手首ラーメン事件」に関する場所の情報です。
手首ラーメン事件の真相発覚で警察への問い合わせが殺到
犯人の1人の供述によると、被害者の手首をスープと煮込んだラーメン屋台は、犯行翌日の7月6日の17時から、翌日の深夜2時にかけて、国鉄(現JR)尾久駅から、荒川土手、国鉄西日暮里駅付近の場所を約9時間歩いていたという事でした。
警視庁赤坂署は、犯人のこの自供内容など真相の全てを包み隠さずに発表してしまったため、その日にその場所で屋台のラーメンを食べた人々から、警察に問い合わせが殺到する事態となってしまいます。
所轄の警視庁赤坂警察署はこの市民のパニックを受けて、警視庁赤坂署は弁明のように「犯人の自供によると、当日はチャルメラも吹いておらず、客が来てもネタがないと言って断っていたため、この日はラーメンは一杯も売っていない」と発表します。
しかしここで、共同捜査をしていた、暴力団事件を担当する警視庁捜査4課が、この犯人の自供による赤坂署の発表に異議を唱えます。警視庁捜査4課は「午後5時から翌日の深夜2時まで、9時間も屋台を引いておきながら、ラーメンが一杯も売れなかったなどという自供は信じ難い」との見解を示したのです。
この見解も当然で、そもそも遺体を処理する事だけが目的であればどこか別の場所で手首を煮込むなり焼くなりして処分すればよく、わざわざラーメンのスープの出汁として煮込んで屋台を引く必要性は全くありません。
しかし、この正直すぎる発表を受けて、今度はラーメン屋台の業界が大打撃を受けてしまいます。当時の「週刊サンケイ(現在のSPA!)」(1978年46号)の記事によると、「手首ラーメン事件」が新聞に掲載された月の東京都内のラーメン屋台の売り上げは全体で7割も減少し、廃業に追い込まれたラーメン屋台も少なくないという事でした。
そのため今度は、捜査4課に対してラーメン屋台業者からの抗議が殺到。そうした声に配慮してか、1978年10月に犯人らを起訴する際に東京地検は「手首ラーメンは売られていない」という公式見解を発表しています。
手首ラーメン事件の判決や判例
手首ラーメン事件の犯人らに対する判決は1979年9月26日に東京地裁で下され、主犯の暴力団幹部に懲役17年、共犯の子分4人にそれぞれ懲役8から12年の判決が下されています。
手首ラーメン事件の都市伝説とその真相
ここまでは、「手首ラーメン事件」の発生当時の報道などをもとに書いてきましたが、現在伝えられている「手首ラーメン事件」の内容には、当時の1次報道とかけ離れたものが多く、それが事件の真相をわかりづらくしています。
それには、その衝撃的な内容から、この事件をもとにした都市伝説が多数生まれている事も関係しているようです。
「手首ラーメン」の都市伝説として代表的なものは、ある暴力団員が抗争中に敵対する暴力団員の手首を日本刀で切り落とし、その手首を持ち帰って経営していたラーメン屋でのスープ出汁にした。そのままそのスープでラーメンを提供したところ、美味しいと評判になった。しかし、スープの中から溶け残った爪が見つかり、客が騒いだ事がきっかけになって事件が発覚したというものです。
この都市伝説はかなり有名で、かなり細部まで作り込まれた派生型が数多く存在します。
こうした細部まで作り込まれた都市伝説が複雑に混ざり、「手首ラーメン事件」の様々な真相が生まれてしまったとも考えられそうです。
まとめ
今回は、1978年に発生した衝撃事件「手首ラーメン事件」についてまとめてみました。
手首ラーメン事件は、ある暴力団組員が、同じ暴力団に所属する暴力団組員を幹部の座を争って殺害し、遺体をバラバラにして埋めた事件でしたが、遺体の手首を自身が経営するラーメン屋台のスープの出汁として煮込んでいた事が判明し社会に衝撃を与えた事件です。
実際にそのラーメン屋台が、手首を出汁にしたスープを乗せたまま営業していた事なども報じられ、一時は警察に問い合わせが殺到するパニックを起こしました。
この事件は現在も人々の記憶に残っており、その衝撃的な内容から様々な都市伝説も生まれて語り継がれています。