狭山事件は発生から50年以上経過した現在も、真相どころか多くの謎が残っており、犯人として逮捕された石川一雄さんの冤罪の可能性も話題です。
今回は狭山事件の経緯と真相、石川一雄さんの冤罪説、真犯人、現在をまとめました。
この記事の目次
「狭山事件」とは
「狭山事件」とは、1963年5月1日、埼玉県南西部に位置する狭山市で、当時高校1年生だった中田善枝さんが学校から帰宅する途中に行方不明になり、その後遺体で発見された事件です。
「狭山事件」は他に類を見ない多数の自殺者を出した事件
そんな「狭山事件」を語る上で欠かせないのは、他の事件では類例を見ないほど事件関係者が多数自殺しているという事実で、「狭山事件」の最大のミステリーとも言われています。
まず被害者となった中田家の関係者の1人であった元使用人は、捜査の初期段階で埼玉県警による厳しい取り調べを受け、5月6日に農薬を飲み井戸に飛び込んで自殺しています。
出典:http://sayama-case.org/
また、市内の林で不審な3人の男を見たと目撃情報を通報した田中昇さんが、5月11日に心臓を刃物で刺して自殺しました。ちなみに、田中昇さんは石川一雄さんの競輪仲間でした。
さらに、被害者の姉であり、身代金受け渡しの際に唯一真犯人と言葉を交わした中田登美恵さんは、1964年7月14日、石川一雄さんに死刑判決が下された時期に農薬を飲んで自殺しました。
ちなみに、彼女はまもなく結婚する予定だったと言います。
この他にも、被害者・中田善枝さんの次兄が、1977年10月4日に首を吊って自殺していますし、いわゆる「変死」とされる人も入れれば、その数はさらに増えるとされています。
このように、事件関係者から異常とも言える多数の自殺者を出した刑事事件は、他に類を見ません。
これらの自殺、果たして「狭山事件」にどう関連しているのか?その真相は、50年以上たった現在も、何一つ明らかになっていません。
まずは、狭山事件の真相に迫るべく、事件の経緯について具体的に見ていくことにしましょう。
「狭山事件」の被害者や事件の経緯
行方不明当日が16歳の誕生日だった「狭山事件」の被害者・中田善枝さん
被害者の中田善枝さんは、埼玉県狭山市大字上赤坂の富裕な農家の四女で、当時、川越高校入間川分校の1年生でした。
中田善枝さんは、1963年5月1日の午後3時23分に知人に目撃されたのを最後に、午後6時を過ぎても帰宅せず、そのまま行方不明になりました。
事件当日、中田善枝さんは級友に「今日は私の誕生日だから」と、いつもより少し早く、1人で下校したと言います。
その後の中田善枝さんは、オリンピックの記念切手を予約するため、学校近くの郵便局に立ち寄ったことまでは分かっているものの、その後の足取りは忽然と消えることに…。
ただ、下校直後の3時23分に、西武線のガード下で、中学時代の中田善枝さんをよく知っていた知人が、「誰かを待っているような様子の中田善枝さんを見た」と証言しています。
出典:http://blltokyo.net/
しかし、この場所は中田善枝さんの通学路とは全く反対の方向だったんですよね…。
長男(被害者の兄)が自宅の玄関で犯人からの脅迫状を発見
同日の午後6時50分頃、心配した当時25歳の中田家の長男が車で学校に行き、妹の所在を尋ねるも確認できず、午後7時30分頃に帰宅します。
その時、自宅玄関の戸に1通の手紙が挟まっているのを発見!それは犯人からの脅迫状でした。
この脅迫状には次のように書かれていました。
少時 このかみにツツんでこい
子供の命がほ知かたら4月29日(五月2日)の夜12時に、
金二十万円女の人がもツて前(さのヤ)の門のところにいろ。
友だちが車出いくからその人にわたせ。
時が一分出もをくれたら子供の命がないとおもい。―
刑札には名知たら小供は死。
もし車出いッた友だちが時かんどおりぶじにか江て気名かッたら
子供わ西武園の池の中に死出いるからそこ江いッてみろ。
もし車出いッた友だちが時かんどおりぶじにかえッて気たら
子供わ1時かんごに車出ぶじにとどける。
くりか江す 刑札にはなすな。
気んじょの人にもはなすな
子供 死出死まう。
もし金をとりにいッて。ちがう人がいたら
そのままかえてきて。こどもわころしてヤる。
引用:Wikipedia-狭山事件 https://ja.wikipedia.org/
出典:https://ja.wikipedia.org/
なお、誘拐したことを証明するかのように、この手紙が入っていた封筒には、中田善枝さんの学生証も同封されていたのです。
この脅迫状には、警察には話すなと書かれてありましたが、長男はすぐに隣の親戚に知らせ、そのまま警察にも届け出たようです。
5月2日深夜0時の身代金受け渡しで警察が大失態を演じる
脅迫状には、「5月2日の深夜12時に佐野屋酒店の前に友達が金を受け取りに行くから、その男に金を渡せ、女が金を持って来い」と書かれていました。
この身代金を渡す役目を引き受けたのは、被害者・中田善枝さんの23歳の実姉である登美恵さんでした。
当日は午後8時頃から脅迫状に指定された佐野屋周辺に40人もの捜査員を配備し、万全の体制で犯人を待ち受けました。
そして、午後11時55分、被害者の姉・登美恵さんが犯人が指定した佐野屋酒店に到着。その手には警察が用意した20万円の偽造紙幣が入った風呂敷包みを持っていました。
当時はまだ街灯もあまりない時代で、当然、辺りは真っ暗です。そんな暗闇の中から、ある男が登美恵さんに声をかけました。
「おい、来てんのか!」
どうやら犯人にも登美恵さんが見えていない様子。その男がいる位置は、佐野屋の横の畑の中で、店の前に立つ登美恵さんからは30メートル程も離れていました。
「来てますよ」
と、登美恵さんが答えました。その後の2人のやり取りは次の通りです。
犯人:警察へ話したんべ。そこに二人いるじゃねえか。
次姉:一人で来ているから、ここまでいらっしゃいよ。
(刑事の合図で4メートルほど前へ出る)
次姉:ここまで来ているんだから、あんたのほうで出て来なさいよ。
犯人:本当に金持って来ているのか。
次姉:ええ、持ってますよ。
(風呂敷を解きながら更に道路標識の先まで進む)
次姉:ここまで来てるんだから出て来なさいよ、あなた男なんでしょう。
(元居た所に戻る)
犯人:取れないから帰るぞ、帰るぞ。
(また道路標識辺迄進みながら)
次姉:私は時間厳守で来てるんですから、ここまで来なさいよ。
(北から南へ白い人影らしいものが動くのを見た)
引用:狭山事件 時系列と解説 裁判と時代背景 http://sayama-case.org/
そして次の瞬間、男は周辺に配備している多数の警官の気配に気づいのか、全力で逃げ出しました。
「逃がすな!」と警官たちが一斉に男を追いかけますが、男の逃げ足は速く、警察はこのまま男をとり逃がしてしまうことに…。
実際に、目の前まで現れた犯人を、40人もの配備を敷いておきながら逃がしてしまうという大失態を演じた警察は、その後マスコミから痛烈なバッシングを受けることになります。
出典:https://twitter.com/
事件発生4日目に「狭山事件」の被害者・中田善枝さんの遺体が発見される
直後から、警察は威信をかけて3日がかりの大規模な山狩りを実施するも…事件発生4日目の5月4日の午前10時半頃に、市内の農道に埋められていた中田善枝さんの遺体が発見されました。
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中田善枝さんの遺体は死後2~3日経過しており、死因は首を絞められたことによる窒息死でした。なお、遺体発見時の詳しい状況は次の通りです。
遺体には目隠しがしてあり、首と脚に細引き紐が巻かれ、手は手ぬぐいで後ろ手に縛られていた。うつぶせに埋められた遺体の上には荒縄が置かれ、遺体の頭部には玉石が載せられていた。
引用:狭山事件 – Wikipedia https://ja.wikipedia.org/
出典:http://sayama-case.org/
「狭山事件」の犯人として石川一雄が逮捕される
その後の懸命の捜査により、1963年5月23日に犯人として逮捕されたのは、遺体遺棄現場近くにある被差別部落に住む当時24歳のとび職手伝い・石川一雄さんでした。
警察は窃盗などの容疑で石川一雄さんを別件逮捕をした上で自白をさせ、後日「狭山事件」の犯人として再逮捕しています。
石川一雄さんの家には12人の刑事が訪れ、徹底的な家宅捜査が行われましたが、石川一雄さんの家からは事件に繋がる手がかりとなるようなものは何も発見されませんでした。
また、石川さん本人も中田善枝さんの誘拐と殺害については、逮捕当初より頑として否定していました。
警察が石川一雄を「狭山事件」の犯人と睨んだ理由とは
「狭山事件」の犯人として逮捕された石川一雄さんは、被差別部落の貧農の出身で、小学校5年生までしか学校へ通っていないと言われています。
現在、資料として残っている小学校時代の石川一雄さんは、協調性や正義感が全く無く、何をしでかすか分からない問題児と評されていました。
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1951年に入間川にある中学校に進学するも、ほとんど通学しないまま1954年に除籍。
その同時期に保谷にある鉄工所で働き始めるのですが、旋盤で指を切断する事故を起こして退職しています。
その後の石川一雄さんは、農家の子守奉公や靴屋の店員見習い、東鳩の製菓工場の工員など、職を転々としていますが、どれも長続きはしなかったようです。
「狭山事件」の犯人・石川一雄は冤罪?逮捕された背景も紹介
石川一雄を「狭山事件」の犯人に仕立て上げてでも検挙したかった警察の事情
「狭山事件」が起きる約1ヶ月ほど前、東京で起きた「吉展ちゃん誘拐事件」で、警察は身代金を奪われて犯人を取り逃がし、肝心の吉展ちゃんも殺害されるという大失態を演じていました。
この前代未聞の大失態により、警察は世論の厳しいバッシングを受け、遂には国会でも取り上げられる程の事態に…。
出典:https://twitter.com/
そしてそんな中で発生したのが、この「狭山事件」だったのです。
5月4日に、被害者・中田善枝さんの遺体が発見されると、警察への非難が殺到し、警察庁長官が辞任する事態にまで発展しました。
警察はその名誉を挽回するため、何としてでも犯人を逮捕しなければならない状況に追い込まれていたのです。
被差別部落出身のアウトローを犯人に仕立て上げた?
中田善枝さんの遺体発見後も、犯人の足取りを掴めなかった警察にとって、遺体発見現場近くの被差別部落に住む、素行不良のアウトローは、犯人にうってつけだったのかもしれません。
出典:https://sayama-jiken.jimdo.com/
別件逮捕した石川一雄さんを、約1ヶ月に渡って留置場での取り調べを行い、その中で脅したり、すかしたりと様々な手を使って自白を引き出し、犯人に仕立て上げたと言われています。
また、周辺住民がこぞって被差別部落出身者の仕業だと断言し、マスコミも石川一雄さんの素行の悪さを強調する報道を繰り返していたことも、多少、警察の暴挙に影響していたようです。
出典:http://sayamaibaraki.xyz/
警察の罠にハマり自白した石川一雄
逮捕当初から一貫して無実を主張していた石川一雄さんですが、小学校も5年生までしか通っていない石川一雄さんには学もなく、自分の身の守り方すら分かりませんでした。
連日続く厳しい取り調べの中で、警察から「やったと言えば10年で出してやる」と言われ、遂に罪を認めてしまうことに…。
出典:http://www.blhrri.org/
「男と男の約束」とまで言われた石川氏はこの言葉を信じ切っていたからこそ、死刑判決を受けても平然としていたという。判決前日、弁護士に「あなたはやったといっているけど、証拠をみると、自白が正しいとは思えない。それでも、判決では死刑にされるかもしれない」と言われても、石川氏は「いいんです、いいんです」と笑顔を見せているのだ。
引用:共謀罪、そして冤罪54年〜今、狭山事件から考える〜 https://www.huffingtonpost.jp/
また、石川一雄さんは警察での取り調べの中で、犯人だと認めなければ兄の六造さんを代わりに逮捕すると脅されていたとも言われています。
もしかして、犯人は兄なのでは……。情報も何もない孤立した状況の中、石川氏の中で膨らんでいく疑念。彼の家庭は、兄の仕事が軌道に乗り始めたことによって、ようやく長年の極貧から脱出しようとしていた。一家の大黒柱である兄がもし、逮捕されてしまったら。そんな思いから認めた「罪」。
引用:共謀罪、そして冤罪54年〜今、狭山事件から考える〜 https://www.huffingtonpost.jp/
こうして、最初に逮捕されてから、実に31年7ヶ月もの間、石川一雄さんは獄中生活を強いられることになります。
24歳の若者が、出所してきた時には50代半ば…。警察によって奪われたものは、あまりにも大きいと言わざるを得ません。
出典:http://www5.sdp.or.jp/
「狭山事件」の真犯人や真相とは?諸説入り乱れる現在
石川一雄さんが「狭山事件」の犯人でなく、警察による冤罪だったとすると、真犯人は一体誰なのでしょう?
半世紀以上経った現在も、まだ多くの謎が残る「狭山事件」なだけに、真犯人については諸説あるものの、やはり真相は闇の中…といったところのようです。
そこで、その代表的な説をいくつか紹介しましょう。
著名なノンフィクション作家でありジャーナリストの伊吹隼人氏によれば、
出典:https://page.auctions.yahoo.co.jp/
被害者の家に怨恨を持つ何者かを主犯として想定。この主犯の指示で養豚場の1名ないし2~3名の従業員(ただし石川一雄以外)が極めて計画的に誘拐・強姦殺人を行った可能性が高い、との説を唱えている。
また、被害者宅の元使用人も協力(場所貸しなど)したほか、被害者の中学時代の男友達もおびき出しに手を貸したものと推測している。
関係者たちへの取材を通じて「中田家は家族関係が複雑で、中田善枝さんは親が違っていた。そのことが事件の遠因になっている」「中田家は事件直前に某政党員Tを”村八分”にしており、相当な恨みを買っていた」「その政党員はI養豚場ともつながっている人物だった」「警察が捜査を始めた際には、その党に属する刑事が盛んに捜査を妨害していた」とも伝えている。
引用:狭山事件 当事件の犯行に関連する諸説 http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/
「狭山事件」研究者であり、株式会社都市構造研究所代表取締役の甲斐仁志氏によれば、
出典:http://shimashima-books.ocnk.net/
被害者と肉体関係があった中年男による、不倫の清算を目的とした単独犯行との説を提唱。
その中年男は、被害者の中学時代の教師か長兄の詩の仲間であろうと考える。
甲斐説の欠点として、被害者には男性との交際の形跡はなかったこと、事件当時は中学時代の同級生に片思いしていたこと、高校進学直後に結婚を考えるはずがないこと、被害者の実家では家族内の結婚順序が既に決められていたことが指摘されている。
引用:狭山事件 当事件の犯行に関連する諸説 http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/
「週刊埼玉」の社長でありジャーナリストである亀井トム(亀井兎夢)氏によれば、
出典:https://bookmeter.com/
財産争いを理由に、被害者の長兄が養豚場経営者の兄弟を雇って妹を殺害せしめたとの説を提唱。被害者宅の元使用人も共犯であったと推測。
このほか、「本当の身代金受け渡しは1963年5月1日に被害者宅の門前でおこなわれたが、結果として犯人を取り逃してしまった。警察はその失態をごまかすため、脅迫状の文言を一部改竄して5月2日の佐野屋前における身代金受け渡し劇を演出し、被害者の死に対して警察が責任をとらないで済むよう仕向けた上で、無実の石川一雄をスケープゴートに選んで冤罪に陥れた」などとも主張。
もともと被害者の長兄は狭山事件に関連してたびたび迷惑電話を受けていたが、亀井に公然と真犯人扱いされて以降は狭山事件研究者からの取材を一切拒むようになった。
引用:狭山事件 当事件の犯行に関連する諸説 http://wpedia.mobile.goo.ne.jp/
あの深夜の身代金受け渡しが、警察による自作自演だった…という説は斬新ですね~。
「狭山事件」の犯人として服役した石川一雄の現在
石川一雄は1994年12月21日に仮出所していた
石川一雄さんは、1994年12月21日に仮出所しています。最初に逮捕されてから、実に31年7ヶ月を獄中で過ごしていたことになるんですよね。
出典:https://www.nikkan-gendai.com/
なお、石川一雄さんは仮出所したちょうど2年後の1996年12月21日に、支援者だった被差別部落出身の早智子さんと結婚されています。
石川一雄は現在も無罪を勝ち取るため再審請求を続けている
石川一雄さんは出所後も、無罪を勝ち取るための再審請求を続けてきました。
そんな中、2017年5月23日には他の冤罪事件で知られる「袴田事件」の袴田巌さんの姉・袴田秀子さん、「足利事件」の菅家利和さん、「布川事件」の桜井昌司さんなどが、再審を求める市民集会に結集し、話題になりました。
出典:https://twitter.com/
石川さんが94年の「仮出獄」となってから、もう23年。が、足利事件や布川事件のように、再審で無罪となったわけではない。狭山事件では、鑑定人尋問などの事実調べが42年間も行なわれていないという。だからこそ、こうして再審を求めて集会が開催されるのだ。
引用:ハフィントンポスト-共謀罪、そして冤罪54年〜今、狭山事件から考える〜 https://www.huffingtonpost.jp/
無実の罪をを晴らすまでは両親の墓前に立てない!
石川一雄さんはその一心で、早智子さんや支援者たちに支えられながら、再審請求の戦いを現在も続けています。
出典:https://blog.goo.ne.jp/
まとめ
いかがでしたでしょうか。
発生から半世紀以上の時が流れた現在もなお、その真相どころか多くの謎が残ったままの「狭山事件」の概要と経緯、犯人として逮捕された石川一雄さんの冤罪の可能性を紹介しました。
この記事では、石川一雄さんの冤罪寄りで書かせていただきましたが、その一方で、「やはり石川一雄さんが真犯人なのでは?」との声も少なからずあることを最後に言及しておきます。