関光彦の生い立ちと父親・母親・弟~市川一家の長女の現在や最後の言葉も総まとめ

1992年3月5日に起きた凶悪事件「市川一家4人殺人事件」の犯人・関光彦は、当時19歳の未成年でしたが、2017年12月19日に死刑が執行されています。

 

今回、関光彦の生い立ちや父親・母親・弟などの家族関係、死刑執行前の最後の言葉、さらに事件の唯一の生き残りである長女の現在についてまとめました。

 

関光彦のプロフィール

 

出典:https://twitter.com/

プロフィール

 

名前:関 光彦(せき てるひこ)

生年月日:1973年1月30日(事件当時19歳)

死刑執行:2017年12月19日

 

 

2017年12月19日に死刑執行された関光彦

 

出典:https://endia.net/

 

関光彦死刑囚は、当時の上川陽子法務大臣の死刑執行命令に基づいて、2017年12月19日、収監先の東京拘置所で死刑が執行されました。享年44歳でした。

 

 

 

関光彦「市川一家4人殺人事件」の概要~一家を惨殺も長女だけ生き残る

 

事件はフィリピンパブで働くホステスの監禁から始まった・・・

 

出典:https://philippine-pub.com/

 

1992年2月6日、関光彦死刑囚は市川市内のフィリピンパブで働く二人のフィリピン人ホステスを、店に無断で自宅アパートに連れ込み、そのまま二日間監禁しました。

 

その際、フィリピン人女性と性的関係を持った他、女性に対して暴行などを行い負傷させています。

 

二日後に解放された女性は、2月8日に店に戻り、関光彦死刑囚に暴行を受けたことなどを店の関係者に訴えました。激怒した暴力団は関光彦死刑囚に対して“落とし前”として200万円を要求しました。

 

その名目は、関光彦死刑囚が暴行したフィリピン人女性が、在留期間よりも早く帰国した場合、店が被る損害が200万円になるというものだったようです。

 

女性に対しては暴力的だった関光彦死刑囚ですが、暴力団関係者に対しては、情け無いとも言えるほど弱々しく無抵抗な姿を見せていたと言われています。

 

 

「市川一家殺人事件」のキッカケとなった長女を拉致

 

出典:http://rinrin-bike.com/

 

「市川一家殺人事件」のキッカケとなった少女で、事件の唯一の生き残りとなった長女を関光彦死刑囚が初めに目をつけたのは、それから数日後の1992年2月12日の午前2時頃のことでした。

 

当時、県立高校に通っていた15歳の長女は、深夜まで試験勉強をしていたのですが、途中でシャープペンシルの芯が無くなったことに気付き、近くのコンビニへ自転車で向かいました。

 

そしてコンビニから帰る途中の路上で長女を見つけた関光彦死刑囚は、自転車の後ろから、乗っていた愛車クラウンの左前部を衝突さたのです。

 

長女は自転車ごと路上に転倒し、右膝に擦り傷を負いました。車から降りた関光彦死刑囚は、負傷した長女に対して「病院に連れて行く」と優しく声をかけた上で、長女を乗せて浦安市内の救急病院へ連れて行き治療を受けさせました。

 

そして、自宅まで車で送り届ける途中、関光彦死刑囚は「このまま返してはもったいない、強姦してやろう」と思いつき、人気のない路肩に車を停めるや、刃渡り6.7cmの折りたたみ式ナイフを長女に突きつけ、自宅アパートに連れ帰り拉致。

 

午前3時ごろから6時までの間に、2度に渡って強姦を繰り返しました。

 

 

長女の個人情報を入手した関光彦

 

出典:http://jamcolo-store.shop-pro.jp/

 

関光彦死刑囚は車内で長女を脅す際に、ナイフで左頬と左手に全治2週間の怪我を負わせました。

 

また、自宅アパートに連れ帰って、2度に渡って強姦した後、長女の手足を拘束した上で、長女の所持金を奪っただけでなく、生徒手帳から住所と氏名を控えて外出しました。

 

その後、関光彦死刑囚が部屋に戻ると、長女は自力で逃げ出していたのですが、関光彦死刑囚はそのことに関して、特に気にも留めていなかったと言います。

 

 

長女は被害届を提出していた

 

出典:http://cytopharynxes55.rssing.com/

 

翌日、左頬にカッターナイフで斬りつけたような浅い傷のかさぶたがあることを同級生に咎められた長女は、「昨夜、コンビニからの帰り道に男に襲われた」と話すも、特に深刻そうな様子はなかったそうです。

 

それでも同級生に説得され、1992年2月末頃に、千葉県警察葛南警察署へ被害届を提出しています。ただ、顔見知りの犯行ではなかったことから、関光彦死刑囚が捜査線上に上がることはありませんでした。

 

また、その後に起きる「市川一家殺人事件」に繋がる、関光彦死刑囚に身分証を確認されたことなども、長女は警察に話していなかったようです。

 

 

被害者長女の自宅に押し入る計画を立てる関光彦

 

出典:https://www.solar-partners.jp/

 

前述したフィリピンパブのホステス監禁により、暴力団から“落とし前”として200万円を要求されていた関光彦死刑囚は、2月末頃には、いよいよ切羽詰まった状態になっていたと言います。

 

そこで思いついたのが、少し前に長女の生徒手帳から書き写して住所へ押し入り、金品を強奪することでした。

 

関光彦死刑囚は2月末頃から、長女の家の在宅状況を把握するため、時間を変えて何度も何度も電話をかけており、午後は留守がちで、いても老婆が一人で在宅していることを知りました。

 

また、長女の自宅マンションに実際に出向き、自宅の場所を入念に確認した他、防犯カメラの有無まで確認していたという計画性をうかがわせる行動をとっています。

 

 

 

「市川一家殺人事件」は1992年3月5日、午後4時半ごろ発生

 

出典:https://www.msn.com/

 

関光彦死刑囚は、1992年3月5日、金品を強奪することを目的に、遂に長女の自宅に侵入しました。侵入前に長女の自宅に電話をかけ、留守のタイミングを狙っての犯行でした。

 

しかし、実際には83歳の祖母が在宅しており、祖母の部屋からはテレビの音が聞こえていたものの、祖母はテレビをつけたまま寝ていたそうです。

 

 

 

在宅していた83歳の祖母を絞殺

 

出典:http://func-wallet.click/

 

関光彦死刑囚は家の中を物色するも、なかなか金目のものが見つからなかったことから、寝ていた祖母を起こして脅し付け、その時に祖母の財布に入ってた現金8万円を強奪しました。

 

さらに通帳を出すように迫った関光彦死刑囚に、祖母は毅然と拒否したそうです。さらに警察へ通報しようとするところを見つかり、手元にあった電気コードで首を絞められ殺害されてしまいました。

 

 

 

帰宅した母親を刺殺

 

出典:https://sirabee.com/

 

関光彦死刑囚は祖母を殺害した後、さらに家の中を物色。そして、台所にあった包丁を隠し持ち、一家の帰宅を待っていました。

 

最初に帰宅したのは、以前に強姦した長女とその母親でした。帰宅した二人を脅しつけ、うつ伏せにしたところで母親の背中に包丁を数回突き刺して刺殺。

 

そして、あろうことか長女を脅して、母親の遺体を二人で奧の部屋へ運び、血痕で汚れた部屋の掃除まで少女に命じています。

 

そこへ4歳の妹が帰宅するのですが、関光彦死刑囚は長女にご飯を作らせると、それを3人で食べたそうです。そして、まだ4歳と幼かった妹は、祖母が眠っていると思い、既に冷たくなった祖母の横で眠りにつきました・・・

 

また、通帳の場所は父親しか知らなかったため、そのまま父親の帰りを待つことになった関光彦死刑囚は、その間も長女を再び強姦していたと言います。

 

 

帰宅した父親を背後から刺して金を要求、そして殺害

 

出典:http://miraibo.net/

 

長女の父親が帰宅したのは、同日午後9時40分頃のことでした。帰宅と同時に背後から左肩を包丁で刺され、異様な状況を察した父親は、家族を守ろうと通帳と印鑑を関光彦死刑囚に差し出したと言います。

 

それでもさらに要求する関光彦死刑囚に、「残りの通帳は会社にある」と答えました。

 

左肩を刺され、既に瀕死の状態にあった父親を残し、会社に向かいかけた関光彦死刑囚ですが、部屋を出たところで、この間に通報されては困ると思い立ち、再び部屋に戻り、父親の背中を数回刺して殺害しています。

 

 

 

長女が父親の会社へ

 

出典:http://snooz.hatenadiary.jp/

 

1992年3月6日未明、残りの通帳を強奪するため、父親の会社がある千葉県市川市行徳駅前までは関光彦死刑囚と長女の二人でやってきたものの、会社に人が残っている可能性があったため、会社には長女を一人で向かわせました。

 

この時はまだ、父親が殺害されていることを知らなかった長女は、会社に残っていた人に対して「ヤクザが来ていて『お父さんの記事が悪い』と言ってお金を取りに来ている」と証言し、通帳を持って会社を去りました。

 

その際、会社の人達から心配されつつも、長女は「大丈夫」と気丈に話していたそうです。

 

父親の会社で通帳を強奪した後も、関光彦死刑囚は長女を連れてラブホテルに宿泊し、再び何度も強姦したと言います。

 

 

当時4歳の次女をも殺害

 

その後、関光彦死刑囚はラブホテルから翌朝6時半頃に長女とともに、被害者宅に帰宅しました。

 

そして目を覚ました次女が、異変を察して泣き出したのをキッカケに、関光彦死刑囚は幼い次女までをも殺害することに・・・その殺害方法も極めて残虐で、背中から胸に貫通するほどの強い力で、包丁を突き刺したと言います。

 

 

 

関光彦の逮捕は父親の会社の通報から

 

出典:https://www.youtube.com/

 

結局、生き残った長女以外の、一家4人を惨殺した関光彦死刑囚が逮捕されたのは、長女の父親の会社の従業員が、深夜に突然訪れた長女の行動を不審に思い、警察に通報したことがキッカケでした。

 

この通報は、次女が刺殺されたたった2時間後の朝8時過ぎのことでした。ベランダから室内に強行突入した警察官により、関光彦死刑囚は銃刀法違反で現行犯逮捕されています。

 

関光彦死刑囚はわずか14時間の間に、4人もの罪の無い人を惨殺したことになります。

 

 

1992年3月7日未明、強盗殺人容疑で再逮捕された関光彦

 

銃刀法違反で現行犯逮捕されていた関光彦死刑囚ですが、事件の全容が明らかになってきた翌日未明には、強盗殺人容疑で再逮捕されています。

 

当初は、現場に一緒にいた長女も被疑者として疑われていたようですが、その後の取り調べにより、被害者だとわかったそうです。

 

 

 

関光彦の生い立ちと家族~父・母・祖父・弟との関係にも迫る

 

出典:https://www.instagram.com/

 

次に、「市川一家殺人事件」の犯人、関光彦死刑囚の生い立ちについて詳しく見ていくことにしましょう。関光彦死刑囚にはどんな家族の中に生まれ、育ってきたのでしょうか?

 

 

関光彦の祖父はうなぎ屋チェーンの経営者

 

出典:https://www.hotpepper.jp/

 

関光彦死刑囚はサラリーマンとして働く父と、母、弟の4人家族の長男として誕生しました。

 

関光彦死刑囚の家族について語る場合、特に特筆すべきは母方の祖父の存在だと言われています。母方の祖父は、うなぎの卸業を営んでおり、千葉県市川市と都内を中心に展開する、大手うなぎ屋チェーンを手広く経営していました。

 

敏腕経営者だった祖父ですが、うなぎに対してのこだわりは強く、職人気質なタイプの人物だったそうです。

 

そんな人物から見ると、愛娘が連れてきた後に関光彦死刑囚の父親に当たる男性は、「仕事に対する熱意が足りない男」と映ったのでしょう、初めは結婚に猛反対していたそうです。

 

そのため、関光彦死刑囚の両親は半ば駆け落ち同前に結婚したと言われています。

 

 

 

幼い頃から父親に虐待を受けた関光彦

 

出典:https://conjugal-love.net/

 

やがて、関光彦死刑囚の両親の間に二人の子供が誕生すると、そんな祖父とも和解して、祖父からの援助により高級マンションに住むようになった他、祖父が経営していたうなぎ屋を一軒任されるようになりました。

 

しかし、それによって日銭が入るようになった関光彦死刑囚の父親は、たちまち酒やギャンブル、女遊びに溺れるようになり、やがてそれを咎める妻へのDVはもちろん、関光彦死刑囚や幼い弟に対しても虐待を加えるようになったそうです。

 

帰宅すると浮気を責めてくる母を殴る蹴るなどのドメスティック・バイオレンス(DV)を加えるようになったほか、関光彦自身や5歳年下の弟に対しても「何時間も正座をさせる」「食事を与えない」「徹底した無視」「真冬の夜中に外に放り出す」など苛烈な児童虐待を繰り返すようになった

 

引用:市川一家4人殺人事件 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/

 

 

度々祖父の元へ家出を繰り返していた関光彦

 

幼い頃から父親から虐待を受け、また暴力を振るわれる母親を見て育った関光彦死刑囚は、その環境から抜け出すために、度々、うなぎ屋を経営する祖父の元へ家出を繰り返すようになりました。

 

また、この頃は、仕事に対して一所懸命に邁進する祖父のことを、関光彦死刑囚は心から尊敬していたそうです。

 

 

エホバの証人に傾倒していく関光彦

 

出典:https://blogs.yahoo.co.jp/

 

そんな中で関光彦死刑囚が出会ったのが、親友から進められた“聖書”だったようです。しかも、関光彦死刑囚にキリスト教を勧めたのは、過激なほどの徹底した純粋性からキリスト教内部の中でも異端視されていたエホバの証人の信者でした。

 

やがて関光彦死刑囚は、エホバの証人の教義に傾倒するようになります。

 

関光彦は「愛と平和を高らかに説く教え」に魅了された上、常に自分を温かく出迎えてくれては丁寧に教義を教えてくれた信者一家のことも気に入っており「聖書の教えを真剣に学べばいつか自分の両親もわかってくれる。彼(この友人)の家のように『笑顔の絶えない平和な家になる』」と信じていた

 

引用:市川一家4人殺人事件 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/

 

 

聖書を破られたことで父親に対する怒りが爆発

 

虐待の辛さから逃れるため、聖書に一縷の望みを託していた関光彦死刑囚ですが、9歳の頃のある日のこと、熱心に聖書を読んでいるところを父親に見とがめられ、「こんなくだらないものを読みやがって」と聖書を破り捨てられてしまいます。

 

それまではただ“恐れるだけの存在”だった父親に対して、関光彦死刑囚は初めて刃向かったそうです。

 

それでも大人の力にかなうわけもなく、殴る、蹴るなどの一方的な暴力を受けながらも、関光彦死刑囚の心には次のような父親に対する強い憎しみが宿った瞬間でした。

 

「全身の血が沸騰するほどの怒りを覚え、それまでわずかに残っていた父親への情愛も完全に砕け散った」上に「いつか仕返ししてやる」と心に誓った。

 

引用:市川一家4人殺人事件 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/

 

 

 

父親の借金から逃れ、母と弟の3人で極貧生活が始まる

 

出典:https://ent.smt.docomo.ne.jp/

 

父親は消費者金融だけでなく、闇金融からも借金をしており、その総額が約3億円にまで膨れあがり、遂には暴力団からの厳しい取り立てに遭い、それに耐えきれずに母と弟の3人で夜逃げ同前で家を出たそうです。

 

しばらくは祖父の家にいた3人ですが、父親の借金を祖父が肩代わりする代わりに、祖父から絶縁を言い渡されることに・・・女手一つで、二人の幼い子供を育てていくのは相当大変で、小さなアパートでの極貧生活がはじまりました。

 

 

 

学校でも貧乏が原因で壮絶ないじめに遭っていた

 

出典:https://toyokeizai.net/

 

そんな不遇な少年期を過ごしていた関光彦死刑囚ですが、それは楽しいはずの学校でも同じで、極貧生活を理由に壮絶ないじめに遭うようになります。

 

関光彦は両親の離婚後に改姓していたたことから周囲から好奇の目で見られいじめの対象にされ、ランドセル代わりに風呂敷を背負い、一着しかない服を毎日着て登校していたために周囲からは「汚い」「臭い」とからかわれた。

 

引用:市川一家4人殺人事件 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/

 

また、関光彦死刑囚はこの頃から、母親の財布から小銭を抜いたり、万引きや置き引きを繰り返したりしていたそうで、やがて「世の中金だ」と思うようになっていたったそうです。

 

 

 

中学進学後は次第に非行に走るようになった関光彦

 

そんな関光彦死刑囚も、中学に進学すると体が大きくなったことで、次第にいじめられなくなっていきました。それどころか、少年野球に所属して活躍も見せていたと言います。

 

また、その頃になると、喧嘩の強さを買われて不良と仲良くなり、次第に非行に走るようになっていったそうです。

 

 

 

祖父との関係が修復するも・・・

 

さらにその頃は、母親と祖父が関係を修復したことで、再び祖父の援助が受けられるようになったことで、生活が一気に楽になった時期もでもあるんですよね。

 

しかし、関光彦死刑囚にとっては、「自分たちが一番大変な時に見放した」という祖父に対する恨みが払拭できず、以前のようには尊敬できなくなっていたそうです。

 

 

関光彦の非行が激化!母に対して暴力を振るうように・・・

 

出典:https://news.yahoo.co.jp/

 

その一方で、関光彦死刑囚の非行は益々激化していくことになります。母親は不良と付き合うようになった息子を責め、いつしかそんな母親や弟に対して本格的な暴力を振るうようになっていったようです。

 

関光彦が不良仲間たちの誘いに乗った理由は「他人に必要とされていることが何より心地よかった」ためだった。

 

引用:市川一家4人殺人事件 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/

 

 

祖父の顔面を蹴り上げて失明させる

 

関光彦死刑囚は祖父の支援を受けて、堀越学園の普通科に入学しますが、家庭内暴力は酷くなる一方で、2年生の時に他校生への恐喝事件で受けた停学処分をキッカケに不登校になり、1年で高校を中退してしまいました。

 

その後、祖父のうなぎ屋で働き始めた関光彦死刑囚ですが、祖父を尊敬できなくなっていた関光彦死刑囚が真面目に働くわけもなく、やがて売上金を持ち出すなどの問題行動をとるようになります。

 

そしてある時、売上金がなくなっていたことを祖父に疑われたことに激昂した関光彦死刑囚が、就寝中の祖父の顔を蹴り上げ、失明させるという事件を起こしています。

 

 

フィリピンパブで出会ったフィリピン人女性と結婚するも・・・

 

出典:https://minkara.carview.co.jp/

 

「市川一家殺人事件」を起こす前年である1991年頃には、関光彦死刑囚は祖父の店を無断欠勤することが多くなっていました。

 

そんな時、同僚に連れていかれたフィリピンパブで、関光彦死刑囚はマニラ出身の女性と出会います。

 

やがて、その女性と恋愛関係となりデートを重ねていた関光彦死刑囚。ある時、女性から結婚したいと要求されるも、最初は「長期滞在が目的だろう」と断っていたものの、「家事などしてくれるし生活が楽になるかも」と、彼女との結婚を決めました。

 

しかし、そのたった3ヶ月後には、妻であるフィリピン人女性は、病気の姉を見舞うためにフィリピンに帰ったまま、日本へ帰国することはなかったそうです。

 

そして、関光彦死刑囚は妻がいなくなったイライラから、「市川一家殺人事件」の発端となる、フィリピンパブのホステス監禁を起こすことに・・・

 

 

 

関光彦の最後の言葉とは

 

出典:https://twitter.com/

 

関光彦死刑囚の最後の言葉として、公に公表されているのは、彼の弁護士に宛てた次のようなものでした。

 

事件発生から四半世紀(25年)、死刑確定から16年が経過していた。関光彦死刑囚は死刑執行直前、弁護人・一場順子宛の遺言として「裁判記録は(一場)先生の元へ」とだけ言い残していた。

 

引用:市川一家4人殺人事件 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/

 

自分が手にかけた被害者への供養とも思えないこの最後の言葉に、果たしてどのような思いが込められているのかについては、知るよしもありません。

 

出典:https://s.webry.info/

 

しかし、もうひとつ関光彦死刑囚がまだ事件を起こしてそれほど時間が経ってない頃に、弁護人を務めていた一場順子弁護士に対して打ち明けたという、次の言葉をご紹介しましょう。

 

面会時には気候や体調など、たわいもない話が多く、本人も落ち着いていた様子だったが、かつては「4人がいつも自分にくっついていて、おまえのことを許せないと言っているようで苦しい」と打ち明けたこともあった。

 

引用:執行の関死刑囚「おまえを許せないと言っているようで苦しい」面会で弁護士に心境 – 芸能社会 – SANSPO.COM(サンスポ) https://www.sanspo.com/

 

 

 

関光彦「市川一家4人殺人事件」で生き残った長女の現在とは

 

出典:https://i-design-web.com/

 

この「市川一家殺人事件」における、唯一の生存者である長女は、目の前で母親や妹を惨殺され、数度に渡って強姦されるという、想像もできないような地獄を経験しました。

 

一人遺された彼女は、その後、どうやって生きてきたのでしょうか?

 

 

 

「市川一家殺人事件」の唯一の生存者である長女とは?

 

実は、長女は母親の前夫との間にできた連れ子だったので、「市川一家殺人事件」で殺害された父親の実子ではありませんでした。

 

それでも共働きだった両親に変わって、年の離れた妹の保育園の送り迎えをするなど、とても優しい性格だったと言います。

 

当時、通っていた高校では演劇部と美術部に所属し、将来は美術系の大学への進学を目指していたそうです。

 

 

事件から一年後に母方の実家に引き取られた

 

出典:https://dime.jp/

 

事件の唯一の行き残りである長女は、事件後はしばらく両親の知人の元に身を寄せていたそうです。そして、事件から一年後に、熊本にある母方の実家に引き取られたそうです。

 

高校卒業後は、以前より目標にしていた美術系の大学への進学を果たしました。事件に関しては、「忘れないと前に進めないから忘れた」との言葉を残されているようです。

 

 

 

現在は、結婚して夫とともにヨーロッパに移住

 

長女が大学を卒業したのが2000年のことで、関光彦死刑囚の死刑判決が確定したのが2004年のことでした。

 

そして、長女はその年に、かねてから交際していた男性と結婚し、現在は生前両親が夢見ていたというヨーロッパへ移住し、安らかな日常を過ごされているようです。

 

 

 

関光彦の現在~2017年12月19日に死刑が執行されている

 

いかがでしたでしょうか。

 

1992年3月5日に起きた、史上稀に見る凶悪事件「市川一家4人殺人事件」。犯人は当時19歳の未成年でしたが、そのあまりの残虐性から、2017年12月19日に死刑が執行されています。

 

今回、この事件を引き起こした関光彦死刑囚の、家族関係を中心とした生い立ちを詳しくさかのぼるとともに、彼の死刑執行前の最後の言葉、さらに事件の唯一の生存者である長女の現在についてまとめてみました。

 

今はただ、被害に遭われた4名のご冥福を心よりお祈りいたします。

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