「神戸高塚高校校門圧死事件」は、教師により女子生徒が門扉に頭部を挟まれ「脳挫滅」で死亡するという悲惨な事件です。
今回は「神戸高塚高校校門圧死事件」の概要を振り返り、犯人の教師・細井敏彦についてや被害者の女子生徒について、 事件後の現在についてなどをまとめました。
この記事の目次
「神戸高塚高校校門圧死事件」とは
「神戸高塚高校校門圧死事件」とは、1990年7月6日に、兵庫県神戸市西区にある「兵庫県立神戸高塚高等学校」で発生した、教師が業務上過失致死によって生徒を死亡させた事件です。
「神戸高塚高校校門圧死事件」の発生
当時、「兵庫県立神戸高塚高等学校」は、管理教育や生徒の規律指導に力を入れており、毎朝校門前で3人の教師が立ち、遅刻してくる生徒達の指導にあたっていました。
当時39歳だった男性教師・細井敏彦は、一学期期末考査の初日だったその日、この校門指導の当番で校門に立っていました。
圧死事件発生の直前、細井敏彦は、時計を見て閉門時間(午前8時30分)を確認しながら、ハンドマイクを使い「4秒前、3秒前…」などとカウントダウンを開始し、始業のチャイムと共に校門を閉め始めました。
この校門は、高さが1.5メートルの鉄製のスライド式門扉で、重さは約230キログラムとかなり重量があり、細井敏彦は身を屈めるようにして俯き加減で、一気に校門をスライドさせて勢いよく閉めています。
その瞬間、当時15歳の女子生徒・石田遼子さんが、頭から校門の中に突っ込むような姿勢で入ろうとし、門扉と門柱の間に頭部を挟まれるような形になり、そのまま頭蓋骨を押し潰されるような形になりました。
この時、細井敏彦ら3人の教師はこの事態に気がついておらず、他の遅刻した生徒への指導を行おうとしています。しかし、後続していた生徒がこの事態に気がついて門扉を押し開け、「先生血ぃ出とる!」と叫んだ事で教師らは事故が起きた事を認識しました。
石田遼子さんは、門扉に平行する姿勢で門外に仰向けに倒れ、口と耳からおびただしい量の出血をしており、教師が呼びかけても「ハァハァ」と苦しそうに反応するだけだったそうです。
教師らはすぐに救急車を呼び、石田遼子さんは、神戸国立病院へと緊急搬送されましたが、午前10時25分頃、病院で死亡が確認されました。死因は頭蓋底粉砕骨折による「脳挫滅」と診断されています。
マスコミが教師や学校側を猛批判
「神戸高塚高校校門圧死事件」の発生に社会は騒然となり、テレビ局や新聞を中心とするマスコミは、連日この事件を報じました。
報道のほとんどが、門扉を閉めた教師が「安全確認を怠った事が原因で起きた」「門扉を頭を押しつぶすほどの速度で閉める危険性を認識していなかったのか?」などといった、教師や学校側を批判する内容でした。
事実、7月21日に行われた兵庫県警による実況見分によれば、門扉はヘルメットが割れるほどの速度で勢いよく閉められていた事が発覚しており、230キロにも及ぶ門扉を、前方を確認する事もなく、それほどの速度で勢いよく閉めるという行為は、常識的に考えて危険極まりないとして批判を集めました。
また、実際に門を閉めた犯人の教師・細井敏彦以外の教師が遅刻指導の当番として校門に立った際には、生徒が数分程度遅れただけの場合はオマケして入れてやる者が多かった事も発覚、星井敏彦が特に時間厳守を訴え、時間通りに絶対に門扉を閉める事に固執していた事などもわかり、さらなるマスコミからの批判を集める事になりました。
「神戸高塚高校校門圧死事件」の事件後の処分など
「神戸高塚高校校門圧死事件」の犯人・細井敏彦は、1990年7月26日付けで、兵庫県教育委員会から懲戒免職処分を受けて教員免許を剥奪されています。
この懲戒免職処分に対して、細井は当初不服申し立てを行なっていますが、その後の裁判で細井の有罪判決が確定した事で「教育職員免許法」に基づいて、細井の教員免許は無くなり、この不服申し立ての審理も中止されています。
1990年11月16日、学校側は安全管理の過失を認め、被害者遺族に対し、兵庫県から6000万円の損害賠償金が支払われています。
「業務上過失致死」の容疑で起訴された細井敏彦の裁判は、1990年11月26日に神戸地方裁判所で開かれました。細井敏彦は、「学校管理者および、兵庫県教育委員会が責任に問われるべき」「自分は指示通りに職務を遂行したのみ」などと一貫して無罪を主張しました。
1993年2月10日、神戸地裁は、細井敏彦の「業務上過失致死罪」を認定し、禁錮1年、執行猶予3年の有罪判決を言い渡しています。これに対して細井は「裁判には不服だが、自分自身や被害者遺族への負担を考えて控訴しない判断をした」として、判決が確定しています。
「神戸高塚高校校門圧死事件」の被害者生徒は石田遼子
「神戸高塚高校校門圧死事件」の被害者は、当時15歳の高校1年生だった石田遼子さんという女子生徒でした。
この被害者・石田遼子さんは、遅刻の常習犯だったというわけではなく、その日が初めての遅刻だったという事で、期末試験の日だったという事もあって、遅れたくないという一心で思わず校門に飛び込もうとしてしまったのかも知れません。
この石田遼子さんについての詳しい情報については不明です。
事件後、石田遼子さんの自宅には「遅刻する方が悪い」「自業自得だ」などといった、人間とも思えない非道な手紙や電話が届いたという情報も出ています。
「神戸高塚高校校門圧死事件」の犯人は教師・細井敏彦
「神戸高塚高校校門圧死事件」の犯人の教師は、細井敏彦という事件当時39歳になる男性でした。
細井敏彦は1951年、兵庫県出石郡出石町の生まれで、事件当時教師歴15年の中堅教師でした。1976年頃から教師として勤務し、事件の発生した「神戸高塚高等学校」は3校目の赴任校で、した。
細井敏彦の担当教科は「日本史」で、事件当時は3学年の副主任として、3学年の風紀指導の中心的役割を担っていたという事です。また、野球部の監督も務めていました。
また、細井敏彦は「神戸高塚高等学校」に赴任する前に「兵庫県立松陽高等学校」で野球部の顧問をしており、その時に野球部員に暴行を働いて傷害事件を起こしており、罰金5万円の略式命令を受けています。
細井敏彦の手記や書籍は、現在も批判を集めている
細井敏彦は、「文藝春秋」の1992年4月号で「忍従と悔恨の七〇〇日」というタイトルで事故に関する手記を発表している、この手記の内容は本人曰く「マスコミによって『極悪人』のごときレッテルを貼られた自らへの弁明」および「歪んだマスコミ報道への批判」が中心でした。
また、細井敏彦は、1993年には「校門の時計だけが知っている」という書籍も発表していますが、その内容は、自己弁護、言い訳に終始しているとして現在でも批判を集めています。
また、この「校門の時計だけが知っている」は、第1章で事件の顛末について触れた後、第2章、第3章では生徒への指導についてや、現在の高校の実態などについて書かれており、学校がいかに酷く荒れているか、自分以外の教師がいかにダメな教師が多いか、底辺の学校で生徒を指導するには厳しくあたる必要があるといった、自分以外を批判し、自己を正当化する事にかなりの文字数が割かれています。
概ね、細井敏彦のこの本での主張は「自分は規則に従っただけ」「規則に従うのは正義である」といった事にまとめられるかと思います。
こうした書籍の内容からも、この犯人の教師・細井敏彦は本心では自分を悪いと思っていないのではないか?といった批判につながっています。
細井敏彦は、本の中で幾度となく、被害者の生徒・石田遼子さんの冥福を祈ったり、その両親に対して謝罪の言葉を綴ったりしているものの、それ以外の部分では自己弁護や、警察、マスコミ、教育現場、底辺高校に通う生徒達への批判に終始しています。この内容では、本当の意味での反省が無いのではないかと批判を受けるのも無理はないでしょう。
「神戸高塚高校校門圧死事件」の学校側の責任は?
「神戸高塚高校校門圧死事件」発生した「兵庫県立神戸高塚高等学校」は当時、学力レベルの低い新設校であり、学力以外の面で学校の特色をアピールしようと「管理教育」に力を入れていました。
これに対しても、マスコミや著名人の間で、「神戸高塚高校」の行なっていた厳しい学生指導に対する批判から、「管理教育」は生徒の人権や自由を奪う悪しき教育であるという声へとつながり、当時一定の支持を得ていた「管理教育」が否定される動きへとつながっていきました。
しかし、実際に「神戸高塚高校校門圧死事件」で学校側が取った対応は、校門を閉めた細井敏彦1人にほとんどの責任を押し付け、同じ場所にいた他の教師2人はお咎めなし、当時の校長に戒告、教頭と教育長には訓告、教育次長2名に対しては厳重注意という、1人の命が奪われた事件としては軽い印象を受けるものでした。
マスコミは盛んに、学校側の対応や教育方針に対して批判的な報道を行いましたが、学校側は、事件に関する全体保護者会の録音テープの処分や、警察の現場検証前に現場の結婚を洗い流す、事件のあった門扉を撤去して溶解するなど、証拠隠滅を図っているとしか思われない行動を取っています。
「神戸高塚高校校門圧死事件」のその後
「神戸高塚高校校門圧死事件」の後、厳しすぎる校則や生徒指導、管理教育の是非などが、盛んに議論されるようになり、それまでの体罰的な学校教育や、高圧的な教師への批判も高まりました。
また、兵庫県議会では、社会党の議員団が門扉を閉める校門指導の廃止」「処罰中心の校則の見直し」「教職員の相互批判が行われやすい体制の確立」などを県議会に求める動きも出ました。
また、犯人の教師・細井敏彦は、教師を懲戒免職になった後、警備員や土木作業員、塾講師、居酒屋店員など様々な職を転々としていたようです。本人が自著の中で語るところによれば、ニュース報道などで自分の顔が報道される度に退職を余儀なくされたという事でした。
「神戸高塚高校校門圧死事件」の現在
「神戸高塚高校校門圧死事件」から2020年7月で30年が経過します。毎年、事件の発生した7月6日には、事件現場の校門の前で、市民団体や卒業生、地域住民らが、被害者の石田遼子さんを追悼する集会が行われています。
2019年7月6日にも集会が開かれ、約30人が集まりました。参加した当時生徒だったという女性がコメントを残されています。
当時、同校2年生だった同市垂水区の女性(45)は、女子生徒と面識はなかったが、あの朝、校舎入り口にいて悲鳴を聞いた。「親になり、子どもの命を突然失う怖さを感じることがある」と話す。
事件は、従来の管理教育を見直すきっかけになったとされるが、「今も全国で管理教育やいじめの問題は起きている」とも述べた。
まとめ
今回は、教師の細井敏彦が、生徒・石田遼子さんを校門の門扉で圧殺した「神戸高塚高校校門圧死事件」についてまとめてみました。
兵庫県神戸市の高校「神戸高塚高等学校」の、期末試験初日の朝に発生したこの事件は、「管理教育」に力を入れ校門前で遅刻指導にあたっていた教師が、始業のチャイムと同時に勢いよく230キログラムにもなる門扉を勢いよく閉めた事で、登校してきた当時15歳の女子生徒・石田遼子さんが門扉と門柱に頭を挟まれ、「脳挫滅」で死亡した痛ましい事件です。
門扉を閉めた教師・細井敏彦は、被害者・石田遼子さんやその遺族の痛みを忘れて、有罪が確定した後も自分は悪くないとでも言いたげな傲慢な態度を取り続け、マスコミや教育委委員会、生徒らを批判し自己弁護に終始する本まで出版しました。
この犯人・細井敏彦に対する批判は現在でも根強く残っています。
今後、こうした悲惨な事件が2度と起こらぬよう、「神戸高塚高校校門圧死事件」で起きた事実を風化させないよう語り継いでいきましょう。