練馬一家5人殺害事件の長女の現在!白石明さん一家を殺害した犯人・朝倉幸治郎の動機や死刑判決も総まとめ

不動産トラブルが発端となった、凄惨な一家惨殺事件「練馬一家5人殺害事件が話題です。

 

この記事では、練馬一家5人殺害事件の概要と、犯人の朝倉幸治郎の生い立ちや経歴、犯行動機、その後の死刑判決、被害者の白石明さん一家や生き残った長女の現在などについてまとめました。

練馬一家5人殺害事件の概要

 

出典:http://sharetube.jp/

 

「練馬一家5人殺害事件」は、1983年6月27日に東京都練馬区大泉学園町六丁目の住宅で発生した殺人および死体損壊事件です。

 

犯人は、東京都杉並区在住の不動産鑑定士・朝倉幸治郎という当時48歳の男で、被害者は、事件現場の住宅に住んでいた白石明さん(当時45歳)とその妻の幸子さん(当時41歳)、2人の子供3人(9歳、6歳、1歳)の一家5人でした。

 

犯人の朝倉幸治郎は、この一家5人を惨殺して遺体の一部をバラバラに損壊し逮捕されたのですが、犯行に至るまでの背景が少し複雑なため、次の見出しから事件を時系列順に見ていきたいと思います。

 

 

 

練馬一家5人殺害事件に至るまでの経緯

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

 

1977年、被害者の白石家が事件現場となった住宅に入居

 

練馬一家5人殺害事件の現場となった住宅は、被害者の1人、白石幸子さんの父親で会社経営者の和田俊夫(仮名)という人物が1958年に居住用に入手した物件(土地と家屋)で、1977年にこの和田俊夫さんが転居する際に、娘婿である白石明さんの一家を呼び寄せ、管理させる目的も兼ねて居住させていました。

 

 

1982年、被害者・白石幸子の父親の会社の経営が傾き住宅が競売にかけられる

 

被害者の1人となる白石幸子の父親の和田俊夫は、この物件を担保にして自身の会社の事業資金の融資を受けていましたが、1981年9月頃に会社の経営が立ち行かなくなり、1982年3月に債権者から競売が申し立てられます。

 

これを受けて1982年9月に最低売却価格1億280万円での期間入札が行われますが、この物件には総額で2億1000万円もの抵当権が設定されている上、貸借人(白石家は和田俊夫と形式上の賃貸契約を結んでいた)が居住している「不良物件」だったため買い手がつかず、1982年10月8日付けで特別売却実施命令が出されています。

 

 

1983年2月、犯人の朝倉幸治郎がこの住宅を約1億円で購入

 

白石家が住んでいた物件は不動産業界関係者からは敬遠されるリスクの高い不良物件でしたが、この件が初めての不動産取引だった犯人の朝倉幸治郎は、安い値段で売りに出されているこの物件に目をつけて「明け渡させる事は可能だろう」と安易に判断して購入を決断。

 

朝倉幸治郎は、定期預金など手持ちの資金に加え、自宅や事務所、所有していた山林など、ほぼ全財産を担保にして銀行から1億4500万円の融資を受け、1983年2月2日にこの物件を落札し総額1億280万円を納付しています。

 

この購入資金の融資による毎月銀行に支払う金利は約100万円にも上り、朝倉幸治郎は一刻も早くこの物件を転売し銀行に借金を返済する必要がありました。

 

 

1983年2月〜3月にかけて白石明との明け渡し交渉をするも進展せず

 

朝倉幸治郎はこの物件を購入後、一刻も早く転売して利益を上げるために、白石明と明け渡し交渉を試みますが、白石明とその妻の幸子は、「弁護士に依頼しているので一存では決められない」などと色々と理由を付けて立ち退かずに物件に居座り続けました。

 

この頃に、朝倉幸治郎は白石明との明け渡し交渉と並行して、弁護士に依頼して明け渡し起訴の手続きも進めています。

 

 

1983年3月、犯人の朝倉幸治郎が転売のため譲渡契約を建設会社と結ぶ

 

朝倉幸治郎は、白石明に「3月いっぱいで立ち退いて欲しい」と要求したところ、白石明が条件を飲むような態度を取ったため、「それならば早く転売先を探そう」と、早急な判断を下し、1983年3月1日に東京都新宿区の建設会社と、「1983年4月末日までに総額1億2950万円でこの物件を売り渡す」という譲渡契約を結んでしまいます。

 

 

1983年4月〜5月、明け渡し交渉が進展しないまま朝倉幸治郎が転売先と売買契約

 

朝倉幸治郎は、明け渡し起訴と交渉によって白石明に物件からの立ち退きを求めますが、白石明とその妻の幸子は、全くそれに応じる気配を見せませんでした。

 

朝倉幸治郎は、白石明が「ゴールデンウィークを目処に明け渡す」と匂わせる態度を見せたことに期待をかけて、譲渡契約を結んだ建設会社との契約をさらに進め、1983年4月13日に、売却価格1億2950万円、引き渡し期日1983年6月30日、遅延した場合の違約金3000万円という内容で売買契約を結んでいます。

 

1983年5月には、朝倉幸治郎はこの建設会社から手付金として1500万円を受領しています。

 

 

1983年5月23日頃、朝倉幸治郎が焦りと怒りから白石家殺害を決断

 

1983年5月23日、明け渡し起訴の第2回口頭弁論が開かれますが、そこでも引き渡し命令は下されず、1983年6月6日に延期するという通知が下されます。

 

この結果を受けて、朝倉幸治郎は、このまま白石家が立ち退きに応じなければ契約不履行となり3000万円の違約金が発生し、銀行からの融資の担保にしている全財産も失って、家族(朝倉幸治郎には妻と2人の子供がいた)もろとも窮地に立たされると焦り、自分に対して背信的な態度を取り続ける白石家への怒りも伴って、「実力を行使して明け渡しを迫るしかない」と思い至りました。

 

そしてついには、朝倉幸治郎は、白石明とその家族を皆殺しにして死体を隠し、一家が物件を明け渡して退去したように偽装すれば、問題が解決するばかりか、積もった恨みを晴らすこともできると考えるに至り、白石家の殺害を決断します。

 

 

 

練馬一家5人殺害事件の犯人・朝倉幸治郎は周到に犯行の準備をしていた

 

白石明さんとその家族を殺害する事を決断した犯人の朝倉幸治郎は、第2回口頭弁論があった1983年5月23日に犯行に使う目的で自動車(トヨタビスタ)を購入。翌5月24日に、建設会社からの手付金1500万円の中から650万円を犯行の準備資金として引き出し、殺害のための準備を始めます。

 

朝倉幸治郎は、翌5月25日から、6月26日にかけて、ジスクサンダー(金属やコンクリートの切断に使う電動工具)、電動バリカン、殺害に用いる凶器として、まさかりと金槌(玄能)。死体の解体に用いるための電動肉挽き機、ノコギリ、骨すき包丁、手術用手袋。犯行時に着用するためのスポーツウェアとジョギングシューズ。死体の運搬遺棄のためのビニール、ナップザック、登山用具などを買い集めました。

 

さらに、朝倉幸治郎は、1983年6月上旬頃、犯行道具類の隠し場所や死体の解体として利用するため、問題の物件から約4km離れた杉並区井草のマンション4階の1室を偽名で借りています。

 

また、同じ頃に、白石明さん側から起訴を取り下げれば明け渡しに応じるという提案を受け、朝倉幸治郎は一縷の望みをかけて基礎の取り下げを行っていますが、これも交渉の引き延ばし工作に過ぎず、結局白石家が退去する事はありませんでした。

 

朝倉幸治郎は、犯行に自動車を使う事を計画していましたが、ペーパードライバーだったため、6月2日から連日自動車教習所で教習を受けています。

 

朝倉幸治郎は、このようにして周到に犯行準備を重ねていきました。

 

 

 

練馬一家5人殺害事件発生から朝倉幸治郎が現行犯逮捕されるまでの経緯

 

 

1983年6月27日の朝、朝倉幸治郎は犯行のために用意したスポーツウェアとジョギングスーツに着替えると、自動車で犯行のために用意したマンションへと向かい、そこで犯行のための道具を積み込むと、問題の物件の西100メートルあたりの路上に車を停め、張り込みを開始しました。

 

 

 

6月27日15時頃、幸子さんと子供2人を殺害

 

14時40分頃、白石家の三女が学校から帰宅する様子を認めた後、朝倉幸治郎は犯行を実行に移しました。

 

朝倉幸治郎は金槌やまさかりなどの凶器を入れたカバンを持ち、15時頃に物件の勝手口から声をかけました。

 

朝倉幸治郎は、応対した白石明さんの妻の幸子さんに「明け渡し交渉で来ました」と声をかけますが、幸子さんは「自分にはわかりません」と取りつく島もなく奥に戻ろうとしたため、朝倉幸治郎は激昂して家の中に押し入ります。

 

家の中にはその時、幸子さんの他に当時1歳の次男・正利ちゃんと、当時6歳の三女の昌子さんがいましたが、朝倉幸治郎は、「いつも馬鹿にするんじゃないよ」、「もう話し合う余地はないんだな」などと叫んで、子供達の目の前で幸子さんの頭部に金槌で殴打しました。

 

幸子さんは悲鳴を上げて這いながら奥の台所に逃げますが、朝倉幸治郎はそれを追って、頭部や顔面を金槌の柄が折れるほど激しく殴打して殺害します。

 

朝倉幸治郎は続いて、倒れた母親に縋り付いて大声で泣いている正利ちゃんをもう1本の金槌で殴打して殺害しています。

 

それから、朝倉幸治郎は台所から居間へと引き返し、放心状態で立ちすくんでいた昌子さんの頭頂部を金槌で殴打して卒倒させ、続けて両手で頸部を圧迫して窒息死させます。

 

 

同日16時頃、帰宅した次女・朋子さんを殺害

 

朝倉幸治郎は、殺害した3人の遺体をすぐに風呂場へと運び込み、飛び散った血液を拭き取り、遺体から衣服を剥ぎ取って洗濯するなどの証拠隠滅作業をしながら、白石家の家族が帰宅するのを待ち構えました。

 

16時頃、次女の朋子さん(当時9歳)が小学校から帰宅したため、朝倉幸治郎は「この家が今どうなってるか知ってるか」と問い詰め、長女が林間学校に行っていて29日の夜まで帰宅しない事などを聞き出した後、両手で首を絞め、居間にあった掃除機のコードを首に二重に巻きつけてさらに絞めて殺害しています。

 

朝倉幸治郎は、朋子さんの遺体も同じように浴室へと運び、衣服を洗濯し血液を拭き取って証拠隠滅を謀っています。

 

 

同時22時頃、帰宅した白石明を殺害

 

朝倉幸治郎は続けて、白石明さんの殺害の準備に取り掛かり、まさかりをタオルで巻いてトレーニングウェアの下に隠し白石明さんが会社から帰宅するのを待ちました。

 

21時30分頃、白石明さんが帰宅すると、朝倉幸治郎は「立ち退き交渉に来た」と告げ、居間の長椅子に向かい合って座り、約30分間にわたって立ち退きに応じない事への怒りを捲し立てた後、「俺のほうは事態が切迫しているんだ」と叫んで立ち上がって白石明さんを殴りつけました。

 

朝倉幸治郎は学生の頃にボクシングをやっていたため、白石明さんはそのパンチを受けてたまらず前屈みにうずくまりました。すかさず朝倉幸治郎は隠しておいたマサカリを取り出し、白石明さんの首を斬りつけました。白石明さんは起き上がろうとしますが、朝倉幸治郎はさらにもう1度首を斬りつけて白石明さんを殺害しています。

 

朝倉幸治郎は白石明さんの遺体も風呂場へと運び、血液を拭き取るなどした後、既に22時を回っていた事などから、死体の解体作業をして物音で近所に怪しまれるのを警戒し、そのまま翌朝を待っています。

 

 

6月28日の早朝から遺体の解体作業に取り掛かる

 

 

翌6月28日の午前4時頃、朝倉幸治郎は自動車を家の玄関前に移動させ、電動肉挽き機や、ノコギリ、骨すき包丁、植木バサミなどを運び入れています。

 

朝倉幸治郎はパンツ一丁の姿で手術用の手袋をはめ、それらの道具を使って最初に白石明さんの遺体の解体作業に取りかかっています。

 

朝倉幸治郎は、白石明さんの遺体を関節ごとに全部で18個に解体し、内臓は10cm四方に細かく切断した上で電動肉挽き機にかけてミンチ状にしてトイレに流しています。

 

白石明さんの遺体を解体し終わったのは午前6時半頃でした。

 

朝倉幸治郎は続けて、妻の幸子さんと、次男の正利ちゃんの遺体の解体にも取りかかっていますが、午前7時頃に疲労を感じて作業を中断しています。

 

朝倉幸治郎は解体作業を行なっていた浴室で自分の体を洗い、パンツも洗って2階に干すなどしています。

 

 

28日午前9時頃、隣家の主婦に発見され怪しまれる

 

朝倉幸治郎はその後、長椅子に横になって一休みしていたところ、白石幸子さんの母親に娘と連絡が取れないので様子を見てきて欲しいと頼まれた隣家の主婦が覗き込んでいるのに気づき、「この家の人たちは昨日引っ越した。私は『イチノセ』というものです」と平然と応対しています。

 

この隣家の主婦は、この事を白石幸子さんの母親に伝えています。

 

 

28日13時頃、通報を受けて駆けつけた警察官によって現行犯逮捕

 

隣家の主婦から連絡を受けた白石幸子さんの母は、白石幸子さんの実弟に、様子がおかしいと相談しています。この幸子さんの弟は引き渡しトラブルが起きている事を知っていたため、一家が監禁されているのかもしれないと疑い、そのまま管轄の石神井警察署へと訪れ事態を説明しています。

 

12時58分頃、白石幸子さんの弟と兄と警察官2名が物件に駆けつけています。警察官が裏口から家の中に声をかけると、朝倉幸治郎は「今出ますから待っててください」と返した後、反対側の玄関口から外へ出て逃走をはかっています。

 

しかし、玄関側に回り込んでいたもう1人の警察官によって止められ職務質問を受け、「この家の人を殺した」と供述したため、警官らが室内に入って白石明さんらの遺体を確認、朝倉幸治郎はその場で殺人の容疑で現行犯逮捕されたのでした。

 

 

 

練馬一家5人殺害事件の犯人・朝倉幸治郎の経歴や生い立ち

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

練馬一家5人殺害事件で、あまりにも凶悪な犯行を実行した犯人・朝倉幸治郎の経歴や生い立ちについても見ていきます。

 

犯人の朝倉幸治郎は、1935年3月9日に秋田県秋田市楢山字明田という場所で、6人姉弟の長男として生まれています。

 

朝倉幸治郎の実家は市場や養豚業、精肉業などを経営する資産家でしたが、父親の朝倉三次は粗暴な性格で、暴力団との関係もあり、喧嘩で日本刀を振り回すような凶暴な人物だったようで、妻や家族に対して暴力を振るう事も度々あったようです。

 

朝倉幸治郎は、田市立中通小学校、秋田市立久保田中学校を経て1950年4月に秋田県立秋田高等学校夜間部に入学しています。当時の教師によれば、朝倉幸治郎は学力に問題があり漢字はほとんど書けなかったそうです。

 

朝倉幸治郎は高校2年生の時にボクシング部に入部していますが、これは本人の意思ではなく、父親が秋田県のアマチュアボクシング連盟理事長に頼んで入部させたためだったという事です。ただ、朝倉幸治郎は補欠として国体にも出場しており、それなりに真剣にボクシングに取り組んでいたようです。

 

当時は、父親は家にはほとんど帰らずに、愛人の宅で贅沢に暮らしていたため、家族は困窮しており、朝倉幸治郎は自分が父親の代わりにならねばと思い、父の愛人宅から米を盗み出して兄弟達に食べさせるなどしていたといいます。

 

朝倉幸治郎は普段は父親に反抗しない気弱な男と見られていたものの、時に激昂して相手を脅迫するような一面もあり、当時から極端な二面性を持ち合わせていたようです。

 

朝倉幸治郎は高校を卒業後、1954年4月に日本大学法学部法律学科に入学していますが、これは、父親が長男なので大学に進学させたいとして、前述のボクシング連盟理事長のコネを使っての裏口入学だったようです。

 

朝倉幸治郎は1958年3月に日大法学部を卒業後、経済学部に編入学していますが直後に退学しています。

 

この大学在学中に、朝倉幸治郎は、下宿先の娘の1歳年下の女性と知り合って交際し、大学を卒業してすぐの1959年4月にこの女性と結婚しています。結婚後はそのまま東京で就職しますが、交通死亡事故を起こして解雇され、その年の内に妻とともに地元の秋田へと帰り、父親の経営する市場を手伝っています。その頃に長女が生まれています。

 

1960年5月に父親が死去しますが、その遺産をめぐって姉夫婦や弟らと争うようになり、1960年12月には宴席で弟と口論から喧嘩になり、朝倉幸治郎は出刃包丁を持ち出して弟の胸を刺して全治10日間の怪我を負わせています。

 

さらに、1961年9月10日には、朝倉幸治郎は弟と父親の財産をめぐって喧嘩となり、朝倉幸治郎が出刃包丁で弟の頭部4ヶ所を刺し、出血多量で意識不明になるほどの重傷を負わせて左目を失明させています。

 

この事件で朝倉幸治郎は殺人未遂で逮捕され、1962年8月に懲役3年の実刑判決を受けて千葉県習志野刑務所に服役しています。この少し前の1962年の春頃には長男が誕生しています。

  •  

1965年5月に出所した朝倉幸治郎は、家族連れて再び上京して東京都杉並区に住み、銀行員を経て新宿の不動産鑑定所に鑑定士アシスタントとして勤務しながら不動産鑑定士になるための勉強を始めています。

 

1971年10月、朝倉幸治郎は不動産鑑定士の二次試験に合格し、同年11月には不動産鑑定士補となり、1975年3月10日にようやく不動産鑑定士に登録されています。

 

1976年8月には、自宅を事務所として不動産鑑定事務所「東洋不動産鑑定所」を設立し、不動産鑑定士として独立を果たしています。

 

仕事は順調だったようで、1979年12月には渋谷区四谷4丁目のマンションを購入し、新たに事務所を開いています。

 

不動産鑑定士として真面目に働き、それなりの成功を収めたかに見えた朝倉幸治郎でしたが、練馬一家5人殺害事件の前年の1982年頃になると「不動産鑑定業は苦労の割に収入が少ない」、「歳を取り病気になれば仕事ができなくなる」などと不安と焦燥にかられ、不動産取引でまとまった利益をあげようと思い立ちます。

 

父親の遺産の秋田県の不動産物件が2500万円で売却できたのを元手に、朝倉幸治郎は商号を「株式会社朝倉不動産鑑定所」に改め、不動産取引業を開始したのでした。

 

そして、朝倉幸治郎が不動産業者として初めて手を出した物件が、練馬一家5人殺害事件の原因となった東京都練馬区大泉学園町六丁目の競売物件でした。

 

 

 

練馬一家5人殺害事件には被害者を批判する声も存在

 

練馬一家5人殺害事件は、子供を含む一家5人が惨殺された凶悪事件ですが、現在ネット上では、被害者側にも非があると批判する声も存在するようです。

 

これは、ここまででも見てきたように、被害者の白石明さんとその妻の幸子さんが、事件現場となった自宅の所有権が犯人の朝倉幸治郎に移っているにも関わらず、色々な理由を付けていつまでも立ち退かず、その結果、朝倉幸治郎が追い詰められて犯行に及んだという経緯があるためです。

 

こうした居座り行為は、当時の法律の穴をついて相場よりも高額な立退料を取る目的で、競売物件などを対象にして横行していました。被害者の白石明夫妻も、相場の立退料500万円の6倍にあたる3000万円の立退料を朝倉幸治郎にふっかけていたとも言われています。

 

こうした背景もあって犯人の朝倉幸治郎に対する同情的な声も上がっていますが、いくらそうした理由があったとしても何の責任もない子供達3人までも殺害した事は決して許される行為ではありません。

 

 

 

練馬一家5人殺害事件の被害者① 白石明

 

出典:https://pbs.twimg.com/

 

練馬一家5人殺害事件の被害者の白石明は、1938年4月28日生まれの事件当時45歳の男性で、東京都新宿区西早稲田にあった「日本洋書販売配給株式会社」に、商品管理部の部長として勤めていました。

 

白石明は東京都練馬区春日町にある、真言宗豊山派の寺院「愛染院」の当時の住職の4男として生まれ、1962年3月に武蔵大学経済学部経済学科を卒業後、日立製作所の清水工場への就職を経て、1970年12月からは、日本洋書販売配給株式会社に勤務。

 

1974年1月に同社の美術部課長に昇進し、1982年10月からは商品管理部の部長に昇進しています。その間に妻の幸子さんと結婚し、5人(2男3女)の子供を儲けています。

 

事件当時は事件現場となった家屋に一家6人で居住していました。(長男は事件の前年に病死)

 

 

 

練馬一家5人殺害事件の被害者② 白石明の妻・幸子

 

練馬一家5人殺害事件で、最初に犯人の朝倉幸治郎に殺害された被害者は、白石明さんの妻の幸子さんでした。

 

白石幸子さんは、1942年6月27日生まれで、事件が発生した日は奇しくもこの幸子さんの41歳の誕生日でした。

 

事件現場となった自宅は、この白石幸子さんの父親の和田俊夫(仮名)の所有物件で、この父親が転居する際に、娘婿の白石明さんの家族を呼び寄せて住まわせ管理を任せていました。

 

練馬一家5人殺害事件の発端となった不動産取引のトラブルは、この白石幸子さんの父親が、立退料を吊り上げる事を狙って白石明さんと白石幸子さんに居座り続けるように指示していたのが原因だとされています。

 

 

 

練馬一家5人殺害事件の被害者③ 殺害された白石明の3人の子供

 

練馬一家5人殺害事件では、白石明さんと白石幸子さんの3人の子供も被害者になっています。

 

白石幸子さんが殺害されたすぐ後に殺害されたのは、1981年に生まれた次男の正利ちゃんで、当時まだ1歳でした。正利ちゃんには双子の兄(白石明の長男)がいましたが、その兄は舌が異常に肥大するという先天性の奇病で事件前年の1982年に1歳の誕生日を迎えてすぐに亡くなっています。

 

その後に殺害された被害者が、1976年に生まれた三女の昌子さんで、事件当時6歳、「練馬区立大泉学園緑小学校」の1年生でした。

 

その後、小学校から帰ってきたところを犯人の朝倉幸治郎に殺害されたのが、1974年6月26日に生まれた次女の朋子さんで、事件前日に9歳の誕生日を迎えたばかりでした。白石朋子さんは事件当時「練馬区立大泉学園緑小学校」の3年生でした。

 

 

 

練馬一家5人殺害事件の被害者・白石明の長女は難を逃れた

 

練馬一家5人殺害事件では、白石明とその妻と3人の子供達が犠牲者となりましたが、家族の中で唯一、当時10歳の長女だけは偶然学校の林間学校に行っていた事で難を逃れています。

 

この長女は、林間学校中に両親と兄弟3人が殺害されるという悲劇に遭いましたが、学校の教師らは長女の気持ちを考えて林間学校が終わるまで事件の事を長女に秘密にしており、帰宅の途中でバスから長女だけを先に落ろし、親族の車で母方の叔父宅へと送られています。

 

長女にはこの時、両親と兄弟は交通事故で死亡したと伝えられ、殺害された事は秘密にされました。

 

しかしその後、1983年7月1日に営まれた、白石明さんら被害者の葬儀の場で長女にも真実が伝えられています。

 

 

 

練馬一家5人殺害事件の犯行動機① 金銭面での焦り

 

練馬一家5人殺害事件の犯人の朝倉幸治郎の犯行動機は、まず金銭面での焦りの感情に追い詰められた部分が大きいと思われます。

 

朝倉幸治郎は、この物件購入のために、ほぼ全ての資産を担保にして1億4500万円もの融資を受けており、月の利息支払いが100万円にも上っていたため、白石明さんが立ち退きに応じない限り利益は小さくなり続け、最悪の場合、全ての資産を失うリスクさえありました。

 

この事から、朝倉幸治郎は転売を少しでも早くしたいと焦り、白石明さん一家が立ち退きに応じる前に建設会社と売買契約を結んでしまい、その契約での引き渡しに遅延した場合の違約金が3000万円という内容も重くのしかかりました。

 

白石明さん一家が立ち退きに応じなかった場合、朝倉幸治郎は家族共々路頭に迷う可能性が高く、その焦りや不安が練馬一家5人殺害事件の動機につながりました。

 

 

 

練馬一家5人殺害事件の犯行動機② 被害者夫婦への強い憎悪

 

練馬一家5人殺害事件の動機としてもう一つ大きいのは、朝倉幸治郎が白石明さんとその妻の幸子さんに抱いていた強い憎悪の感情だと思われます。

 

白石明さんとその妻の幸子さんは、立退料を吊り上げるために物件に居座り続け、必死に立ち退きを求める朝倉幸治郎をほとんど相手にしないような態度を取り続けていたようです。

 

その鬱憤がつもりにつもり、激しい憎悪につながったようです。

 

朝倉幸治郎は、白石明さんとその妻の殺害について、「殺害は恨みを晴らして勝利した快感だった。ガッツポーズでもしたくなるような感じですね。」とかなり衝撃的な供述をしています。

 

 

 

練馬一家5人殺害事件の犯人・朝倉幸治郎への判決は死刑

 

練馬一家5人殺害事件による朝倉幸治郎の裁判の判決は「死刑」でした。

 

一審判決で死刑が言い渡され、弁護側は、朝倉幸治郎は不動産トラブルで追い詰められた結果、心神喪失もしくは心神耗弱状態にあったとして減刑を求めましたが認められず、控訴審でも死刑判決。上告も棄却され、1996年11月14日に死刑判決が確定しています。

 

2001年12月27日、東京拘置所で死刑が執行されています。朝倉幸治郎の享年は66歳でした。

 

 

 

練馬一家5人殺害事件の生き残りの長女のその後と現在

 

練馬一家5人殺害事件の生き残りの長女は、事件後に母方の叔父に引き取られ、高校、専門学校を卒業後すぐに結婚し、21歳から22歳の頃に子供を出産しています。

 

この長女は2021年の現在は48歳前後になっているはずです。長女の子供は1995年6月頃に誕生しているという事なので、現在は25歳になっているはずです。

 

この長女が現在どこでどのように過ごされているのかは不明ですが、夫や子供に恵まれたという事でどこかで静かに暮らされているものと思います。

 

 

 

まとめ

 

今回は、1983年6月27日に発生した凄惨な事件「練馬一家5人殺害事件」についてまとめてみました。

 

練馬一家5人殺害事件は、競売物件の不動産取引をめぐるトラブルが発端となって発生した殺人事件で、犯人の朝倉幸治郎は、多額の借金をして購入した不動産物件に住む被害者の白石明さん一家が一向に立ち退かない事に焦りと憎悪を募らせ、ついに一家5人を殺害するに至りました。

 

犯人の朝倉幸治郎はその後、死刑判決を受けて執行され、66歳で死去しています。

 

被害者家族の中で、長女だけは偶然に難を逃れており、現在もどこかで静かに暮らしているものと思われます。

 

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