「熊谷男女4人殺傷事件」で死刑判決の尾形英紀の鬼畜ぶりが話題です。
この記事では尾形英紀の生い立ちや結婚し家族を持っていた事、鈴木秀明さんら被害者4人、裁判での死刑判決と最期の言葉、もう1人の犯人で当時16歳の少女だった吉村カオリの現在についてまとめました。
この記事の目次
尾形英紀は「熊谷男女4人殺傷事件」の犯人
尾形英紀(事件当時26)は、2003年8月18日に埼玉県熊谷市で発生した「熊谷男女4人殺傷事件」の犯人で、死刑判決を受け既に死刑が執行されている男です。
尾形英紀は、交際相手の少女・吉村カオリ(仮名。事件当時16歳。尾形は結婚しており不倫関係)が以前から交際していた(家出した吉村カオリが頻繁に自宅に転がり込んでいた)鈴木秀明さん(事件当時28歳)を殺害した後、鈴木秀明さんの同僚女性3人を拉致し、うち1人を殺害、2人に重傷を負わせました。
熊谷男女4人殺傷事件の経緯① 事件の発端は犯人・吉村カオリの二股交際
尾形英紀と共に「熊谷男女4人殺傷事件」を起こしたもう1人の犯人である事件当時16歳の少女・吉村カオリ(仮名)は、2003年当時、高校にも通っておらず無職で、埼玉県大里郡寄居町の実家を家出して熊谷市内の友人宅を泊まり歩く生活を送っていました。
2003年6月、吉村カオリは、熊谷駅周辺で自分が勤める飲食店の従業員を勧誘していた鈴木秀明さん(事件被害者)に声をかけられ、6月下旬頃から熊谷市箱田7丁目の鈴木秀明さんの自宅アパート「グリーンハイツ箱田202号室」(鈴木さんの職場が寮として借り上げていた)に転がり込むようになりました。
吉村カオリは裁判では、鈴木秀明さんとの間には肉体関係はなく交際もしていなかったと供述していますが、鈴木秀明さんは周囲に「最近彼女ができた」と周囲に語るなど、吉村カオリと交際しているという認識を持っていた可能性があります。
鈴木秀明さんの部屋に転がり込んで約2週間後の7月10日、吉村カオリは熊谷駅周辺で尾形英紀にナンパされてその日のうちに肉体関係を持ち交際を始めました。
熊谷男女4人殺傷事件の経緯② 尾形英紀が鈴木秀明さんを恫喝
吉村カオリは尾形英紀と交際を始めた後も鈴木秀明さんの自宅に寝泊まりしていましたが、外出中に心配した鈴木秀明さんから頻繁に電話がかかってくるのを疎ましく思い、尾形英紀に「彼氏でもないのに部屋にいないとすぐに電話をかけてくる、今どこだとか誰といるんだとかしつこく聞いてくる、私を自分の彼女だと思っているみたいでウザくていキモい」などと話しています。
尾形英紀はそれに腹を立てて、7月末頃に鈴木秀明さんのところへ赴き「カオリは俺の女なんだよ、手を出すんじゃねぇ」などと怒鳴りつけて恫喝しています。この際に吉村カオリは鈴木秀明さんから預かっていた部屋の鍵を返却しています。
熊谷男女4人殺傷事件の経緯③ カオリが鈴木さんに身体を触られたなどと訴える
しかし、吉村カオリは程なくして再び鈴木秀明さんと連絡を取り、鈴木秀明さんの不在中に部屋を使わせてもらうようになります。
そのすぐ後の2003年8月18日、尾形英紀とその知人の少年(当時15歳)と食事をしていた吉村カオリは、8月16日、鈴木秀明さんの部屋で寝ていると、鈴木秀明さんに「無理やり押さえつけられて、服を脱がされそうになって、やられそうになった」などと訴えました。(事実かどうかは不明)
これを聞いた尾形英紀は「あれだけ言ったのに人の女に手を出しやがって」などと激昂し、「今から奴んとこ行ってやっちゃうべ」などと殺害を仄めかすと、吉村カオリも「そうだよ、やっちゃって。やっちゃってよ。やっちゃえ、やっちゃえ」などと殺害を煽り立てたようです。(本人は裁判でやっちゃえとは言っていないと否定)
熊谷男女4人殺傷事件の経緯④ 尾形英紀が包丁で鈴木秀明さんを殺害
そして、尾形英紀と吉村カオリ、当時15歳少年の3人は尾形英紀の車で鈴木秀明さんの自宅アパートへと押しかけました。途中、尾形英紀は経営するゲーム喫茶に立ち寄って包丁を持ち出しています。
尾形英紀らが押しかけた時、鈴木秀明さんは自室の202号室にはおらず、勤務する飲食店の同僚の女性・山崎恵美加さん(事件当時25歳)の205号室にいました。(破れたスーツのズボンを繕ってもらっていた)
尾形英紀らは205号室にいた鈴木秀明さんを見つけ、一緒にいた山崎恵美加さんも一緒に202号室へと連れ戻しました。
尾形英紀は「お前、俺の女とやろうとしただろう。やくざをなめてんのか」などと怒鳴りながら鈴木秀明さんを暴行。鈴木秀明は謝罪しながら吉村カオリを襲おうとした事を否定しますが、尾形英紀はさらに激昂し、鈴木秀明さんの背中を包丁で何度も突き刺しました。
尾形英紀はさらに、倒れ込んで苦しむ鈴木秀明さん腹部を数回刺し、腹部から出た臓器を包丁で弄びながら「こいつ、腸出てるよ」などと言い、「早く死ね。くたばれ」などと言いながらさらに包丁で突き刺し、鈴木秀明さんの頸部を踏みつけるなどしました。
熊谷男女4人殺傷事件の経緯⑤ 居合わせた無関係の女性3人を拉致し殺傷
ちょうどこの惨劇が起きているタイミングで、鈴木秀明さんの勤務先の飲食店のマネージャーが、出勤してこない鈴木秀明さんに連絡がつかない事から、同じアパートの106号室(飲食店が寮として借り上げていた)に住む従業員の官藤藍さん(事件当時21歳)に様子を見てくるように電話をかけています。
官藤藍さんは202号室に様子を見に行ったところ、尾形英紀らと鉢合わせて監禁され、さらに尾形英紀らは証拠隠滅のために官藤藍さんの携帯電話を奪おうと106号に入ったところ、偶然部屋にいた友人の田村由香さん(事件当時19歳)と鉢合わせてこちらも拘束しました。
尾形英紀らは殺人現場を見られたという理由で、3人を拉致し、山崎恵美加さんと田村由香さんを後部座席に乗せ、官藤藍さんをトランクに入れて閉じ込めて車を秩父市方面へ走らせました。
その後、尾形英紀は田村由香さんを秩父市黒谷の美の山公園駐車場で降ろすと、尾形英紀は女子トイレに連れ込んで性的な暴行を加え、タオルで首を絞めた上、殴る蹴るの暴行を加えました。
尾形英紀はさらに、田村由香さんの背中を包丁で刺そうとするも便器にあたってうまくいかず、踏みつけたところ動かなかったため、既に死亡したと思いそのまま放置しています。
尾形英紀が車に戻ると、車内で見張りをしていた吉村カオリが「トランクから携帯電話の着信音が聞こえた」と行ったため、尾形英紀がトランクを開けると、暑さでぐったりした官藤藍さんが「全部私のせいにしていいから許して。チーフ(鈴木秀明さん)をやったのも私のせいにしていいから」と必死に訴えました。
それに対し尾形英紀は「うるせえ」などと言って官藤藍さんを暴行し、「後ろの奴うるさいから、後ろの奴から始末するか」などと言い出し、美の山公園近くの道路脇で官藤藍さんを車外に降ろし、首を絞めた上、右背部を3回刺して殺害し遺体を道路脇の崖に遺棄しました。
さらに、尾形英紀は1人残った山崎恵美加さんに、「手足を縛って口にアロンアルフアをつけてマンホールに入れて、次の日の朝迎えに行って生きていたら、見逃してやる」などと言って、熊谷市内に戻った後、山崎恵美加さんを大麻生の国道140号線沿いの建築解体会社の資材置場で降ろしました。
尾形英紀は山崎恵美加さんの両手足をビニール紐で縛り、唇と鼻の穴にアロンアルファを塗りますが窒息させられなかっためビニール紐で首を絞め、包丁で胸などを突き刺しました。尾形英紀はこのまま放置すれば死亡するだろうなどと考えて、山崎恵美加さんを放置して現場を立ち去りました。
熊谷男女4人殺傷事件の経緯⑥ 被害者らが発見され犯人達は逮捕
その日の16時45分、美の山公園に血だらけで倒れていた田村由香さんが通報人に発見され、病院に搬送されました。田村由香さんの証言により、18時25分頃にグリーンハイツ箱田202号室で死亡している鈴木秀明さんが見つかり事件が発覚しました。
20時50分頃には、山崎恵美加さんも見つかって救助され一時は意識不明となるも治療により回復しています。
翌8月19日の午前6時5分には、通行人により官藤藍さんの遺体も見つかっています。
生存した被害者2人の証言により、尾形英紀は8月21日に逮捕され、22日に事件発生時に一緒にいた15歳の少年、23日に吉村カオリも逮捕されました。
尾形英紀の生い立ちと熊谷男女4人殺傷事件を起こすまでの経歴
尾形英紀の生い立ちや熊谷男女4人殺傷事件を起こすまでの経歴については裁判で若干の情報が明らかにされています。
尾形英紀の生い立ち
裁判記録によると、尾形英紀は1977年7月に熊谷市内のサラリーマン家庭に生まれています。
小学生時代の尾形英紀は運動が得意なごく普通の少年で、中学進学後には軟式テニス部に所属してキャプテンも務め、県大会で入賞した事もあったようです。
一方で中学2年生の時にシンナーや煙草を吸うようになり中学3年生の時にバタフライナイフで同級生の胸や背中を刺す傷害事件を起こし、その後、友人と強盗致傷事件を起こして中等少年院に送られ、退院後すぐにまたしても傷害・恐喝事件を起こして再度中等少年院送りになっています。
その後、尾形英紀は高校には進学したものの暴力団関係者と交友を持って稲川会系の暴力団事務所に出入りするようになり、2年生の時に退学しています。
尾形英紀の経歴…傷害や恐喝などで逮捕され実刑判決も受けている
その後、尾形英紀は再び2度少年院送りになった後、稲川会系の暴力団の幹部組員となり、1997年5月に飲酒して通行人に暴行を加えて傷害を負わせた上被害者に金銭を要求し、傷害、暴行、恐喝未遂で逮捕され、裁判で懲役1年6ヶ月保護観察付き執行猶予5年の有罪判決を言い渡されています。
その執行猶予期間中の2000年11月、尾形英紀はまたも飲酒の上、通行人に因縁をつけて暴行し傷害を負わせる傷害事件を起こし、懲役6ヶ月の実刑判決を受けています。
そして、尾形英紀は2002年10月に川越少年刑務所を出所し、それから1年を待たずして2003年8月18日に熊谷男女4人殺傷事件を起こしました。
尾形英紀の家族…結婚していて妻と娘がおり両親とも同居していた
尾形英紀の家族についてですが、結婚していて妻と子供がいました。
裁判記録によると尾形英紀は1998年2月に、前年に起こした傷害事件で執行猶予判決を受け、その年の6月に結婚して娘が生まれています。
尾形英紀は結婚後は暴力団を脱退して、妻と娘、そして両親と一緒に暮らすようになり、2000年7月に保護観察の仮解除決定を受けています。
しかし、生い立ちと経歴のところでも触れたように尾形英紀はまたしても傷害事件を起こして執行猶予を取り消されて懲役6ヶ月の実刑判決を受けており、家族との関係や結婚生活は破綻したと見られます。
事件当時の尾形英紀についてですが、近隣住民からは「よきパパという印象」との証言が出ています。ただ、これも、実刑判決を受ける前の印象だったのかもしれません。
犯行当時、市内の戸建てに両親と妻、長女と暮らしていた。妻は第2子を妊娠していた。近所の話。
「お子さんとよく遊んでいました。よきパパという印象でしたがね……」
いずれにせよ、尾形英紀は結婚して妻と子供がいるにも関わらず、吉村カオリと不倫関係になり4人を殺傷する事件を起こしたという事だけは確かです。
尾形英紀が起こした熊谷男女4人殺傷事件の被害者は鈴木秀明さんと女性3人
尾形英紀と吉村カオリが起こした熊谷男女4人殺傷事件の被害者は、吉村カオリとの関係によって殺害された鈴木秀明さん(事件当時28歳)と、事件に巻き込まれた女性3人です。
3人の女性被害者ですが、殺害されたのが官藤藍さん(事件当時21歳)、傷害を負わされたのが田村由香さん(事件当時19歳)と山崎恵美加さん(事件当時25歳)でした。
被害者女性3人については事件当時の新聞で実名で報道されています。(毎日、朝日、読売など大手新聞は全て被害者を実名で報道)ただ、さすがに被害者の顔写真までは公開していません。(その程度のコンプライアンス意識は当時もあった、ただし、一部写真週刊誌は被害者の顔写真を公開)
尾形英紀の現在…裁判で死刑判決を受け2010年に執行
出典:https://matome.eternalcollegest.com/
尾形英紀は、鈴木秀明さんら男女4人に対する殺人や傷害などで起訴され裁判を受けました。
さいたま地裁での一審裁判では、尾形英紀は「最初から殺意を持っていたわけではない」と主張し、弁護側は「シンナーによる幻覚が事件当時の行動に影響を与えた」などと主張して尾形英紀の精神鑑定を要求するなどして死刑回避を求めました。
しかし2007年4月26日、さいたま地裁は尾形英紀に対して求刑通り死刑の判決を言い渡しています。
尾形英紀の弁護側は判決を不服として控訴しましたが、その後、尾形英紀が自ら控訴を取り下げ、2007年7月18日死刑判決が確定しています。
死刑判決確定から3年後の2010年7月28日、尾形英紀の死刑は執行されています。年齢は33歳でした。
法務省は28日、死刑囚2人の刑を執行したと発表した。死刑執行は昨年7月28日以来、1年ぶりで、民主党政権では初めて。就任以来、死刑執行に明確な意思表示をしてこなかった千葉景子法相だが、参院選で落選し民間大臣となってから執行を迎える特異なケースとなった。執行されたのは篠沢一男死刑囚(59)=東京拘置所、尾形英紀死刑囚(33)=同。いずれも2007年に死刑が確定していた。
尾形英紀の死刑執行前の最期の言葉は「死刑になるから反省するのをやめた」
尾形英紀はすでに死刑が執行されて死亡しています。
死刑執行前に語られた尾形英紀の最期の言葉ですが、死刑執行直前の最期の言葉という意味では伝わっておらず不明です。
ただ、尾形英紀は死刑判決確定後に「死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム」のアンケートに答え、以下のような身勝手な主張をしていました。
・人は未来があるからこそ反省する。死刑というのは反省する必要はない、死ねという意味だと思う。
・自分は死刑判決を受け入れるかわりに反省をやめた。遺族や被害者のことを考えることもやめた。
・国が死刑という殺人を容認しているのに、個人が人を殺すと咎められるのは矛盾している。
・死刑をするのならば裁判に関わった検事、裁判官、法務大臣らが自ら刑を執行するべき。それが奴らの責任というもの。
・死刑は廃止するべきだ。
以上から、尾形英紀の最期の言葉は「死刑になるのだから反省するのやめた」だったとされています。
尾形英紀と熊谷男女4人殺傷事件を起こした少女・吉村カオリの裁判と判決
熊谷男女4人殺傷事件の根本的な原因を作ったのは、もう1人の犯人であり当時16歳の少女である吉村カオリ(仮名)の身勝手な言動でした。
吉村カオリは未成年だっため、一時はさいたま家庭裁判所に送致されましたが、さいたま地裁に逆送され殺人幇助と殺人未遂幇助で起訴されて裁判を受けています。
吉村カオリは起訴事実の大半を否認するなど、裁判でも身勝手な言動を繰り返しました。
最終的には2004年11月18日、さいたま地裁は求刑通りの懲役5年〜10年の不定期刑を言い渡し、この判決が確定しています。
なお、事件に関わった当時15歳の少年は、同容疑でさいたま家裁熊谷支部に送致され、中等少年院送致長期の保護処分が決定しています。
尾形英紀と熊谷男女4人殺傷事件を起こした吉村カオリのその後と現在
尾形英樹と共に「熊谷男女4人殺傷事件」を起こした少女・吉村カオリですが、現在の情報はありません。
吉村カオリは最大で懲役10年の不定期刑なので遅くとも2014年頃までには釈放されていて、現在はすでに社会に出てきているはずです。
2015年に発表された「
」では、熊谷男女4人殺傷事件について書かれています。
これに吉村カオリの実母が取材に応じていて、現在の吉村カオリについて「A(吉村カオリ)は尾形英紀の死刑執行をテレビで知った。娘(吉村カオリ)は資格をとって頑張っている」との内容を明かしています。
「Aは尾形の執行をテレビで知ったそうです。娘は資格を取って頑張っています」(実母)
小林俊之「 」より
その他、現在の吉村カオリについて匿名掲示板に「カワダマミコという名前に改名し、キャバクラで働いているが、現在は結婚している」という内容の書き込みがありました。ただ、匿名の書き込みで証拠は示されておらず真偽不明の情報です。
まとめ
今回は、2003年8月18日に埼玉県熊谷市で発生した「熊谷男女4人殺傷事件」の犯人で死刑判決を受けた尾形英紀についてまとめてみました。
尾形英紀の生い立ちについては、小学生時代は運動が得意な普通の少年だったものの中学進学後にタバコやシンナーを吸うなどぐれ始め、ナイフで同級生を刺す傷害事件を起こし、金属バットで強盗致傷や傷害・恐喝事件で2度の少年院送りになっています。高校進学後は暴力団事務所に出入りするようになり高校2年で中退。
そのまま暴力団に所属した尾形英紀は、傷害、暴行、恐喝未遂で1997年に逮捕されて執行猶予判決を受けました。その後、結婚して娘が生まれて自分の家族ができると一時的に落ち着きますが、2000年11月にまたしても傷害事件を起こして執行猶予が取り消され懲役6年の実刑判決を受けて服役しています。その出所後、程なくして起こしたのが「熊谷男女4人殺傷事件」でした。
熊谷男女4人殺傷事件の被害者は当時28歳の鈴木秀明さんとその同僚の女性ら3人で、鈴木秀明さんは尾形英紀が交際していた吉村カオリと関わった事により、女性3人は偶然事件の時に居合わせたために巻き込まれ、鈴木秀明さんと女性1人が殺害され、他の女性2人も重傷を負わされました。
裁判では、尾形英紀には死刑判決が確定、もう1人の犯人である当時16歳の少女・吉村カオリも逆送の上裁判で裁かれ懲役5年〜10年の不定期刑の判決が確定しました。
尾形英紀の死刑は2010年に執行されました。尾形英紀の最期の言葉は「死刑になるのだから反省するのやめた」という身勝手なものでした。