川上慶子さんは1985年8月に起きた「日航機墜落事故」の生存者の1人ですが、現在の様子も話題です。
今回は日航機墜落事故の概要、川上慶子さんなど生存者4名の証言や会見、兄など家族、結婚した旦那や子供、現在をまとめました。
この記事の目次
川上慶子は日航機墜落事故の生存者
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日航機墜落事故から生存した川上慶子
日航機墜落事故は1985年8月12日に起きた飛行機事故で、羽田を離陸したJAL123便が群馬県多野郡上野村の御巣鷹山中ヘ墜落し、乗客乗員520名が犠牲になりました。
この事故で生存者4人うちの1人となったのが、当時12歳で中学校1年生だった川上慶子さん。
川上慶子さんが自衛隊によって救出されるシーンはリアルタイムでテレビが報じ、入院先にも記者が押し寄せ、雑誌の表紙にもなりました。
事故から30年以上経った現在も、夏が近づくと、日航機墜落事故のことをメディアが取り上げてきました。
やはり、その後の川上慶子さんがどうなったのかが気になる人が多いようで、ネットでも「川上慶子 現在」、「川上慶子 職業」などが表示されています。
川上慶子さんの現在の様子については、後の章で詳しく解説します。
川上慶子が遭遇した日航機墜落事故の詳細
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墜落したJAL123便
2023年8月12日で、日航機墜落事故から38年が経過します。
単独機の飛行機事故としては過去最多の死者数を記録した事件の詳細や、犠牲者の様子について改めて振り返ってみましょう。
離陸から墜落までの経緯
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日航機墜落事故を報じた新聞
事故当日、JAL123便は羽田空港を18時に飛び立ち、伊丹空港に向かいました。
しかし18時24分、JAL123便は伊豆半島上空を通過したところで、機長が管制塔に向けて緊急救難信号を発信します。
機長は機体エンジントラブルが起きていると説明したうえで、羽田空港に戻ることを要求しています。
18時27分、機体の油圧系統が全滅状態となり、機体のコントロールがほぼ不可能な状態に陥っている、と報告が入りました。
さらに18時31分、航空機関士から「R5(機体右側最後部)のドアがブロークン(破損)しました」と切羽詰まった声で連絡が入ります。
この時、機体が激しく上下していたことが後の調査で判明しました。
18時46分に、機長の「もう駄目かも分らんね」という発言がレコーダーに残されているものの、コックピッドでは最後の最後まで無事に着陸することを諦めていなかったようです。
「舵いっぱい!」、「山にぶつかるぞ!」、「今コントロールいっぱいです」、「頭下げろ、がんばれがんばれ」、「パワーでピッチはコントロールしないとだめ」
このように、機長と副機長は矢継ぎ早に会話を交わしており、必死な様子が伝わって来るようです。
ボイスレコーダーが途切れた18時56分、飛行機はほぼ裏返しの状態で山の尾根に衝突。
衝撃で、飛行機前部は原型を留めないほど破損し、炎上しました。
川上慶子は日航機墜落事故の翌日に救出
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自衛隊ヘリで救出される川上慶子
1985年8月12日19時54分、茨城県の航空自衛隊ヘリが飛び立ち現地に向かうも、墜落現場には無数の火柱が合わさり巨大な火炎となっていて、激しい黒煙を噴き上げていたそうです。
さらに、既に日没を過ぎていたため、サーチライトを現場に向けて照らしても地上の様子が見えませんでした。
隊員を無事に降ろすための別の降下ポイントを探しましたが、送電線に阻まれ初動が遅れました。
また、この頃はまだGPSの機能精度が低く、正確な墜落場所の特定ができなかったようです。
ようやく現場の捜索が始まったのは、翌日午前8時頃のこと。そして、10時50分頃に生存者発見の一報が飛び込んできました。
川上慶子さんが逆立ちしているような状態で発見されたのです。全身打撲を負っているものの、命の危険はないことが確認されました。
陸上自衛隊第一空挺団の隊員が、後ろから川上慶子さんを抱えるようにして救出する様子がテレビで何回も放送されたことで、現在も日航機墜落事故のシンボルのような映像となっています。
川上慶子が遭遇した日航機墜落事故の犠牲者の様子
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日航機墜落事故の事故現場
生存者が発見された一方で、次々に犠牲者の遺体が見つかりました。
遺体は現場近くの市民体育館に搬入され、事故翌日の午前11時頃から医師150名と看護師100名が集められて検死が行われることに。
しかし、五体満足に揃った遺体が少なく、ほとんどの遺体は体の一部もしくは大半が離断していたり、火災で黒焦げだったりしていたことが記録されています。
また、母親が子供を後ろから抱きかかえたまま墜落したのか、小さな子供の半分欠けた頭部の中から母親の顎の部分が見つかるなど凄惨な状態だったそうです。
週刊現代の記事によると、遺体搬送現場では地元に勤務する巡査が写真撮影を担当していたのですが、急にシャッターを切る音が止まった時のことが詳しく書かれています。
「おい、写真どうした」検視官が座ったままの姿勢で、顔を右にねじまげ、脚立の上の警察官を見あげた。
「焦点が合わないんです」。写真担当の若い巡査が、カメラを両手でもったまま泣きべそをかいている。
検視官も医師も首に巻いた汗止めのタオルや上腕部を使って、汗と一緒になった涙をしきりに拭っていた。
引用:日航機123便墜落事故——遺体搬入現場の極限状態 – 現代ビジネス https://gendai.media/
また、体育館には、到着した遺族が発する「ウォー」と吼えるような号泣や、「キャー」という絹を裂くような悲鳴が響き、正気を保つことが難しい悲惨な状況だったことがうかがえます。
川上慶子が遭遇した日航機墜落事故では著名人も命を落としていた
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日航機墜落事故で死去した坂本九
日航機墜落事故で命を落とした著名人も数人います。
筆頭として挙げられるのが、歌手の坂本九さん。43歳でした。
坂本九さんは、友人で元マネージャーの男性が羽曳野市議会議員選挙に立候補したので、応援のために大阪に向かう途中だったのです。
なお、坂本九さんはいつも飛行機を使った移動は全日空を使っていましたが、当日はお盆に差し掛かる時期で全日空に空きがなく、代わりにJAL123便を予約しました。
同行した坂本九さんのマネージャー・小宮勝廣さんは、早めに羽田空港に入り、全日空便への振替を何回も交渉していたことが記録に残っています。
しかし、キャンセルが出ず、2人はJAL123便に搭乗して命を落としました。
他にも、元宝塚歌劇団の女優・北原遥子さん、元広島カープの竹下元章さん、ハウス食品グループ代表取締役の浦上郁夫さん、阪神タイガースの球団社長・中埜肇さんが亡くなっています。
川上慶子以外の生存者の証言① 吉崎博子と美紀子の会見
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記者会見に応じた吉崎博子(右)と美紀子(左)
川上慶子さん以外の日航機墜落事故の生存者は3人です。
吉崎博子さん(当時34歳)と美紀子さん(当時8歳)は親子で救出され、1985年11月14日に記者会見を開きました。
事故当日、吉崎博子さんは夫と長男の充芳さん、長女の美紀子さん、次女のゆかりさんと共にJAL123便に搭乗。
離陸後から吉崎博子さんは眠っていましたが、ドーンという音と共に白い煙が立ち上り、目が覚めると、すぐに上から酸素マスクが下りてきたそうです。
客室乗務員が「大丈夫です、大丈夫ですから」と言って回るのを見て、吉崎博子さんは「きっとどこかに着陸するのだろう」と最初のうちは楽観的に考えていました。
しかし、シートベルトを締めたものの、機体の揺れが激しく胸部への圧迫が強くなり、周囲の乗客が次々に失神していくのを見て、吉崎博子さんはベルトを外したといいます。
立ち上がった吉崎博子さんは、周囲の失神した乗客に声をかけたり、客室乗務員に救助を依頼しています。
その時、まるでジェットコースターに乗っているかのように機体が激しく降下したといいます。
吉崎博子さんは、夫から「子供の前なのだから、しっかりしろ、うろたえるな。落ち着くように」と励まされ、取り乱さずにいられたそうです。
そして激しい振動が起きて飛行機が墜落すると、吉崎博子さんも気を失いました。
気が付くと辺りは暗闇で、体を動かすことも声を出すこともできなかったといいます。
その時、「お母さん」と呼びかける長男の充芳さんの声が聞こえたのですが、それ以降は長男の声が聞こえなくなり、後になってから、あれが最期だったのだと考えているそうです。
その後、吉崎博子さんがうとうとしていると、長女の美紀子さんが「ママ。眠っちゃダメ。死んでしまうよ」と励ましてくれたので助かることができた、と証言を締めくくりました。
川上慶子以外の生存者の証言② 落合由美
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JALでアシスタントパーサーを務めていた落合由美
残る事故生存者は落合由美さんです。日本航空の社員で、当時アシスタントパーサーを務めていました。
日航機墜落事故に遭遇した理由や、事故後の貴重な証言について紹介します。
非番でJAL123便に搭乗
この日、落合由美さんは仕事で札幌から羽田への往路の仕事を終えて、実家に帰省するためにJAL123便に搭乗。
同じく客室乗務員の松本亜規子さんも搭乗していました。2人は隣同士の席を予約するつもりでしたが、予約が一杯でバラバラの席に座っていました。松本亜規子さんは命を落としています。
落合由美さんによると、最初の異常は18時25分頃で「パーン」という大きな音が響き、2回目の「パーン」という音と共に白い霧のようなものが機内に立ち込めて前方が見えなくなったそう。
落合由美さんは隣の人に酸素マスクの付け方を教えながら、客室乗務員が大きく揺れる機内の中であっても、乗客に救命胴衣を着せていたことを確認しています。
墜落直後は他にも生存者がいた
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飛行機が墜落直後は、何人もの「はあはあ」という息遣いや、「お母さん」と呼ぶ子供の声が聞こえていました。
つまり、墜落後には生存者がもっといたことがわかります。
検死を担当した医師は「生存者が発見された座席の近くには、まだ体温が温かい遺体があった」と証言していることから見ても間違いないでしょう。
その後、落合由美さんは意識を失いますが、再び目を覚ました時には、「助けて」、「誰か来て」という声が聞こえていたそうです。
落合由美さんは、上半身が「く」の字に曲がった状態で体を動かすことができず、このまま死ぬのだと考えました。
苦しみたくないという気持ちから、舌を嚙み切って命を断とうとしたそうですが、力が入らずそれもできなかったといいます。
その後、落合由美さんは無事救助されました。
搬入先の病院で100針以上縫う大けがでしたが、命は助かっており、力が入らず舌が噛み蹴れなかったことは結果的に良かったということになりますね。
川上慶子をはじめとした生存者4人の共通点とは?
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日航機墜落事故において、川上慶子さんをはじめ生存者4人には、ある共通点がありました。
それは4人共、機内の後部座席に座っていたという点です。
飛行機は墜落時に前方部分と後方部分で分離し、前方部分は高速スピードを保ったまま地面に激突しているため爆破、炎上しています。
一方で、後方部分は御巣鷹山の斜面の角度に沿うような形で地面に接触したことで、山が衝撃を吸収しました。
エンジン部分も前方にあったので、後方では火災も発生せず2次災害も起きていなかったことも大きいようです。
もう1つの共通点は、女性と子供という点です。成人男性と比べ、女性や子供は体が柔軟だと言われています。
もしかしたら、墜落時の衝撃を無意識のうちに上手く逃していたのかもしれませんね。
川上慶子が証言した家族の様子
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川上慶子さんは家族4人で北海道に旅行に行き、帰りに親族宅に寄るために羽田を経由して大阪に向っていました。
家族は両親と兄の千春さん、妹の咲子さんの5人でしたが、兄の千春さんは旅行には参加せず、自宅で留守番をしていたので事故機には搭乗していません。
川上慶子さんによると、最初に異変が起きた時、バーンという音と共に後部座席付近の天井が吹き飛び、斜め後ろには1m四方の穴が開いていたそうです。
機体が急降下する中、父親の川上英治さんは「頭を下げろ」と家族3人を両手で抱えて守ってくれました。
機体の急降下でGがかかり、シートベルトの締め付けがきつくなったことを父親に訴えると、「ナイフを使って(ベルトを)切れ」とアドバイスをしてくれたそう。
墜落した際には、父親が川上慶子さんの右腹から上に重なった状態で、体を少しも動かすことができなかったといいます。
その重みで体が圧迫されて、川上慶子さんは次第に呼吸が辛くなっていきました。
父親に「お父さん、苦しい」と声をかけると「お父さんも身動きできない」と返ってきたのですが、それ以降動かなくなったそうです。
近くにいるはずの母親と妹に声をかけると、妹の咲子さんから「お母ちゃんは冷たい。死んでるわ。お父ちゃんも死んでいる」と返ってきました。
暫く妹の咲子さんと話をしていたのですが、その後「ゲホゲホ」と何かを吐くような咲子さんの声が聞こえてきたのを最後に、それきり動かくなってしまったそうです。
ついに1人ぼっちになったと絶望した川上慶子さんは、意識が飛んだり戻ったりを繰り返している中で、人の気配で目を覚まします。
救助のために現地入りした自衛隊員は「生きている人は手足を動かして」と呼びかけたそうで、川上慶子さんも動かせる範囲で手足をバタバタさせました。
川上慶子さんは無事発見され、「生存者発見!男の子だ!」という声が響き渡ったそうです。
当時の川上慶子さんはショートカットのヘアスタイルにショートパンツを履いていたので、男子と間違えられてしまったようです。
川上慶子と兄のその後の人生
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事故により川上慶子さんの家族は、飛行機に搭乗しなかった兄の川上千春さんだけになりました。
その後の2人はどのような人生を送ったのでしょうか。
川上慶子は看護師に
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救出された川上慶子さんは、ボーイッシュな雰囲気を纏う美少女だったことで、大きな注目を集めました。
退院すると、兄の千春さんと共に島根県にある祖母の家で暮らすことになり引っ越しています。
川上慶子さんのその後の生活は、マスコミに追いかけられたり、見知らぬ人物から電話がかかってきたり、ストーカー被害に遭ったりなど、到底穏やかとは言えませんでした。
母親が生前保健師をしていたことが影響したのか、大人になった川上慶子さんは看護師になって兵庫県にある病院に就職したことが判明しています。
1995年1月に起きた阪神淡路大震災では、尼崎市の病院で怪我人を手当するために奔走していたそうです。
兄・千春は取材に応じている
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川上慶子の兄千春
兄の千春さんは、川上慶子さんの代わりに窓口になってメディアの対応をしてきました。
2015年には、事故から30年という節目で各メディアで特集が組まれましたが、兄の千春さんはTBSの特番で取材に応じ、文藝春秋の特集記事では手記を寄稿しています。
千春さんも、両親と幼い妹を亡くしたことで精神的なショックを負い、これを乗り越えるために長い年月が必要だったと語っています。
自宅の周りには常に何人ものカメラマンがウロウロとたむろし、中学校から自宅への通学路では記者に待ち伏せされたこともあったそうです。
川上慶子が結婚した旦那や子供
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川上慶子さんのプライベートについて調査したところ、2002年にアメリカ人男性と結婚していることが判明しています。
旦那の名前や画像は公表されていませんが、旦那との馴れ初めは、川上慶子さんが趣味のスキューバダイビングのために渡米した時に知り合い、仲を深めたとのこと。
川上慶子さんと旦那との間には、2人の息子と娘1人が誕生。子供3人はハーフということになりますね。
既に看護師の仕事は辞めて、子育てに専念しているようです。旦那がアメリカ人なので、外国で暮らしている可能性もあるのではないでしょうか。
川上慶子と兄の現在
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現在の川上慶子さんについて調べたところ、現在も公の場に姿を現すことはなく沈黙を貫いています。
一方、兄の千春さんは2015年にNHKの特報首都圏の企画にVTR出演し、島根を離れて介護に関する仕事をしていることを明かしました。
また兄の千春さんは、毎年のように叔母と共に御巣鷹山の登山をしています。ただし、川上慶子さんを誘っても「気分が悪くなるから」と断られているそうです。
30年以上が経過してはいるものの、目の前で両親と幼い妹が亡くなっていく様子を目の当たりにした壮絶な体験は、どんなに時間が経っても癒えるものではないのかもしれません。
支えあって生きてきた川上慶子さんと千春さん兄妹が、今後は幸せを感じられる日々を過ごしてほしいですね。
川上慶子以外の生存者の現在
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川上慶子さん以外の生存者についても、ポツポツと情報が入ってきています。やはり、長い年月が経過しても辛い胸の内を抱えているようです。
吉崎博子さんと美紀子さん親子、落合由美さんの現在について調査しました。
生存者の吉崎博子と吉崎美紀子
親子で命が助かった吉崎博子さんと美紀子さんは、当時の年齢から計算すると、2023年の誕生日で吉崎博子さんは72歳、美紀子さんは46歳になるはずです。
2015年の産経新聞の記事によると、今も都内で一緒に住んでいて、日航機墜落事故については語らなかったものの、「2人共元気にしています」とインターホン越しに応えています。
その後の様子について、新聞やテレビなどでは報じられてはいませんが、親子で助け合って生きているのではないでしょうか。
生存者の落合由美
落合由美さんは事故後、日本航空を退社したという説と、定年まで事故関連業務に関する部署で勤務したという説がありますが、はっきりしたことはわかっていません。
ただし、2012年頃に日本航空の社員を対象にした安全教育セミナーにおいて、講師として事故前後の状況や自身の近況を語ったことが明かされています。
そして現在は、大阪に在住していることを日本経済新聞が報じています。
記事には、近くに住む家族に取材を申し込んだところ「自分たちも取材は受けないように頼まれていますので」と断られていたと書かれています。
他の生存者と同様に、表立って取材に応じることはなさそうです。
川上慶子以外の遺族や関係者の現在
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日航機墜落事故で家族を亡くした遺族や関係者の悲しみは、現在も癒えることはありません。
事故被害者の遺族や関係者の現在についても調査しました。
今年も御巣鷹山が開通
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2023年4月29日に、御巣鷹山の尾根に向かう登山道が冬の閉山期間を終えて開通しました。
コロナ禍に入ってからは関係者のみ通行が許可されていましたが、今年は入場規制がなくなり、犠牲者に思いを馳せながら登山道を踏みしめる登山者の様子がニュースで報じられています。
兵庫県の私立親和中学と高校では、教鞭を取っていた水落哲子さん、瀬良直司さん、田中一文さんが日航機墜落事故で亡くなりました。
3人の教師は、東北地方へ修学旅行の下見に行った帰り道に事故に遭っていたのです。
中高一貫の学校であるため教師と生徒の関わりが深く、突然の訃報に生徒は皆号泣したといいます。
慰霊登山に訪れた、親和中学・高校の卒業生8人は花を手向けた後、各々目に涙を浮かべながら校歌を合唱し、その様子が群馬県のローカル紙「上毛新聞」に掲載されています。
娘2人を失った母親は登山を決意
遺族の1人である山岡清子さんは、夏休みを利用して神奈川県にある山岡清子さんの実家に遊びに行っていた当時16歳の長女朋美さんと14歳の次女薫さんを日航機墜落事故で失いました。
2022年8月に、NHKの取材に応じた山岡清子さんは、事故当時のことや現在の心境の変化について語っています。
毎年、山岡清子さん自身も一緒に実家に帰るのですが、事故の年は多忙で、娘2人だけを送り出したそうです。
娘2人とは、神奈川県に帰省する数日前に一緒にショッピングを楽しみ、「大阪に戻る時に、このワンピースを着て迎えに来てね」とピンクのワンピースを選んでくれたんだとか。
事故後、山岡清子さんは娘2人のアルバムを見るのが辛すぎて捨ててしまうことも考えたそう。
また、夢の中でも良いので会いたい、と願いを込めて千羽鶴を15年以上作り続けるなど、苦しみと共に30年以上を過ごしてきました。
しかし今後、体力が衰えて登山自体ができなくなる可能性が高いことから、今年こそは御巣鷹山へ登り、娘2人が選んでくれたワンピースを着て供養をすると決意を固めました。
そのために、現在はトレーニングを開始したと取材で語っています。
まとめ
川上慶子さんが奇跡的に助かった「日航機墜落事故」の経緯、生存者の会見や証言、事故後の家族、結婚した旦那や子供、現在の様子についてもまとめました。
川上慶子さんは4人の生存者の1人として注目を浴び、メディアから追いかけられたり、ストーカー被害にも遭っていたりしたそうです。
その後、看護師として兵庫県の病院に就職。2002年にはアメリカ人男性と結婚し、今は3人の子供にも恵まれて幸せな生活を送っているとのこと。
それ以外の生存者についても、詳しいことは判明していませんが、元気に過ごしているようです。
2023年8月で、日航機墜落事故から38年を迎えます。もう2度とこのような事故が起きないことを願いたいですね。
犠牲になった方々のご冥福をお祈りします。